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Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

シンシア・リムスキ『明瞭にして不明瞭』

2025-08-09 | コノスール
積読状の小説が約30冊ほどあって、ここ数年の怠惰を反省させられるのだが、今夏は引きこもり状態になるので、夕暮れから酒を飲むまでの1時間は必ずこの人たちと付き合うことにしたいと思う。午前中はせいぜい仕事をしたいと思います。思うだけなら誰でもできますけど。
まとめ中…。
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フアン・クリストバル・ペニャ『アウグスト・ピノチェトの秘められた作家生活』

2025-08-04 | コノスール
刊行されたときには著者とその近い知人も含めて少数の人が手に取ることはあっても、その後は歴史の闇に埋もれてゆき、日本だったら残るのは国立図書館のデータとISBNだけという風にして消えていく本が世の中にはたくさんある。私のような学者がなんとか書いたほとんど自費出版に近い本もそれに該当するかもしれないし、ましてや私がしてきた海外詩の翻訳本などは「もうすでに消えている」と言っても過言ではない。
 アウグスト・ピノチェトにも著書があるということは日本であまり知られていないだろう。これらの本は現在なんの価値もないとされ、ピノチェトという人物の研究をする好事家以外にはもはや誰も手に取るものはいない。そんな彼が、実は、5万冊以上におよぶ貴重な蔵書の所有者であったことが明らかになったのは、リッグス銀行事件の余波でチリ司法の手が彼の私有財産におよびだした2004年のことである。
 本書は「著者」としての独裁者の姿に目を向け、また上記の蔵書などもあわせて、軍人や政治家としてではなくひとりの「作家になりたかった男」の肖像を様々な人物の証言から再構成している。
 全体は4つの章に分かれている。
 一章「作家の犯罪」では、カルロス・プラッツ殺害事件の背景にあったのが、単なる軍隊内の粛清という規模を越えた、ひとりの人物による嫉妬と怨念であったと結論付ける。アジェンデ政権を軍の最高司令官として支えたカルロス・プラッツはクーデター後にアルゼンチンへ亡命、同じ軍人出身のフアン・ドミンゴ・ペロンに歓待され、仕事にこそつけず経済的には苦しい状態が続いていたが、アルゼンチンの軍人たちとも交流するなど、それなりの暮らしを送っていた。しかし彼はアジェンデ時代の体験とクーデターを起こした軍人たちに関する自分の見解を一冊の本にする計画を立てていた。チリ人、本当に自伝が好きですね。アルゼンチンにプラッツを見張るスパイを送っていたピノチェト側もこれを察知、1974年、ピノチェトが別格の軍人政治家として頭が上がらなかった(実際にピノチェトが大統領就任後にアルゼンチンを訪れて会談した際の卑屈な様子も明かされている)ペロンが1974年に死去、アルゼンチン側の政治空白に付け込む形でDINA工作員の手で(と現在は公に確認されているが生前のピノチェトはもちろん認めていなかった)仕掛けられた車爆弾でプラッツ夫妻は殺害される。事件後、チリへ帰国したプラッツの妻の遺族をマヌエル・コントレラスが呼び寄せてDINAの基地へ連行、例の「記録」のありかを突き止めようとしたが、アルゼンチンの銀行貸金庫に保管されていたため入手ができなかった。日記は結局 Memorias と題してプラッツの死から10年後の1985年にアルゼンチンで刊行されている。生前のプラッツは1933年に自伝を書いた軍人政治家の先達カルロス・パエスに倣って「一兵卒の証言」にするか、クーデター直前のイメージを詩的に表現した「野営地にかかる霧」とするつもりでいたらしい。
 カルロス・プラッツは軍人としても超一流だったが、アジェンデ政権と関わって多くの民間人とも交流し、文学や国際政治の話題にも平気でついていけるという、軍人にしては珍しいほどの教養人だった。ホルヘ・エドワーズもパリの大使館でプラッツと話したことを『ペルソナ・ノン・グラータ』のパリ・エピローグで書いている。いっぽうのピノチェトはその種の教養がまったくない。しかし自分のそうした教養の無さを彼は許せなかった。戦争アカデミーでなんとかプラッツのように教鞭をとるべく、必死になってコピペして書き上げたのが上記の地政学関連の本だったようである。
 プラッツ暗殺の背景には、このような二人の軍人のあいだの教養の格差と、うち片方の側による、その差があることについての深い怨念と嫉妬があったというのが著者の推理である。
 第二章「徒弟時代」では、ピノチェトの士官時代に話が遡るのだが、この章は二人の軍人にまつわるエピソードを同時進行で進めていて、小説なみに面白い。接点はゴンサレル・ビデラと南極、若きピノチェトとそのもう一人の軍人とは、実は遠い親類関係にある(チリはバスク系が多いのでどこかでつながることが多い)ラモン・カニャス・モンタルバである。
 1946年から大統領の座についていたガブリエル・ゴンサレス・ビデラは軍の最高司令官に若き日のピノチェトのメンターとも言うべき存在だったギジェルモ・バリオス・ティラードを任命する。しかし翌47年には選挙の同盟相手だった共産党を非合法化、軍警察を動員して徹底的な弾圧をはかるようになり、この仕事のためバリオスは国防相に昇格、軍の最高司令官にはカニャス・モンタルバが任命された。若いころにスウェーデン等に滞在していた頃から地政学に親しみ、独自の世界像を育んでいたカニャス・モンタルバは、チリが南極を支配して南半球の盟主になるという奇怪な将来図を描くようになる。こうしてゴンサレス・ビデラ政権の取り組むべき仕事は大きく二つになった。ひとつは共産党員の弾圧、もうひとつは南極大陸の征服である。弾圧対象となった最大の大物は当時共産党の政治家だった詩人パブロ・ネルーダである。自らも学識があり、ネルーダと知り合いでもあったカニャス・モンタルバは前者の仕事にはあまり加わりたくなかった。しかし南極関連では自らが率先して動き、ゴンサレス・ビデラの南極上陸もおぜん立てする。
 これと同じころ、イキーケという僻地で勉学に苦しんでいる青年がいた。二度の不合格を経てようやく軍立学校に入学し、その後は順調にキャリアを築いていたピノチェトである。彼は、20世紀のチリ軍ではアカデミアのキャリアを築かないことには、つまり政治も含めた知性を向上させねば昇進はあり得ないと信じるようになり、また、任地での上官だったバリオス・ティラードの勧めもあって、週に一冊本を読むようにもなっていた。ガリア戦記とか実録ものばかりだったみたいですけど。彼は当時のチリ軍にとっての東大、サンティアゴの戦争アカデミー受験を目指して猛勉強をしていた。軍立学校での成績は中の下、勉強し過ぎで顔色も悪くなっていたが悟られまいと必死で頑張っていたらしい。議員の父をもつ妻ルシアと結婚もし、子どもも二人いて、彼はどうしても首都のアカデミーに入りたかった。義理の父を介して大統領ゴンサレス・ビデラにも(スポーツクラブだったそうだが)会うなど、政界もちらりと見え始めていた彼にとっては、人生をかけた受験だったのだ。1947年末、合格者リストに彼の名前はあった。
 ところが左翼の弾圧が始まる。
 イキーケ近郊にはハンバーストーン硝石採掘場があり、まさに左翼労働者の拠点だった。議員ネルーダの票田にもなっていた。ピノチェトは、いわば反対派の狩場となったこの北部砂漠地帯につくられた、ピサグア収容所の警備を任命されてしまう。数か月後、ピノチェトはようやく念願のサンティアゴ、戦争アカデミーへ入学することになった。チリ軍人の東大に入れたのである。
 いっぽう南極ではチリが領土を主張する前線のオヒギンス基地が建設され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国から猛烈な批判を浴びていた。南極にヒトラーが亡命しているという珍説で知られる詩人ミゲル・セラーノが「あの白く風と孤独に揺れる世界」と表現し、逃亡潜伏中の政治犯パブロ・ネルーダが「地の皮からちぎれた氷のシネラリア」と表現することになる南極は、当時の技術では長期滞在が難しい場所だった。カニャス・モンタルバ直々に派遣されたウゴ・シュミット率いるチリ軍精鋭部隊もオヒギンス基地で足止めを食ったままブリザードにあい、このままだとペンギン食って越冬か、と諦めかけていた。が、そのとき、グレゴリオ・ロドリゲス・タスコン大尉、通称ゴジートという、軍人にしては珍しい左翼思想の持ち主で若いころは無政府主義思想にかぶれていたような人物が率いる部隊がヘリで彼らを救出する。当時のチリ軍人にはフリーメイソン仲間が多く、ゴジートは上記のバリオス・ティラードやカニャス・モンタルバとロッジを通じて親交があったと著者は指摘している。
 フリーメイソンはヨーロッパと同じく中南米でも特に宗教色はなく、一種男性どうしのエリート社交クラブで、シモン・ボリーバル以降、比較的軍部の将校エリートが多くかかわっているようだ。ちなみにピノチェトもバリオス・ティラードの紹介で一度は入会したが、会費を滞納して除名されたとある。
 さて英雄ゴジートは救出作戦に成功した後、サンティアゴに帰還し、地政学に明るかったことから戦争アカデミーに招へいされて教壇に立つ。そこで彼はカニャス・モンタルバの命令を受けアカデミーでは初となる地政学の講義を行なうことになった。
 講義の受講者にはピノチェトがいた。
 カール・ハウスホーファーの死から、というよりナチが敗北してから間もない1949年、その思想と文化の一端が流れ流れてチリの戦争アカデミーにたどりついたことになる。南米大陸においても、多少なりとも知性と教養ある人間のあいだで地政学は国家社会主義、すなわちナチと結びつけて考えられていた。まあ、今風に言えばトンデモ学ですが、その後、地政学が息を吹き返して今に至っていることは周知のとおりである。ゴジートはその辺の事情はよく分かっていた。彼は講義の最初に必ず<ある人たちにとっては、特定勢力の指導者たちが自らの拡張主義的政策と世界支配の欲望を正当化するために捏造された似非科学に過ぎない(65)>と断っていたらしい。しかしゴジートはハウスホーファーの理論の枠組みだけを切り出して南米サイズに適応させるというスマートな講義ノートを作っていた。ラッツェル、マッキンダー、チェーレンといった耳慣れない単語に若きチリ軍将校たちは耳を傾けた。もちろんピノチェトその人も。ゴジートは、現在のチリはラッツェルの生存権拡大のために南極制覇を必要としている、と熱く語った。二年後、講義録は教本としてアカデミーから刊行されることになる。
 ゴジートの息子たちは父親からの話として、父の教え子のなかでピノチェトは最も目立たない存在だったと回想しているという。この世代で際立っていた将校は言うまでもなくレネ・シュネイデルとカルロス・プラッツであったが、この優秀な二名に比べたら「誰、あいつ?」レベルの将校だったようだ。しかしやる気と根性だけはあったので、やがてゴジートの助手に任命される。チリ軍の東大で助手採用されたのである。この頃の彼はそれなりに読書も積み重ね、といっても文学は読んでなかったみたいですが、後に孫子の『兵法』が愛読書だったと言っているという。
 孫子に学んだのか、この後のピノチェトはチリ軍という社会のなかをのらりくらりと生き抜き、1953年、ゴジートがリマに派遣されて空白になった講師の座に収まると、師のあとを継いで地政学の講義を担当するようになった。
 同じ年、講義録をまとめた『チリ、アルゼンチン、ペルー、ボリビアの地政学総論』を刊行する。チリ軍にとっての地政学とはもっぱら国境を接している近隣3か国への目配りだったようだ。帰国したネルーダがマティルデへの愛を綴った『船長の詩』なんていう本を出していたのと同じころ、戦争アカデミーから刊行されたこの教科書が意外なことに版を重ね、新聞に書評も掲載されるなどしていた。1955年、アリカでの短い任務を経たピノチェトは戦争アカデミーの正規教員となり、国防省にポストも与えられ、ここでカニャス・モンタルバとも知り合う。
 アカデミーの教師としてはあまりいい評判はなかったようだ。話し方が分かりにくい、ノートを読むだけ、毎年同じ内容……まあ、彼に限らずどこにでもいそうな気がしますけど。もちろん教室にずっといるわけではなく、軍人としてのキャリアも積み重ねている。その合間に教壇にも立つという感じだったようだ。そして1967年、彼の主著ともいえる『軍事地政学』が刊行される。
 著者はこの本がゴジートの例の講義録の完全なるコピペであることを例を挙げて証明している。ピノチェト自身もそのことは理解していたが、当時、無断引用に関する倫理は社会の隅々までは一般化していなかった。そして、された側のゴジートであるが、クーデター後は軍の職務から追放され、この著書のコピペについても一切語ることはなかったという。死の直前、老齢に差し掛かったゴジートはピノチェトの末娘の結婚式に招待される。ピノチェトはコピペの話は一言もせず、ただ「師匠、わが師匠」と笑いながらゴジートを抱擁したという。さらにピノチェトは、チリ軍に地政学というものを根付かせた原点であり、ある意味でチリ軍陰の血統の本流ともいえるカニャス・モンタルバについては、晩年に至るまでまるで言及することがなかったと著者は指摘する。
 ライバルだったシュネイデルはアジェンデ政権下で暗殺され、同じくアジェンデ政権下で最高司令官になったライバルのプラッツからは次期司令官に任命され、そしてクーデター後はそのプラッツを彼自身が(おそらく指令を出して)アルゼンチンで暗殺させる。自著のベースになる本を書いてくれた元無政府主義者にして左翼思想の英雄、すなわちかつての恩師ゴジートはクーデター後に軍から追われて沈黙を貫き、そしてカニャス・モンタルバは過去の人になっていく。
 編集の王朝と題された第三章では、クーデター後にピノチェトの著書を刊行していくことになったいくつかの拠点がつまびらかにされている。また、作者としてのピノチェト以外で、軍事評議会主導の言論をつくりあげていく際に鍵となった人物は3人。ひとりはDINAを率いたマヌエル・コントレラスで、彼の場合はどちらかと言うと言論の封殺のほうに加担した。もうひとりは言うまでもなくハイメ・グスマン、ピノチェトの法的アドバイザーとして80年憲法の制定に関わった謎の人物である。独身で同性愛を疑われていたグスマンはDINAの監視下にもあったが、ピノチェトの頭脳ともいえる存在として一定の地位を保った。民政移管後、国会議員になっていたグスマンは1991年4月にFPMRのゲリラによって暗殺される(ちなみに私はこの直前に初めてサンティアゴを訪れていた)。いっぽう、軍を引退して民間人になっていたコントレラスは、ワシントンでのオルランド・レテリエル殺害事件の主犯として逮捕され、その後に終身刑を言い渡される。というわけで、著者はこの二人には会えなかったので、2010年段階で会える最後のキーパーソン、アルバロ・プガ・カッパに面会をし、様々な証言を本書に採録している。 
 軍事評議会は民間人の焚書、よいうより禁書の摘発をプガのような民間のインテリには任せなかったらしい。禁書摘発は本のホの字も知らないような軍人たちが主として実行したため、ホルヘ・エドワーズの蔵書も救われたし(間違って隣家に来たと書いている)、キュビズムの本を「キューバ主義」を勘違いした軍人もいたのだとか。
 グスマンやプガらが関わったのはピノチェトの言葉を作り上げることである。グスマンは憲法とピノチェトのスピーチライターとして、そして、クーデター時にたまたま軍の本部にいて次から次へとくる軍事布告をタイプに打ちまくり、その日にピノチェトその人から著書『地政学』のサイン入り本を贈呈され、信頼を得たプガは軍事評議会が出す様々な刊行物の作成に関わっていくことになる。
 アジェンデ政権子飼いの左派出版社だったキマントゥは蔵書も含めて跡形もなく破壊され、代わりにガブリエラ・ミストラル出版という(亡き詩人はいい迷惑だったろうが、まさかネルーダ出版とするわけにもいかず)軍事政権御用達の出版社に衣替えする。最初の仕事は、1973年をチリ第二の独立と位置づける新政府の指針を刊行物にすることだった。プガも関わり完成したこの『チリ政府の指針宣言」は1974年3月に刊行される。いろいろ書いてますが最後の9を読めば、だいたいこの種の思想の持ち主は国境を越えて偏在するのだな、と気づく自分が少し嫌だが、仕方がない。
 皮肉なことにこのガブリエラ・ミストラルは二年後にシカゴボーイズたちによって経営難を指摘され消滅、代わって政府広報を担うようになったのが、もとは法律系の地味な仕事をしていたアンドレス・ベジョ出版局だった。アンドレス・ベジョはピノチェトの『軍事地政学』(例のコピペだらけの本)新版を刊行し、続けてピノチェトの『パシフィコ戦争』の校正を当時編集部にいたフェルナンド・エメリッヒという売れない作家に依頼する。これが首尾よく成功し、エメリッヒは続けて思わぬ大役を引き受けることになった。ピノチェト自伝の校正係である。
 エメリッヒはまだ生きている。著者は彼にもインタビューをしているようだが、やはり「いやだなあ」と思ったらしい。そりゃ、そうですよね。面白いのは、彼がピノチェト自伝のなかでアジェンデについて悪し様に書いている部分を削除させたときのエピソード。エメリッヒは休暇で別荘にいたピノチェトのもとを恐る恐る訪れて、三つの理由からアジェンデについて書いた箇所を削除せよと要求する。1.死者を悪く言うべきではない。2.チリ軍は敗者に寛容たれと教えているはず。3.現職大統領が元大統領を批判すべきではない。一瞬、気を悪くしたピノチェトだったが、削除に同意、これでかえってエメリッヒは独裁者の信頼をえることになった。ちなみに自伝の題をつけるにあたって作者ご本人は『我々軍人が祖国を救うと誓った日』としてさらに数行付け足したかったみたいだが、それだと見栄えが悪いということで編集部のひとりが『決断の日』に決めて1979年に刊行、順調に版を重ねてキッシンジャー自伝と並ぶほどチリ国内では売れたという。これ、実は1982年にサンケイ出版からグスタボ・ポンセなる人物の手で翻訳されている。邦題は『チリの決断:1973年9月11日』。原著刊行から3年後なので、ガルシア・マルケス『百年の孤独』に匹敵する直後訳かもしれません。日本のラテンアメリカ文学史は書き換えられるのでしょうか。冗談はともかく私の職場の図書館にもあるので、近日中に紹介したいと思う。
 少し話を戻すと、1976年、財務官僚で地理学専門家としてチリ大学で教鞭も取っていたセルヒオ・マルティネス・バエサという人物にある命令が下る。地理学関係でアルゼンチンにも人脈のあったバエサはブエノスアイレスに派遣され、ある作家とピノチェトとのコンタクトの算段をつけて来いと言われ、しぶしぶその仕事を引き受けた。そしてその作家は二度にわたってピノチェトと面会した結果、ノーベル文学賞受賞を逃すことになってしまう。これがボルヘス・ピノチェト事件であるが、これについては近年、未亡人の証言などからボルヘス側の意図もあったことが分かってきているようだが、私はその本を読んでいないのでよく知らない。
 章の後半は、プガがグスマンとの確執から政府要職を追われたことについての、彼のくどくどしい言い訳が面白いのだが、それはさておき、上で挙げたエメリッヒという作家がピノチェトとまたもや面白いかかわり方をしている。1982年、娘ルシアの尽力もあってピノチェト自伝の英訳が刊行される。同じ年には、実質上、二冊目の純粋な私的エッセイとなる『政治、似非政治、デマゴギー』も刊行、ピノチェトはこれで、かつて自らがなりたかった存在、つまり独裁者ではなく万人が認める「作家」となった。しかし翌1983年、国内経済が行き詰り、世論が左派との融和を望むようになり、ピノチェト人気にも陰りが出てきたころ、ようやく自著の小説を書き上げたエメリッヒが、クリスティアン・ウネエウスら作家協会の声を集約する形で、独裁者に一通の手紙を書く。それは「書物刊行に際して内務省の検閲を廃止する」要望だった。ピノチェトからすぐに呼び出しを食らったエメリッヒはこわごわ彼の執務室を訪れるが、意外にも「メディアは別だが書物検閲は廃止する」との回答だった。
 おそらくエメリッヒは「作家」としてのピノチェトの虚栄心をくすぐるタイプの人物だったのだろう。面談の際、知り合いの国立図書館出版局のキリスト教民主党支持者のウィリアム・テイラーという冗談みたいな名前の局長が自著『政治、似非政治、デマゴギー』の刊行をいやがった(ので結局は戦争アカデミー系の出版局から出た)ことに触れて、エメリッヒに素直に愚痴っているところなどを見ると、このマイナー作家をピノチェトは同じ作家仲間と見ていた節がある。
 作家ピノチェトの完成は1985年の『チリ軍史』最終巻だった。これはピノチェト著とされていたがもちろん著者は複数いて、それよりも「作者紹介」の記述が注目に値すると著者は述べる。私も読んだが、ほんと、立派な「作者紹介」でした。
 軍事政権も終焉を迎える。
 しかし国民投票に勝つ気でいた「作家」ピノチェトは人生の総仕上げたる自伝の執筆をもくろんでいた。彼はその校正を部下を通じてやはりエメリッヒに依頼し、ついでに大手出版社のプラネタとの連絡もさせるが、国民投票でピノチェト続投にNOが突き付けられ話は頓挫、再会したときにエメリッヒはカルロス・イットゥーラという知り合いの作家にこの仕事を回す。
 イットゥーラは悪名高い「ロ・クーロの屋敷グループ」に属していた。ビタクラのピノチェト邸にほど近い場所にあったこの家にはマイケル・タウンリーというアメリカ人と妻のマリアナ・カジェハスが暮らしていた。文学愛好家のマリアナはこの家で文学アトリエを主宰し、ゴンサロ・コントレラス、カルロス・フランス、そりてイットゥーラら、当時優秀な若い作家たちを囲っていた。というのがこの家の表の顔である。しかし旦那のタウンリーはCIA職員の父に連れられ13歳のときにチリにやってきたアメリカ人で、根っからの工作員としてクーデターにも直接関与し、その後はDINAの実行部隊の一人として自分の家を使っていた。この家の裏の顔はDINAの秘密基地だった。その後、ボラーニョなど、多くの小説やコミックにヒントを与えた恐怖の館の元型が、このロ・クーロである。詳しいことはイットゥーラら本人たちがいろいろと証言しているようなので、知りたい方はそちらをお読みいただくとして、彼はこの難儀な人の自伝を読まされる羽目に。
 彼は失望する。<彼はピノチェトを尊敬してはいたが、それには「ある種の失望を覚え」、さらにはオリジナル原稿を「役人の書いた自伝」と切り捨てている(166)>。結局、イットゥーラはピノチェトに二回会い、プロとして滞りなく校正の仕事をしてやった。民政移管が終わり、もはや国家元首としての後光もなくなったピノチェトにプラネタは見向きもせず、自伝『辿りたる道』はチリ軍事地理出版会という超マイナーな出版会から出た。第二巻も第三巻も鳴かず飛ばずで、読んだのは身内だけだった。彼は余生を作家として過ごし、自伝を次々に書く予定でいた……が1998年にロンドンで逮捕される。作家ピノチェトの人生はここで終わった。
 最終章「蔵書」では、2004年以降、リッグス銀行事件の余波でチリで始まったピノチェトの個人資産調査の結果、三つの家で発見された数々の貴重な古本の多くが、国立図書館から持ち出されたり、あるいは過去に同じようにして簒奪された資料を蔵書として所有していたサンティアゴのいくつかの古書店主からピノチェトが政府の予算で買い取ったことがわかってくる。最も貴重なのは17世紀のイエズス会士アロンソ・デ・オバージェの書いた『チーレ王国史』で、これは途方もない値段がついたという。ピノチェトは地理とチリ史に特別興味があって、これらをサンティアゴのいくつかの懇意にしていた書店主から買い取っていた。もちろん文学は一冊もなく、詩などは痕跡もなかったという。まあ、そりゃ、そうでしょう。
 おそらくピノチェトが大部の未完に終わった自伝を用意していたころ、ブラーナスにいたロベルト・ボラーニョは『南北アメリカ大陸のナチ文学』を書いていたのに違いない。まさか独裁者が作家志望だったとは、彼も知らなかったことだろう。
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ホルヘ・エドワーズ『ペルソナ・ノン・グラータ』:パリ・エピローグ

2025-07-31 | コノスール
テキストクリティックを行なっているカテドラ版(2016)のイントロに基づいてこの奇妙な本の変遷を簡単にまとめてみると、まず1973年に初版がバラル・エディトーレスから刊行された。同じ年に第二版が刊行されているが実質二刷でリタッチはなし。翌74年の第三版も同様で、これの現物が国内では京都外国語大学にあるようだ。翌75年にはグリハルボから新版が出ている。ちなみにキューバとチリではそれぞれ違う理由から発禁処分となっていて、チリでは粗悪な海賊版も出回っていたという。私はこれらの現物を実は見ていない。それが実は大問題なのだが、あとで説明するとして、ここまでは実質すべて「初版」と考えていいようだ。
 実質上の第二版、つまり本文リタッチと文章の入れ替えと別原稿追加のある版が、上の写真のセッシュ・バラルから出た1982年版である。ここにはエドワーズによるイタリック体の前書き10ページ分が含まれている。また「パリ・エピローグ」と題する後書きが付されているが、これについてエドワーズは自ら次のような注釈をつけている。
 <以下は1973年10月にバルセロナとカラフェルで書き上げたテクストである。チリの出来事を知った直後で、1971年と72年の個人ノートを書物の形で刊行する用意をしていたときのことだ。いくつかある初版ではこのエピローグにノートの最後の数ページを挿入していたが、今回はその初期版ではなく、本来の『ペルソナ・ノン・グラータ』を形成する71年と72年のノートと、そのオリジナルテクストが編集者の手に渡っていたときに書かれた「パリ・エピローグ」をすべて元の形で再現することにしたい。(1982, 375)>
 よく意味が分からないのだが、初版ではエピローグという形ではなく本文に埋め込まれていて、キューバ体験を綴ったノートに書かれた文章の最後の数ページと合体していたという意味であろう。それがどういう状態か確かめないままこれまで来ているのが「大問題」だと昨夜反省していたのだが、この作家で論文を書いているわけではないので許してほしい。いずれにしても、この「初の完全版」をとりあえず第二版と考えよう。
 第三版は中身リタッチはなしで、新たなプロローグが付されてトゥスケッツから1991年に出ている。チリの民政移管後というタイミングで、昨日まで紹介していた『さらば詩人』の刊行直後ということになる。エドワーズは1999年にスペイン語圏文学者に与えられるセルバンテス賞を受賞している(その関係で私にも翻訳の仕事が回ってきた)。それを受けて2000年に同じトゥスケッツの記憶の時代というシリーズに含められ、新たなプロローグと旧版すべてのプロローグ、エピローグが採録された、いわば完全な完全版みたいなのが出ていて、これは私も持っている。

 ところが今度は2006年にアルファグアラから新版、これまでの経緯を考えると第五版とみなしていいだろう、が刊行され、これは旧版のすべてのプロローグとエピローグを削除したシンプルな構成で、新たに「二重の検閲」と題するエピローグだけが追加された。これが私が翻訳した版で、2012年頃の段階で著者とエージェントの指示に従ったものである。
 最後は2015年にアルファグアラの文庫版が出て、これでは過去のあらゆる「ローグ」が削除されて新たにプロローグが付された。そして最新はカテドラの分厚いイントロダクション付きの版ということになり、これは過去の「ローグ」系をすべて掲載しているので、とりあえずプロはこれを読めと言うことなのでしょう。
 初版の最終部の形状が気になるところではあるが、とりあえずそれは置いておき、まずはトゥスケッツに搭載された「パリ・エピローグ」の中身を紹介しておくことにする。
 <バルセロナから電話でネルーダと話をした。私は神経をだいぶ痛めつけられたキューバでの体験から自分を癒そうとしていたところだったが、彼は翌日に予定されていたポンピドー大統領への信任状提出に立ち会えと言ってきた。T.,351)>ネルーダとしてはいちばん信頼できる部下が来てくれたので、バルセロナで文学仲間とつるんでないですぐにパリに来いということだったのだろう。ネルーダのパリ赴任は1971年3月、エドワーズが好ましからざる人物扱いされてハバナを出ていくのが同年の3月21日、まあ、フィデルのおかげで、ネルーダは赴任早々もともと希望していた優秀な部下を近くに置くことができたので、よかったじゃないか、と私は思う(とフィデルも言いそう)。
 式典の後の数日間、エドワーズは上司ネルーダにキューバでの体験を事あるごとに語り聞かせた。
 <「本を書きたいんです」と私はパブロに言った。「刊行はできなくてもいい。そうしないとこの強迫観念から逃がれられないんです」
 「書くがいい!」とパブロは言った。「私に話したことをひとつ漏らさず書きとめておきなさい。世に出すことを考えてはいけないよ!いつかはそのチャンスも来る。それは重要な本に、必要不可欠な証言になるだろうから……」(T., 353)>
 その後はキューバ追放とパディージャ事件の余波について、だいたい『さらば詩人』の第三部と同じようなこと、エドワーズの外務省内での立場を守ってくれたのがネルーダとクロドミーロ・アルメイダであったというようなことが書いてあって、またパディージャ事件の余波は、ペルーを公式訪問した際にはアジェンデ夫妻と談笑もしたマリオ・バルガス・リョサが、その後、チリ政府からの公式な招請を断ったというような情報も開示されている。
 1971年、秋、いよいよノーベル賞の季節になる。いまはどうか知りませんが、スウェーデンのアカデミーのなかで特定の作家を推す人たち(詩の場合は翻訳者が多いよう)が関係者に内通する習慣があったのでしょうか、少なくともエドワーズはスウェーデン人の作家仲間からネルーダに決まり!の通知を電話で受け取っているようだ。その直後、パリを離れたがっていたネルーダに請われて、二人はノルマンディーに家探しに行く。このあたりの顛末は『さらば詩人』と同じです。ちなみにラ・マンケル購入に際して、これがチリの議会で問題視され、右派の政治家が「ネルーダ大使はノルマンディーで税金を投じてシャトーを買ったそうだが大丈夫なのか?」と発言し物議を醸したそうである。
 それよりページが割かれているのはフランスの政治家たち。当時のチリは世界中の左派政治家たちにとってあこがれの国だった。日本も含めて、20世紀後半の世界の先進国の多くに万年野党「社会党」という人たちがいた。社会主義者たち。共産党やそれに類するもう少しドラスティックな政策を唱える左派もいたが、いずれも議会での多数派工作には失敗し続けている。しかしチリで人民連合という左派の大同盟が政権を取った。そんなことが可能なのか? 可能ならどうすれば実現できるのか? というわけで大勢の左派政治家たちがアジェンデ参りをしていた。フランスからは共産党のジャック・ドゥクロ、社会党のフランソワ・ミッテランがチリを訪れ、その後、いずれもパリでネルーダやエドワーズと会見している。
 それを牽制すべく右派、このときはドゴール派の議員アラン・ペールフィットもキューバとチリを立て続けに訪問、急用で空港を通過するのみとなったサンティアゴで自国のプレスにフィデルとの会談の様子をリークする。<ペールフィットは、フィデル・カストロが、アジェンデはブルジョワ的合法性の狭すぎる枠組みに留まる限り自らの政治を実現することはできない、と言った、とメディアに語った。チリにおける社会主義への穏健な移行をフィデルが常々疑いの眼差しで見ていたことは周知の通りである。から鍋デモと、国家元首としては史上最長の滞在となったチリ訪問の最後をしめくくる、あの国立スタジアムでの演説でも、それは明らかだった。(365)>エドワーズは、おそらくペールフィットはチリと同じ左派の大同盟を期待する一部のフランス人に向けて、そういう道は必ず暴力を伴う、というメッセージをフィデルという分かりやすい道具を用いて伝えようとしたのだろう、と推測している。アメリカという国がチリの社会主義を転覆させようと暗躍していたのと同じころ、フランスでは一部の政治家たちがチリに倣おうとしていた状況が浮かび上がってくる。学者でもあったペールフィットはネルーダに、ドゴールはアルジェリアの独立と社会主義化を平気で容認したというのに、アメリカというのは奇妙な国だ、植民地でもないキューバやチリが社会主義化することが許せないらしい、と冗談半分で語ったそうである。いずれにしても、当時のフランスにおけるチリ大使館とは、左派も右派も、何らかの形でアジェンデ政権の今後に関心を持つ人たちが毎日のように押しかけてくる場所だったのだ。そりゃ、大使も、詩を書く暇はなくなりますわね。
 1973年3月、もうネルーダは帰国後のことだが、たまたまフランスとチリの総選挙が重なった。ミッテランらの左派連合の勝利を恐れた右派はパリ市内に、ミッテランらの話をうのみにしているとチリのような暗い未来(内戦寸前)が待っている、とするビラを貼るなどし、エドワーズらを憤慨させたようだ。結局この選挙でフランス社会党は躍進、いっぽうチリでも人民連合が躍進、これについてエドワーズは<その数か月後にある情報通の人間から、あれでアジェンデの運命も煮詰まった、と聞かされた。アジェンデはキリスト教民主党と妥協する心づもりでいたが、この三月の結果を受けて、人民連合の最左派がいかなる取り引きにも応じなくなっていた。いっぽう選挙で権力を取り戻す望みが途絶えた右派はクーデターの本格的準備に取り掛かっていた(T., 368-369)>として、この選挙が、このあとチリがなし崩し的に動乱に巻き込まれていくきっかけになったとみているようだ。
 クーデターに至るまでのアジェンデ政権に関するエドワーズの評価は本書の本文にも書かれている。このエピローグでも再度触れているが、73年のこの三月以降に本来そうすべきであったキリスト教民主党系の、つまり保守側の議員の取り込みと軍部のなかの話の分かる人たちの取り込みがまったく進まず、事態が逆の方向に動いたことがクーデターへの動きを加速させたということだ。サンティアゴ滞在中のフィデルがアジェンデその人や左翼革命運動の指導者たちに象徴として機関銃を手渡すパフォーマンスをしたことも、後々、軍事評議会がキューバの介入を口実にする根拠を与えた。内戦やクーデターを避けるという試みをあらゆる方向からつぶす動きが続き過ぎた、というのがエドワーズの見立てである。彼の言に従うならどうやら外務省はまだそうしたウルトラ左翼の影響を受けずにいる人間が多かったらしい。<アルメイダはアジェンデの閣僚のなかでおそらく最も賢明な人物だった。人民連合政権における彼の影響力は、不必要な挑発を回避するという方向に傾きがちだった。外交のスタンスは異なる勢力と等しく距離を置くというもので、国家としての独立を重視し、同盟には慎重だった。モスクワとの関係の調整についてはリアリズムに徹し、中国との関係を損なうこともなかった。(T., 377)>このクロドミーロ・アルメイダならニクソン政権とも渡り合えたろうが、向こうがそれどころか銅訴訟をたてに一切の外交を拒絶してきたので、それは実現せず、クーデター後はこの「アジェンデ政権内の数少ないまともな人」アルメイダもドーソン島に収容され、その後は亡命を余儀なくされることになる。
 話は1972年に戻り、ラ・マンケルでの新年会。誰を呼ぶ、誰を呼ばない、の話がもつれて結局コロンビアの詩人アルトゥーロ・カマチョ・ラミレスとその妻、ネルーダ夫妻、エドワーズ夫妻の6人だけのパーティーになった。
 <あれはとても明るいパブロ・ネルーダを私が目にする最後の機会になった。あの頃のネルーダはよく黙りこくって考え事をするようになっていた。午後のあいだを窓辺に腰掛け、蚤の市で買った船乗り用の双眼鏡で(大使館の窓から見える)彫刻が施された金色のドーム屋根を見つめていたものだ。「最初は気に入らなかったが」と彼は言った。「でもほら、あの形を見ているうちにだな、あの彫刻、あの金色、縦のラインが好きになりだしたのさ……」(T., 378-379)>
 実はこのとき大使館には大変な業務がきていた。71年11月に銅の完全国有化のための憲法が改正され、その後、アメリカ企業(とCIAとエドワーズは指摘している)の圧力で銅の価格は下落、外貨がいっさい入ってこなくなったチリは対外債務の支払いを停止せざるを得なくなる。パリクラブ(という名の優雅な債権取り立て人たち、とエドワーズは書いている)は至急チリ大使を呼びたてた。ここからエドワーズは、ヘネシーという名のアメリカ通商代表の気どった男を相手にした交渉を説明するなかで、『さらば詩人』ではざっくりとしか書いていなかったチリの二大銅企業、つまりケネコットとアナコンダについて詳細に説明している。パリクラブ側の主張としては、これらの企業への補償金を払わない以上、それらはすべて債務として過去の借金に加算されることになるから、チリの債務問題は一からやり直しというものだった。もちろんチリの代表としてエドワーズらはアジェンデ政権の言い分も伝えなくてはならなかったが、『さらば詩人』でも触れられていたように、それは詩人ネルーダですら非現実的と評する言い分で、話にならなかった。
 エドワーズはチリにケネコットが進出した19世紀に遡っている。スプリュール・ブレイデンがコンチャという地主が所有していた僻地エル・テニエンテを安値で買い取り、そこにケネコットの支社ブレイデン・コッパーを創業する。<あれはチリの19世紀を特徴づけた国内経済の発展がその動きを完全に止めてしまった時期だった。1891年の内戦でバルマセーダが敗北して以降、チリは経済的にも文化的にも究極の植民地化の時期を経ていた。国中が二束三文で売り飛ばされていた。エル・テニエンテに拠点を構えて以来、ブレイデン・コッパーは1930年に至るまでチリ政府に一センターボの税金すら納めていない。(T., 381)>という歴史もエドワーズは知らないわけではなかったが、この後もチリは銅資源をめぐって基本的には米国企業に負け続けて1971年を迎えてきたわけだ。歴史の課した不条理をそれこそ「従属理論」の立場から新興国の債務弁済を正当化する根拠として使用したくなる気持ちも分からないではなかったろうが、外交官としてその種の言上げが無理筋だという現実も忘れていなかっただろう。
 いっぽうのネルーダはパリクラブのあと別のクラブ、今度はニューヨークの国際ペンクラブに招待され、開会の演説をすることになって、ついこのあいだ自分がいたパリクラブが自国チリの命運を勝手に決めている現実について話をする。<アメリカの代表——宴会のお酒を思わす名前の男——はコールリッジの詩でアホウドリを殺す船乗りを思い起こさせました。その船乗りはその後の一生を殺したアホウドリを背負って過ごすことになるでしょう。地図を見ればわかりますがチリは飛翔するアホウドリのような形をしているのです……。この演説でネルーダはミスター・ヘネシーに一生チリを背負い続けることになると警告した。その後パリクラブでの交渉をしていたあいだ、当のヘネシーが私に近づいてきて、ネルーダの自分に対する批判はひどくないかと言い出した。「私はチリに危害を加えようとしたことは一度もない。妻はパラグアイ国籍で、ネルーダさんの大ファンだ。我が家には彼の本がたくさんあるのに」。しかしながらネルーダの宣告は現実のものとなり、思うにヘネシー君も今ごろはそのことをよくわかっていると思う。コールリッジの教えに基づくなら、彼にとってただ一つの救いがあるとすれば、自然、あらゆる生き物への愛を知ることだ。そうすればアホウドリの重荷は彼の首から離れて海に沈んでくれるだろう。(T., 382)>とある。コールリッジ「老水夫の詩」に現れるアホウドリをチリになぞらえての演説ということだが、これは全集には採録されていなかった。パリクラブでの会合は最後はだいたい飲み会だったらしく、そこでアメリカ以外のチリに理解ある国の通商代表たちに慰められていたのだとか。そのなかでネルーダがこういうことを言ったとエドワーズは書いている。<アメリカの圧力はこれからも容赦ないだろう」と彼は言った。「甘い期待は少しも抱いてはいかん。政府の超過利潤という理屈は、我々にはどれだけ好ましいものであっても、奴らを納得させることはできない。あれは資本主義そのものを敵に回す理論だ。大資本というのはまさにその超過利潤で生きているのだからな。(T., 383)>ここでネルーダが言っている超過利潤、スペイン語で utilidad excesiva の理屈というのは、ガルセス『アジェンデと人民連合』(時事通信社)等によると、いわゆるアジェンデ・ドクトリン、すなわちチリ政府がチュキカマタやエル・テニエンテのような大銅山を国有化し、その補償額、すなわちケネコット等に支払うはずの推定金額のうち、1955年から70年までの平均で年14%を上回る超過利潤を差し引く、というものである。
 ネルーダが言うように資源レントだけで食っているケネコット側が納得するはずもなかった。ケネコットは対抗策として、国有化されたエル・テニエンテから出荷された銅を運搬していた船を差し押さえ、パリの大陪審にチリ政府を相手にした訴訟を起こすことになる。というわけで今度はパリクラブから大陪審に場所を変え、ネルーダとエドワーズが呼び出されることになった。1972年末、ネルーダの病状はかなり悪化している。<主任判事と二人の副判事が代表するパリ大陪審の目にも状況は間違いようのないものだった。いっぽうには強大で巨大な触手を伸ばす多国籍企業ケネコットが、そしてもういっぽうにはチリという貧しい国がいて、その1972年10月の時点でその国の財政は危険なラインに触れるかもしくは超えようとしていた。ルネサンス風の高い窓から差し込む光に照らされた病気のチリ大使の厳しい表情は、深い、なにかその場の象徴的な憂鬱さを湛えていた。(中略)パブロは疲れたということを表情で示し、退出しようとした。難儀そうに立ち上がると、忍び足で出口を目指した。私は彼に付き添ってひとけのないホールを横切った。「こちらの弁護士の主張はよかったな」と彼は言った。「向こうの弁護士はマルクス主義がどうとか言って判事の気を引こうとしていたが」。しかしパブロは決して楽観主義に流されるような人ではなかった。「なんでもチリでは」と彼は言った。「奴らがあらかじめデモを動員して、すっかり満足しているそうだ、この裁判にも影響があるとでもいわんばかりにね…」。彼はチリ政府が向こうの要求する補償金を払わない限り、相手が手を緩めることは決してなく、最後には強硬手段に出てくると考えていた。「司法権外だとかどんなに理屈をこねてもここにいるフランス人たちを説得することはできない。彼らが知りたいのはチリが補償金を払ったか払ってないかだ。彼らにとって問題はそこにしかないのだ。(T., 385-386)>
 結局、私企業が一独立国を訴えるというこの異常な訴訟についてパリ大陪審も扱い兼ねたのか、最終的に手術後のネルーダがアジェンデ政権からの伝言、独立国が他国の法廷で裁かれることを拒否する、を二度目の審議で渡した後で大陪審側が訴訟そのものから手を引く意思を示した、とエドワーズは書いている。彼は大陪審の動きにはおそらくケ・ドルセー、つまりフランス外務省の圧力がかかったことも間違いないと指摘したうえで、チリ外務省界隈では彼がフランスでチリを売り渡そうとしたとする噂も流れていたと書いている。
 ゴシップも忘れない人です。
 その裁判が実質終わってもネルーダは悲観的だった。<「わが国の資源の国有化が他国の法廷で審議されるなどもってのほかだ」と伝言を受け取ったパブロは言った。「とはいえ実質の審議は進行中なのだよ。例の銅は差し押さえられたままだ。世界中に銅を売りさばくことにこそ、わが国の主権が働くというのに!」(T., 389)>
 エドワーズは当時のネルーダの世界情勢の見方ついても触れている。<そのころパブロはよく、真のベトナム、もうひとつの静かなるベトナムこそがチリである、と言っていた。そして改宗した根っからのソビエト信者として、ソ連には世界のどこが危うい状況にあるか正確な認識がないように見える、と、ほのめかすこともあった。彼らがベトナムで一月に使っている資源を一年でもいいからチリに向けてくれたら……。私は彼に、チリには戦車も対空砲も要りませんよ、と指摘した。チリに要るのはドルと小麦ですが、いまのソ連ではどのどちらも枯渇しています。するとパブロは黙ったまま唾を飲み、容赦なく聡明な眼差しで地平線上に重なる黒い雲をじっと見つめるのだった。チリではトラック運転手の危険なストが長引いていて、工員たちが多くの工場を占拠し、国全体が分断で麻痺し、決裂直前のように見えた。(T., 390)>ノーベル文学賞を受賞したわずか1年後にここまで深刻な立場に追い込まれた作家がいただろうか?
 その後は債務をめぐる外交上の交渉の話題になっている。欧州諸国は左派が伸長したフランス以外のスペインやオランダやイタリアといった国々はチリに融和的、西ドイツは農地改革でチリ南部に所有していた土地を失った議員がいて危ういところだったが、社会民主党政権がチリに融和的な態度を示す。だが、債券の圧倒的多数を占めている米国が、てこでも動こうとしない。アジェンデはメキシコと国連本部を相次いで訪問し、米国通過時にはニクソンとの面会も打診するが当然無視され、そのままモスクワへ支援を求めに行く。クロドミーロ・アルメイダは中国に援助を求めに行くが、周恩来からチリのやり方は性急すぎる、中国が10年かけたことを2年でやろうとしているのはさすがに無茶ではないかと釘を刺されたりと、あまり外交面からアジェンデ政権の話をしている本を読んだことがなかったので、このあたりの情報は単純に面白い。
 1972年のネルーダと枢機卿との対面、その後のネルーダのチリへの帰国、年が明けて1973年、3月の総選挙で人民連合が勝利していよいよ内戦かクーデターが避けられない(とエドワーズは考えた)情勢に差し掛かる直前、彼はパリでモスクワ訪問後の軍人一行を出迎えた。モスクワで二週間、現地の軍施設に実質監禁状態にあった彼らは酒を飲んで大いにはめをはずし、夜も更けたころ、うちのひとりがエドワーズに近寄ってくる。
 <「思うに君は抵抗派なんだろうね?」
 「さあ、いったい何に対する抵抗でしょうか?」
 将校はやや困惑しながら片方の眉をあげ、それ以上は何も言わなかった。彼らはモスクワでの生活のこと、そこで感じた悲しみ、夜の九時を過ぎると遊ぶ場もなく、レストランはとにかくサービスが遅いことばかりを話題にしていた。
 軍がまだ政府と共にあったそのころ、将校たちを率いていた長官は、自らを、残存する数少ない遵法派の軍人であると考えていた。彼は将校たちにアジェンデに対する忠誠を求め、チリでは「政治に鼻を突っ込まないこと」と繰り返し、そして「全チリ人の和解のために」働けと伝えていた。私は彼がアジェンデの名前を口にしただけで、将校たちのあいだに言葉にならず耳にも届かない絶望が引き起こされたことに気が付いた。(T., 395)>この辺はエドワーズにしてみたらすでに、キューバで練習船エスメラルダ(このあいだ万博のために大阪湾にもきていたよう)を出迎えて軍人らと話したときに気づいていたことが、さらに鋭く察知されるようになっていたということだろう。エドワーズはこの数週間後にやはりモスクワからの帰途についていたカルロス・プラッツもパリで迎えている。米国から兵器も輸入できなくなっていたチリ軍は次期兵器をソ連から導入することを検討せざるを得なくなっていたようだ。あのままチリが社会主義を続けていれば、キューバの次にミグが飛ぶ国になっていたというわけである。
 パリクラブで債権国たちとの最後の交渉を終えた(そしてもはやどうしようもないことが改めて分かった)エドワーズはいよいよ執筆に専念するため休暇申請を友人で同僚でもあったオルランド・レテリエルに提出する。この時期、エドワーズは後にピノチェト政権下で秘密警察に殺害されることになる人物2名とすれ違っていることになる。エリゼ宮での最後の仕事の最中、各国の外交官たちに囲まれながら自分がこれから歩む道(役人ではなくなり、成功もおぼつかない作家になる)を想像して暗澹たる気分になっている。大使館での最後の日、彼は、チリから債務処理のためにやってきた大勢の経済官僚たちを目の当たりにしている。その多くはクーデター後にどうなったかもわからない。シカゴから連れてこられた新しい経済官僚たちが世界に先駆けた新自由主義的経済体制を構築するあいだ、社会主義を目指した旧政権がつくった膨大な債務の後始末に追われていた優秀な連中はどうなってしまったのだろうか。彼はスペインのカラフェルに移り住み、本書の執筆に専念することになる。
 <いずれにせよ、1973年の9月11日まで、チリには何も起きないという、他のチリ人と同じ思考が私のなかにも働いていた。カラフェルの静かな海辺で私は毎朝のようにこの本の最終校正をはじめ、ときには夕方の四時か五時まで続けることもあった。そんなある日の午後、目を真ん丸にした娘が駆けつけてきて、途切れがちの声で、バルセロナから電話が来た、チリで革命が起きて飛行機がモネダ宮を爆撃したって、と言うのである。(T., 404)>
 カルロス・バラルの自伝では海辺を歩いているとドノソが走ってきた、とあるが、これはエドワーズが娘を介して第一報に触れた後の出来事だったのだろう。エドワーズはアジェンデの自殺説を当初は信じたという。というのは、そこに至るまでの過去数年間、彼は19世紀末のチリ大統領バルマセーダのことを調べることが多く、アジェンデとバルマセーダをよく比較していたからだった。バルマセーダは1891年に内戦を引き起こす事態になった(チリにとってはパシフィコ戦争以上の大事件だったとエドワーズは位置づけているが、それはこの時期にブレイデン・コッパー等、後のチリ資源レントの大半をむしり取っていく外国企業が根付いた時期にも相当するからだ)後にアルゼンチン大使館へ亡命、そこで拳銃自殺している。このあたりにはネルーダの『大いなる歌』にも詳しいが、同じように、国を内戦にも近い緊急事態に導いたアジェンデも自殺したと考えたわけだ。しかし、このエピローグを書いた段階ではその第一印象を修正している。
 <いまではむしろ、おそらくアジェンデは機関銃を手に自らの正当性を守り抜き、襲撃者たちによって撃たれて死んだように思われる。軍事評議会が出しているアジェンデの自死を示す証拠はごく脆弱なものだ。彼はこうしてわが国の英雄たちの霊廟にその名を連ねたというわけである。独立戦争で無政府主義者として頭角を現したカウディージョで、アルゼンチンへ渡ろうとしていたときにメンドーサで銃殺されたホセ・ミゲル・カレーラと、ホセ・マヌエル・バルマセーダと肩を並べたのである。三人ともかつての、そして直近のチリにおいて、その政治的リアリズムの欠如を咎められた人物だ。しかしながら、神話と歴史という闇の向こう側で、彼らはみな取り消しようもない業績を成し遂げてもいる。カレーラはチリ初の印刷所と国立高等学校を創設し、奴隷の子孫の解放にも関わった。バルマセーダは外国資本を管理する非常に近代的なアイデアに加えて、数々の公共事業と教育開発にも関わった。アジェンデは、かつては独立国であるにもかかわらず輸出額の70%を米国企業に吸い取られていた銅資源を完全国有化した。(T., 406-407)>
 ヨーロッパのマスコミはいずれもヒステリックな論調でチリの事件を糾弾しているとエドワーズは言う。カタルーニャでは地元出身の司祭ジョアン・アルシナが軍部に殺害された事件が大々的に報道されていた。10月。エドワーズのもとへもチリからの知らせが続々と届いてくる。
 <著名な共産主義者の技術者が国立スタジアムで撃たれた数日後に病院で死亡していた。別の人物は見せしめのために同じスタジアムで遺体のまま二十四時間放置されていた。私の知り合いの知り合いであるひとりの友人男性は、本当はそうでないのに左翼革命運動の一員とみなされて、義理の母親との食事中に拉致され、その遺体が翌朝現場から数ブロックのところで見つかった。歌手のビクトル・ハラが殺されていた。別の友人は電気技師である夫の息子を探しにモルグへ行き、そこで小さな部屋に積み重なる、死んだばかりの170人分の遺体を目撃していた。知り合いの医者のひとりは警官に殴られていた。アンヘル・パラについては何の情報もなかった。美術評論家で平和的市民の模範、スターリン時代に社会主義リアリズムを敵に回して戦った猛者であるエンリケ・ベジョも逮捕されていた……。(T., 408-409)>
 ビオレタ・パラの息子にして歌手のアンヘル・パラは国立スタジアムに拘束後、紆余曲折を経て解放され、その後はメキシコ等へ亡命、2017年まで生きてその歌手人生を全うすることになる。アルゼンチンで『スル』が全盛のころにチリで文芸誌『プロ・アルテ』を主宰していたエンリケ・ベジョのその後はよくわからないのだが、この論考によるとやはり「よくわからない」と言っていて、1974年にベルリンで死んだとだけあるので、亡命するところまでは行ったのだと思う、今度サンティアゴに言ったら人づてに聞いてみよう。
 こうして見てくると、外交官としてのエドワーズはアジェンデ政権のやり方にどちらかと言うと批判的で、急進的な左派の言説には辟易しているようだし、そもそも本書自体が反革命キューバの本であるが、作家としてのエドワーズは多くのリベラルな表現者たちと交流があり、この73年の1~2か月で多くの友人たちを失ったことが分かってくる。彼自身のサンティアゴの家の地下室、そこには蔵書が隠してあり、捜査の対象になったが、軍部が間違って二度とも隣家の地下室を強襲したため、ネルーダ等の本も難を逃れたという。近所には裏切り者もいたようだ。
 <私も知っている、若いころにはアジェンデに一票を投じたこともある男が、自分の町の左翼を密告しようと身構えていた。奴らに死を!というわけだ。映画作家のパトリシオ・グスマンも近所に住む人々の密告で国立スタジアムに送られた。若いころには作家になりたくて仕方なかったある読書愛好家は、政治的に疑わしいと思われる本を庭で燃やしていた。(T., 409-410)>
 そしてパリに住むひとりのチリ人女性の手紙を介して、エドワーズは、ネルーダの遺体が軍部によってすっかり荒されたラ・チャスコーナの家に届けられた顛末と、葬儀の場に集まった人々のあいだから、誰ともなく「同志ネルーダ」と呼びかける声が上がったということを知る。
 エドワーズは1972年に帰国したネルーダと二度と会うことはなかった。前に紹介したように、あとは手紙のやり取りだけがあった。73年3月の総選挙、エドワーズがむしろ「終わりの始まり」と考えたあの人民連合の大勝利も、もちろんネルーダは言祝ぐ手紙をエドワーズに寄こしていた。しかし、と、エドワーズは1970年の秋口のことを振り返る。
 <しかしまだ戦いが始まる前から、つまり1970年10月のあの昼過ぎに私がサン・クリストバルの丘の麓にある彼の家を訪れたときから、パブロ・ネルーダは、その毛穴とアンテナのすべてを使って、海底深く胎動する破壊的な波を予見していたように見えた。彼は物質の呼吸を、粘土のなめらかな曲面を、板の木目を、庭の動かぬ植物たちの暗い生命を、それらの木々の震えて尖って湿り気を帯びた葉を感じ取り、そして、見たこともない野蛮な力が外部からやってきて、そうして事物や自然の均衡を乱そうとしているという考えにとらわれ、強い、言葉にはできない苦しみを覚えていた。「すべてが真っ黒に見える」と彼が言ったことがある。その数か月後、ハバナを発つ前日にフィデルと革命の困難について語り合っていたとき、私がそのエピソードを彼に紹介すると、フィデルはすぐさま「ネルーダはよくわかっているな」と答えたものだ。(T., 414)>
 ここでエドワーズによるネルーダ関係のコメントは終わりである。エピローグの締めは、エドワーズ流の反ロベスピエール主義、すなわち「敵か味方か」という思考法への嫌悪感の表明になっていて、彼の著作を読んできている人間には特に新しいことはない。
 今回再読して気付いたことがある。
 アジェンデ政権とクーデターについての見解でもう新しいものはないが、今回分かったのは、エドワーズという作家が、二人の父、というより厄介な兄と言ったほうがただしいかもしれない存在として、フィデルとネルーダという、好対照であると同時に、どこか似ている極端な二人を捉えているということだ。エドワーズは外交官として悩めるネルーダの姿を間近で見てきた。逡巡し、自らが同盟者だと感じている政治勢力の勝利にも本心では浮かれるどころか「真っ黒な」未来を予見していた。だが詩人としてのネルーダは彼にとって乗り越え難い存在でもあったろう。外交官ネルーダの姿を同じ外交官として回想することで、と言ってもそれは本書ではなく『さらば詩人』で達成されることになるが、エドワーズは表現者ネルーダに一社会人としての姿を加味し、それを評価するでも批判するでもなく、ただ回想として差し出している。これとはうって変わって、エドワーズのフィデルに対する態度には、完全な批判のなかにもどこか必ず共感めいたものを私は感じる。あくまで私の印象に過ぎないが、エドワーズはネルーダに対してよりフィデルに対して「よりシンパシーを」感じていたように思われる。エドワーズは同じ文学者としてネルーダにはどこか距離を保っていたように見えるが、あからさまに「文学は敵」とみなしてくるフィデルに対しては完全なる外交官として実直に接しているように見える。現にエドワーズはフィデルが自分の父親とよく似ていると書いていた。愛憎半ばする、というのとは一味違う交流がフィデルとのあいだにはあって、それが、本書が革命キューバ批判の本でありつつも、なんだか「フィデル面白エピソード本」化してしまっている大きな要因のひとつであろう。まあ、フィデルという人間が、それだけ面白い人でした、ということなんでしょうけど。
追記:題の「パリのエピローグ」とはパリで書かれたという意味ではなく(カラフェルで書かれているので)、パリの大使館時代のエピソードを追加しました、という意味みたいなので、強いて訳すなら「パリ時代に関するエピローグ」でしょうか。
(了)
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フェルナンダ・トリーアス『桃色の汚泥』

2025-04-23 | コノスール
南米のアルゼンチンかウルグアイと思しき(スペイン語の特徴で分かる)どこかの港湾都市。作者情報があれば明らかにモンテビデオだと思われるのだが、最後まで特定されることはない。ある日、大きな湾のような川に大量の魚が浮く。魚の死骸は来る日も来る日も浮かび、やがて川面には誰も見たことがないようなピンク色の汚泥が浮かぶようになる。それが風にあおられて赤い風となって街に吹き寄せる。やがて鳥が消えた。このころから街では奇妙な伝染病が広がりだす。余裕のある市民は街の郊外へと郊外へと非難するようになり、やがて隔離された街には郊外へ行けなかった人たちだけが取り残されるようになった……。
 パンデミックの真っ只中に書かれた、と言いたいところだが、どうもそれは関係なくたまたまのようである。作者のフェルナンダ・トリーアスはウルグアイ文学の伝統といってもいいのだろうか、閉鎖空間を舞台に寓話のように高度に抽象化された日常を描くことを得意とする。前にここで紹介した『屋上』よりは具象的で、人物も手ごたえのある人間関係を生きている。
 物語は語り手の女性の身の回りで終始する。
 幼馴染の夫で、いまは隔離され別居状態にあるマックス。マンションで同じく取り残された老人たちと暮らしながらひたすら娘に愚痴を言い続ける母。そして郊外に引っ越していった裕福な両親に取り残され、彼女がシッターをすることになった過食症の少年マウロ。
まとめ中…
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レイラ・ゲリエーロ『電話-ある肖像』

2025-03-07 | コノスール
レイラ・ゲリエーロはアルゼンチンの現代作家、どちらかというとジャーナリストと呼ばれがちで文学のカテゴリーに入れてもらえていない印象がある。日本では「ライター」という言葉でくくられている物書きたちに近い立ち位置であろうか。雑誌などに書いた記事をまとめた本も数冊あり、ラテンアメリカの実在した作家や犯罪者の伝記を様々な現役作家に書かせたのを編集した本や、キューバ内外の作家による旅行記をまとめた『岐路に立つキューバ』などもある多彩な人だが、少し長めの伝記ものは2006年のクロニカ、記録として題された『世界の果ての自殺者たち-パタゴニアのある村の記録-』以降、出版サイドからは常に小説であるかのように発表されてきた。最新作で、エルパイス紙で去年の本1位に選出された本書もアナグラマの白いシリーズなので、いちおう小説という建付けである。
 そしてたしかに小説である。
 作者自身を語り手とし、パンデミックのなかでひとりの女性とその関係者にインタビューをし、彼らの交際に加わり、ときにはスペインやフランスまで出向いて行って彼らと行動を共にする過程がつぶさに描かれている。ルポルタージュの形をとった小説で、かつてアメリカでニュージャーナリズムと呼ばれたスタイルを想起させる。
 <百年の孤独研究所の招きで数週間をメキシコ市で過ごし、現地の文学レジデンスに参加している。コヨアカンの民泊エアビーアンドビーに宿泊。綺麗な居心地のいいアパートで、1998年まではオクタビオ・パスが創刊した『ブエルタ』誌の編集部があった。オクタビオ・パスが通った場所とサン・アンヘルのガルシア・マルケスが『百年の孤独』を執筆した家を行き来するという事実についてもったいぶったことを書けそうな人が大勢いると思うが、私はかなり機械的なこと――本書のために行ってきたインタビューを書き起こす作業――に時間を費やしているので、妄想をしている余裕はない(代わりに首がすごく痛む)。あちらに滞在中、記憶博物館から「ESMA2で女性であること」という展示の見学会への他のジャーナリストも含めた招待状が届く。目的が何かは問わない。もう見ている展示だが受けることにし、キャンセルしなければならなくなっても時間があると言い聞かせる。(388)>
 というように語り手の最新時間は2019年から22年あたりにかけて普通に進んでいくのだが、彼女がいったい誰にインタビューをしているかというと、上記のESMA、すなわち Escuela Mecánica de la Armada 海軍工科学校という現在はアルゼンチン政府が運営する記憶博物館となっている場所に約1年半拘束され、拷問と性暴力の被害者となり、そこで出産もした女性、軍政下の地下施設サバイバーのひとりであるシルビア・ラバイルと彼女の周りの人々である。
 ラバイルは軍事政権下の1976年末に秘密警察によって拉致され、悪名高いESMAに拘束されてしまう。それから1978年6月に解放されるまでの約一年半の間、収容施設内で出産をし、生まれた子はブラジルに逃亡中の夫の両親に預けられる。収容中、彼女は数人の軍人に同伴させられ、彼らの諜報活動に同行していた。そして解放後、このことが原因で、同じ時期に弾圧対象となっていたアルゼンチン人や失踪者の家族等、特に五月広場の母の会メンバーから厳しく糾弾されることになる。
 拉致の日、施設内での暴力、出産、その後の施設内での様々な活動(実際に女性収監者たちは数々の仕事をここでさせられていた)、施設の軍人の家に連れていかれ、その妻と三人でのセックスを強制されたこと等がインタビューと著者自身の回想を通じて明かされてゆく。
 劇的な展開があるわけでもなく、凄惨な描写が続くわけではない。むしろコロナ禍に生きる初老のアルゼンチン人女性の日常が淡々と綴られているという印象を受ける。語り手は彼女の受けた暴力にフォーカスするのではなく、彼女がそうした暴力といかに向き合っているのか、彼女のいまの人としての在り方がどのように規定されているのかを様々な角度から冷静に読み解いていく。
 性行為の対象も大きなカギになる。
 獄中で出産をした子の父親は彼女が学生運動に身を投じていた頃の、一種の若気の至りからの彼氏であるが、いま現在彼女のパートナーとなっているのは、その最初の旦那と知り合う前にこっぴどく振っていた思春期のボーイフレンドで、私はずっとこの精神科医の現旦那に同情しながら本書を読んでいた。解放後、最初の旦那とは縁が切れ、次に夫になった年上のアルゼンチン人。彼らへのインタビュー等を介してラバイルという女性の様々な顔が見えてくる。
 暴力の時代の記憶をどう扱うかは各地域によってさまざまだが、最も厄介なのは忘却と和解をめぐるプロセスである。アルゼンチンの場合、失踪者にまつわる記憶の整理はかなり進んできたらしいが、収容所サバイバーの特に性暴力をめぐる加害と被害の情報共有はいっこうに進んでこなかったらしい。それが近年ラバイルらも関わる形で加害者が司法にかけられる事案が相次いだわけだが、長年のあいだ蓋をされてきた。なぜならばこの時代の性暴力関連のエピソードは上記のように「軍警察と昵懇になって裏切った娼婦ども」というスキャンダラスなイメージで語られることが多く、本書で再三指摘されているアルゼンチンの作家リリアナ・ヘーケルの物議を醸した小説『物語の終わり』(1996)等、文学作品やテレビドラマなどの表象レベルでも同じイメージが消費されてしまっている実態がある。
 公権力が暴走した時代の性暴力の記憶をどう扱うか、という極めて困難ではあるが真摯に向き合う必要のあるテーマを真正面から取り上げつつも、それをひとつの汎用性のある(が概して特定の情動バイアスに流されがちな)「物語」に回収してしまうことを否定すべく、著者は敢えて自制的な文体を採用し、ルポルタージュと小説的語りの融合によって新しい記憶表象のあり方を提示してみせた。
 取材に基づくタイプの作家、という点からみれば、彼女はバルガス・リョサらジャーナリズム畑作家の正当の継承者。男のほうではフアン・ガブリエル・バスケスがひとつ抜けている感じがあるが、私的なものや詩的なものに特化することの多い女性作家のなかでは極めて例外的な作風を維持していると言えようか。代表作とされる『世界の果ての自殺者たち』を機会があれば読んでみよう。

Leila Guerriero, La llamada. Un retrato. 2024, Anagrama, pp.430.
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