Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

ノナ・フェルナンデス『マポーチョ』(決定版)

2024-05-28 | コノスール
ノナ・フェルナンデスは1971年生まれのチリ人作家。あちらで彼女の話をすると口をそろえて舞台やテレビなどマルチな才能の持ち主だという。文学作品としては長編の実質デビュー作がこの本の初版(2002年)で、その後は少し空いて2012年に長編『フエンサリーダ』を出している。未読だが手元にあるので裏表紙等を参考に少し紹介すると、語り手である女性の作家がゴミ捨て場から一枚の写真を発見し、そこに写っていたカンフーマスターの男が軍政時代に行方不明だった父親であることを知り、彼の探求に乗り出すという内容。2013年の『スペースインベーダー』も軍政期の記憶にまつわるもの。さらに実質上の自伝ともいえる『未知の次元』(2016)は秘密警察DINAの拷問者をめぐるやはり記憶にフォーカスしたもので、少なくとも文学に関しては彼女の作品に一貫して見られるのが、自らが間接的にしか知り得なかった時代の記憶をどのように表現するかという問題系である。
 そしておそらくその中心にあるのがこの小説だろう。
 マポーチョというのはサンティアゴの中心を東西に流れる川の名前である。中心街はこの川がランドマークになっていて、岸辺には広大な森林公園があったりして私もよくここを歩いている。その川面に向かってなにかを自問している女性の語り手(最初の文章 Naci maldita.「私は生まれたときから呪われている」でわかる)によって話は進行していく。ひさしぶりに故郷のサンティアゴに戻ってきたというこのラ・ルシアは、弟のインディオとの電話での会話を回想する。このあたりは典型的な一人称小説かと思って読み進めていくと、しだいにそうではないことがわかってくる。
 まず彼女自身の視点、つまり一人称の語りと彼女を外から捉える視点、つまり全知の、というより彼女以外の第三者から物語をとらえる視点が交互する。バルガス・リョサ怒る……ではないですが、小説を読みなれた読者なら誰しもが「あれ?」と思うだろう。
 何が起きたのか。
 というより、どのような語りが進行しているのか。
 それを考えながら読むしかないタイプの小説、それで思い出すのはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』だが、この小説もルルフォの名作と同様に、語り手をはじめとする多くの人物が実はすでに死んでいるということが断片的な情報から浮かび上がってくる仕掛けになっている。
 文体はこのようなものだが、物語の大筋としては、このラ・ルシアの亡霊と思しき女がマポーチョ川沿いを行き来しつつ、様々なものや人(やおそらく死人)と行き交い(現実に交流しているかは分からない部分もある)、最終的にひとつの死体となって灰と化し、川から太平洋へと下っていく自分を第三者的な立場から語るという構造である。なので多くの学者や批評家はこうした語り手の状況を「分離した」と表現しているようだ。これはフエンテスの『アルテミオ・クルスの死』などでおなじみの手法である。
 いっぽう4章のなかのそれぞれけっこうな分量をサイドストーリーが占めている。このサイドストーリーは歴史上の実在する人物に題材をとっている。現れるのはチリの正史において権威ある物語をすでに付与されている人物ばかりなのだが、彼らの物語が特にセクシャルな角度から捏造されて立ち現れてくる。
 聖ヤコブの町サンティアゴの創健者であるコンキスタドールのペドロ・デ・バルディビアは、かつて馬方として雇っていたインディオの(後の)英雄ラウタロによって捉えられ斬首された。というのが正史の一般的ストーリーだが、小説はここを書き換え、二人のあいだに同性愛関係があったことにすり替えている。そしてラウタロもまたスペイン軍に捕らえられて斬首され、首を失った二人の死者はラ・ルシアとすれ違うことになる。
 二人目は18世紀のコレヒドールで小説では「悪魔」として登場するが、これは正史ではれっきとした人物で、このルイス・マヌエル・デ・サニャルテゥはマポーチョ川にかかる堅牢なカル・イ・カント橋を建設させたことで知られているが、小説では悪魔が人間の姿をとったこの男が多くの奴隷たちをこき使って橋げたの下に埋め込み、しかも美しい二人の十代の娘たちと近親相姦関係にあったことにされている。サニャルトゥの工事で多くの奴隷が死んだのは確からしいが、正史における彼はあくまでもサンティアゴ市中興の祖であり、英雄以外の何物でもない。
 最後は1920年代の軍人独裁者イバニェスで、小説では色男としても知られたこの大統領が男娼に交じってダンスをするトラヴェスティだったことにされている。もうひとり独立革命の英雄オヒギンスも登場するのだが、こうした正史の男性的権威がことごとく性の次元で読み替えられていくサイドストーリー、これが本筋とどう絡みあっているのかを考えさせられる小説であると言えるだろう。
 ポイントは死者の語りである。
 なぜなら正史とは常に生き残った人間たちが紡いでいくものだからだ。そこに書かれなかった闇の物語は想像力を介して再現され、この小説のように捻じれた形で伝わるしかない。ラ・ルシアはクーデターの日に父親と生き別れになり、その後は母親と弟とヨーロッパを転々としながら暮らしていたことが分かってくるが、彼女のなかには父親に会いたいという気持ちと同じくらいに強く、性的接触のあった弟のインディオへの屈折した思いもある。同じ場所に積み重なる歴史のなかを生き、そして死んでいった人々の小さいが歪で奇怪な記憶たちが、公的かつ安定した正史の隙間からじわじわ立ち上がってくる、不動の生者の世界に死者たちの安定しない不穏なオルタナ世界が侵入してくる類の小説といえようか。ラヴクラフトみたいな?
 とはいえ、この本は極めて読みにくい。
 わけあって読むことになって、改めてこの種の実験小説というか前衛小説のもつ「情報伝達の遅延」という特徴について考えさせられた。アートの世界では当たり前のように私たちが行なっている、作品の前で立ち止まって時間をかける、時間をかけて向き合うという行為、芸術家によって投じられたオブジェの意味づけ行為を鑑賞者側が引き継いでアートという行為を継続する、そのような当たり前の活動が、なぜか文字の芸術である小説を前にすると苦行になる。
 苦行と思わずにいられるのは、その時間経過自体が活動の一環になっている人々、つまりアメリカやヨーロッパでこの作品を受容して難解な理論系の枠組みを意識しながらチャキチャキと意味づけ行為を行なっている博士課程在籍者の頭のいい若者たちだけ、なのかもしれない。
 しかし、それもやや不毛な話なので、もう少しこの問題(難解な小説とどう向き合えばいいのか)については考え続けてみたいと思う。
 作家については、この本よりはるかにリーダビリティが高そうな『フエンサリーダ』を読めば、ひと通りのことが言えるようになると思うので、まずはそちらを読んでみたいと思います。他にすることが山のようにありますけど。

Nona Fernández, Mapocho. Edición definitiva, 2022, Alquimia Ediciones.
コメント

ボルヘス「トロン、ウクバル、オルビス・テルティウス」3

2024-05-13 | コノスール
ヒュームはバークリーの説がほんの少しの反論も許さず、ほんの少しの説得力もないことに永久に気づいた。ヒュームの見解は地球上ではまったく正しいが、トロンでは完全な間違いである。その惑星に住む民族は——生まれつき——観念論者だ。その言語とその言語の派生物——宗教、文学、形而上学——は観念論を前提とする。彼らにとっての世界は空間における物質の集まりではなく、独立した行為の異質な連鎖である。連続的かつ時間的であり、空間的ではない。トロンの推定される祖語には名詞がなく、この祖語に<現在の>言葉や方言は由来する。動詞は人称をもたず、形容詞の機能をもつ単音節の接尾辞(か接頭辞)で修飾される。たとえば月という言葉に相当する言葉はなく、つきる、つきむ、とでも訳すべき動詞がある。「川の上に月がのぼった」という文は「ロール・ウ・ファング・アクサクサクサス・ムロー」となり、逐語訳すると「むかって・あがって(英語アップワード)・ひいて・ずっとながれる・つきし」となる。(シュル・ソラールは短く「ウパ、ひいて、ずっとながれる、つきむ(英語アップワード・ビハインド・ジ・オンストリーミング・イット・ムーンド)」と訳している)。(25~26)

 アッシュが遺した11巻はトロンという惑星に関する情報の<体系だった広大な断片>だった。広大な断片、というような、いわば大をもって小を修飾する矛盾形容、オクシモロンはボルヘスが好んだ詩的文体である。11巻しかないというのは、やはりこれもフェイクっぽい。あるいはアッシュが所属していたなんらかの結社がどこかで捏造中の、そのなかのたまたま11巻だけが見つかったということかもしれない。というわけで、ここから書誌学的探究が始まって、実在する作家たちが、あーでもない、こーでもない、と喧々諤々になっている様子が語られている。
 そのなかにドリュ・ラ・ロッシェルという名がある。
 ドリュ・ラ・ロッシェルはフランスの作家で、第一次大戦に従軍した後、1920年代に詩を書き始め、米国とソ連の二大勢力に支配される未来を救えるのはこれしかないと信じてファシズムに傾倒、フランスが対独降伏後はヴィシー政権に接近して反ユダヤ主義の雑誌を運営したりしたが、ドイツが撤退後は自己嫌悪に苛まれ、最終的にはレジスタンスの復讐を恐れて自殺したとウィキペディアにはある。日本の大学の『フランス文学史』に華々しく現れる詩人でないことだけは間違いなさそうだが、ロベルト・ボラーニョは絶対にこの詩人の存在を知っていただろう。どこかで名前を見た記憶があるが思い出せない。語り手がこの手記を書いているのは1940年という設定なのでラ・ロッシェルもまだ存命であるが、南米の片隅でパンパ論を書いていたエセキエル・マルティネス・エストラーダとこの奇妙なフランス人作家が(いったい何語で)どうしてこの架空惑星の百科事典をめぐる議論に同じ方向から参加できたのか分からない。フィクションなのでお遊びだと言ってしまえばそれまでなのだが、反ユダヤ主義の文脈に関係した詩人が、捏造、フェイクという概念と容易に結びつくことは確かだろう。ボルヘスにおける反ユダヤ主義やファシズムの文脈はすでに山のような研究があるはずなので、この名前がここで出てくることに関する詳しい考証はそちらに任せよう。
 いっぽう、語り手のように世界各地の図書館を回って文献調査をすることを<下々の探偵小説じみた徒労>と切って捨てるアルフォンソ・レイエスはメキシコの20世紀前半を代表する碩学で、ここでは文献学者というスペイン語圏文学特有の存在の記号として現れている。彼が主張するのは<爪でトラを知る>、すなわち11巻という断片から百科事典の他の巻を自分たちで捏造しよう(彼はそれを<再建する>と表現している)というものだ。
 デジタル世界に移行する前、世界中の本は手に取るものだった。その本は図書館という空間の奥に埋蔵されていた。埋蔵品には目録があるが、古い時代のものになるとそう簡単に現物に行き当たることはない。目録からして紛失したり、カード状の目録が不注意な司書の手から滑り落ちて歴史の闇のなかに消えていったケースも多かっただろう。
 本も同様である。
 みなが「それは実在した」と知ってはいるが、みなが「どこにあるかは知らない」という本がいくつも存在した。そしてそれらの本は実在の確認という作業が忘れられたままその価値だけが後世に受け継がれ、うまく再版という形で新しく活字化されればよいが、そうでなければ学者による記述のなかだけに現れる幻のような呪文と化していく。そのような呪文の実在をめぐって調査や資料読解をしたりする文献学的探究はスペインのお家芸であり、それは新大陸にも一定のボリュームで受け継がれている。アルフォンソ・レイエスはそういう系譜にいる作家のひとりだろう。
 文献学者は実在と捏造の狭間を生きる。
 見つからないならつくればいいじゃないか。
 そういうジョークをいかにも言いそうな友人の名前をボルヘスがここで出しているのも頷けるというものだ。
 こうしてたったひとつの巻から世界中で(?)全巻をめぐる議論(?)が交わされ、そこには大衆向け雑誌までもが介入し、11巻で紹介されているトロン惑星に棲む透明な虎などが話題になった。しかし語り手はこの星の<宇宙の概念>に絞って紹介すると言い出すのである。
 トロンの風変わりな言語の翻訳を試みているとされるシュル・ソラールはアルゼンチンに実在した画家で、彼はパウル・クレー風の抽象画を描く傍ら、パンレングアというエスペラントのような新造言語を提唱して話題を呼んでいた、というよりたぶん失笑を買っていた。この短編におけるボルヘスの言語遊戯にはスペイン語の前衛詩への目配りがあるとしばしば指摘される。ボルヘス自身は若いころの実験的作風を反省し、その後は端正で古典的な(私は単に「じじむさい」と感じているけれど)詩を書くようになったのだが、ひょっとすると心のどこかで馬鹿げた不条理な詩に精を出す奇妙な人々のことをうらやんでいたのかもしれない。
コメント

ボルヘス「トロン、ウクバル、オルビス・テルティウス」2

2024-04-29 | コノスール
 南部鉄道の技師エルベルト・アッシュの限定された減りゆく記憶のどれかは、アドロゲのホテルの生い茂るスイカズラや鏡たちの見せかけの奥にいまも残る。生前は多くのイギリス人と同じく非現実感に苛まれ、死後のいまは、当時からすでにそうであった亡霊ですらない。背が高く、覇気がなく、長方形の疲れた顎髭は赤かった。妻に先立たれ子どもはいなかったものと理解している。彼は何年かごとにイギリスへ行っていた。日時計と何本かの樫の木を見るためだった(彼が見せてくれた写真から私はそう判断している)。私の父は彼と、打ち明け話を排除することから始めてすぐに会話も省くようになる例のイギリス式友情関係を結んでいた(結ぶというのは言い過ぎだが)。彼らはよく本や新聞を交換し、黙ってチェスを差すこともあった……。彼がときどきホテルの廊下で数学の本を手に空の回復不可能な色を見つめていたのを覚えている。ある日の午後、私たちは(十二が十と書かれる)十二進法の話をした。アッシュは、十二進法図だかを(六十が十と書かれる)六十進法図にいま移し替えているところだ、と言った。その仕事はリオグランヂ・ド・スルでひとりのノルウェー人に託されたものだ、と彼は付け加えた。私たちは彼と知り合って八年になっていたが、その地方にいたというのは一度も聞いていなかった……。私たちは田舎暮らしのこと、ブラジルの悪党たちのこと、ガウチョ(ウルグアイの年寄りにはガウーチョと発音する者もいる)のブラジル語源について話をし、十二進法の仕組みについて——神よ許したまえ——それ以上の言葉は出なかった。一九三七年九月(私たちはそのホテルにはいなかった)エルベルト・アッシュは動脈瘤の破裂で死亡した。死の数日前、彼はブラジルから封をした書き留めの小包を受け取っていた。それは四つ折り版の本だった。アッシュはその本をバーに置き、そこで私が——数か月後に——それと出会った。私はページをめくりだし、驚きでかすかなめまいを覚えたが、それについては述べまい。これは私の感情ではなくウクバルとトロンとオルビス・テルティウスの話だからだ。イスラム世界の夜のなかの夜と呼ばれる一夜では、天の秘密の扉がすべて開き、水がめの水がいっそう甘くなる。それらの扉が開いても、私があの日の午後に感じたことを感じることはないだろう。本は英語で書かれ、全部で一〇〇一ページあった。黄色い革の背には表紙と同じこの奇妙な言葉「トロン第一百科事典、十一巻、Hlaer – Jangr」が読めた。日付や場所の奥付はなかった。

第一部ではまず鏡、次に百科事典という、現実を像や文字という形で映し出しはするが現実ではないフェイクがツールとして現れ、さらに作家友だちの口から出まかせかもしれない、少なくともここではそう読める謎の地名が現れ、とぼけた語り手が不審の念を抱く。正体不明の開祖が「鏡と性交は人間の数を増殖させるので忌まわしい」と言ったのも鏡のような道具で虚像が増えること、フェイクがフェイクを呼び、言葉というまがまがしいフィクション増殖機によって運命的にフェイクの産出を続ける人間という生きものの虚構的側面に光を当てているともみなせるだろう。
 ビオイがブエノスアイレスで見つけてきた怪しげな追加の4ページには、いかにも現実らしい実在の地名(ホラーサーン)等が載っている。いま風に言えばオンライン詐欺の情報の9割5分が正しい情報に基づいているというのに近い状況で、フェイクというのはいまもむかしもそう変わらない。ただしそこにはペルシアの神官スメルディスになりすました男、スペイン語で impostor という言葉が現れ、ヘロドトスの歴史に残されたフェイク絡みの仕掛けがここにも施されていることに気付く。
 そしてウクバルなる謎の地で書かれる文学は叙事詩のような「史実に基づく物語」であっても現実をいっさいとり扱わず、ムレフナスとトロンという謎の地域のことだけを扱うという奇妙な下りを二人は読む。とはいえそのような架空の世界をめぐる堂々巡りの文学をこしらえるのはウクバルの謎の人々だけではなかった。それは参考文献のなかに現れるヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの名を見れば明らかなように西欧の近代においても綿々と受け継がれてきたヨーロッパ語のお家芸なのである。
 こうしてフェイクをめぐる二人のやりとりは、フェイクの記号を随所に差しはさみつつ、とりつくしまもないまま終了し、そして第二部が始まる。ここでは語り手自身の知人だった、イギリスからブラジルの奥地に流れてきたアッシュという男が遺したもうひとつの百科事典を紐解く形で進行することになる。この第二部の冒頭にも鏡が登場する。アッシュが死んだホテル。そこにはスイカズラが生い茂り、おそらくたくさんの鏡がかけられていて、すでにフェイクがこの領域に深く忍び込んでいたことを想像させる。
コメント

ボルヘス「トロン、ウクバル、オルビス・テルティウス」

2024-04-22 | コノスール
ウクバルを発見したのは鏡と百科事典の組み合わせのおかげだ。鏡はラモス・メヒア区ガオナ通りの屋敷のある廊下の奥をかく乱していた。百科事典は『アングロアメリカ百科事典』(一九一七年ニューヨーク)というもっともらしい題で、一九〇二年の『ブリタニカ百科事典』の忠実だが緩慢でもある再版だった。事が起きたのは五年ほど前だろうか。その夜、ビオイ・カサーレスが私と夕食を共にし、私たちは、語り手が事実を省略したり捻じ曲げたり数々の矛盾に陥るので少しの読者――ほんの少しの読者――にしか途方もないか陳腐な現実を察することができないような一人称の小説を書くことをめぐる長々とした議論に時間を費やした。廊下のはるか奥から鏡が私たちを見張っていた。私たちは鏡がどこか怪物めいていることを発見した(深夜にはこの種の発見がつきものだ)。そのときビオイ・カサーレスが、ウクバルにおける異端の開祖のひとりが鏡と性交はいずれも人の数を倍増させるから忌むべきものだと表明していることを思い出した。その忘れがたいお言葉の出典を私が尋ねたところ、彼はアングロアメリカ百科事典のウクバルの項目にあると答えた。屋敷にはその事典があった(家具付きで借りていたのだ)。四十六巻の最後の数ページにウプサラの項目が、四十七巻の最初の数ページにウラル・アルタイ語族の項目があったが、ウクバルなど一言もなかった。ビオイはやや困惑しながら索引巻を調べた。ウクバル、ウッバル、オクバル、オウクバル……思いつく限りのよみ方を当たったが無駄だった。彼は帰り際に、そこはイラクか小アジアの一地方だと言った。正直に言うと私はやや居心地の悪さを感じながら頷いた。その裏付けのない国とその無名の開祖は、ひとつの文章を正当化しようとするビオイの謙虚さがでっち上げた虚構だと推察したからだ。ユストゥス・ペルセスの地図を調べて徒労に終わったことが私の疑惑を強めた。
 翌日、ビオイがブエノスアイレスから電話をかけてきた。彼は、例の百科事典の二十六巻、ウクバルの項目を目の前にしていると言った。開祖の名は明らかにしていないが、その教義はたしかに伝えていて、それは彼によって繰り返された言葉とほぼ同じだったが——おそらく——文学的には劣っていた。彼は「性交と鏡は忌まわしい」と記憶していた。百科事典の文章は「そうしたグノーシス主義者のひとりにとって目に見える宇宙は幻影か(より厳密にいえば)詭弁である。鏡と父性は宇宙を増殖させ暴露するから忌まわしい」となっていた。私は、その項目を見てみたい、と真実から目を背けることなく彼に伝えた。数日後、彼は事典をもってきた。これには私も驚いた。あのリッター『地理学』の綿密な地名索引がウクバルの名を完全に見落としていたからだ。
 ビオイがもってきたのは実際にアングロアメリカ百科事典の二十六巻だった。表紙と背の立項表示(Tor-Ups)は私たちの版と同じだが、こちらは九一七ページではなく九二一ページある。その追加の四ページに(すでに読者はお気づきと思うが)立項表示にはないウクバルの項目が含まれていた。その後、私たちは、ふたつの版のあいだにそれ以上の違いがないことを確かめた。二つの版とも(すでにお伝えしたと思うが)ブリタニカ百科事典第十版の再版である。ビオイはそれを数あるバーゲンのひとつで入手していた。

 スペイン文学研究という名の半期もの授業を Reading Borges と題して虚構集の短編を全訳してみることにしてみた。分からないところは優秀な学生諸君に尋ねることにする。冒頭のこのお話は世界で最も知られているラテンアメリカ文学の短編といっても過言ではないだろう。
 この短編のテーマはフェイクである。
 現実ではないにもかかわらず現実「のような」もの。
 この「ようなもの」がじわじわ浸食してくる過程を描いたこのお話は、マシンによってフェイクにずいぶん浸食された私たちの生きる現代世界の隠喩としても読み継がれている。
 フェイクの小道具はいたるところに潜んでいる。
 まずは鏡。この鏡は語り手を含む二人の人物がいた屋敷の廊下の奥を inquietar させていた。時制は線過去なので原文では inquietaba である。この動詞の訳し方が分からないので、たまたま当番になった学生さんと話し合っていくつかのオプションを検討した。他動詞なので目的語である「廊下の奥」を不安にさせる、心配させる、憂慮させる、不穏にする、かき乱す、ざわつかせる、等々。私は当初「ざわつかせていた」を採用していたが、結局いまは上のようにしている。鏡という虚像がその周囲の現実世界を不安定化していたという意味をくむべき動詞のはずなので、それに類する日本語であればよいと思う。
 ちなみにペンギンの Irby 訳では troubled となっている。この動詞だと「悩ませていた」という日本語が浮かぶかもしれない。
 そしてDLTはなんと「鏡は別荘の廊下の奥でそわそわしていた」という意表を突いた自動詞解釈。やはりこのマシンはポエムに向いているような気がします。鏡がソワソワするというのもボルヘス的でいいんじゃないでしょうか、誤訳だと思いますが。
 そして次なるフェイクは百科事典。
 これについては来週読みながら考えることになった。
コメント

新しいチリの文学

2024-04-01 | コノスール
チリと言ってもチリにまつわるエピソードはかなり後のほうにしか出てこないとても不思議な情報圧縮系の小説。理系の学生諸君にも映画『オッペンハイマー』を観た方にもお勧めしたい異色作です。ラバトゥッツの新作は、オッペンハイマーと同じくマンハッタン計画に関わった悪魔的天才学者の生涯を、彼とは直接的に関係のないユダヤ人物理学者の最期と彼が産みだしたともいえるマシンと死闘を繰り広げた韓国人の冒険を交えて描いた、これまた安易には分類しがたい奇天烈な小説。サイエンスをもとにしたフィクションなので、思い切ってこれもまたサイエンス・フィクションと呼んでいいのかもしれません。
コメント