戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

迅衝隊、新選組の「故郷」に入る。 板垣退助こぼれ話

2005年04月16日 | 板垣退助こぼれ話
近藤勇ら甲陽鎮撫隊を破った(三月六日)迅衝隊は江戸を目指して甲州街道を突き進むが、その途上新選組の故郷ともいうべき日野や八王子に入る(三月十一日)
迅衝隊は八王子宿から千人同心代表らから嘆願書を受け取り、迅衝隊の軍監谷干城は彼らに勤王の志を
説きいったん拠出された銃を返却するという「寛容」を見せ、ついで日野に入る。日野には新選組の副長土方歳三の義兄佐藤彦五郎がいたが、
甲陽鎮撫隊の後方支援として春日隊を結成していたので、谷干城は佐藤彦五郎を捕縛しようとする。
佐藤彦五郎は谷干城が来るまうに逃亡しており、病気で動けなかったその息子佐藤源之助を尋問するも、春日隊には加わってなかったので、
すぐに嫌疑は晴れる。
谷干城らはこれらで新選組の関係者と尋問したりするが、江戸城総攻撃が迫っていたので、ここで貴重な時間を費やすことは
できずすぐに発って、江戸を目指す。もし、谷干城が新選組関係者を尋問していたとしたら、敬愛する中岡慎太郎を襲撃メンバーを新選組だと確信していただけに、苛烈な尋問をまっていたかもしれないが、
それ以上に江戸城の総攻撃の三月十五日がせまっていたの谷干城は大事の前の小事として罰していたが不明である。
それよりか、最大の予定目標である江戸城攻撃があるので、その後背にあたる日野や八王子の民心を鎮撫して背後の憂いを取り除くほうが現実的な選択だったといえる。

とにもかくも、迅衝隊は新選組らが主体となって結成された甲陽鎮撫隊を破り、その直後に新選組の故郷ともいうべき日野や八王子をすぐに「鎮定」した手腕は今後の展開を考えると見逃せない
ものがある。

「憲政の神様」尾崎行雄と「その父」尾崎行正 板垣退助こぼれ話

2005年03月31日 | 板垣退助こぼれ話
憲政の神様と称された尾崎行雄の父行正は、今の東京都の八王子から今の神奈川県津久井町の尾崎家ら入婿したのだが、勤皇浪士の交際で家をあけることが多く家計も乱れて生活に困窮していたという。

その尾崎行雄の父行正は若いときに江戸に遊学し、漢学者の藤森弘庵の私塾を学んだという。同門には木戸孝允もいた。

尾崎行正は板垣退助が迅衝隊を引き連れて、甲斐の甲府に入ると、これに呼応し迅衝隊の支隊ともいうべき断金隊にその身を投じる。

まだ多感な十一歳という年頃の尾崎行雄は、母とともに会津まで出陣した父の留守を心細くその帰りを待ち続けたが、父が殺されたという噂を聞き、毎晩のように父が殺されたり、殺されかけたりの夢を見たと後に述懐する。

父が会津まで出陣した慶応四年の翌年に十二歳となった尾崎行雄は母に連れられて、上京し、父と対面しその後父の赴任先で勉強する。

父行正が板垣退助の部隊【迅衝隊】とともに行動していたので、その縁で迅衝隊の幹部でもある安岡良亮の下で弾正台の役人として働いていた。
尾崎行雄はその縁で父の上司である安岡良亮の屋敷に住み込み、彼から「七書」の講義を受ける。
その後も尾崎行雄の一家は安岡良亮の転勤したらそれに共に同行していた。


板垣退助の東征は、「憲政の神様」尾崎行雄の人生まで影響を与えたようである。

「外人部隊」断金隊 板垣退助こぼれ話

2005年03月29日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が甲斐にて有志にて編成された断金隊は、その隊員には、尾張名古屋の浪人・村井直三郎、相模浪人尾崎彦四郎、影山東伍などでいた。

その所以は、迅衝隊の軍監、元土佐勤王党の党員である大石弥太郎が「二人同心、其利断金」という易の語からとったものという。

板垣退助は断金隊の隊員たちを集めて武田信玄の廟前で誓約させ、また板垣退助はそれど相前後して甲斐の郷士たちによる護国隊という部隊も結成させる。

これら迅衝隊の支隊である断金隊は北関東から会津転戦し、偵察・戦闘とさんざん酷使され、最後に「乞食の如くなりて」といわれて帰国したという。

なんとも、こうも断金隊がここまであわれになれば板垣退助は疫病神に思えてならない。

薩土同盟②

2005年03月28日 | 板垣退助こぼれ話
さて、この会談の二日後、中岡慎太郎は薩摩藩の西郷隆盛と連絡をとり、薩摩藩家老小松帯刀の寓居に集まり、会談を持つこととなる。
中岡慎太郎は毛利恭助、谷干城そして、板垣退助を連れてきた。一方は西郷隆盛は薩摩側を代表する人物として小松帯刀、吉井幸輔をもって迎える。

板垣退助は薩摩側の藩士たちに「あなだ方が、僕らの微衷(本心)を諒解するなら、ともに盟約を立てて事に当たりたい。一ヶ月の間に土佐で同志を糾合し、
飛激のいたるを持ってただちに上京する覚悟だ」と告げる。
中岡慎太郎はこれに飛びついて、「板垣退助がもし約束にそむくよう事があれば、僕は割腹する」と誓う。

西郷隆盛はこれには膝をうって喜ぶ。「大丈夫の言、近頃めずらしい快事だ。どうかともに盟約を固めてほしい」と応じる。

いわゆるこの会談がのちに薩土同盟といわれる所以となる。
薩土同盟で中心的な役割を果たした中岡慎太郎は「時勢論」を著したり、陸援隊を組織するなど、板垣退助以上に倒幕運動の中心にいた人物である。

坂本龍馬とともに見廻組に襲撃して落命しなければ、土佐の倒幕部隊を率いた指揮官は板垣退助でなく、中岡慎太郎であったことは疑う余地がないのでは。

そうなれば、板垣退助の運命も大きく変わっていたことだろう。

薩土同盟①

2005年03月27日 | 板垣退助こぼれ話
戊辰戦争の前年慶応三年五月十九日、板垣退助は京にて、谷干城、毛利恭助、中岡慎太郎を捕まえて料亭「大森」にて会談する。
中岡慎太郎が、土佐藩の挙兵討幕について板垣退助に尋ねると、板垣退助は「容堂公に訴え、容れなければ、諫死するのみだ」と答える。

これには、中岡慎太郎憤然として、畳を叩いて板垣退助を問責する。
「あなたは、国家の安危をかえりみず、一人いさぎよく死ぬだけで満足なのか。豚や犬のような無意
味な死は、断じて僕は許さない。今日必要な大計を早く語りたまえ」と迫る。

板垣退助は中岡慎太郎の気迫にのまれ、自分の非をわび、「藩論が討幕と決まらない場合は、同志たちとはかり挙兵しよう」と断固たる口調で告げると
中岡慎太郎はこれに安堵し、「我が意を得たり」とにこりと笑ったという。

「ちくと刀が長すぎはせんか」 板垣退助こぼれ話

2005年03月21日 | 板垣退助こぼれ話
勝沼の戦いのあと、迅衝隊は会津藩士の大崎壮助という者を捕らえて尋問するが、なかなか傲然として口割らない。それを聞いた板垣退助は
「おもしろい男だ。」といって直接尋問しようとするが、大崎は「猶予せず首をはねてもらいたい」と訴える。

板垣退助は拷問するのに情に忍びず、武士らしく死罪を宣告した。いよいよ斬首される段になり大崎は板垣退助に一礼をして刑を待つが進んで斬ろうとするものがいない。
そのうちに中屋修治という者がいて身長六尺という大柄な男で日頃から好んで三尺の長刀を差していた。「自分はかつて京都四条で会津のものと立ち会って二人を倒したことがある。

これを斬らせてもらえばちょうど三人になる。」と言って壇上に出て来た。中屋は抜刀したものも周囲の藩士たちの注視に緊張したのか、なかなか斬ろうとせず、
板垣退助は「中屋、ちくと刀が長すぎはせんか。」と軽くひやかすと取り巻きたちはどっと笑う。これに気がほぐれたのか、中屋の刀は紫電一閃大崎壮助の首を皮一枚を残して前にたれた。

中屋修治はその髷をつかんで皮を断ち、しずかに壇の上におくと、大崎の首は馬手ばちばちとまばたいて生きもののようにぐるりを回ったという。
その壮烈さに一軍の藩兵たちは声をのみ、驚嘆せざるえなかったという。

谷干城、江戸にて心配 板垣退助こぼれ話

2005年03月20日 | 板垣退助こぼれ話
さて、どうにか江戸に到着した板垣退助ら迅衝隊は、結局江戸無血開城ということで、戦闘はなく、江戸にてとりあえず「駐留」することになった。

しかし、土佐の南国で生きてきた迅衝隊の面々は江戸では方言による言葉の壁、土地勘やその習慣などになじみない者ぱかりで、迅衝隊の軍監・谷干城は隊員たちが要領が得ないだろうと心配して、土佐藩の支藩にあたる麻布の山内家に案内役を派遣するように要請する。

されど、支藩【高知新田藩】の山内家の家臣たちは土佐藩の支藩いえど一年のほとんどを江戸ですごすため、幕府に同情的で、本藩といえどまさに「田舎侍」の迅衝隊の要請には非協力である。

わざわざ谷干城自身が麻布の山内家に訪れて懇願しても、「大丈夫、大丈夫。徳川の御家来衆はみな恭順、しかも不逞なやからなどはいません」という。

それでも谷干城は粘る。「しかし、半蔵門や桜田門のあたりは、塹壕を掘り返したり、大砲を据えてあったり、さかんにやっているではないか。あれでも徳川の家臣は恭順したというのか」
というと、支藩の山内家の家中のものたちは、仰天して、舌を垂らして笑いだす始末。


こうして、谷干城は支藩の山内家の家臣たちに相手にされずからかわれて、すごすごと隊に帰ったという。

いのすとやす 板垣退助こぼれ話

2005年03月17日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助は子供のときに幼名が猪之助から「いのす」とあだ名され、板垣退助の生家から南方に二百メートルのところに
後藤象二郎こと幼名保弥太、あだ名「やす」がいた。この二人は竹馬の友であり、二人が通るとまわりは道を避けて通ったという。
いのすはやすが蛇を嫌いなた竹竿の先に蛇を挟んで投げかけたという。
これに対してやすはいのすが嫌いな糞攻めで対抗したという。
幕末、維新の土佐藩において互いに相寄り離れて重要な役割を果たす二人は少年のときのエピソードである。


迅衝隊の服装 板垣退助こぼれ話

2005年03月12日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が戊辰戦争のあとに語った談によれば、服装は急こしらえだった部隊であるとことを示す内容である。
「フランス革命時代の義勇兵の状況をきくと全くよく似ている。上下の別もなく、将卒たがいに撹乱し
服装に至ってはまちまちで一定せず、「フロックコート」「セビロ」の如きものをきるのもあれば、伊賀袴をうがちて陣羽織を帰するあり、鳥打帽あり、韮山笠あり、
多くのものは三尺の長刀を腰に横たえていた」
板垣退助が引きつれた迅衝隊は高松城に接収したが、高松藩とは交戦することはなく、また鳥羽伏見の戦いに参戦できないままに京都に入ってから、東征への命令が出ていたころの迅衝隊の様子を語るエピソードである。服装容姿で戦うへきものではないが、板垣退助がその詳細を詳しくかたるほどであったから、
本人には前途多難であったという印象が頭によぎったのではないか。


山内容堂が斬ろうとした二人

2005年02月10日 | 板垣退助こぼれ話
鳥羽伏見の戦いで参戦した土佐藩藩士のなかには、前年十月に板垣退助が兵制改革したときに隊長を務めた二川元介と山地忠七の二名がいます。
山内容堂はこの二人を斬ろうとすると、迅衝隊を引き連れてちょうど上京した板垣退助は山内容堂に直談判して、二人を救います。
結果、鳥羽伏見の戦いに当初、旧幕府側に義理立てし傍観していた土佐藩は、これで新政府側につくことになります。

西郷による板垣評

2005年02月08日 | 板垣退助こぼれ話
維新後、西郷隆盛は板垣退助にこんなことをいいます。
西郷「板垣さんは恐ろしい人。おいどんの所へ浪士をかつぎこんで戦争をおっぱじめさせた。恐ろしい人よ。」
板垣「これは近頃めいわくな話。浪士も浪士だが、これをつかった人もずいぶん危険な人物だったようだ。」
西郷は腹をかかえて笑ったという。