気づけば震災から3カ月たっている。「がんばれ東北」といったスローガンやACのCMを目にする頻度が減る一方、政治への批判は日に日に強まっている。やめると言いながらいつまで続投するのか示さない総理に、民主党内はおろか、閣僚からも早期退陣を促す意見が噴出。自民党からは「菅総理が辞めないと審議には応じない」とまで言われ、2次補正予算も、その財源となる特例公債法案も審議に入ることすらできない。この国会はどれだけのろまなのか。早く対策を打つのが国民のため、ひいてはどの党、どの政治家にとってもプラスになるはずなのに、それができていない。いったいなぜこのようになってしまったのだろうか。
先日テレビ出演した仙石副官房長官が、「今の政治にはリーダーシップがない。しかしそれと同時に、リーダーを選んだ者たちのフォロアーシップも欠けている」と述べていた。これは、本人が実際行っていること(早期退陣の呼びかけ)は別として、すぐれた分析だと思う。
まず、リーダーシップから考える。菅総理は震災当時から、決して昼寝をしているわけではなく、彼なりに頑張っているのはわかる。ただ、がんばりの方向が、「俺は原子力にはすごく強いんだ」と言って原発についての知識や情報を自身のもとに集めさせたり、東電に殴りこんで「撤退などあり得ない」「東電は確実につぶれます」と一喝したりと、どうもトップリーダーのやるべき事とはずれているように見える。総理大臣の仕事は、専門的な知識をもとに、ここの現場の判断に首を突っ込むことではなく、多数の現場からなる状況全体を、政府の手足たる省庁とともに把握して、人材・資金などの資源の最適な配分、さらには個々の現場の判断に任せきりでは実現しない公共性の強い決断を行うことではないだろうか。菅総理にそうした感覚が薄いのか、あるいは省庁との連携が政権交代以来ずっとうまくいっていないのか。そして辞意の表明とその後のあいまいな時期表明が求心力低下に拍車をかけた。事務次官級の官僚の官邸訪問頻度が激減している。これではリーダーの体がなせるはずがない。
一方でフォロアーシップ。民主党員およびその議員は去年の代表選挙で菅氏を選んだのであり、また既に忘れ去られた感じさえ受けるが、あの不信任決議に対して反対票を入れたのである。菅総理を国会の本会議場という場で信任したのである。さっさと辞めろという権利があると言えるのか。もちろん、退陣を前提とした信任であるし、その後いつまで続けるかはっきりさせない総理の態度は裏切りに近い。だがそれを言うなら、あの議員たちはなぜ総理の魂胆を見抜けなかったのか(自分は完全に無知ゆえ見抜けなかった)。本当に能力を持っているリーダーを選び、選んだ以上はその者に従うといった組織行動の基本ができていないのではないか。国民新党の亀井静香氏の「切腹をしたがっている人に介錯を急ごうとする」といったたとえは言いえて妙だ。
こんなことを言うと政治家がみな使い物にならない、ということになってしまう。しかし結局、損な政治家を選んだのは国民である。フォロアーシップの問題は我々に帰ってくる。政治家の責任を国民に押し付けるようなことをしているわけではないが、それでも諸外国と比べた時の支持率の乱高下ぶりは、国民の態度にも政治家同様の場当たり的な要素が強いことを示していると思われる。今の政治の混迷は全員に責任があると言えるだろう。
そんな責任を感じてか、自分たちの選んだ相手を見限ってか、若手政治家は超党派で会合を開き始め、ボランティア団体や被災地の住民によるグループは行政の肩代わりに近いことをしている。地方自治体の職員、警察官、自衛隊といった現地の公務員の不眠不休に近い働きぶりも忘れてはいけない。こうした人々の中から次のリーダーが生まれるのかもしれない。そしてリーダーになれそうになれない自分は、せめてまともなフォロアーにならなければならない。人に任せてていい時代は本当に終わり始めている。
先日テレビ出演した仙石副官房長官が、「今の政治にはリーダーシップがない。しかしそれと同時に、リーダーを選んだ者たちのフォロアーシップも欠けている」と述べていた。これは、本人が実際行っていること(早期退陣の呼びかけ)は別として、すぐれた分析だと思う。
まず、リーダーシップから考える。菅総理は震災当時から、決して昼寝をしているわけではなく、彼なりに頑張っているのはわかる。ただ、がんばりの方向が、「俺は原子力にはすごく強いんだ」と言って原発についての知識や情報を自身のもとに集めさせたり、東電に殴りこんで「撤退などあり得ない」「東電は確実につぶれます」と一喝したりと、どうもトップリーダーのやるべき事とはずれているように見える。総理大臣の仕事は、専門的な知識をもとに、ここの現場の判断に首を突っ込むことではなく、多数の現場からなる状況全体を、政府の手足たる省庁とともに把握して、人材・資金などの資源の最適な配分、さらには個々の現場の判断に任せきりでは実現しない公共性の強い決断を行うことではないだろうか。菅総理にそうした感覚が薄いのか、あるいは省庁との連携が政権交代以来ずっとうまくいっていないのか。そして辞意の表明とその後のあいまいな時期表明が求心力低下に拍車をかけた。事務次官級の官僚の官邸訪問頻度が激減している。これではリーダーの体がなせるはずがない。
一方でフォロアーシップ。民主党員およびその議員は去年の代表選挙で菅氏を選んだのであり、また既に忘れ去られた感じさえ受けるが、あの不信任決議に対して反対票を入れたのである。菅総理を国会の本会議場という場で信任したのである。さっさと辞めろという権利があると言えるのか。もちろん、退陣を前提とした信任であるし、その後いつまで続けるかはっきりさせない総理の態度は裏切りに近い。だがそれを言うなら、あの議員たちはなぜ総理の魂胆を見抜けなかったのか(自分は完全に無知ゆえ見抜けなかった)。本当に能力を持っているリーダーを選び、選んだ以上はその者に従うといった組織行動の基本ができていないのではないか。国民新党の亀井静香氏の「切腹をしたがっている人に介錯を急ごうとする」といったたとえは言いえて妙だ。
こんなことを言うと政治家がみな使い物にならない、ということになってしまう。しかし結局、損な政治家を選んだのは国民である。フォロアーシップの問題は我々に帰ってくる。政治家の責任を国民に押し付けるようなことをしているわけではないが、それでも諸外国と比べた時の支持率の乱高下ぶりは、国民の態度にも政治家同様の場当たり的な要素が強いことを示していると思われる。今の政治の混迷は全員に責任があると言えるだろう。
そんな責任を感じてか、自分たちの選んだ相手を見限ってか、若手政治家は超党派で会合を開き始め、ボランティア団体や被災地の住民によるグループは行政の肩代わりに近いことをしている。地方自治体の職員、警察官、自衛隊といった現地の公務員の不眠不休に近い働きぶりも忘れてはいけない。こうした人々の中から次のリーダーが生まれるのかもしれない。そしてリーダーになれそうになれない自分は、せめてまともなフォロアーにならなければならない。人に任せてていい時代は本当に終わり始めている。