BioDoxology

生物と映画と政治とマレー・インドネシア語にうるさい大学生の戯言

不条理(1)

2011-08-30 15:20:54 | 雑記
 ずいぶんとお待たせしてしまいました。23日から27日まで、仙台市を拠点に活動するボランティア団体「ボランティアインフォ」の活動「もっとボランティアを!プロジェクト」(通称「もとボラPJ」)第3期に参加してきた。

 「ボランティアインフォ」(略称VI)は、「ボランティアしたい人とボランティアしてほしい人をつなぐ」という理念に基づいて設立された団体である。朝日新聞によれば、震災後3か月で訪れたボランティアの数は、阪神・淡路大震災の時の117万人に対し、東日本大震災では42万人と少ない。人数の少なさの原因として、原発事故、交通網のダメージの大きさなどがあげられるが、加えて「同ボランティアすればわからない」「ボランティアの募集法がわからない」といった情報網の形成の遅れも要因ではないか、とされる。特に被災地では現場の仕事に手いっぱいだったあまり、情報発信は後手後手に回ってしまった。

 VIは、社会人の代表・副代表のほかは、大学生や院生が主なメンバーである。宮城県社会福祉協議会と連携して、被災地へ出向いてボランティア団体のニーズ調査をしデータベースで発信するほか、8月31日までは仙台駅に設置された「ボランティア・インフォメーション・センター」でボランティア情報を提供している。そのニーズ調査のために行う現地活動が「もとボラPJ」である。被災地では地元の人びとを中心に中小様々なボランティア団体が活動しているが、各県や市町村の社会福祉協議会(略称「社協」)が運営するボランティアセンター(略称「VC」または「ボラセン」)では、そうした小さな団体は見落とされることも少なくない。全国からボランティアにくる人は、多くの場合まずVCで募集されているボランティアを探すので、VCに拾われない団体の声は全国に届かなくなってしまう。そこでVIは、そうした小さな団体をインターネット検索と現地踏査によって見つけ出し、どこでどんな団体がどのような活動をしているのか、そして何が足りず、どんなニーズを持っているのかをヒアリングする。ニーズがあった場合にはオフィシャルサイトのデータベースに登録し、Yahoo!JAPANやたすけあいジャパンのホームページにボランティア募集の形で掲載させてもらう。こうして、全国からの支援を行き届いたものにしよう、という試みを行っている。

 降格と、「なぜ社協のVCに直接伝えないのか」という問いが上がるだろう。しかし、今被災地の各所でVCは規模が縮小され、場所によっては閉鎖されている。というのも、もともと社協は厚生労働省管轄下の組織で、普段は老人福祉や障碍者支援を行うところであり、VCは災害時に臨時で運営しているに過ぎない。そして社協の予算や人員は限られており、いつまでもVCを開き続けるわけにもいかないため、VCは縮小して本来の業務体制に戻ろうとしているのである。

 「もとボラPJ」は、現地チーム・オフィスチーム・駅チームに分かれて行われる。自分は23日に仙台入りし、その日は駅近くのオフィスでボランティア団体の情報をネット検索し続けた。24日には調べた情報をもとに、七ヶ浜町・栗原市・登米市・石巻市を回った。25日には駅のセンターとオフィスで活動し、その情報をもとに26日には山元町・岩沼市・登米市を回った。27日にも現地入りする予定だったが、体調を崩し駅とオフィスでの活動となってしまった。すべての活動内容を書くわけにもいかないので、特に現地で印象に残ったことを書く。自ら足を運んだことで、今まで自分がいかに被災地の現状について無知であったかを思い知らされた。

 もっとも強烈だったのは、24日に訪れた石巻市である。車で市内に入ると、テレビや写真で見るように、市街地中心の家やビルがつぶされていたり、流されて更地となったりしている。そしてところどころにはうず高くがれきが積まれている。しかし、これらは報道で何度も目にした光景で、それほどのショックは受けなかった。問題はそのあとだ。今回向かったのは、市の中心部から離れ、牡鹿半島の先端まで行ったところにある泊浜という地区。その日コンサートイベントがあり、栗原氏からのボランティア団体が来ているということで見に行ったのだ。泊浜へ行くには、半島沿岸の山道にある道路を30分以上走らなければならない。その道路から見た光景がこちら。







 走っている車から撮影したものなのでとても分かりづらいが、地盤沈下のせいで、この時間帯が満潮に近かったこともあり、集落と海面が異様に接近しているのである。水は堤防の高さギリギリのところまで迫っており、山がちな海岸では元あったであろう破魔矢崖がなく、木々に直接海水があたっている。とにかく、人が暮らすには「水が近すぎる」のだ。上手く言い表せないが、人々が平穏に暮らすところとして不事前に見える。不吉、といってもいい。さらに、山道のガードレールはグニャグニャと曲がり、山に生える気羽が露出している。津波が道路を乗り越え、山肌まで押し寄せたのだろう。否応なしに、「今津波が来たら」と考えてしまう。道路より山側に逃げようとしても、斜面が急でまともに登れそうにない。無抵抗に飲まれる以外にないのだ。目の前に常に迫っている海と、登れそうにない山肌に挟まれた生活。「不安と隣り合わせ」とはまさにこのことである。率直に、こんなところに住んでいてはつらすぎる、と感じた。しかし、それでも住み続けたいという住民が多いのも事実である。

 目的地のコンサート会場に着くと、コンサートは開始が遅れたため予定より延長していて、話を聞く予定の団体はまだ仕事中だった。すると、年配の女性2人が近づいて来て、「あなたたちはどんなことをする団体さん?」と尋ねてきたので、「ボランティア団体のニーズを拾い上げて全国からの支援を行き届かせる活動をしています」と答えた。すると帰ってきた言葉は、「ボランティアには限界があるよ」というものだった。

 その女性のうち1人は、泊浜に来た支援物資を分配する役職(「班長」といっていた)についているらしい。そして、自身は被災して家を失った。以下、その方が中心に語りだしたことである。

――泊浜では、どんな支援物資もまず区長を通じて配分しなければならない。その区長は徹底した「平等」な配分にこだわる。家を流されて仮設住宅に住む人、他人の家を借りて住む人、家が無事だった人が、すべて同じ状況だとみなされ、生活家電などはそれらの人すべてに配られる。家が無事だった人は断るか、そんなことはない。とりあえずもらう。そして別の被災地にいる家族に横流しすることもあるのである。この前は市のほうから、散々来なかった食糧支援がやっときた。キャベツ40箱。ここは37世帯だから、1世帯1箱配るというのだ。人数は関係ない。家のない人たちはびっくりしちゃう。どうやって食べきればいいのか。

――自分たち家のない人々はここでは少数派で、自分たちがほしがるものを行政に頼むこともできない。クレーマー扱いされ、村八分にされるからだ。かといって、平等配分にこだわる区長を通さずに物資をもらおうとしても、今度は区長との関係が悪くなる。ボランティアが物資をくれるというなら、そうした事情を分かっていて大量に物資をくれるか、あるいは区長に内緒でこっそり物をくれないと、泊浜では効果がないのである。結局、家のない者は義捐金を食いつぶして必要なものを買いそろえなければならない。家のある人間は、ゼロからスタートして仕事を探せばいい。自分たちは、金を減らしてマイナスからスタートしなければならない。「全国からの支援ありがとうございます!私たちは復興に向けて頑張ります!」などといえるのは市の中心と家のある連中だけ。家のない連中は頑張ることなどできない。

 そのうち、班長の女性の娘と思われる若い女性もやってきた。

――ボランティアにも是正してほしいところがある。もちろん来てくれるのはありがたい。でも、今来てる人たちにも結構迷惑している。遅くまでイベントをやるから、その人たちが帰るのは10時近く。後の片づけは自分たちがしなければならない。送ってきてくれるものもいいのか悪いのか。地震の直後は外国製のものがいっぱい来たが、説明が日本語でないから中身がなんなのか全く分からない。開けてみてやっとわかる。味も全然合わない。やたらと大きなビーツだとか、豆の煮たものだとか、魚の煮つけだとか、都会の連中はいいかもしれないが、田舎の連中は食べられたもんじゃない。服も5月ごろにもなって冬物が来る。着られるかって。最近だと「アンケート調査をします」という人たちが来た。「死にたいと思うことはありますか?落ち込むことはありますか?」と棒読みで聞いてくる。当たり前だ。一ぺん自分も同じ目にあってみろ。「何かできることはありますか?」という団体ならいいが、「自分たちが何かしてあげますよ」という団体はごめんだ。だったら自分たちでやる。

――この班長の仕事を始めてから、人相が悪くなったって言われる。こうした大災害が起きて、家や町のような多いがなくなると、人間っていうものが出てくるんだ。(母子ともに携帯電話を取り出して)これが私たちの家。流された跡。道路はがれきがあっていけなかったから山から撮った。なんもねえ。ここにある石みたいなものはトイレの残り。何でなくなった家の写真を撮ってるんだろう、不思議な感覚。記念かね?「掃除する必要がなくなりました、よかったね」ってお祝いかね?

 時間にして2時間弱。しばしば意味の把握できない個所もあったが、女性3人が話したのはおよそこのようなことである。いろいろ反論したいところはあるかもしれない。それでも、あえてすべて載せた。ボランティアを助ける目的で向かった自分たちが、ボランティアの限界をまざまざと見せつけられたことのショック、そして見るに堪えない不条理の前に、ひたすら気が沈んだ。その前に訪れた七ヶ浜ではボランティア団体も被災者も明るかっただけに、この冷たさと暗さは応える。実際、失礼を承知でいえば、この3人は人相が悪かった。「希望など見出していられるか」というような暗い表情ばかりで、笑顔は見られない。「頑張る被災地」という、自分が大手メディアで聞かされていたイメージを崩壊させられた。衝撃が大きすぎた。

 その後コンサートが終わり、予定していた栗原市からの団体に話を聞いた。団体の代表の男性は気さくな牧師で、人助けの精神にあふれているような方だった。周りの人びとと笑顔であいさつし、まさに「復興へ向けて頑張る被災地」を表しているかのよう。「いやあ、開始も終わりも遅れちゃったねえ!あれだ、被災地時間か!(笑)」と地元の方々と談笑さえしている。しかし、その前にあれだけ重い話を聞いた自分は、もはや彼らとともに楽しむことなどできなかった。仙台のオフィスに戻るとき、地元の漁師の男性が、一緒にヒアリングをしていた大学生に大きなサケを1尾下さった。「俺もね、船はなくなっちまったけど、網で今でも獲ってるんだ!どうぞ持って行ってくれ!」と、とにかく明るかった。そしてそのあと、「あのばあさんの言ってることは極端だから、あまり信じないほうがいいよ」と言われた。

 こうした状況が被災地すべてで起きているわけではない。次回紹介する岩沼市のように、住民が一体となって自立に向けて動いているところももちろんある。しかし、この泊浜のように、「助け合う」はずの住民が「いがみ合う」状態となっているところがあるのもまた現実なのだ。「被災地が一つになって頑張っているのだから、国もしっかりやれ」というマスメディアの論調は、必ずしも正しくない。被災地といえど状況は様々。一枚岩ではないところもあるのだ。次回はボランティアのニーズをめぐる葛藤について。