Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

レイラ・ゲリエーロ『電話-ある肖像』

2025-03-07 | コノスール
レイラ・ゲリエーロはアルゼンチンの現代作家、どちらかというとジャーナリストと呼ばれがちで文学のカテゴリーに入れてもらえていない印象がある。日本では「ライター」という言葉でくくられている物書きたちに近い立ち位置であろうか。雑誌などに書いた記事をまとめた本も数冊あり、ラテンアメリカの実在した作家や犯罪者の伝記を様々な現役作家に書かせたのを編集した本や、キューバ内外の作家による旅行記をまとめた『岐路に立つキューバ』などもある多彩な人だが、少し長めの伝記ものは2006年のクロニカ、記録として題された『世界の果ての自殺者たち-パタゴニアのある村の記録-』以降、出版サイドからは常に小説であるかのように発表されてきた。最新作で、エルパイス紙で去年の本1位に選出された本書もアナグラマの白いシリーズなので、いちおう小説という建付けである。なので私も分野に関する不毛な議論は忘れてただの小説として読んでみることにする。
(まとめ中…)
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アリア・トラブッコ・セラン『洗って』

2025-03-03 | コノスール
その瞬間、なぜかわたしはサンティアゴへの旅を思い出した。バスのなかのすえたむせかえる空気、テムーコから乗ってきて一晩中目を閉じなかった男の子のことを。大きく黒い、そして同じように悲しくて疲れ切った目。母には島から出ていくなと注意されていた。田舎にいたほうがいい、南部の貧しさのほうがましだ、家政婦になったらやめられない、ほとんど無理なのだと。あれは罠よ、と母は言った。つきが回ってくるのを待って、密かにこう思う、今週こそ出ていこう、来週こそ必ず、今月が最後だって。で、それができないの、リタ、そう母は私に言い聞かせた。出ていくなんて無理なの、もうたくさん、なんてことは絶対に言えないの、もうやめます、疲れましたご主人様、背中が痛いのでもう出ていきます、なんてことは決して言えないの。店で働くのとも畑で芋を拾うのとも違うの。人には見えない仕事なの、そう母は言った。おまけに、ものを盗んだとか、食べ過ぎているとか、同じ洗濯機で自分の服も洗ったとか責められる。そんなことがあってもね、リタ、どうしてもあることが起きるの。好きになっちゃうのよ、分かる? わたしたちはいつだってそうなの、わたしたちはそういう人種なの。だからわたしの言うことを聞いて、出て行かないで。もし行くのなら、絶対に好きになっちゃダメ。自分に命令する人たちを好きになっちゃダメ。あの人たちはあの人たちどうしで好きになるのだから。(182-183)>
 これは物語の後半で、語り手の家政婦エスエラが、押し入ってきた強盗を前にして考えたことである。小説はこのスペイン語では「エンプレアーダ」と言ったり、南米ではしばしば「ムチャチャ(女の子)」と言ったりする住み込み家政婦エステラの独白で構成されている。そしてその独白は、どこかの、おそらく警察署と思しき場所の封鎖された個室で、部屋の外にいるおそらく警官と思しき複数の相手に向かって語られていることが分かってくる。そして冒頭で、このエステラが勤めていた家に住む娘のルシアがプールで死亡し、その死の責任を彼女が問われているという状況も見えてくる。
 といっても見えてくるのはそこまでで、あとはひたすらエステラの内面に付き合うことに。最後は40歳だとあり、くだんの家にいたのは7年だから、最初は33歳だったという設定であろうか。
 エステラはチロエ島の森のなかで母に育てられて大人になった。その母もまたかつては家政婦をしていた経験があり、エステラ自身も一度だけその母が働く家を訪ねたことがある。その母は小説中の現在においてはサーモン養殖場で働いていて、もう家政婦はしていない。
 エステラが働くことになった家には大病院で医者をしているセニョール、そして南部の森林伐採企業の幹部をしているセニョーラがいて、彼女が働き出してすぐにひとり娘のフリアが生まれる。セニョールとセニョーラは家事や育児というものをしない。共働きだということもあるが、南米全般で植民地時代からのスペイン的な伝統がブルジョワ階級の白人には残っていることも確かだろう。私の知り合いは子育ても料理もしている人がいるが、学生時代にお世話になったペルーの白人一家の人々は料理以外の家事全般をしていなかった。それをするのが住み込み家政婦で、ペルーの場合はたいてい地方出身のインディオかメスティソの女性、チリの場合は人種は問わずエステラのような僻地の貧しい人々がそれに該当する。
 やがて母が病気になり、治療費と薬代をねん出するためにクリスマス休暇も取れず、エステラの日々は炊事、洗濯、買い物、そしてフリアの育児に明け暮れていく。やがて彼女は行きつけのスーパー近くにあるガソリンスタンドの授業員と親しくなり、彼になついていた犬を家に密かに呼び入れ、ジャニーと呼ぶようになるが……。
 2010年代初頭のチリが舞台なので、首都では貧富の格差解消を訴えるデモと学生運動が連日のように起きている。もちろんブルジョワで起業家でもあるセニョールとセニョーラはそういうものに批判的であるが、エステラは家と記憶以外の世界には興味を持たない。彼女の世界はすべて眼前の手仕事と、母と過ごしたチロエ島での思い出だけに集約されている。
 すべてが<茶色と黄色>のサンティアゴでエステラは空を見上げることがない。しかし記憶のなかでは母親に木々の見分け方や、花のつき方、それぞれの匂いを教わっていることが分かってくる。ちなみにその木々を伐採する企業で幹部をしているのがセニョーラという皮肉な設定。
 いわゆる「家政婦は見た」的な展開もあって、一例は娘フリアがほとんどネグレクト状態で育てられた結果、次第に病んでいくところだろうか。はっきりとは書いていないが、セニョーラとセニョールはやたらとしつけに厳しいが、娘と接する時間がとても少ない。さらにエステラが間違ったスペイン語をフリアの前で使うと激しく怒る。「あった」「生じた」という意味の動詞、ただしくは hubo というのだがこれをエステラが hubieron と言ったのがきっかけで。私もたまに学生に向かって「そんな変なスペイン語を使うな」と叱責して傷つけているのかも、と思って少し反省しました。フリアは幼稚園にもなじめず、摂食障害気味で、すぐにかんしゃくを起こす。そんな幼い娘にとって「ナナ(乳母)」のエステラはただひとり心を許せる盟友だったはずなのだが……というあたりからの展開は切ない。
 やがて上に引用した強盗事件が起き、エステラは、同じ人種だと思って同情した強盗の一味の青年から「奴隷め」と唾を吐きかけられる。彼女の世界はどんどん狭くなり、自由意志はどんどん目減りしていく。やがてサーモン養殖場での事故で母が亡くなった知らせを受け取ってから、彼女は一言も口を利かなくなる。そして、強盗事件をきっかけに設置した電気フェンスがきっかけで、ある事件が起きる……。
 自分自身ではない他人の生を支える仕事、今風に言えば二十四時間体制のケアワーカーにとっての「世界」というものがいかなる環境であるか、想像を絶するものがあるが、小説はそこに切り込んで、唯一無二の悲しい、慈愛と苦痛に満ちた小さき生を私たちに見せつける。作家のアリア・トラブッコ・セランは1983年生まれのいわゆる「子どもたちの文学」世代に当たる人で、前作『引き算』は独裁時代を知らない子供たちが親世代の経験を想像するロードノベルだった。また2019年には実在する女性の殺人犯たちに題材をとったルポ『人殺しの女たち』も著していて、本人はこちらも小説だと述べているそうなので、いちおう読んでみることにしたいと思う。犬のエピソードはコロンビアのピラール・キンタナの『雌犬」を、貧困女性のモノローグはメキシコのブレンダ・ナバーロの『空き家たち』を思わせるものもあり、男の作家にはまず書けない「生きる悲しみ」が鮮烈な小説だった。

Alia Trabucco Zerán, Limpia. 2022, Lumen, p.225.
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アリア・トラブッコ・セラン『引き算』

2025-01-07 | コノスール
前に読んで、実はこのブログでも紹介していたのが、サーバーを替えたり過去ログを整理したりするうちに消えてしまい、なぜか本そのもののも消えてしまい、そうこうしているうちに作者は実録ものを一冊、そして新しい小説を一冊書いて、いずれも評判がよく、この小説も英訳が出て、彼女は一躍チリの若い世代を代表する作家とみなされるようになり、ルメンがこのデビュー作を再版して、私がそれを買い、そしてもう一度読んでいる、というのがいま。
 漠然とした記憶を裏切るほどにタフな小説である。
 まずもって語り手が二人の若者、20代前半だろうか、ひとりは女で、ひとりは自閉症の男の意識の流れという設定である。子どもや若者が語り手になると開示される情報が少なくなり、衝動的な言葉も混じるので、読み手は自分の想像のなかで手持ちにできるカードが極めて少ない状況に立たされる。
 こんなに読みにくかったっけ?といぶかしみつつ、その理由そのものは途中で完全に理解するというやや稀な二読目体験だった。ガルシア・マルケスでならまず起こりえない話である。
 かいつまんで言うと、イケラ(カッコが題になっている章の語り手)、フェリペ(11から始まって1まで下っていく章の語り手)、パロマという、いずれも軍事独裁政権時代に活動家だった親を持つ3人の幼馴染による一種のロードノベルということになる。
 おそらく21世紀最初の10年あたりが舞台で(初版刊行年は2015)、イケラの回想によると彼らは幼少期に89年の国民投票を見ている。イケラの両親はかつては活動家としての別名ももっていたが、独裁下のチリに留まった。いっぽうパロマの母にはドイツ人の夫がいてクーデター後に亡命、ドイツを転々としていて、どうやら生まれたパロマを伴って89年にいったんサンティアゴに戻ってイケラの両親たちと会っているようだ。そこでハンスが父を殴ったことをイケラは覚えている。いっぽうフェリペは南部の祖母に育てられ、父の死後はイケラたちと暮らすようになっていたことが分かってくる。
 この3人の子たちは、かつては共に権力と戦ったが、その後は違う運命を辿り、結果的に関係性が難しくなってしまった3組の夫婦の子なのだ。
 ドイツから帰国した(のでドイツ語訛りのスペイン語を話す)パロマは、ドイツで亡くなった母イングリッドの亡骸をサンティアゴに葬りに来たが、おりしも首都近郊の火山が噴火し大量の灰が空気中に漂い、棺桶を載せた別便の飛行機がアルゼンチンへ迂回することになってしまう。メンドサにあると分かったその棺桶を引き取りに、3人は葬儀会社に借りた霊柩車で一路アンデスを目指す。
 このチリとメンドサの中間にある国境は私も若いころに通過したことがある。バスでつらつら登っていき、たしか3千メートル級だったと思うが、もう定かではない。そこからメンドサには下っていくことになる。メンドサ市街地の情景は懐かしいものだった。
 さて、こうして棺桶をめぐる二人の旅路は、自閉症であるのに異様に饒舌な(意識の流れなので)フェリペの視点からも語られる。彼は引き算に執着している。なにを数えているかというと、それは死者の数と墓の数。
 これは私自身も昔からたまに考えることなので、読みにくい彼の思考を辿りながら共感するところもあった。
 人は死ぬ。毎日死ぬ。死ぬと何らかの形で移動させられる。たいていは埋められる。しかしいずれその場所は足りなくなるのではないか? もちろん今ではその答えを我がこととして、つまり墓始末の問題として具体的に理解するようになった。
 フェリペのこの引き算に対する強迫観念の根底にあるものは読み進めていってもなかなか理解できないのだが、ひとつの手掛かりが彼が野生動物の無防備さや死傷に対して示す異常な興味である。チリのスペイン語ではキルトロという犬、だいたい野良犬だが、あるいは故郷の南部で見た様々な生き物の死。こうしたイメージは実は一種の暗喩なのだ。
 それが分かるのが最後の場面である。
 メンドサの空港に留め置かれた数多くの棺。
 それは言うまでもなく彼らにとって前の世代の帰らなかった人々の隠喩である。自分たちが知り得なかった記憶に少しずつアクセスしていく二人の若者を、それぞれ異なる角度から描いた不思議な小説だ。
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ノナ・フェルナンデス『マポーチョ』(決定版)

2024-05-28 | コノスール
ノナ・フェルナンデスは1971年生まれのチリ人作家。あちらで彼女の話をすると口をそろえて舞台やテレビなどマルチな才能の持ち主だという。文学作品としては長編の実質デビュー作がこの本の初版(2002年)で、その後は少し空いて2012年に長編『フエンサリーダ』を出している。未読だが手元にあるので裏表紙等を参考に少し紹介すると、語り手である女性の作家がゴミ捨て場から一枚の写真を発見し、そこに写っていたカンフーマスターの男が軍政時代に行方不明だった父親であることを知り、彼の探求に乗り出すという内容。2013年の『スペースインベーダー』も軍政期の記憶にまつわるもの。さらに実質上の自伝ともいえる『未知の次元』(2016)は秘密警察DINAの拷問者をめぐるやはり記憶にフォーカスしたもので、少なくとも文学に関しては彼女の作品に一貫して見られるのが、自らが間接的にしか知り得なかった時代の記憶をどのように表現するかという問題系である。
 そしておそらくその中心にあるのがこの小説だろう。
 マポーチョというのはサンティアゴの中心を東西に流れる川の名前である。中心街はこの川がランドマークになっていて、岸辺には広大な森林公園があったりして私もよくここを歩いている。その川面に向かってなにかを自問している女性の語り手(最初の文章 Naci maldita.「私は生まれたときから呪われている」でわかる)によって話は進行していく。ひさしぶりに故郷のサンティアゴに戻ってきたというこのラ・ルシアは、弟のインディオとの電話での会話を回想する。このあたりは典型的な一人称小説かと思って読み進めていくと、しだいにそうではないことがわかってくる。
 まず彼女自身の視点、つまり一人称の語りと彼女を外から捉える視点、つまり全知の、というより彼女以外の第三者から物語をとらえる視点が交互する。バルガス・リョサ怒る……ではないですが、小説を読みなれた読者なら誰しもが「あれ?」と思うだろう。
 何が起きたのか。
 というより、どのような語りが進行しているのか。
 それを考えながら読むしかないタイプの小説、それで思い出すのはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』だが、この小説もルルフォの名作と同様に、語り手をはじめとする多くの人物が実はすでに死んでいるということが断片的な情報から浮かび上がってくる仕掛けになっている。
 文体はこのようなものだが、物語の大筋としては、このラ・ルシアの亡霊と思しき女がマポーチョ川沿いを行き来しつつ、様々なものや人(やおそらく死人)と行き交い(現実に交流しているかは分からない部分もある)、最終的にひとつの死体となって灰と化し、川から太平洋へと下っていく自分を第三者的な立場から語るという構造である。なので多くの学者や批評家はこうした語り手の状況を「分離した」と表現しているようだ。これはフエンテスの『アルテミオ・クルスの死』などでおなじみの手法である。
 いっぽう4章のなかのそれぞれけっこうな分量をサイドストーリーが占めている。このサイドストーリーは歴史上の実在する人物に題材をとっている。現れるのはチリの正史において権威ある物語をすでに付与されている人物ばかりなのだが、彼らの物語が特にセクシャルな角度から捏造されて立ち現れてくる。
 聖ヤコブの町サンティアゴの創健者であるコンキスタドールのペドロ・デ・バルディビアは、かつて馬方として雇っていたインディオの(後の)英雄ラウタロによって捉えられ斬首された。というのが正史の一般的ストーリーだが、小説はここを書き換え、二人のあいだに同性愛関係があったことにすり替えている。そしてラウタロもまたスペイン軍に捕らえられて斬首され、首を失った二人の死者はラ・ルシアとすれ違うことになる。
 二人目は18世紀のコレヒドールで小説では「悪魔」として登場するが、これは正史ではれっきとした人物で、このルイス・マヌエル・デ・サニャルテゥはマポーチョ川にかかる堅牢なカル・イ・カント橋を建設させたことで知られているが、小説では悪魔が人間の姿をとったこの男が多くの奴隷たちをこき使って橋げたの下に埋め込み、しかも美しい二人の十代の娘たちと近親相姦関係にあったことにされている。サニャルトゥの工事で多くの奴隷が死んだのは確からしいが、正史における彼はあくまでもサンティアゴ市中興の祖であり、英雄以外の何物でもない。
 最後は1920年代の軍人独裁者イバニェスで、小説では色男としても知られたこの大統領が男娼に交じってダンスをするトラヴェスティだったことにされている。もうひとり独立革命の英雄オヒギンスも登場するのだが、こうした正史の男性的権威がことごとく性の次元で読み替えられていくサイドストーリー、これが本筋とどう絡みあっているのかを考えさせられる小説であると言えるだろう。
 ポイントは死者の語りである。
 なぜなら正史とは常に生き残った人間たちが紡いでいくものだからだ。そこに書かれなかった闇の物語は想像力を介して再現され、この小説のように捻じれた形で伝わるしかない。ラ・ルシアはクーデターの日に父親と生き別れになり、その後は母親と弟とヨーロッパを転々としながら暮らしていたことが分かってくるが、彼女のなかには父親に会いたいという気持ちと同じくらいに強く、性的接触のあった弟のインディオへの屈折した思いもある。同じ場所に積み重なる歴史のなかを生き、そして死んでいった人々の小さいが歪で奇怪な記憶たちが、公的かつ安定した正史の隙間からじわじわ立ち上がってくる、不動の生者の世界に死者たちの安定しない不穏なオルタナ世界が侵入してくる類の小説といえようか。ラヴクラフトみたいな?
 とはいえ、この本は極めて読みにくい。
 わけあって読むことになって、改めてこの種の実験小説というか前衛小説のもつ「情報伝達の遅延」という特徴について考えさせられた。アートの世界では当たり前のように私たちが行なっている、作品の前で立ち止まって時間をかける、時間をかけて向き合うという行為、芸術家によって投じられたオブジェの意味づけ行為を鑑賞者側が引き継いでアートという行為を継続する、そのような当たり前の活動が、なぜか文字の芸術である小説を前にすると苦行になる。
 苦行と思わずにいられるのは、その時間経過自体が活動の一環になっている人々、つまりアメリカやヨーロッパでこの作品を受容して難解な理論系の枠組みを意識しながらチャキチャキと意味づけ行為を行なっている博士課程在籍者の頭のいい若者たちだけ、なのかもしれない。
 しかし、それもやや不毛な話なので、もう少しこの問題(難解な小説とどう向き合えばいいのか)については考え続けてみたいと思う。
 作家については、この本よりはるかにリーダビリティが高そうな『フエンサリーダ』を読めば、ひと通りのことが言えるようになると思うので、まずはそちらを読んでみたいと思います。他にすることが山のようにありますけど。

Nona Fernández, Mapocho. Edición definitiva, 2022, Alquimia Ediciones.
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ボルヘス「トロン、ウクバル、オルビス・テルティウス」3

2024-05-13 | コノスール
ヒュームはバークリーの説がほんの少しの反論も許さず、ほんの少しの説得力もないことに永久に気づいた。ヒュームの見解は地球上ではまったく正しいが、トロンでは完全な間違いである。その惑星に住む民族は——生まれつき——観念論者だ。その言語とその言語の派生物——宗教、文学、形而上学——は観念論を前提とする。彼らにとっての世界は空間における物質の集まりではなく、独立した行為の異質な連鎖である。連続的かつ時間的であり、空間的ではない。トロンの推定される祖語には名詞がなく、この祖語に<現在の>言葉や方言は由来する。動詞は人称をもたず、形容詞の機能をもつ単音節の接尾辞(か接頭辞)で修飾される。たとえば月という言葉に相当する言葉はなく、つきる、つきむ、とでも訳すべき動詞がある。「川の上に月がのぼった」という文は「ロール・ウ・ファング・アクサクサクサス・ムロー」となり、逐語訳すると「むかって・あがって(英語アップワード)・ひいて・ずっとながれる・つきし」となる。(シュル・ソラールは短く「ウパ、ひいて、ずっとながれる、つきむ(英語アップワード・ビハインド・ジ・オンストリーミング・イット・ムーンド)」と訳している)。(25~26)

 アッシュが遺した11巻はトロンという惑星に関する情報の<体系だった広大な断片>だった。広大な断片、というような、いわば大をもって小を修飾する矛盾形容、オクシモロンはボルヘスが好んだ詩的文体である。11巻しかないというのは、やはりこれもフェイクっぽい。あるいはアッシュが所属していたなんらかの結社がどこかで捏造中の、そのなかのたまたま11巻だけが見つかったということかもしれない。というわけで、ここから書誌学的探究が始まって、実在する作家たちが、あーでもない、こーでもない、と喧々諤々になっている様子が語られている。
 そのなかにドリュ・ラ・ロッシェルという名がある。
 ドリュ・ラ・ロッシェルはフランスの作家で、第一次大戦に従軍した後、1920年代に詩を書き始め、米国とソ連の二大勢力に支配される未来を救えるのはこれしかないと信じてファシズムに傾倒、フランスが対独降伏後はヴィシー政権に接近して反ユダヤ主義の雑誌を運営したりしたが、ドイツが撤退後は自己嫌悪に苛まれ、最終的にはレジスタンスの復讐を恐れて自殺したとウィキペディアにはある。日本の大学の『フランス文学史』に華々しく現れる詩人でないことだけは間違いなさそうだが、ロベルト・ボラーニョは絶対にこの詩人の存在を知っていただろう。どこかで名前を見た記憶があるが思い出せない。語り手がこの手記を書いているのは1940年という設定なのでラ・ロッシェルもまだ存命であるが、南米の片隅でパンパ論を書いていたエセキエル・マルティネス・エストラーダとこの奇妙なフランス人作家が(いったい何語で)どうしてこの架空惑星の百科事典をめぐる議論に同じ方向から参加できたのか分からない。フィクションなのでお遊びだと言ってしまえばそれまでなのだが、反ユダヤ主義の文脈に関係した詩人が、捏造、フェイクという概念と容易に結びつくことは確かだろう。ボルヘスにおける反ユダヤ主義やファシズムの文脈はすでに山のような研究があるはずなので、この名前がここで出てくることに関する詳しい考証はそちらに任せよう。
 いっぽう、語り手のように世界各地の図書館を回って文献調査をすることを<下々の探偵小説じみた徒労>と切って捨てるアルフォンソ・レイエスはメキシコの20世紀前半を代表する碩学で、ここでは文献学者というスペイン語圏文学特有の存在の記号として現れている。彼が主張するのは<爪でトラを知る>、すなわち11巻という断片から百科事典の他の巻を自分たちで捏造しよう(彼はそれを<再建する>と表現している)というものだ。
 デジタル世界に移行する前、世界中の本は手に取るものだった。その本は図書館という空間の奥に埋蔵されていた。埋蔵品には目録があるが、古い時代のものになるとそう簡単に現物に行き当たることはない。目録からして紛失したり、カード状の目録が不注意な司書の手から滑り落ちて歴史の闇のなかに消えていったケースも多かっただろう。
 本も同様である。
 みなが「それは実在した」と知ってはいるが、みなが「どこにあるかは知らない」という本がいくつも存在した。そしてそれらの本は実在の確認という作業が忘れられたままその価値だけが後世に受け継がれ、うまく再版という形で新しく活字化されればよいが、そうでなければ学者による記述のなかだけに現れる幻のような呪文と化していく。そのような呪文の実在をめぐって調査や資料読解をしたりする文献学的探究はスペインのお家芸であり、それは新大陸にも一定のボリュームで受け継がれている。アルフォンソ・レイエスはそういう系譜にいる作家のひとりだろう。
 文献学者は実在と捏造の狭間を生きる。
 見つからないならつくればいいじゃないか。
 そういうジョークをいかにも言いそうな友人の名前をボルヘスがここで出しているのも頷けるというものだ。
 こうしてたったひとつの巻から世界中で(?)全巻をめぐる議論(?)が交わされ、そこには大衆向け雑誌までもが介入し、11巻で紹介されているトロン惑星に棲む透明な虎などが話題になった。しかし語り手はこの星の<宇宙の概念>に絞って紹介すると言い出すのである。
 トロンの風変わりな言語の翻訳を試みているとされるシュル・ソラールはアルゼンチンに実在した画家で、彼はパウル・クレー風の抽象画を描く傍ら、パンレングアというエスペラントのような新造言語を提唱して話題を呼んでいた、というよりたぶん失笑を買っていた。この短編におけるボルヘスの言語遊戯にはスペイン語の前衛詩への目配りがあるとしばしば指摘される。ボルヘス自身は若いころの実験的作風を反省し、その後は端正で古典的な(私は単に「じじむさい」と感じているけれど)詩を書くようになったのだが、ひょっとすると心のどこかで馬鹿げた不条理な詩に精を出す奇妙な人々のことをうらやんでいたのかもしれない。
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