Crónica de los mudos

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明日から盆休み

2024-08-09 | 天満放浪記
 筑摩書房が運営する『webちくま』という媒体にガルシア・マルケスの『エレンディラ』について寄稿させていただいた。
 サンリオ文庫がこの世からほぼ消滅した後も古本屋で見かけるたびにこのちくま文庫版『エレンディラ』を購入し続けていた結果、私の研究室にはエレンディラだけで12冊もあることが分かった。マルケスを読みたいという学生がいたらエレンディラを渡すということを長年続けてきたが、今年は『百年の孤独』が文庫化されたので、もうそういうインフラ整備も不要かもしれない。うちは外国語学部なので、翻訳があっても名作の原典に当たるという作業に学生さんが平気で付き合ってくれる。今年はゼミで『百年の孤独』を読んでいて、このあいだアウレリアーノが死にかけて助かるところまで読み終えたので、後期はレメディオスが飛んでいくあたりから読み進めることになろうか。
 近ごろマルケスやボルヘスのような準古典は遅読、スローリーディングでいいと思い始めている。ボルヘスは翻訳をするつもりで扱っていけばいいと思い、今シーズンは「トロン、ウクバル、オルビス・テルティウス」と「分岐する小道の庭」の私家版が出来上がったので学生さんと共有した。マルケスは翻訳というところまでの時間はないが『百年の孤独」の1断章を1週間で、と決めると、結果的に水曜の午後は近所のサテンでブエンディーアの人々と過ごすことになり、その読み方がいまの私には向いていることが分かった。
 といっても、そんなのんびりしているわけにもいかず、いちおう卒論絡みでお付き合いせねばならない書物が複数あって、それがまた、どれもこれも長い。667ページ(エンリケス)、590ページ(フエンテス)、490ページ(アレナス)、さらにはロサリオ・カステジャーノスとか、いま読んでいるマルガリータ・ガルシア・ロバーヨだとか、ちょっと全部は無理目なので選択集中して切り抜けるしかない。
 そもそも学外でやらねばならない仕事が少なくとも四つはあり、それをこの夏の複数ある時間線のどこかにいる私がやることにはなっているのだが、こう毎日暑いと自信がなくなってきた。昔は根拠のない「一カ月後の自分に依頼」ということが割と実現していたのだが、コロナ禍の数年間でその種の未来業務自己委託体制が完全に破綻し、その原因は怠惰と老化と無能に他ならないわけであって、いまできることをいまする、という風に考え直さないと、そのうち「この仕事は死後の自分に託す」とかメルキアデスみたいなことを言い出しかねない。
 ところでメディアはパリの運動会で盛り上がっているようだ。
 私は昔からアマチュアスポーツがやや苦手で、あの必死感というか、やみくもな情熱とそれと裏腹の負けたら世界が終わるという悲壮感が見ていてつらい。なので基本は見ないのだが、ニュースがそれ一色なのでこわごわ覗くと、あ~、やっぱりよせばよかった……の連続である。
 アマチュアスポーツなんだし、勝ったってプライド以外に得られるものはそんなにないのだから、そこまで強欲に勝ちにこだわるのではなく、たとえば地力では勝てるのに敢えて二位の選手に勝ちを譲るのが暗黙のマナー、とかいう風になれば多少は面白いかもしれないし、五輪が世界平和に貢献できるかもしれない。徒競走もゴール前で「どうぞ」と我先に譲り合う。日本人の奥ゆかしさが美談として世界で語られるかもしれない。
 いや、そう簡単にはいかないかも。
 今度はまさにそこで競争が生じ、お先にどうぞ、いやいや、あなたこそお先にどうぞ、だって私の方が奥ゆかしいですよ、いやいや、こっちのほうが遠慮深いんじゃ、なめんなよ、はよ行けや、うるさいわ、先に譲ったったんが分からんのか、ボケ! ファック! ミエルダ!とかなって、今度は「譲り合いを競い合う」みたいなことが始まってしまうのかもしれない、負けず嫌いの人たちのあいだで。
 私が負けず嫌いの人たちが生理的に苦手なのは、おそらく自分が負け犬根性に染まっているからだろう。
 それはよくない。
 50代のオジサンが「いやー、もう、人生疲れたんで、皆さん、お先にどうぞって感じっすよね~」とかへらへらしているから日本はこんなになった。給料も上がらんのに物価は上がる。気温も上がる。南海トラフも動く。少子高齢化もクマ出没も自民一党独裁も電力不足も地球上のあらゆる紛争も、そういうやる気のないオジサン、勝つことや成功することを放棄してただ成り行きに任せて無為享楽の巷を生きる大バカ者たちのせいである。
 五輪というのは人にそういう自己反省を迫る機会なのだと思って、研鑽を積んだスポーツマンたちの肢体に素直に目を凝らせばよい。
 知らんけど。
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