BioDoxology

生物と映画と政治とマレー・インドネシア語にうるさい大学生の戯言

デジタルフロッグ

2011-06-12 01:49:11 | 生物
 これまで、自分は大学での解剖のために4回、動物を殺している。ふ化前のヒヨコを2回、マウスを1回、ウシガエルを1回。数週間後にはアメリカザリガニも殺すことになる。生物学の道に進む者にとって解剖は避けられない道だ。ところが…

 アメリカの動物福祉研究所(Animal Welfare Institute)が、カリフォルニア州の一部の学校で、カエルの解剖を廃止し、コンピューターソフト「デジタルフロッグ(Digital Frog 2.5)」で代用すると発表した。動物福祉、雌の使用に伴う危険の回避、学校のコスト削減といった事情があり、アメリカでは生体解剖への逆風が強いそうである。

 解剖を廃止した学校の校長は「実際の動物の解剖とは違うが、生徒が失うものはない」と語っているという。文系の同級生に「今度カエルを解剖するぞ」と話したときも、「俺たちはそんなことのために授業料払ってない」といわれた。しかし、自分の経験からいえば、解剖を行わないで失うものは大きいと思う。

 まずソフトでは、解剖をしたときの手の感触が得られない。このデジタルフロッグは製造元の会社のホームページで一部映像が見られるのだが(digital frogと検索すると出てくる)、メスでの切断はマウスのドラッグ&ドロップだ。これでは、小動物の骨がとてももろいこと、表面の皮膚がまるで果物のようにはがれることなど、全く知る機会がない。また、動物のにおいもわからない。マウスにはマウス、カエルにはカエルのにおいがあり、また麻酔薬やホルマリンのにおいを知ることもない。そして、生物の体が教科書で習うほど単純ではない、ということにも気づけなくなる。実物の消化器系や神経系などは、一度体外に出すと、複雑に入り組んでいるうえ、無数の膜・血管・繊維・脂肪などがまとわりついていて、見た目はぐちゃぐちゃ、器官の判別も大変である。しかし、体に収まっているときは、まるで芸術作品のようにきれいに整えられている。人間が理解できる世界なんて小さいのだと、本物の生物の体は教えてくれる。

 動物福祉や生命倫理の問題に踏み込むと大変だが、自分なりの答えとして、解剖した生物は徹底的に、出来るだけの時間をかけて隅々まで観察するようにしている。観察を求められる部位が内臓と中枢神経だけだとしても、足の先や眼まですべて調べ上げることを心掛ける。せめてもの供養ではないけれど。そうして得られる物はとても大きい。カエルの眼のレンズがビー玉のような球形で、薄い膜が玉ねぎのように重なってできていること、足の坐骨神経が枝分かれして個々の筋肉にしっかりつながっていることなど、まるで(たとえが不適切かもしれないが)おもちゃ箱のよう。教科書に書かれていないことをこれだけ自分の目で見つけられる機会はほかにそうない。コストがかかるのはわかる。それならせめて、コンピューター教材を全生徒に使わせるのに加えて、グループに1体でも実物を与えるくらいのことはしてほしい。コンピューター教材では、講義に不要な部分まで再現はしてくれないだろう。それは、かえって生物を軽く見ることにならないか。実物を目の当たりにして向きあってこそ、真の生命倫理が得られるはずである。