Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

パブロ・ネルーダ「結合(ソナタ)」

2024-04-05 | 
地に落ちた埃っぽい眼差しの
音もなく自らを埋める木の葉の
光なき金属の 空虚とともに
ふいに死んだ日の不在とともに
両手にかざされた蝶たちの幻惑
終わりなき光放つ蝶たちの飛翔

捨てられた太陽が暗さを増し教会に投げかける
壊れたものたちの光の帯をあなたは見守っていた
眼差しに染まり ミツバチたちの形に染まり
予期せぬ炎が逃げ行くあなたの素材は
昼とその黄金の家族の先を行き後を追う

日々が隙を窺い静寂を横切るが
あなたの光の声のなかに落ちる
ああ愛の主よ あなたの休息にわたしは
我が夢を 我が沈黙の態度を置いた

おずおずとした数が突如として
大地を定義するまで広がるあなたの体に
緩慢な死としなびた刺戟で冷たくなった
宇宙の白い日々による戦いの向こう側に
あなたの膝が燃え あなたの口づけが
わが夢に燕をつくって通るのを感じる

ときにはあなたの涙たちの運命が
齢を重ねるごとくわが額を這い上がり
そこで波を打ち付け 死で自らを滅ぼす
その動きは湿り気を帯び 衰え 終わる
(OCI, 258-259)
******
(以下はネット上にあった英訳のDLT訳)
土に落ちた埃っぽい視線。
音もなく埋もれる葉。
光のない金属の、虚空とともに、
クーデターの死んだ日の不在。
手の先には蝶の眩しさ、
その光には終わりがない。

あなたは光の軌跡を守っていた。
太陽が見捨て、暗くなり、教会に投げかける光の軌跡を、あなたは守っていた。
蜜蜂の視線に染まる、
予期せぬ炎の素材が
その日の前と後、そして金の家族へとやってくる。

彷徨う日々は秘密を横切る。
しかし、あなたの光の声の内側に落ちる。
ああ、愛の女主人よ、あなたの休息の上に
私の夢、私の静かな態度を築いた。

内気な数のあなたの体で、突然に拡張された
地球を定義する量まで、
宇宙の白い日々の戦いの背後に
ゆっくりとした死と枯れた刺激の悪寒、
私はあなたの膝を燃やし、あなたのキスを動かすのを感じる。
私の夢の中で新鮮なツバメを作る。
時には、あなたの涙の運命は
私の額までの年齢として、そこで
波に打たれ、死を破壊される:
その動きは湿っぽく、憂鬱で、最後だ。

******
 「クーデターの死んだ日の」という謎訳はスペイン語の del día muerto de golpe を of the dead day of coup と訳したために起きた偶然であろう。この英訳をされた方はおそらくネルーダを1973と結びつけて考え、ゴルペの死の日、という部分をクーデターの死の日、と解釈し、解釈というよりは「受容」といった方がいいかもしれないが、それをマシンにかけると上のような訳になったというわけだ。この詩が書かれた40年後に書き手に起きた事件のイメージが、さらにその事件から半世紀以上が経った時点での翻訳に反映されるという現象も「間テクスト性」とかいったりするのでしょうか。
 この詩は題を見ればわかるようにセックスの情景。この詩におけるディア、すなわち昼や日といった明晰な時間を示す語句は語り手の理性を象徴している。なのでそれが突然死んでしまうというのは、クーデターの死の日ではなくて、目の前にいる他者との接触のなかで精神が欲望に飲み込まれてゆく薄明の瞬間(要するになのもかもがアレになるとき)を指す。いっぽう詩の後半の死にまつわるイメージ群は性行為そのものの成就に関連していて、この種の表現はスペイン語圏のオッサン(元オニイサン)の書くものにものすごく多く、いまこの歳になると辟易するばかり。
 排泄とか、睡眠とか、単なる弛緩とか、同じ生理現象にしても他者を要するセックスとは異なる作業にフォーカスした詩のほうが私は好きである。
コメント

パブロ・ネルーダ「死せるギャロップ」

2024-03-29 | 
 ネルーダの前衛時代の詩集『地上の住処』(1932)は翻訳不可能に近いが文体は案外とネルーダ的で、のちの簡素なスタイルにも通じる何かがある。この20年後に書かれる『マチュピチュの高み』のいくつかを思わせるある種のアルテ・ポエティカ(詩作術)宣言ともとれる。いずれにしてもその「何か」は訳してみないと分からないと思うので、執筆中(なんだか死ぬまで執筆してそうですが)の仕事の情報整理もかねて試しにやってみることにした。
 というよりディープ・ラーニング・トランスレーターの実力を知りたくなったというのが本音かな。人間とマシンとどちらが「分かりにくい詩」に近づくことができるのか。もちろん人間と言いたいのは山々だが、ことはそう単純でもない。
*********
(オリジナル)
Como cenizas, como mares poblándose,
en la sumergida lentitud, en lo informe,
o como se oyen desde el alto de los caminos
cruzar las campanadas en cruz,
teniendo ese sonido ya parte del metal,
confuso,pesando, haciéndose polvo
en el mismo molino de las formas demasiado lejos,
o recordadas o no vistas,
y el perfume de las ciruelas que rodando a tierra
se pudren en el tiempo, infinitamente verdes.

Aquello todo tan rápido, tan viviente,
inmóvil sin embargo, como la polea loca en sí misma,
esas ruedas de los motores, en fin.
Existiendo como las puntadas secas en las costuras del árbol,
callado, por alrededor, de tal modo,
mezclando todos los limbos sus colas.
Es que de dónde, por dónde, en qué orilla?
El rodeo constante, incierto, tan mudo,
como las lilas alrededor del convento,
o la llegada de la muerte a la lengua del buey
que cae a tumbos, guardabajo, y cuyos cuernos quieren sonar.

Por eso, en lo inmóvil, deteniéndose, percibir,
entonces, como aleteo inmenso, encima,
como abejas muertas o números,
ay, lo que mi corazón pálido no puede abarcar,
en multitudes, en lágrimas saliendo apenas,
y esfuerzos humanos, tormentas,
acciones negras descubiertas de repente
como hielos, desorden vasto,
oceánico, para mí que entro cantando,
como con una espada entre indefensos.

Ahora bien, de qué está hecho ese surgir de palomas
que hay entre la noche y el tiempo, como una barranca húmeda?
Ese sonido ya tan largo
que cae listando de piedras los caminos,
más bien, cuando sólo una hora
crece de improviso, extendiéndose sin tregua.

Adentro del anillo del verano
una vez los grandes zapallos escuchan,
estirando sus plantas conmovedoras,
de eso, de lo que solicitándose mucho,
de lo lleno, oscuros de pesadas gotas.
(OCi, 257-258)
*********
(人間訳)
灰のように 沈める深みに
形なきものに満ちる海のように
あるいは十字形の鐘が
すでにその金属とは程遠い
曖昧な音を出し 重くなり
遠すぎる あるいは記憶のなかの
あるいは見えない形をした同じ風車と
そして大地を転がり時のなかで腐敗し
尽きることなき緑色の梅の香りのなかで
塵と化しつつ渡るのが聞こえるように。

あれら かくも速く かくも元気で
それでいて己に夢中な滑車のごとく動かぬすべて
要するにあの発動機についた車輪たち。
樹皮の乾いた縫い目のように存在し
黙り込み 周りを そうやって
その肢であらゆる葉脈を混ぜる。
というのもどこから どこを抜け どの岸へ?
修道院の周りのリラの花のような さらには
力なく倒れその角で音を響かせんとする
畑の牛の舌にまで届く死のような
絶え間なく 不確かで かくも声なき迂回。

だから動かぬもののなかに立ち止まり
それから上空に 巨大な羽ばたきのように
死んだミツバチか 数字のように
おお我が青ざめた魂では抱えられぬものを
群れを成し ふと零れ落ちる涙のなかに
さらには 人の努力を 嵐を
ふいに暴かれた氷のような
黒い行為を 広大で海のような
無秩序を 無力な人々のなかへ剣をかざすがごとく
歌いながら分け入る我がために 感じ取る。

ところであの夜と時の間の湿った崖のような
鳩たちの出現はなにで出来ているのか?
あのすでに長すぎる音が
道に落ちて石を並べてゆく
というよりわずかな一時間がふと育つとき
休むことなく広がってゆく

夏の輪のなかで
偉大なカボチャたちが必死の草を引っ張り
一度だけその耳を澄ます
それの 多くの願いによるそれの
完熟の 濃い雫で黒々とした実の。

*********
(DLTの訳)
灰のような、海のような人口、
水没した緩慢さの中で、形のないものの中で、
あるいは、小道のてっぺんから聞こえるように。
十字架の鐘と交差するように、
その音はすでに金属の一部である、
混乱し、計量され、塵と化す
その音はすでに金属の一部であり、混同され、計量され、塵と化す、
その音はすでに金属の一部であり、混同され、計量され、塵と化す、
そして土に転がる梅の香りがする。
朽ち果てながら、限りなく青々としている。

すべてがとても速く、とても生きている、
狂気の滑車そのもののように、
要するに、エンジンの車輪のようなものだ。
木の継ぎ目の乾いた縫い目のように存在している、
静かに、辺り一面に、そのように、
すべての手足のしっぽを混ぜ合わせながら。
どこから、どの方向から、どの岸に?
絶え間なく、不確かで、とても無言の堂々巡り、
修道院の周りのライラックのように、
あるいは、牛の舌に死が訪れるように。
よろめき、よろめき、よろめき、角を鳴らしたがる。

だからこそ、動かず、立ち止まり、知覚する、
そして、巨大な羽ばたきのように、上に、
死んだ蜂や数字のように、
哀しいかな、私の青白い心では抱えきれないものを、
涙がかろうじて出てくる、
そして人間の努力、嵐、
突然暴かれる黒い行動
氷のような、広大な無秩序、
大洋のような、歌っている私にとっては、
無防備な者たちに剣を向けるように。

さて、この鳩の高まりは何からできているのだろう。
夜と時の間、濡れた渓谷のように。
その音はすでに長く
道に石を並べるように落ちてくる、
むしろ、ほんの一時間の間に
突然、休みなく広がっていく。

夏の輪の中で
大きなカボチャが耳を傾ける、
触れる植物を伸ばして、
その、その、その、その、その、その、その、その、その、その、その、その
満腹で、重い雫で黒ずんでいるものの。

*********
もちろんマシンには誤訳も多いが、人が迷うところで大胆な解釈を提示していて興味深い。とりわけ最終2行の「その。その、その」の連呼がなぜ生じたかは分からないが、こちらの方が迫力があるかも。私の訳の場合は、日本語という制約上、意味的構造を重視して文末にもっていかざるを得ない語をいくつか選択しているが、マシンはいまのところこれ(選択再配置)をしない。なぜしないかは観察中だが、逆に言えばいまのところはこの選択再配置という作業にのみ、人間が翻訳行為を続ける可能性が残されているといえるのかもしれない。
 それにしても間投詞 ay は「哀しいかな」と訳すんですね。いつもこれを「おー」とか「あー」とかごまかしている芸のない私にはとても勉強になりました。今後、仕事のスパーリングも兼ねて、思い出したときにまたマシンとポエム理解の深度を競ってみたいと思います。
コメント

ファビオ・モラービト『母語』

2023-04-22 | 
旧ブログ(2015年3月24日)を再掲。改めて読んでみて、もう終わりも近い人生だというのにこんな異国のしかも超マイナーなものを読んで嬉しそうに考え事をしている場合ではないよな、と思います。

182ページの本書は2ページにわたるほぼ同じ字数の断片82からなる。自らの身辺ばかりを書いているかと思えば虚構のようなページもあったりと、そのスタイルは変化自在で、おおきな特徴があるとすればそれはおそらく二つ、潔いまでにそぎ落とされたその文体と、書く・読む・話す・聞くなど言葉の生成するメカニズムにこだわりながら実に多様なアイデアを、決して大仰にではなく、あたかも近所の散歩道で見かけた変わった植物に触れるかのように、軽く繰り出してくる軽妙な語り口にある。
 この本ばかりが有名になっているモラービトは、実はメキシコではわりと知られた詩人で、すでに5冊の詩集が刊行されている。詩以外には短編小説やエッセイなどもあり、子供向けのお話や、さらには母語であるイタリア語文学、たとえばエウジェニオ・モンターレの詩全集などのスペイン語への翻訳も手がけている。今年1月号の Cuadernos hispanoamericanos が彼の詩を解説する記事を掲載していて、それによると詩でも「書く」という行為をめぐる隠喩を多用するのだとか。
 私は詩集はもっていないのでこの記事からの孫引きになるのだが、たとえばこんな風な詩だ。
 もし波に揺られたら
 その波を若く 細く
 熱いままに保て
 そして体は砕け散り
 心臓はより大きく
 飾りたてた古い波に
 やたらと急ぐ波には
 気をつけろ
 なかでも最悪の波
 とどめとなる波
 引き波には気をつけろ

きわめて伝統的な詩的インスピレーションを表現した詩のようで、霊感は波のように「向こうから勝手にやってくるものなのでそれに身を任せておけばいい、自分から探しに行くようなことをするとロクなことにならない」というもの。本書にも「韻文と散文」と題する断章があるが、私は久しぶりに韻文のキチンとした定義をしている詩人の文章とであった。韻文の定義は散文との差異をもってするのだが、それは改行の有無にある。散文を書くときにその行がどう完結するかを意識する必要なない。というより散文には行などという概念がない。そこには物理的な枠、ノートの幅とか、ワードで設定した1行の数とかがあるのみで、その枠を変えるといかようにでも変容し得る。しかし詩は1行の終了点が決まっていて、これは物理的な枠とは関係なく機能する。4行詩はノートに書こうがワードで書こうが壁にスプレーで書こうが永遠に4行だから。
散文と詩の最大の違いは、リズムや音楽性といった問題であるとか、合理的要素の配合具合などにあるのではない。そういった点については、一般的に思われているのとは違って、実は散文と詩のあいだに大した違いはないのだ。散文と詩の真の差異、というより唯一の差異は、詩には一行単位での書き方しかないのに対し、短編小説や長編小説で一行一行書き進めるような人間はいないという点にある。(p.55)>
 小説家はある文を書きながら常に次の文章を何らかの形で意識している。しかし詩人がある行の語を探しているときには、韻語を除けば、まず他の行の意味内容は予期されていない。その行を完結させることが最優先なのである。小説がひとつの到達点をあらかじめ用意しているとすれば、詩は改行ごとに書き手になんらかの発見と驚きをもたらす行為なのだ。その点で詩人は楽だと彼は言う。小説はその「到達点」があるかぎり、場合によっては24時間書いている虚構の世界から逃れることができなくなる。バルガス=リョサのように早朝から起きてずっと机に座っていなければならない。小説家は禁欲的な人が多い。いっぽう瞬間の創造行為である詩を書く詩人は、言葉に向き合っていないあいだは詩を忘れていられる。
 ファビオ・モラービトは1955年にアレクサンドリアでイタリア人の両親のもとに生まれた。年齢的には今年還暦を迎えるベテランである。詩人らしく無名のまま老境まで来たということだろう。本書によると長編小説も一冊書いているらしく、それが55歳のとき。その本を見た母親が「あんたもようやくちゃんとした本を書いたのか!」と言って涙を流したとユーモラスに書いてある。もちろん詩や短編といった本の形にならずとも存在し得る文学形態のほうが面白いという風に展開するのだが、やはりスペイン語もヨーロッパ語文学のひとつ、長い長編をガツンと書いてなんぼ…みたいな不思議な伝統は受け継がれている。
 幼少期をミラノで過ごしたモラービトの母語はイタリア語である。その後15歳でメキシコへ移住し、それ以降かの地に住み続けて今に至る。これまで詩から小説に至るすべての文学創作をスペイン語で行なってきた。これは多和田葉子のいういわゆるエクソフォニーを生きてきた作家と言えるかもしれないが、彼の場合はイタリア語からスペイン語への越境という、いわば隣町への引っ越しレベルのものだから、常識的に考えれば(たとえば日本語からドイツ語やフランス語への越境に比べれば)そうドラスティックなものでもないと言えるだろう。実際、本書にも母語と異言語をめぐる葛藤が哲学的なレベルにまで深く省察されているわけではないので、そういう多言語文学的な情報を期待してこの詩人に接しても意味はないように思う。逆に、言語を移動した際のより繊細な「ずれ」に彼は興味を抱いているように思われる。母語の記憶がどのように肉体に生じるのか。たとえば泣くという行為はスペイン語でしているのか、イタリア語でしているのか。こういったテーマはきわめて詩的なものだ。
 詩人として頭角を現す(という比喩に意味があるか否かはわからないが)のは1985年に賞を受賞してからで、30代、40代はいわゆる「スペイン語の都市によくいるマイナー詩人」として人生を過ごしてきた。それがこの本をきっかけに注目が集まっている。
 彼は母語はある種の捨てきれない基層であると述べている。逆に学習した第二言語は仮面のようなもので、それで生活をし表現することを選んだ人間をドラキュラにたとえる。ブラム・ストーカーの小説でトランシルバニア生まれの主人公が英語を「母語話者のようにその髄まで身につける」ことを目指している、まさに身も心も(血も)英国人になりきることに執着していたことをあげ、それと似たようなことが母語から異言語に乗り換えた人間に総じて起きているという。それの行きついたグロテスクな例として彼は、旅先で知り合った同じ元イタリア語話者が、移住先での異言語への同化をあえてひけらかすためにイタリア語を訛って話すすべを覚えたというエピソードをあげて、これを「悪魔に魂を売り渡すとはまさにこのこと」と批判する。
 モラービトの文に流れているのは母語へのアンビバレントな執着である。そこにはエクソフォニーといった批判的思考回路はなく、それはむしろより感情的な探求であって、それは詩を書く意味を考るという行為と密接に結びついている。だからこそ母語を意図的に軽視し、母語を自ら歪めて使用する男を彼は徹底して蔑むのである。
 私も先日、南米から伊丹に帰ってきたとき、英語と日本語のちゃんぽんで会話をしている親子を見てちょっとこれに似た憎悪を覚えた。子どもの海外での生活が長かったのだろうか、日本語の会話が行き詰まり、不自然な表現になると彼らは英語に切り替える。でも話している内容は受験のことで、子どもの学力の話をしているのである。なのに2言語で交流がなされていて、しかも不自然な日本語を人前で大声で話して「話が行き詰ってしまう状況」を彼らがいっこうに恥じていない様を見て、恥じる必要もないのだし、それはあまりに正しい振る舞いなのだが、私はやや複雑な気持になったのだった。なぜかは分からない。でも本書の上記のエピソードを読んだときにふとそのことを思い出した。
 詩集を現在取り寄せ中なので、あとは上に紹介した雑誌に掲載されていた書評を紹介しておくことにしよう。書評ではエクソフォニーの問題がもう少し突っ込んで取り上げられている。
******
フリオ・セラーノ「熱心に耳を傾ける」(Cuadernos hispanoamericanos. N.775, pp.111-114)
 ページを開かれた小さな白いノートと、その中の声を聞こうとしているかのような耳。ファビオ・モラービトの最新作『母語』の表紙だ。聞く行為、なにかに熱心に耳を傾けるという行為を軸とする短いテクスト(どの断章も2ページを越えない)で構成された本書は作者の文学的才能を手早く知るのに格好の導きとなる。本書における作者の問いかけはまさにこのイメージ、書物のページが訴えかけていることに耳をすませる行為にある。直前に刊行された詩集『耳』で作者は「沈黙を聞くには耳にふたをしてはならない」と書いている。モラービトが聞こうとしている沈黙とは内省的なものではなく、耳をおおう必要もない。そうではなく、耳を全開にして、もの音のそこに横たわる静寂を看取するということだ。本書は沈黙を聞きとるための指南書であるが、その沈黙はいったん聞こえると別の意味を伝えてしまう。こうした書き手による背信行為についてロラン・バルトは「沈黙は語らせてはじめて記号となる」と述べている。つまり書き手が忠誠を誓うのは沈黙という対象ではなく、それを記述する記号やテクストでしかありえないということだ。オクタビオ・パスもこうしたすれ違いについて「詩人は沈黙に恋い焦がれて結果として語るしかなくなる」と述べている。こうした書き手の背信行為が本書では88章の自伝、小話、フィクション、書く行為にまつわるエピソードと結びついているのである。
 題の『母語』はモラービトの文学活動の根源に私たちを誘う。彼の母語は彼の創作言語とは異なるのだ。彼のすべての作品―詩と短編が中心だがエッセイや子供向けの長編小説もある―はスペイン語で書かれているが、ミラノで子ども時代を送った彼の母語はイタリア語なのである。15歳でメキシコへ移住して今に至る。だが彼が生まれたのはイタリアではなくエジプトのアレクサンドリアだ。つまり彼はイタリアでもメキシコでも異邦人として人生を送ってきたのだ。このように絶えず異邦人として生きてきた過去は彼の言語観やアイデンティティといった作品の中核をなすテーマにも反映されている。まず記述語に選んでいるスペイン語についてだが、これは母語ではない以上、どこか微妙なところで対象と齟齬をきたしているのではないかという不安を彼に与えている。なので彼は対象に注意深く耳を傾け、言葉を慎重に選び、言語の仕組みを深く理解しようとする。『母語』においてすべてはこの言葉という問題に収斂していき、それらは些細なエピソードであっても最終的に「話し言葉と書き言葉」という本書に副次的な未知のテーマに行きつくのである。モラービトにとって言語とはある種の悪循環に似たものであり、障害であると同時に救済でもあるのだ。この事実を見事に語った断章がある。ある作家が首を吊る前に辞世の言葉を書こうとする話だ。文体とその伝達効果という問題に直面して煮詰まった作家は、できあがった文章をいじくりまわすのに疲れ果て、結局自殺を先延ばしにする。もはやその時点では自殺などどうでもよい問題になっていたのだ。おそらく言葉の問題などを気にかけなければ首尾よく自殺できていたのだろうが、結果的にそれが彼を死から救ったことになる。
 モラービトには、子ども時代に部分的に捨てることになった母語イタリア語についても、あとで選んだスペイン語にしても、自分がその<発話の鍵>を見いだせないという特別な自覚をもっている。どちらの言葉にも最終的にたどり着けない領域があると。こうした言語的な不安が彼の文学の才能を磨くことになっていった。知らないという自覚が、逆に言語的完成という強迫観念に化したわけである。ここにもある種の悪循環が見られるといえよう。つまり言語においても異邦人である彼は、対象と言語の間に横たわる深淵を探求してやまないのである。

Fabio Morábito, El idioma materno. 2014, Sexto Piso.

コメント

レオネル・リエンラフ『光は垂直に落ちる』

2023-04-12 | 
 旧ブログ(2018年6月21日)を再掲。
 今日は詩。
 詩と言えば世界を騒がせている chatgpt。
 授業が始まる前にとサイン・イン、とりあえずセサル・バジェホの『トリルセ』に収められた77編の詩をすべてインプットしてその前に Interpret the next poem, " としてみたら、機械が健気に紡ぎ出すその珍解釈たちがあまりにも面白くて、急ぎの仕事も寝るのも忘れて読みふけってしまった。たとえば「トリルセ一」は節ごとに丁寧な解釈を付し、大文字箇所の意味づけも立派にこなし、最後はこうまとめている。
Overall, the poem seems to be a plea for people to be more considerate of nature and the environment. The speaker emphasizes the beauty and value of natural resources, and urges people to appreciate and preserve them before it's too late.
 ようするに環境詩だという解釈。自然環境の美しさと価値を称揚しつつ、手遅れにならないうちにそれを守れと読者に訴えている詩、だそうです。今風といえば今風で、現にアメリカの大学などにいそうな若手研究者の論考にも似ている。
 敢えて評価するなら「間違い」とは言えないが「勘違い」である。
 ただ、あくまでただの解釈であって、その解釈そのものが大言語モデルとまではいかずとも、研究コミュニティという特定の集合的言論モデルで形成されてきた歴史的実体である以上、勘違いという評価を下すのもコミュニティへの帰属を許された人間による権力行使に過ぎないのであって、やがてそういう力を行使していた我々が死に絶え、IA(人工知能)とユーザーだけで形成された大言語モデルが世界を覆いつくしたとき、詩はいまよりかえって解放されると考えることもできるだろうか。
 ボルヘスの世界が現実化しつつある。
 スペイン語圏でも自分の文体をIAに学習させて小説を書かせたら完全なセサル・アイラになったとかいう笑い話が早くも(100ページを越えたら無理やり終わらせるという潔さがIAに通じる?)。文学賞応募でもIA原稿が急増中とかで、まだまだ予断を許さない状況ではあるが、過去にいろいろ残念な小説をスペイン語で読んできた身としては「それでよくなるならIAでもなんでも使ってみてはどうでしょう?」と言いたくもなったり。
 それで、教室では、どうするか。
 それはまだよくわかっていないというのが私の本音。
 まずは自分も機械に慣れてみるしかないでしょうかね。

レオネル・リエンラフは1969年生まれの詩人。国籍はチリだが母語はマプーチェ語で、まずマプーチェ語でつくった(書くというよりつくるといったほうがいいのかもしれない)詩をときどきスペイン語にも自分で翻訳していると言う。大手の、といってもスぺイン語圏の出版はなんでもかんでもランダムハウス傘下だが、比較的知られているルメンから出たこの本の存在を、この春にセルヒオ・パラから聞いた。
 ちょうど同じ世代ということもあり、声がよく聞こえてくると思う。
 ただし左のページにあるマプーチェ語はさっぱり分からない。
 ときたま自身のイラストまで添えてある自由な詩集。
左がマプーチェ語、右がスペイン語。下はそれぞれの手稿である。この変な詩を敢えて訳すと
  カイカイは
  海を背負う
  トレントレンは背が延びる
  花の咲く丘で
  カイカイが一息ついた
  カイカイの背中を
  海の水が冷やす

となるが、これだと分からんよ、と編集者が助言したのだろうか、さらに意味不明のイラストが添えてある。よく見ると、トレントレンというのは、どうもアンデスを指すようである。でもカイカイは蛇みたいで、こいつが海をせたろうて、陸に上がってくる。分からん、と思ってちょっと検索したら、
こういう神話がもとになっているらしかった。それによるとカイカイは海の大蛇で、カイカイ~(背中がかゆいのか?)と叫ぶ。こいつが暴れて人間は山に避難した。すると山のなかからトレントレン~と別の蛇が叫んで躍り出し、海の大蛇をやっつけた。こうして人間は平和な暮らしに戻った。
 海の大蛇カイカイとは海底地震と津波をイメージしているのだろう。いっぽう山の大蛇トレントレンはアンデスの火山あたりがイメージされているのかもしれない。アンデスは、命の源である水を人間に与え、神性を帯びている。いっぽうの海は災厄をもたらす恐怖の源なのだろうか。
 でもこの詩に怪物大戦争という物語は感じない。
 あとマプーチェ語のほうは手稿がトレントレンなのに活字はシェグシェグ。
 分からん…。けれど、なんとなく、いい。
 チリ先住民の英雄ラウタロも詩になっている。
  冷たい水を飲みながら
  ラウタロが山裾を歩く
  山々に向け吠えながら
  戦士たちを呼び集める
  ラウタロの魂が
  僕の心臓のそばを歩き
  僕の目と耳を通して
  毎朝呼びかけてくる
  ラウタロが僕を迎えに来る
  ラウタロが人々を迎えに来る
  魂と歌を武器に
  戦いに来る
  ラウタロよ
  君の魂は
  この地を今も歩いている

ラウタロを詠んだ詩はどれもこうした力強いものが多い。チリ人を高揚させる人間なのである。ネルーダもラウタロを詩にしているが、ネルーダの場合はアロンソ・デ・エルシーリャの叙事詩『ラ・アラウカーナ』に影響を受けている。ペドロ・デ・バルディビアの馬方として働いた後、仲間の元へ戻り、スペイン式の騎馬戦術を伝えたとされる英雄。
 私がこれからの10年でなんとか調べたいと思っている、先住民語からスペイン語文学への越境、その貴重なサンプルを発見したということもあるが、そんなことより詩として素晴らしい。ネルーダが生きていたらきっと羨むであろう素朴さと、なによりも自然との一体感が美しい。
 本人がこのアンソロジーを紹介した映像でマプーチェ語も聞ける。
 このマプーチェ語の詩でもラウタロに触れている。

Leonel Lienlaf, La luz cae vertical. Antología bilingüe. 2018, Lumen.


コメント

ボーダーカントス

2020-07-17 | 
 リチャード・ミズラック、ギジェルモ・ガリンドの『ボーダーカントス』、先日NHKのBSで特集されていたのでご存じの方もおられると思うが、実際の本も素敵である。ミズラックは米国の写真家、過去20年以上におよぶこのプロジェクトでメキシコとのボーダーに残された人間の痕跡を撮り続けてきた。ミズラックのこのいわば「作品」が前半3分の2をしめ、残りの3分の1はメキシコの前衛音楽家ガリンドによる Sonic Border / Frontera Sonora と題された楽器の写真と楽譜と彼自身の文章を収めたパート。ガリンドはボーダーに遺棄された様々な品を工作して誰も見たことがない楽器をつくり、それを用いて演奏を続けてきた。写真、音、詩、文章、これらの総合的な表現をひとつのテーマ、すなわち砂漠のかなたで息絶えた人々の記憶の断片、というものに収れんさせていく。題のカントスはパウンドの影響による。個人的宿命を集団による叙事詩的物語に昇華する。アメリカ大陸の表現者に流れるひとつの血脈がここにも見える。
 ミズラックは様々なプロジェクトを同時進行させている。
 とりわけ50代からこのプロジェクトに本腰を入れ、若いころのファッション界の華やかな写真家としての姿とは真逆の路線に移行していったという。
 50代にいくつかの仕事の柱を並行させ、それを具体的にまとめていくというのは私自身が今の自分に課しているタスクでもあるが、こういう人たちの仕事ぶりを見ていて気付くのはとにかくマメなこと、その継続性、持続力、一種のシツコサである。
 この3~4か月でいくつかのルーティンが狂ってしまい、代わりに別のルーティンがふたつほどできてしまって、おかげで新しい小説が読めずにいる。今年の終わりに「2020年のラテンアメリカ文学を振り返る」仕事とかもらっても、たぶん対応できないのではないだろうか。でも、今年でそういう継続仕事を放棄してしまえば、10年規模の作業工程がすべて無駄になる。それは少し惜しい気も。
 30代には公私ともになにか継続してきたことを断ち切るなんて平気だった。40代はそんなことを考える余裕もなくただ仕事の水に浮かんでいた。いまは自分にシツコサが欲しくなっている。本を前に眼鏡をはずすようになったのと同じく、これもまた歳相応という現象、要するに老いたのだろう。
 ちなみに『ボーダーカントス』はキャプション等の文章部はすべて英語とスペイン語が併用されている。バレリア・ルイセリ『ロスト・チルドレン・アーカイヴ(スペイン語版の題は Desierto sonoro)』と重ねて読むといっそう味わい深いと思うので、いずれ改めて紹介してみたい。
コメント