Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

グアダラハラ国際ブックフェア(5)

2019-12-22 | 出版社
スペイン人が多かったホテルの朝食、7時過ぎにはパンが売り切れてしまい、豆と肉系しかなくなる。朝から肉というのも悪くはない。私は日本でも朝に炭水化物を食べなくなって久しいので、これくらいのほうがかえって楽。
私は文学書のところばかり回っていたわけだが、会場内のかなりを占めていたのが子ども向けの本。絵本、児童書、教科書、教育関係の専門書、大学など各種教育機関の出店など。自然と先生と思しき人たちの姿も目立つ。それと、こわくてあまり足を踏み入れなかったが、宗教書関係のエリアも広かった。スペイン語圏はカトリックの牙城、くわえて中米にはプロテスタント系や新興宗教の進出もめざましい。あれらも立派な出版文化でしょうから。

ボローニャ絵本原画展で知られるスペインのSMももとは教育系の書物を専門にしていたのだとか。絵本と児童書は、つくりてと翻訳家などの受けてが顔を突き合わせ、時間をかけて新しいビジネスを立ち上げてゆく。ここに実際に来て話をすることがとても大切なのだそう。色味についてもネット上で見るのと実際に見て触れるのとでは大違いなのだそうだ。文学作品は紙で読もうとアイパッドで読もうとまったく変わらない。絵本はそういうわけにはいかない。
同じく絵本の老舗エデルビーベスは19世紀末にカタルーニャで創立された。やはりこういう企業のブースはお洒落で、なかで過ごしているだけで幸福な気持ちになれる。いてはる人種の雰囲気も文学書ブースのそれとは微妙に違う。もふもふのウサちゃんをまじめに語れる人たちの世界である。
いまやハポンが最先端なのは料理とこれだけになってしまったコミックのブース。いてはる人種の香りは世界共通でした。メキシコもチリも女子が漫画のコスプレを街中で平気でしているのに驚く。ただ、翻訳本のなかみはまだまだお粗末で、この分野については翻訳ではなく自力でコミックを描くスペイン人やメキシコ人が大勢現れ、地元の子どもたちがゴクウやセーラールナよりそっちを愛し始めたときにはじめて立派な文化産業となるだろう。
地元ハリスコ州の古書店が軒を連ねるエリア。わりとよかったです。若いころはリマやブエノスアイレスのこういう場所で本の価値を学んだ。大学よりも文学史よりも何倍も多くを教わった。店構えにも、本にも、店主たちにも、奇々怪々な客たちにも。こういう空間もなくなってほしくはない。
メキシコの老舗ポルーア。権威主義とはこういうふうにして形にするのかを教えてくれる構造のブース。警官みたいに台に乗った警備員が入り口に立っていて、入れるもんなら入ってみろ、という感じ? 子どもたちであふれかえった最後の日は、ここも所狭しと床に陣取ったガキどもがポテチを食いまくってましたけれど。

メキシコといえばガンディー書店。コヨアカンの店を訪れたのはもう何年前になるだろう。ちなみに、急増ブースとはいえ、ここの選書はあまりにお粗末でした。平積み書棚のところどころにお守りみたいにガルシア=マルケスを置くのはいくらなんでも勘弁してもらいたい。
知らなかったのがコロフォンという第三の出版グループの存在。各種の校訂版全集で知られるガラクシア・グーテンブルク、私も好きなアカンティラード、新興のパヒナス・デ・エスプーマ、翻訳も含めた詩で知られるシルエラなどが集まっている。もともと自らも編集出版事業を起こしていたペンギンランダムハウスやプラネタとは異なり、メキシコを拠点とする配給会社というか、本の流通に特化した企業が、ヨーロッパに拠点を持ついくつかのインデペンデント系と契約を結んでいるということのようだ。今年東京でご一緒する機会のあったホルヘ・カリオン『アマゾンに抗って』を大々的に宣伝していた。
ついでにその本のプレゼンにも参加してきた。左にいるのはメキシコの小説家アントニオ・オルトゥーニョ。なにかと閉鎖的なスぺイン人作家のなかにあって彼だけは例外だとべた褒めでした。私はカリオンのことをSF作家としてひそかに尊敬していたのだが、この夜の話によると、子どもが生まれてからは実験的作風には興味がなくなり、むしろこの目で見たことを地道に書いていきたい気持ちになったのだ、ということ。別にSFでもいいのに。
ある日のディナー。ホテルのステーキ。トルティーヤが必ず添えられている。ビールはネグラ・モデロ。テカテのアンバルというエールのようなタイプがうまくて、今回の旅では(夜だけですが)ビールをよく飲んだ気がする。1年分くらいか。

会場内にはビールのブースも。いい国です。

会期の終盤にはマリアッチが登場。もっとも優れた展示をしたブースを祝福してまわる。お祭り気分がいやがうえにも。あくまでビジネスなんですが。
メキシコのインデペンデント、アルマディーアのブース。ここでは前々から欲しかったベロニカ・ゲルベル・ビセッチ『ひっこし』を購入、運よく彼女の最新作も購入することができた。『引っ越し』は表現手段を紙から別の場所へ移した異形の作家たちを描く異色のエッセイ、最新作『ラ・コンパニーア』は廃墟の写真と既存文学テクストのコラージュのみで構成されたアヴァンギャルドな本のよう。近いうちに紹介します。
ある夜のイベント。左からフリアン・ヘルベルト(メキシコ)、ハビエル・セルカス(スペイン)、レイラ・ゲリエーロ(アルゼンチン)、フェルナンダ・アンプエロ(エクアドル)、そして司会のホルヘ・ボルピ(メキシコ)。テーマは「フィクションとノンフィクション」、なかなか面白いパネルだった。ヘルベルトは白血病で亡くなった元娼婦の母をめぐる一種のオートフィクション『墓の歌』を書いている。セルカスには82年のクーデターを描いた『瞬間の解剖学』、実在した収容所体験詐称者をモデルにした『なりすまし』といった一種の実録物がある。ゲリエーロはジャーナリストあがりのノンフィクションライター。近ごろ頭角を現してきたアンプエロだけが新人格にあたるが、彼女ももともとジャーナリストでシリア内戦のかなりディープなところに潜り込んでいくつも修羅場を見てきたらしい。逆にそのことを書くのではなく、いまはエクアドルのローカルな場所にシリアと同じ状況を見ているのだという。それにしても、ボルピって、ほんとに秀才君ですね。書いたものから想像していた通りの、日本でいう、いわゆる東大君。そういう頭のいい人間を嫌みなくさらりと演じきれるのが真の知性なのでしょう。ちなみに私は来年にかけてゲリエーロをここで紹介していきます。今年出たアルゲリッチの伝記がものすごくよいらしく、来春に読む予定。読む予定の本、多すぎますな~。
これは最後の日にホテルの近所を散策して見つけたシーフードレストランのランチ。肉っけ以外の食べ物が懐かしくてつい。以上、グアダラハラ国際ブックフェアの報告でした。
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グアダラハラ国際ブックフェア(4)

2019-12-21 | 出版社
セクストピソは2002年にメキシコ市で立ち上げられた。いまなおエディトリアル・インデペンディエンテを名乗る。創立以来、あまり知られていない古典作品の復刊と、優れた現代世界文学の翻訳、そしてイスパノアメリカの若手作家たちの発掘に努めてきた。文学にとどまらず哲学、現代社会の諸問題に関係する本も、また近年はグラフィックノベルや子供向けの本も出してきた。そのセクストピソのブースにはラテンアメリカやスペインの同じくインデペンデント系の出版社が棚を並べている。このブース全体がペンギンランダムハウスにもプラネタにも属さない独自路線を歩む各国のマイナー出版社の寄せ集めなのだ。
スペインからは翻訳に強いノルディカ、ペピータス・デ・カラバサ、日本のコミックに特化しているサトリなど。他にアルゼンチンのエテルナ・カデンシア、ペルーのエストゥルエンドムド、チリのウエデルスなどが棚を並べていた。ここにはバルガス=リョサもいなければガルシア=マルケスもいない。いるのは大きく三種類。ひとつは彼らが選び出した分野を問わない准古典作品。看板の似顔絵でその概要を知ることができる。ふたつめは各国の海のものとも山のものとも知れぬ若手作家たち。そしてみっつめはやはり彼らが選び出した現代世界文学の翻訳である。
すぐそばの休憩所で酒が飲めた。看板には作家の名前のほかにいくつかのキーワードが掲げられている。文学、詩、グラフィックノベル、子ども時代(わざとスペルを間違えている)、音楽、哲学、フェミニズム。ここにはペンギンランダムハウスのような売れ筋本や検索数の多い本を並べるという発想はない。集まった人々が自分の好きな本、売りたい本を並べている。大手のブースが大型チェーン店の陳列に似ているとすれば、こちらは街場のセレクトショップのそれに近い。
アナグラマと並んで翻訳に強い(そして目の肥えた)ノルディカの棚の上にはエミリ・ディキンソンなどそれにふさわしい外国語文学の作家たちが。ミルチャ・カルタレスクもスペイン語にきちんと翻訳紹介され、非常によく読まれている(この場合は読者限定ですが)作家の代表。日本での翻訳のそれと少しずれがあるかもしれない。ログローニョにあるペピータス・デ・カラバサもセクストピソと同じく古典翻訳とスペイン語現代作家紹介を二本立てにする。パスカル・キニャールとメキシコの誰も知らない若手作家を同列に並べるというのが、この人たちの基本姿勢なのである。
ハリポタとノーベル賞作家とベストセラーが中心にある大手とは異なり、ここでは詩を含む様々な知の系譜が翻訳という形で中心にいて、その周囲をスペイン語圏の名も知れぬマイナー作家が囲んでいるようだ。周縁にいる作家たちを二軍、三軍とみなし、場合によってはワゴンセールのような売り方までする大手とは世界の見方が違う。中心と周縁の見立てが違うのである。こうした見立ては、文学など様々な書物と一定の関係を築いてきた人間のもつ世界像と重なりやすい。アルトゥーロ・ペレス=レベルテの山を前にして違和感を覚える人間がホッとできる空間といえる。
ブース内でもっとも幅を占めているのはもちろんセクストピソ。翻訳もので人気があるのはエトガル・ケレットとアンジェラ・カーターだった。ちなみに私は先月エトガル・ケレットの話を元町映画館で聞いてきた。こんなところでスペイン語を介し再会しようとは。メキシコの重鎮作家からはマルゴ・グランツ、日本にはまだ届いていない(ほうが圧倒的に多いのでいまさら驚くには足らないが)メキシコの重要な女性作家のひとりで、クリスティーナ・リベラ=ガルサと並び体系的な紹介が急務ではないでしょうか。私がやってもいいけれどたぶん時間的に無理、若い方でどなたかいかが。さて、そんな人気作家やベテラン作家にまじって、どこの馬の骨かというメキシコ人作家が何人か。メキシコ北部文学のカルロス・ベラスケス、軽妙なエッセイで知られるビビアン・アベンシュシャン。
ここにはいまやセクストピソの顔ともいってもいいバレリア・ルイセリ、メキシコの女性作家によるエッセイアンソロジー『津波』を編纂したガブリエラ・ハウレギ、そして今回のフェアで私が発掘したお宝ブレンダ・ナバーロらの顔が。女性作家が多いのもセクストピソの大きな特徴である。フエンテスもルルフォもビジョーロもボルピもいないもうひとつのメキシコ文学がここにある。
翻訳ではウィリアム・ギャディスが一通り揃っていることに驚いた。このブースに集まっているマイナー出版社のHPを見ていると、どこも翻訳者を大切にしていることがわかる。セクストピソを運営するのは作家でもあるエドゥアルド・ラバサ以下四名の編集主幹と、スペイン支部も合わせた34人の編集者たち、彼らは出版にかかわるすべての人々と直接的で家族的な関係を維持してきたという。作家、翻訳者、学者、そして印刷と装丁に携わるあらゆる関係者、そしてなによりも読者。単なるビジネスマインドではない、文化の時間的継続性を目指す人々の抱くある種の熱いパッションが、これらの書物をスペイン語圏に送り出している。
日本でもその分厚さで話題になった『JR』はスペイン語発音で『ホタ・エレ』。スペイン語版もやっぱり凶器並みの分厚さでした。
セクストピソのエースと4番、ルイセリとダニエル・サルダーニャ・パリス、やはり目立つ場所に。ルイセリの英語最新作『ロスト・チルドレン・アーカイヴ』のスペイン語訳『音響く砂漠』はこの二人が手掛けている。どうやって翻訳したのか尋ねてみたいところ。5日間、私はこのブースで、かなり長い時間を過ごした。おかげでメキシコ現代文学の見え方が大きく変わってきた。チリやペルーに関して長い時間をかけて築くことができた視野をほんの数日で得ることができたような気がする。セクストピソの本はアマゾンで買いにくい。プラネタ系の本などよりずっと高いこともある。なによりも検索数や発売部数でその価値がわからない。こちらに来てもぱっと見ではなかみの評価がし辛い。が、考えてみれば、自分は昔からそうだった。書店に通い始めたのは甲子園球場横のアイビー書店、目当ては早川書房のSFだったが、あのころから本のなかみも分からず、ただ勘と本能を頼りにいいものを探り当ててきた。スペイン語圏のインデペンデント系出版社のラインアップに私が惹かれるのは、きっと「そこに宝があるはず」という確信がもてるから。それを再確認できただけでもグアダラハラへ来たかいがありました。
明日は最後にその他のブースをさらりと。
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グアダラハラ国際ブックフェア(3)

2019-12-20 | 出版社
スダメリカーナ、プラサ・アンド・ハネス、アルファグアラ、アギラール、ルメン、グリハルボ、タウルス、ベルガラ、スペイン語圏の名だたる出版社を傘下に収めるアメリカのペンギン・ランダムハウスはまさしく現代の書籍世界に一大帝国を築いている。スペイン語圏に留まるプラネタとは異なり、米国をはじめとする英語世界をも支配しているPRH、そのブースは実に多国籍だ。いわゆる世界文学、そして世界的なベストセラーのなかにスペイン語文学がどういう風に位置づけられているのかを知るには絶好のブース。
なかには堆い山がいくつか点在する。なかでもいちばん目立つところにそびえるのがハリポタ山。わずか20年あまりのあいだに世界中で読まれる准古典作品となったこのシリーズはもちろんスペイン語圏でも大人気。私がふだん相手にしている大学生も、二人に一人は読んでいるのではなかろうか。文学というものを大学のような公共空間で語ることが難しくなったいまでも、ハリポタに言及したとたん学生たちの表情が変わる。若者を書物の世界に引き寄せたという意味で、やはりこのシリーズには感謝してもしきれない。
続けて目を引くのは「もっとも検索されている本」の山。出版側や書店側が売りたいものを並べる棚は昔からあったが、今は検索数の多さが販売時の大きなポイントになってくる。売る側の立場からすれば、いかにして検索したくなる本をつくるかが重要、ということになるだろう。こうして本を定期的に買う層の潜在的欲望に迎合する書籍が各国で増加してゆくことになる。スペイン語圏でも自己啓発本は毎年山のように出ているし、日本の書店から不思議と消えることのない醜悪な隣国ヘイト本もそれなりに分厚い購入層があるということだろう(想像するだけでうんざりですが)。
スペイン語作家の山ではマリオ・バルガス=リョサ。フェアにも来場、スペイン語文学の生ける伝説が書く本は実はベストセラーでもある。バルガス=リョサはさほど前衛的で難解な作風ではなく、少し頑張れば誰でも読める。ボルヘスがこのような山になることはないだろうが、バルガス=リョサならハリポタ山の横でそびえる資格をもつのかもしれない。手前に積み重ねられているのはノア=ハラリの著作。世界的に影響力のある発言者の著書を、スペイン語圏ドメスティックで発言力のある文学者の山に並べる。この世界戦略というか、書物の世界の見取り図がPRHならでは。
バルガス=リョサの隣に山を作るのは、本人曰くラテンアメリカ文学を代表する偉大な作家であるこの人。ハリポタ、バルガス=リョサ、コエーリョ。不思議なラインアップだが、共通点は、いずれの作家も日本語で読める、すなわちいずれも世界文学の四番打者級の作家であるという点。作品の質は問わない。誰も読みはしないジョイスやプルーストではなく、数百万のツイッターフォロワーがいる自分こそが世界文学なのだとコエーリョが豪語するのも、無理はないこと。いっぽうバルガス=リョサがいくらコエーリョのような文学を「ごみ文学」と罵りさげすんだところで、PRHの市場感覚では「ごみだろうが宝石だろうが売れればいい」ということになる。
スペイン人作家で山になっているのはこのアルトゥーロ・ペレス・レベルテ。やはり日本語でも読めますね。プラネタの看板作家アルムデーナ・グランデスがスペイン語圏ドメスティックにとどまるのに対し、英語や日本語になって世界で売れるペレス=レベルテこそが現代スペイン文学唯一の世界文学化した作家だという実態に「なんだかな~」という言いようのない不満感が湧いてくる。ペレス=レベルテの良い読者ではないのでなんとも言いようがないのだけれど、ラファエル・チルベスなど世界化しそうにはないが非常に優れた作家を愛好してきた身としては「なぜこの山が?」と脱力してしまうのですね。
コエーリョはブラジル人なので厳密な意味でスペイン語の世界の人ではないが、スペインとラテンアメリカというくくりでPRHが看板にしているのはこの三人。この三人がハリポタ以外にたとえばこういう山と隣接している。
ジョージ・R・R・マーティンとSFの山。スペイン語へのSFの翻訳はエルサルバドルの製造業よりも遅れていて、いまだにアシモフが今年の新刊書のように山積みにされている。ほんと、見るたびに、腰砕けそうになりますね。テッド・チャンら中国系の作家たちの本がかろうじて翻訳され始めているが、イーガンやミエヴィルなどは誰も知らない。日本人に生まれて、早川書房のある国に生まれて、つくづくよかったなあ、と思います。
スティーブン・キング山。こういうメジャー級を中心にした世界文学最前線のなかにアルファグアラのような出版社が位置している。少し疲れてきたのでアルファグアラの今年の本でも見ようと思ってラテンアメリカ文学のコーナーを目指してみたのだが、歩けども歩けどもそのような棚がない。チリの書店などにある「現代イスパノアメリカ」という札が見つからない。ここにあるのは「世界文学とそれ以外」なのである。たとえばロベルト・ボラーニョはアルファグアラが元のアナグラマからすべての権利を買い取り、いわゆる完全移籍が成立した。お洒落なアナグラマの初版は文庫だけに縮小され、ボラーニョの作品はアルファグアラからどんどん新装版が出ている。が、その本はどこにも見当たらない。ボラーニョには全世界にコアなファンがいるが、それはペレス=レベルテの読者と質が違う。ボラーニョは長期的に世界文学化するとは思うが、おそらくコエーリョはボラーニョ文学を自分と同列にはみなさないだろう。ボラーニョはPRHのパスナッソス山に居場所をもたない。現に、このブース内でボラーニョの本を見つけることはできなかった(どこかにあったのだとは思うど)。
PRHのブースにある看板は傘下の出版社の名前。ボラーニョはおそらくリテラトゥーラ・ランダムハウスというレーベルの棚にあるのだろう。上には売れ筋文学の表紙がディスプレイされている。ウンベルト・エーコ、ルシア・ベルリンらとならんで、メキシコの売れ筋ソフィア・セゴビアの『みつばちのささやき』が。この小説はとても売れているので、私の大阪の本棚にもいちおう置いてある。その横のフェルナンダ・メルチョール『ハリケーンシーズン』も。現代メキシコ文学を語るうえで欠かせないメルチョールの代表作は来春に読む予定だが、おそらくセゴビアは読まないだろう。なぜかは説明しにくいが、この種の本が私の積読リストに入ることは今後もないと思う。おそらく仕事としては難解なメルチョールより適度に泣かせそうなセゴビアの小説のほうが手堅いと思う。が、そういう風な読み方、お付き合いのし方はあまりにもつまらない。私はバイヤーとして「そこそこ売れそうな商品」を求めているのではない。では何を求めているのだろうか。自分では説明しにくいのだが、その答えは少なくともPRHのブースにはないだろう。
というわけで明日はいよいよメキシコを代表するインデペンデント系のセクスト・ピソのブースへ行ってみることに。
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グアダラハラ国際ブックフェア(2)

2019-12-19 | 出版社
ターミネーターの新作、主人公はメキシコ人(演じる女優はコロンビア出身)。襲ってくる気持ち悪い分離型ロボットもメキシコ系の役者が演じてスペイン語を話す。第一作の主演ふたりが嫌みなく枯れたほどよい感じのジジババぶりを見せてくれたが、それよりも主人公を守りぬくサイボーグ役のマッケンジー・デイヴィスさんが美しすぎて。『ブレードランナー2049』でもサイボーグでした。自分が男のような体格をしたなんとなくニュートラルな女に生理的に惹かれるらしい、ということを半世紀かけてようやく知った昨日。
さて、グアダラハラ国際ブックフェア、版権ビジネスがほうぼうで。いっぽう巨大なブースを構えてその存在感をアピールする二つのグループがある。まずはプラネタ・グループ。もとは1949年にバルセロナで誕生した出版社だった。1980年代から拡張しはじめ、セッシュ・バラル、エスパサ・カルペ、エメセー、アリエル、トゥスケッツ等有力出版社を次々傘下に収め、ディズニーやマーベルコミックのスペイン語圏における版権も独占、近年はテレビやオンラインビジネスにも触手を伸ばすなど、スペイン語圏における書物を中心とした情報配信ビジネスの主役となって今に至る。
出版ブランドとしてなにか特徴があるかといえば、なにもないと言ったほうがいいかもしれない。末端消費者の側からするとセッシュ・バラルとかトゥスケッツとか傘下出版社のほうがブランドとしての格を帯びているような気もするし、プラネタから今度出る小説、とかいう情報に接することもまずない。しかしながら、南米の一国内でのみしか通用しないマイナー出版社よりも、プラネタ・グループのいずれかで刊行されたほうが商品としての価値は上がる。このグループはアマゾンやオンラインゲームなどのグローバルカルチャービジネスが生み出したひとつの帰結なのだ。
たとえばトゥスケッツのブースに入ってみると、スペイン語圏におけるグローバルブランド、というよりスペイン語圏諸国を市場にした文学ビジネスの看板商品が見えてくる。それは英訳されて成立する世界文学におけるスペイン語文学の看板商品とは少しずれていることもわかる。ガルシア=マルケスはそのどちらにもいる。いっぽう、上の目立つ場所に掲げられているルイス・ランデーロなどは、アメリカの少々文学に明るい読者でも知らない作家だろう。もちろん日本に3千人いると言われるコアなガイブン読者の皆さんもご存じなかろう。グローバル市場にも等級が存在する。プラネタが支配しているのは基本的にはスペイン語の読者なのである。
ここに並んでいるのがプラネタの文学における看板商品である。いちばん上の四冊は世界のムラカミ。二段目の右はブラッドベリの『火星年代記』。左の下から二つ目はシリ・ハストヴェットの『未来の記憶』。こうした翻訳で世界文学をスペイン語読者に配信するのもプラネタが重視するビジネスのひとつだ。いっぽうスペイン語の作家だが、世界文学化していそうでしていない微妙な人たちが並ぶ。ルイス・ランデーロ、アントニオ・ムニョス・モリーナ、いずれもスペインの優れた作家だが、スペイン現代文学全般がそうであるように、英語世界でもそれ以外でも読者を得るのに成功しているとはいいがたい。メキシコを代表する現代作家のひとりエレナ・ポニアトウスカに関しても同じことがいえる。そして一番下に並んでいるのはbordesという新しいシリーズ。
いったいなにが「縁(ボルデ)」なのかブースの女性に尋ねてみると、各国規模ではそこそこ知られているが、スペイン語圏全域には届いていないという、比較的若い世代の作家たちの本、特に、いったん刊行されたあと、しばらく忘れられていた作品を集めてひとつのシリーズとしてみたのだ、という趣旨のご回答だった。平たく言えばワゴンセール、たたき売りである。思わず「要するに崖っぷち(Quiere decir que son los que están al borde de la derrota irremediable)」という意味ですね、と合いの手を入れそうになった。現に、かなり前に読んだコロンビアのマリオ・メンドーサなど「その後なんとなくぱっとしない作家たち」の名前がいくつも見つかるではないか。そして私が今年読んだシモン・ソト『畜殺場フランクリン』も。
チリの書店で見るときと印象ががらりと変わってくるから不思議である。サンティアゴではほかのチリ人文学に交じって燦然と輝いていた小説が、ここでは何十冊も並べられているにもかかわらず曇って見える。この種の感傷は無意味だと知りつつも、なにか自分にとって大切なものが商品価値によって冒涜されているような、わけもなく悲しい気持ちにさせられるのだ。プラネタが商品としての文学につけている序列は、その頂点に村上春樹などの翻訳された非スペイン語文学があり、その下にスペイン語の小説を読む習慣をもつ読者が好んで買うストーリーテラーがいて、最下層にシモンのような「一作いいものを書いたがその後どうなるかはわからない田舎者たち」がいるようだ。こういう序列はウエデルスやセクスト・ピソのような国内レベルに留まるマイナー出版社とは無縁のものである。
たとえばトゥスケッツが誇る人気のストーリーテラーのひとりがアルムデーナ・グランデスだが、果たしてこの人の名を知る日本の読者がひとりでもいるだろうか? 翻訳がない以上は難しいだろう。英語圏でもさほど知られているとはい言えない状況である。彼女はスペイン語ドメスティックな人気作家なのである。ムラカミを世界文学とした場合に司馬遼太郎が日本語ドメスティックな人気作家にとどまっている状況と少し似ている。なにしろスペイン語圏は人口が多い。読者人口もそれなりにいる。そこでの消費をある程度見込めるならビジネスとしては成立する。コアなオジサン読者のポケットマネーで司馬ビジネスが今なお成立しているように。私はアマゾン・スペインで毎週売れ筋本をチェックしているが、そこにはスペイン語圏ドメスティック人気作家が何人もいることがわかる。彼らが文学史に記載される可能性は低いし、日本で翻訳が出るかもわからない(たぶん無理だろう)。私が優先して追いかけている各国レベルのマイナー作家と、ガルシア=マルケスら世界文学、その中間地点にいる、このスペイン語圏ドメスティックな人気作家、日本の大阪という辺境にいる非スペイン語話者の私にしてみたら、むしろこの人たちのほうが「縁」にいるような気がしてならない。
日本でも翻訳が出たレオナルド・パドゥラもこのような記号によってストーリーテリングの上手な作家として商品化されてゆく。私たちが個別に手に取りページをめくり、それなりに対話をし、ときには充実した時間を味わい、ときには不毛な時間を過ごしたと嘆き、何年かのちに時間をかけて再読することで前には得られなかった興奮を味わったりする相手、すなわち私たちが向き合う愛すべき小説たちが、こういう場所では猛烈な勢いでタグ付けされている。それは嘆かわしい事態というよりは、書物のもつ商品性が過剰に見えてくるだけの話であり、本の中身とは関係のないこととして放っておけばよいだけなのかもしれない。ただ、こういう現状を知らないままに、完全な末端消費者としてエージェントの売りつけてくる新商品だけを価値あるものと信じて受け取り続けていると、そのうち必ず目も腐ってくる。私はアマゾン・スペインのヘヴィーユーザーだが、ネットは私の嗜好を巧みに感知して次々に「あなたにおすすめの作品」を突き付けてくる。それが当たっていることもあるが、それにのみ従って読む本を選別していけば、いずれ私の目も腐ってしまうだろう。たしかにアマゾンも便利なのであるが、やはりセルヒオ・パラのような生身の人間から得られる情報とは比ぶべくもない。プラネタの格付けだけではスペイン語圏文学の全体像、それはおそらく観測する人間によって形を変える星座のようなものだと思うが、それは見えてこないのだ。

明日はペンギンランダムハウスのブースへ。
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グアダラハラ国際ブックフェア(1)

2019-12-18 | 出版社
スペイン語圏で開催される最大規模の本の見本市、グアダラハラ国際ブックフェアに専門家(翻訳者)として参加してきた。会期は11月29日から12月6日まで。
グアダラハラ中心街から車で30分ほどのところにある見本市会場。インテックス大阪によく似た建物で、内部は空調がとてもよく利いていて、食堂もいくつかあってとても快適に過ごせる場所。周囲をホテルが取り囲む。作家たちはヒルトンやシェラトンへ。私の泊まった6千円規模のホテルにはスペイン人やアルゼンチン人が多かった。
なかはとにかく広大。各国の出版社や公的文化機関がブースを出す国際エリアと、スペイン語圏出版社のブースが集まるドメスティックエリアに分かれる。上の写真はその中間ゾーンで、大勢の人々がここを休憩場所にしていた。
グアダラハラ中の学校が生徒たちに参加を促しているらしく、一般参加が可能な時間帯になると子どもたちで会場があふれかえる。特に私の滞在最終日だった土曜は通勤ラッシュ時の山手線みたいな混雑ぶりだった。
国際エリアはこのコロンビアのブースのようにいくつかの出版社が合同でブースを出している。ブース内の従業員で文学に明るい人はそう多くない。私も元々ここでマニアックな情報収集はするつもりはなかった。写真は撮ってこなかったが、キューバのお粗末なブースが愉快である。ちなみにアジアからは韓国と台湾と中国が積極的な売り込みに来ている。特に韓国が小説や絵本の翻訳を中心に積極的な活動をしていた。ハポンは影も形も見えず。詳しい方によると数年前まではブースもあったのだとか。
韓国の現代小説も翻訳がすすんでいる。日本でもよく読まれているこの作品もガンディ書店の「話題の書」平積みの目立つ場所に。こうやって形成されてゆくいわゆる世界文学のなかにムラカミ以外の日本文学はほとんど入ってないのだな、と改めて実感する。クールジャパンとか言って浮かれてるオジサンたちにはどうでもいいことなのだろうけれど。
教育関係で最大の企業サンティジャーナ。ブースも大きい。ここに限らず教育関係書を出している中小の出版社がスペイン語圏にこれだけあるのかと驚いた。メキシコ国内の各種大学出版局なども一堂に集結。このあたりは私の知らない世界である。
メキシコの知的良心、フォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ。私も若いころからずいぶんお世話になってきた。今年で創業85年目を迎える。ここでは使い慣れた研究書たちを訪れて挨拶をしておいた。
21世紀になったら22世紀書店に店名変更するかと思ったらしなかったシグロ・ベインティウノは、ウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノを看板に。彼の Las venas abiertas は岩波文庫の青背のシリーズに入ってもいいのではないかと私は思う。写真の5冊のなかの Los hijos de los días.の翻訳が先ごろ出た。『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(久野量一訳、岩波書店)。久野さん、ご恵贈ありがとうございます。
お昼は会場内の食堂で。タコス三つとハイビスカスジュースのセットで300円程度。人が多いので、だいたい相席になる。メキシコでも相席どうしはスマホを見つめたまま。別にいいんですけど、なんか面白い本あった?くらいの話はしようよ。
今回はほんとにタコスばかり食ってました。こちらは四種もりとオルチャタ。いちおうお仕事なので日中は酒を慎んだが、夜はテキーラばかり飲んでいた。テキーラって焼酎とほぼ同じアルコール、私にとってはお茶のように飲める酒であることが改めて判明。会場内には輸出されていないテキーラを販売するブースもあり、そこのお嬢さんからいろいろなことも教えていただいた。
ハリスコ州は野球も盛ん。地元チームのグッズを売るブースでは謎のオジサンに呼び止められる。イチローとタナカの話でしばらく盛り上がり。その奥のガラス張りのブースがテキーラのお店。
帰りはコンビニへ。
タコスを一個だけ買うことができる。ビールだけでは足りなかったためホテルのバーでテキーラを調達。いい国だなあ。もっと頻繁に来ておくんだった。明日は二大グループのブースを紹介します。

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