1982年生まれのメキシコ人作家が、崇拝するトーマス・ベルンハルトのスペイン語版翻訳者を語り手にしてつくった表題作をふくむ短編集。スペイン人の翻訳家ミゲル・サエンス(実在する)はベルンハルトの小説『滅びゆく者』の翻訳に取り掛かっていたが、いくつか気になることがあり、作者に問い合わせの手紙を送る。しかし、翻訳と翻訳者を常々罵倒することで知られているベルンハルトから、スペインの彼に返事が届くことはない。ドイツ人の妻も諦めたほうがいいと忠告する。それがあるときベルンハルトの担当編集者から電話があり、彼がウィーンで直々に会うと申し出てきたことがわかる。そして初対面の日、屋敷まで案内されたミゲルは、作家から父親に関する思いがけない告白を聞くことになる……という冒頭の作品、いわゆる夢落ちなのだがセンス良くまとまっている。ところで、ミゲルは翻訳対象の作家と交流してそのバックグラウンドも含めて訳に活かしたいタイプ。私は逆で、自分の翻訳対象の人間にはまったく興味がないし、実際に連絡を取ろうとも思わない。どっちがいいという問題でもないし、選ぶ作家のタイプにも関係しているはず。
ちなみに下はベルンハルトの遺作。あのやたらに長いと評判の文章だが、実際に読んでみると妙に癖になるドライブ感があって、これはおそらく原文を好きな人が訳すべきタイプの作家なのだろう。
「前日に眠り昨日目覚める」はメキシコの音楽学校を舞台に、ある饒舌な音楽家に師事し、彼の愛人となるのをのぞんでいる女を語り手にした作品で、こちらは語りの妙で読ませる。ボラーニョなどがつくった dijo という導入語の前後に直接話法の語りを自由にさしはさんでいくというスタイルで、この文体のいいところはスピード感だろう。乗ってくると、とても気もちがいい。ここで自由間接話法を使われるといちいち立ち止まってしまうのだけれど。
「客用トイレの粉ふく石鹸」は私が勝手に一筆書き短編と名付けているタイプ、改行をせずにひとりの人物による語りが延々と続く。この短編の場合、正確に言えば語り手の「わたし」と夫のフアン、そして二人が話題にしている繊維工場の二代目のアル中、エルネスト・ラモスとその不在の妻ルシアの語りも混じってくるが、全体の中心には「わたし」がいて落ちまでもっていく。不思議な題名の意味は終わりになって判明、やっぱり語りのうまい作家。短編向きの文体の持ち主だ。
「砂漠で幸せになる方法」は小汚い偏屈な小男とうっかり恋してしまった平凡な主婦の回想録で面白すぎ。<ところがわたしは癒しがたい病気にかかってしまっていた。例のネズミ男に恋をしてしまったのだ。数週間前までは町でいちばんのショッピングモールで買い物をしていたおばさんが頭のおかしな男にすっかり狂わされてしまった。彼は私になにを求めていたかって? まるでなにも。私は彼が孤独につなぎとめられていたとき、彼の世界にやってきた。エマヌエルはあのカオスな世界で気楽に暮らしていた。もう何年もああやって暮らしていたのだ。(82)>
「巨人の足跡」は若気の至りで(日本風に言えば高校でカップルになってしまって妊娠して)そのまま結婚した相手の男がロクデナシと分かって以降の女の人生を夫の目線からコンパクトにまとめたもの。ルシア・ベルリンをエプグラフにしているわけを著者ご本人に聞いてみたいです。<彼はパトリシアと35年暮らすことで、愛というものは結局のところ実に素晴らしいものになり得るが、まったくもって非実用的であるという真実を理解した。(91)>
「それで誰が僕を愛してくれるの?」は出稼ぎで男が消えてしまった街にたどり着いた青年の奇妙な運命を描く。この短編は新聞で読んだ話というスタイルをとっているが、全般にゴシップ系の話が多く、おそらく著者ご本人の創作スタイルが如実に反映されている作品なのかもしれない。
のこりの二つも含めて、軽妙な語り口で読ませるタイプの作家、長編に期待できるという資質の持ち主とはやや違うかもしれないが、個人的には好きなタイプかもしれない。
Alejandra Gómez Macchia, Bernhard se muere. 2019, PreTextos, pp.145.