ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

工工四

2008-03-25 | バンド活動など
三線を初めてからサクサク流して弾けるようになり、それが嬉しくて仕事中も運転中も(いかんけど)イメージトレーニングを無意識にしていることがある。
近所のばあちゃんが「どこの楽器ね?沖縄ね?」と興味深げに聞いてくる。
「沖縄やら奄美やら。歌っているのは沖縄の歌が多いけどほんとは奄美の曲がやりたいのよ。」というと「どっちも同じに聞こえるけどね」と言われた。
実際自分でも工工四で見るとどちらの曲かわからない。
実際歌っているところを聞いたことがほとんどない。
工工四を見ているから何となく弾けるようになったけれど、歌い方の違いでしかわからない。
もともと奄美の民謡をかじったことがあったので、あの独特の歌い方ができるようになるのはあまり苦労しなかった。
島唄がよく裏返して歌うのは、島には女性の神様の伝説があるらしい。なぜかは知らないが、その神様に捧げるために男性も女性の声に近づくために裏返して歌ったりするようになったのだと聞いたことがある。
もっと人前に立てるようになれたらライブで演奏なんてしてみたい。
ベースやドラムもいれて。
日曜日にバンドのキーボードの家へ遊びに行ったときに三線の伴奏の話しをした。
彼女はものすごく楽しそうに「うん。やるよ!大丈夫!」と根拠の無い自信たっぷりな感じで返事をしてくれた。彼女のこんなところが私は好きだ。
上手に弾けることより、この楽しそうなやる気が私に元気をくれる。
上手くいかなくたってまあいいかという気分になる上に、でもすごくやるぞという気にもなる。
彼女はとても積極的で、自分でいろいろ研究もしているがマニアックなセンスですごく驚かされる。
サンミュージックのベストアルバム2枚組とか持っていたりして、その世代じゃないのに『リンリンランラン』等が収録されていた。
そんな彼女を私はなんか「いい味してるよ」という気持ちで見ている。
三線が上手になったら早く伴奏をつけてもらいたい。もう一人のボーカルの彼女に歌ってもらって三線の曲のときは私がコーラスにまわろう。
そんなことを考えていると、今年の夏にはどこかのビアガーデンでも弾けたらいいななんて思ってしまう。
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保険屋のおじさん

2008-03-21 | 私の愛する仲間たち

10年近く前、私の車にバイクが突っ込んで来た。
80歳くらいのおじいさんで、私の車は左のミラーが曲がっただけ。
おじいさんは肋骨を3本折る重傷。
自分のバイクのスピードではじかれたらしい。私の方はほとんど停車していたのに近いスピードだったので避けようがなかった。
普通に自賠責のだの任意だのと手続きをして、中期免停をくらい 講習へ行きおじいさんの病院にも毎週お見舞いに行った。
おじいさんはどうやら糖尿も見つかり、肋骨の治療より深刻だったようだった。
そのうち退院した。
それから有り得ない仕打ちがやって来た。
当時私はまだバーテンの仕事もしながら昼も会社員をしていた。
そのバーテンをしていた店に、被害者の友人という人が来た。
「私と一晩つきあわんか?上手く話しを付けてやるから。」とこの男はしつこく言った。
そして被害者本人も昼の会社へ来て「わしの苦しみをわかるならちゃんと金で示してくれ。こんな会社に勤めていても大した金額はもらわないんだろう。水商売でもしたらどうだ」と(実際バーテンだったが)当たり屋か!と言わんばかりの脅迫ぶりだった。
私は保険屋のおじさんに相談した。
おじさんは激怒した。
「どっちが被害者かわからんじゃないか!!」と言って、保険料の計算をするプロの人を連れておじいさんの家へ乗り込んだ。
「お宅に払うお金は法律に則って計算されているんです!」と怒った。
「では裁判をおこします。」とおじいさんは言った。
私は生きた心地がしなかった。
でも保険屋さん達は「大丈夫。」と来るなら来い的な目をしていた。
まず調停が始まって今までの経過を調停員の人に話した。調停員の人は私に同情して「なんてことだろうね。あなた気の毒に」と言った。
私が撒いた種だ。これも試練なのかというあきらめた気分だった。
でも保険屋さんは「裁判でも何でもくればいいんです。彼女はまだこれからがあるんです。罪は償っているのにこんな目にあって!私たちは負けませんから!」
とものすごい勢いで言った。私はその心強さに涙が止まらなかった。
私の支払額残り40万に対しておじいさんの請求額は1千万。
私は自分の保険金で払ってくれと遺書まで書いた。
母が、「あの子は思い詰めて死んでしまう」と保険屋さんに言った。
保険屋さんには中国人の奥さんがいる。二人で私を励ましに来た。
「心配はいらない。どうせこんな不当な額は認められないし、弁護士も馬鹿じゃないから。」と言った。
裁判所へ行く前の晩にラジオを聞いていると佐野元春さんの「SOMEDAY」が流れてきて、なぜかそれを聞いていると泣けてきた。大声で泣いた。
最後の調停の日、朝からよく行く神社へお参りに行ってそこで拾ったどんぐりをお守りに持って行った。そして駐車場で私を待っていた保険屋さんが「悪いことは起こりません」と言った。
その後、調停不能になりいよいよ裁判という前になって保険屋さんが言ったことが現実になった。
弁護士はおじいさんの言い分を取り上げなかったのだ。不当請求になるので負ける裁判はしないということらしい。
「弁護士も馬鹿じゃないから」と言ったのはこのことだった。
裁判所から調停取下、保険屋さんから示談成立の書類が届いた。
夢を見ているようだった。
保険屋さんのうちにお礼に行くと、奥さんが「中国から持ってきたものだけど、こんな嬉しいことがあったのだから記念にもらってね。」と言って銀のスプーンセットとメノウの印鑑をくれた。
保険屋さんは結末を知っていたのかもしれない。でも私には命の恩人なくらい感謝の気持ちでいっぱいだった。
保険屋さんの仕事というのは本当に人助けなんだと思う。このおじさんは今でも「正義の味方」のような保険屋さんだ。

コメント (4)
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都城でオペラ

2008-03-15 | バンド活動など
先週、都城で盛大にオペラが開催された。私はチケットをもらったので母や子供も一緒に見に行った。
田舎でめったにないジャンルだからか見に来たお客さんがびっくりするほどバラバラな服を着ていた。ジャージの上下できた人もいれば、きちんと着物で来た人もいる。
未就学児は入場不可にもかかわらず赤ちゃんと来る人がいたりと、空気を読まないにもほどがあると思いながら上演が始まった。
本物のオーケストラの演奏のうえに出演者の主要なメンバーはすべて一流の人間で 終わるまでには3時間近くもあったというのにほとんどのお客さんが帰らなかった。
曲も一度は聞いたことがあるものが多くて少しも飽きなかった。
私の息子は「トムとジェリーで聞いたよ」と言っていた(あのアニメはためになる)
母は、カーテンコールのとき感動で泣いていた。
立ち見も出るほどの盛況ぶりで、いくら出演者の身内もいたと言ってもすごい人数だった。(チケットの割当があったらしい)
私の母は、めったに褒めるということをしない。その母が「チケットをくれた人にお礼を言ってて。また次も行くからと言ってね。」と言ったので相当な感激ぶりだろう。
職場にオペラの裏方をやっていたおばちゃんが来たのでそのことを伝えた。
「あれは赤字覚悟の大仕事だったからすぐ来年とかできないと思うの。でもありがとう」と言っていた。
現実にチケットのお金が助成金などの絡みなのかかなり安く、素人集団なのかと軽く考えていたほどの金額だった。
でも舞台が終わってみると「こんなすばらしいものをこんな格安で提供してくれて、ほんとにオペラが好きな人たちなんだな。なんて良心的でかっこいいアーティストだろう」と思った。
儲けようという意図が見えなくて、地元の人に喜んでもらおうとでも思っているのかこっちが遠慮してもう少し払った方が良かったんじゃないかと気を使いたくなるような気分だった。
何日かとても心が潤っていた。
こういう気分になることが伝わるということなんだな。バンドで歌う時、仕事で絵を描いているとき、自分の気持ちを相手に届けたいということは相手の気持ちの中に存在感を残すことなんだな。
と、あらためて思った。
目立ちたがりやで自己中な表現の人の方が大勢いる。
すごいと思われたいとか、そんなことがパワーになっている人もたくさんいる。
それはいいことでもあるけど、押しつけにならないバランスがいる。
オペラの上演があったあと少しして音楽仲間から電話があった。
「あの舞台は赤字で裏方ではどろどろと喧嘩があったりと大変だったようだよ」と誰から聞いたのか、この潤っていた私の心に水を差すことを言った。
「演出側の事情は知らない。でも見ていた人は感動したんだ。あの舞台を失敗のようにいうならどうやったら成功というのか教えてもらいたいもんだね」と頭に来たので言った。
いろんなことがある。でもお金というものを中心に置くと幸せに終われるものも損得になってつまらないものに代えてしまう。
あの上演をまた見たいと待っている私の母のような人のために アーティストとしての気持ちでのぞんでもらえたら、次の機会も赤字かもなんて気にならないように倍の金額を出してもいいのにと思う。
コメント (2)
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リストラを止められない

2008-03-15 | 私のお仕事(本業)
会社が大変になり、少しずつ社員も見切りを付け始めるものが出て来てますます残された人間は大変になって来た。
それでも、「ここを乗り切れば」と言う気持ちを胸にそれぞれがいろんな話し合いをしながらあがいている。
昔、まだ景気が良かった頃に今では幹部に昇進した人たちがまだ平社員で、現場の頑固オヤジにこなされていた時の話しを聞いたことがある。
社会勉強が大好きなおじさんがいて、まだ若造だった社員に「この仕事やっつけたら飲みに行くぞ!」とけしかけて また言われた社員も「これが終わったら飲みに行ける!」とそれを励みに頑張って、終わるとみんなで元気に街へ繰り出しうさん臭い外国の名前がついているような店へ行き、異常に薄い生地の服を着た下品な化粧のお姉ちゃんがいる横で馬鹿騒ぎをしていたようだった。
それを楽しそうに話しながら「昔は世の中を教えてくれる良くない先輩っていたよなあ」と笑いながら話してくれた。
私はそんな時代に働くことができた人たちのことを羨ましく思った。
私も仲間に入ってみたかった。(もちろん男ならだけど)
一生懸命働いて、それが晩酌のためでもいいじゃないか。
そんな先輩たちがいる職場で働けたことは人生という時間で見ると、ただ蟻のように働くよりずっと人間らしい。
今ではお金がないと言っちゃ飲みにも行けないという。
不景気のせいにして、生活を楽しむということはどうでもいいのだろうか。
お金は誠意のない人には敵になる。諸刃の剣そのものだと思う。
だからお金とは手段にすぎないと考えていなければ振り回されるのだろう。
もっと大切なところ、もっと基本なところ、ありがとうと思うこと。それが満足感を持つこつかもしれない。
大切なことをいかがわしく教えてくれた職場の先輩達はもう年を取り、お金以上の働きぶりとノウハウと愛社心を持っていてもただ時間が来たというだけでいなくなろうとしている。
本人の意思とは別に会社の状態もあってまるでいいタイミングだとでも言わんばかりの出来事だった。
私には(もちろんほかの人だって)彼らの代わりができるものか!
いなくなる日が来るなんて思ってもいなかった私はつい最近そのうちの一人と「この年になっても働くことができて良かったよ」と会話した。
車の中で思い出して涙が出て来た。
私が娘と同じ年だと言っていた人。旅行に行ったからといつもこっそりお土産を買って来てくれた人。
家へ帰ってもまた思い出して涙が出た。
まだ働きたかっただろうに。まだいさせてもらえると思っていただろうに。そう思うと自分の非力なことと、今までまだのんびりとしていたところがあったことが悲しくなる。
お金じゃないところで職場は楽しいと知っている人たちと、あと少しまだ一緒にいるうちにもっと昔の話しを聞いておきたい。
いつかまたそんな日が来るように知っておきたいと思う。
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