戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

上田宗児

2005年02月12日 | 戊辰戦争人物小伝
変名は後藤深蔵正則。
土佐勤王党にも属す。天誅組の変に参戦し、鷲家口からの中山忠光らの逃避行でともに長州に落ち延びる。
禁門の変では、忠勇隊に属して参戦し、第二次長州征伐に遊撃隊先鋒隊長として小瀬川口の戦闘に参戦する。この戦いで負傷した右手が不自由となり以後左手で筆をとったという。右手を負傷するなど他の長州藩士たちは変わらぬ活躍したことを認められ、長州藩は上田宗児に対して士分の身分を与える。
鳥羽伏見の戦いでは、遊撃隊として参戦し、慶応四年一月三日伏見で戦死する。二十七歳。

山内容堂が斬ろうとした二人

2005年02月10日 | 板垣退助こぼれ話
鳥羽伏見の戦いで参戦した土佐藩藩士のなかには、前年十月に板垣退助が兵制改革したときに隊長を務めた二川元介と山地忠七の二名がいます。
山内容堂はこの二人を斬ろうとすると、迅衝隊を引き連れてちょうど上京した板垣退助は山内容堂に直談判して、二人を救います。
結果、鳥羽伏見の戦いに当初、旧幕府側に義理立てし傍観していた土佐藩は、これで新政府側につくことになります。

西郷による板垣評

2005年02月08日 | 板垣退助こぼれ話
維新後、西郷隆盛は板垣退助にこんなことをいいます。
西郷「板垣さんは恐ろしい人。おいどんの所へ浪士をかつぎこんで戦争をおっぱじめさせた。恐ろしい人よ。」
板垣「これは近頃めいわくな話。浪士も浪士だが、これをつかった人もずいぶん危険な人物だったようだ。」
西郷は腹をかかえて笑ったという。

大石弥太郎

2005年02月02日 | 戊辰戦争人物小伝
【1829~1916】
名は元敬という。結成時からの土佐勤皇員であり、迅衝隊の幹部。
文久元年【1861】藩命により洋学研究のため、江戸の勝海舟の門下となりし洋学・砲術・航海術などを学ぶ。長州の桂小五郎・周布政之助や薩摩藩の樺山三円・水戸藩の岩間金平らと交わり、安政の大獄で譴責中の山内容堂の幽囚を解くため、尽力する。その年に江戸に出てきた武市瑞山と会談し、これに共鳴し土佐勤王党の結成時にその名を連ねる。
 文久二年に京都で坂本龍馬に会い、姫路にて武市瑞山らと会って藩主山内豊範の入京について献策する。同十月には藩命にて西国を視察したさいに、長崎で独断でオランダ銃1000挺の購入する。同三年の八一八の政変で土佐勤王党員たちは失脚し、獄に入れられると、武市瑞山らの赦免運動を行う。慶応四年一月の板垣退助が結成した迅衝隊では、小軍監として従軍し北関東・奥羽へと転戦し軍功をあげる。
 維新後は土木奉行・軍務局幹事・監察などを歴任したが、富永有隣を庇護したため、明治十年年松山の獄に繋がれる。明治新政府の断髪令のときには髷をきりそこねて、大石は終生髷を残していたという。
その晩年は高知で余生を送り、和歌三昧の日々を過ごし、大正五年十月三十日に死す。

小笠原唯八

2005年02月01日 | 戊辰戦争人物小伝
【1829~1868】
名は益光といい、のちに牧之群馬と称する。土佐藩士・板垣退助の親友。
長州藩の周布政之助が山内容堂を侮辱したときに、それを聞いた土佐藩士たちが周布を斬ろうと憤激した事件でも関わる。
山内容堂に抜擢され側物頭加役、さらに大監察兼軍備御用役になるが、辞職して元冶元年七月にす゜に復職する。
慶応年八月の安芸郡志士たちが結集した野根山屯集事件では藩の討伐隊を率いて赴き鎮圧、二十三士を斬罪する。
大阪陣詰となるが、慶応三年に五月帰国されて解職させられる。
板垣退助の登用と軍制改革により、またも復職されて藩兵別撰隊小隊司令官となり、板垣退助とともに土佐藩の軍制の充実に尽力する。
明治元年鳥羽伏見の戦いが起ると藩より大監察・仕置役に任命され深尾佐馬之助を総督とする総勢千六百の部隊とともに松山城の接収に立ち会う。

京に上ると三条実美の抜擢をうけて慶応四年三月には月大総督御用掛となり、牧野郡馬と改名し、征東大総督府軍監とともに江藤新平とともに江戸へ偵察に向かう。
また、板垣退助の部隊とは離れて、上野彰議隊の戦いでは軍監として立ち会う。
板垣退助らとともに会津攻略に加わり、慶応四年八月二十三日、会津若松城攻撃中に銃弾受け、二日後に死亡する。
なお同二十三日には実弟茂連も兄と同じく敵の銃弾を受けて死亡する。