戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

小栗上野介の処刑の裏事情 1

2005年05月13日 | 管理人の勝手な独り言
慶応四年閏四月五日に処刑された小栗上野介忠順は官軍によって処刑された。
その処刑にいは後世にいろいろと憶測を呼ぶのだが、ここではその背景については詳しくは論じないが、あえて一つ取り上げると一説にその処刑に板垣退助が関わっていたという説がある。
その根拠となるのが、板垣退助が参謀を務める東山道総督府によって処刑されたから
というものである。

たしかに、処刑を断行したのは、東山道総督府の監軍大音龍太郎、そしてその部下であり副監軍長州藩士の原保太郎、土佐藩士豊永貫一郎である。
かの土佐藩の歴史について研究した史家の平尾道雄は自身の著作「戊辰戦争」で、土佐藩士豊永貫一郎が元陸援隊の出身であるということを指摘して、それ以上の小栗上野介の処刑については彼自身の見解を述べてはいない。

興味深いには小栗上野介の処刑されるさいに根拠となった、東山道総督府の回文がある。
これは小栗上野介が処刑直前に自身も目を通している。
それには、小栗の追捕の理由とともにその末尾に「四月廿二日 東山道総督府 執事 松平右京亮殿 板倉主計頭殿 吉井鉄丸殿」とある。
板垣退助の名はないが、その回文が書かれた四月二十二日にはたしかに東山道総督府の板垣退助は大総督府へ出向き軍議に加わっているので、その軍議で小栗上野介に関してなんらかの関与も考えられる。板垣退助は四月二十日から三日間江戸取締りの軍議のため大総督府に出頭している。
仮に小栗の件に関与するにも積極的な小栗捕縛及び処刑を賛成したとは言いがたい。このときの板垣退助は迅衝隊の一部を下野へ派遣して、大鳥圭介らの旧幕府軍と戦うなど彼の関心は小栗よりか大鳥のほうに向いていたと思われる。

残念ながらその詳しいことは管理人には把握していないが、今のところ板垣退助が小栗の処刑に直接関与したとは断定できないといえる。

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