ノナ・フェルナンデスは1971年生まれのチリ人作家。あちらで彼女の話をすると口をそろえて舞台やテレビなどマルチな才能の持ち主だという。文学作品としては長編の実質デビュー作がこの本の初版(2002年)で、その後は少し空いて2012年に長編『フエンサリーダ』を出している。未読だが手元にあるので裏表紙等を参考に少し紹介すると、語り手である女性の作家がゴミ捨て場から一枚の写真を発見し、そこに写っていたカンフーマスターの男が軍政時代に行方不明だった父親であることを知り、彼の探求に乗り出すという内容。2013年の『スペースインベーダー』も軍政期の記憶にまつわるもの。さらに実質上の自伝ともいえる『未知の次元』(2016)は秘密警察DINAの拷問者をめぐるやはり記憶にフォーカスしたもので、少なくとも文学に関しては彼女の作品に一貫して見られるのが、自らが間接的にしか知り得なかった時代の記憶をどのように表現するかという問題系である。
そしておそらくその中心にあるのがこの小説だろう。
マポーチョというのはサンティアゴの中心を東西に流れる川の名前である。中心街はこの川がランドマークになっていて、岸辺には広大な森林公園があったりして私もよくここを歩いている。その川面に向かってなにかを自問している女性の語り手(最初の文章 Naci maldita.「私は生まれたときから呪われている」でわかる)によって話は進行していく。ひさしぶりに故郷のサンティアゴに戻ってきたというこのラ・ルシアは、弟のインディオとの電話での会話を回想する。このあたりは典型的な一人称小説かと思って読み進めていくと、しだいにそうではないことがわかってくる。
まず彼女自身の視点、つまり一人称の語りと彼女を外から捉える視点、つまり全知の、というより彼女以外の第三者から物語をとらえる視点が交互する。バルガス・リョサ怒る……ではないですが、小説を読みなれた読者なら誰しもが「あれ?」と思うだろう。
何が起きたのか。
というより、どのような語りが進行しているのか。
それを考えながら読むしかないタイプの小説、それで思い出すのはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』だが、この小説もルルフォの名作と同様に、語り手をはじめとする多くの人物が実はすでに死んでいるということが断片的な情報から浮かび上がってくる仕掛けになっている。
文体はこのようなものだが、物語の大筋としては、このラ・ルシアの亡霊と思しき女がマポーチョ川沿いを行き来しつつ、様々なものや人(やおそらく死人)と行き交い(現実に交流しているかは分からない部分もある)、最終的にひとつの死体となって灰と化し、川から太平洋へと下っていく自分を第三者的な立場から語るという構造である。なので多くの学者や批評家はこうした語り手の状況を「分離した」と表現しているようだ。これはフエンテスの『アルテミオ・クルスの死』などでおなじみの手法である。
いっぽう4章のなかのそれぞれけっこうな分量をサイドストーリーが占めている。このサイドストーリーは歴史上の実在する人物に題材をとっている。現れるのはチリの正史において権威ある物語をすでに付与されている人物ばかりなのだが、彼らの物語が特にセクシャルな角度から捏造されて立ち現れてくる。
聖ヤコブの町サンティアゴの創健者であるコンキスタドールのペドロ・デ・バルディビアは、かつて馬方として雇っていたインディオの(後の)英雄ラウタロによって捉えられ斬首された。というのが正史の一般的ストーリーだが、小説はここを書き換え、二人のあいだに同性愛関係があったことにすり替えている。そしてラウタロもまたスペイン軍に捕らえられて斬首され、首を失った二人の死者はラ・ルシアとすれ違うことになる。
二人目は18世紀のコレヒドールで小説では「悪魔」として登場するが、これは正史ではれっきとした人物で、このルイス・マヌエル・デ・サニャルテゥはマポーチョ川にかかる堅牢なカル・イ・カント橋を建設させたことで知られているが、小説では悪魔が人間の姿をとったこの男が多くの奴隷たちをこき使って橋げたの下に埋め込み、しかも美しい二人の十代の娘たちと近親相姦関係にあったことにされている。サニャルトゥの工事で多くの奴隷が死んだのは確からしいが、正史における彼はあくまでもサンティアゴ市中興の祖であり、英雄以外の何物でもない。
最後は1920年代の軍人独裁者イバニェスで、小説では色男としても知られたこの大統領が男娼に交じってダンスをするトラヴェスティだったことにされている。もうひとり独立革命の英雄オヒギンスも登場するのだが、こうした正史の男性的権威がことごとく性の次元で読み替えられていくサイドストーリー、これが本筋とどう絡みあっているのかを考えさせられる小説であると言えるだろう。
ポイントは死者の語りである。
なぜなら正史とは常に生き残った人間たちが紡いでいくものだからだ。そこに書かれなかった闇の物語は想像力を介して再現され、この小説のように捻じれた形で伝わるしかない。ラ・ルシアはクーデターの日に父親と生き別れになり、その後は母親と弟とヨーロッパを転々としながら暮らしていたことが分かってくるが、彼女のなかには父親に会いたいという気持ちと同じくらいに強く、性的接触のあった弟のインディオへの屈折した思いもある。同じ場所に積み重なる歴史のなかを生き、そして死んでいった人々の小さいが歪で奇怪な記憶たちが、公的かつ安定した正史の隙間からじわじわ立ち上がってくる、不動の生者の世界に死者たちの安定しない不穏なオルタナ世界が侵入してくる類の小説といえようか。ラヴクラフトみたいな?
とはいえ、この本は極めて読みにくい。
わけあって読むことになって、改めてこの種の実験小説というか前衛小説のもつ「情報伝達の遅延」という特徴について考えさせられた。アートの世界では当たり前のように私たちが行なっている、作品の前で立ち止まって時間をかける、時間をかけて向き合うという行為、芸術家によって投じられたオブジェの意味づけ行為を鑑賞者側が引き継いでアートという行為を継続する、そのような当たり前の活動が、なぜか文字の芸術である小説を前にすると苦行になる。
苦行と思わずにいられるのは、その時間経過自体が活動の一環になっている人々、つまりアメリカやヨーロッパでこの作品を受容して難解な理論系の枠組みを意識しながらチャキチャキと意味づけ行為を行なっている博士課程在籍者の頭のいい若者たちだけ、なのかもしれない。
しかし、それもやや不毛な話なので、もう少しこの問題(難解な小説とどう向き合えばいいのか)については考え続けてみたいと思う。
作家については、この本よりはるかにリーダビリティが高そうな『フエンサリーダ』を読めば、ひと通りのことが言えるようになると思うので、まずはそちらを読んでみたいと思います。他にすることが山のようにありますけど。
Nona Fernández, Mapocho. Edición definitiva, 2022, Alquimia Ediciones.