Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

アルムデーナ・グランデス『イネスと喜び』

2023-08-31 | スペイン
 アルムデーナ・グランデス(1960-2021)は現代スぺインを代表する小説家で、その代表作は彼女自身が六部作として構想したシリーズ「終わりなき戦争」のうちの生前に刊行された5作、そしてこの作品の特徴はシリーズ名が雄弁に語っているように1936年からこの国で起きた出来事が21世紀のいまになってもなお終わっていないという観点から、フィクションという形で内戦と独裁をスペイン語によって語り直す、知り直す、見直すことにあるという、非常にわかりやすい作家だ。
 シリーズは2010年の本書から始まるので、彼女のキャリアとしてはそれ以前の単独作品群もあるにはあるのだが、私は戦争の記憶とフィクションという問題系から彼女を読むので、それらの初期作品は後回しにする。予定では昨年までに5部作を読み終えてまとめるはずが、いろいろあって先延ばしになっているのをこの夏に進めることにした。現在抱えている他の仕事の具合を考えると、とてもそんなことをしている場合ではない、という実態には、とりあえず目をつぶって。
 シリーズの皮切りとなる本書には副題がある。正確には『イネスと喜び―1944年10月19-27日、ピリネオ・デ・レリダ、スペイン国民連合軍とアラン渓谷の侵略』とあって、時間と場所と事件名まで記されている。さらに巻末には作者自身による後書きまであって、また作者自身が本書をはじめとするシリーズについて語ったエッセイまであり、参照すべきパラテクストもけっこう多い。
 そもそも本が分厚い。
 本書は後書きも含めて729ページ。
 5冊読むと3千ページは越えるだろうか。
 しかしながら敢えてこういうタスクを自分に課しておかないと、目がしょぼついてきた50代後半が余計にダレそうな気もするので、目に鞭打って頑張ってみたいです。備忘録代わりに物語内容を適宜まとめてここにストックしておくことに。
 物語は1939年の南仏トゥールーズ、祖国から逃れてきたスペイン人キャンプでの一日から始まることになる。女の名はカルメン。イネスはいつになったら出てくるのやら……。
(続く)
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サラ・メサ『家族』

2022-11-22 | スペイン
 地獄とは他者のことである、はサルトルの言葉だが、人が生まれて初めて、そしてけっこう長く対峙する異質な他者である家族こそが真の地獄なのかもしれない。
 スペインの家族はどうだろう。
 詳しくはないけれど、それなりに核家族化が進行し、トッドの分類においては南欧典型のいわゆる平等型核家族が基本モデルで、特徴としては男子間の関係は良好になりがちないっぽう、財産贈与の対象外となる女子は家から出るには婚姻しか道はなく、下手をすると『ベルナルダ・アルバの家』みたいに怖い母親と行き遅れた娘たちが血で血を洗う修羅場になりかねない、とかいう話は余談レベルですることも。
 その家族がシンプルに題された小説。
 サラ・メサ(1976-)はセビージャ生まれ。
 長編『四×四』は学校を舞台に、長編『』はネットで知り合う恋人たちを主人公に、中編『パン顔』は少女と中年男性の関係を、長編『ある恋』はスペインの田舎で果てしなく落ちていくダメ女を描き、どうにもまとめ難い文学世界をつくってしまっているが、なんとなく作風が好きで旧ブログから観測し続けている。短編集『下手な字』もよくできていた。
 評する言葉が見つかりにくいが、敢えて選ぶなら痛々しいもの、スペイン語でいうところの lo patético というか、同じ英語の pathetic のほうがぴったりくるかもしれない。
 直視したくない人間関係の陥穽。
 そこに惹きつけられる作家なのだろう。
 時代は不明だが最新はスマホのある現在なので、おそらく前世紀末あたりに始まってというタイムスパンだ。
 集合住宅の二階(いわゆるピソ)に暮らす家族。
 父、母、長男ダミアン、長女ロサ、次男アキリーノ、そして養女のマルティナ。この六人を軸に、様々な時間と場所でのエピソードが一見すると無秩序に列挙されていて、物語全体の情報が次第に立ち上がってくるというスタイルの構造をもつ。オムニバス形式と呼んだ方がいいかもしれない。
 父は、養女となったマルティナが鍵のついた日記をつけているのを知り、それをたしなめて「この家族に秘密はない」と諭す。そしてこの言葉が最後まで残響として様々な「本当はあった秘密」を浮かび上がらせるいう展開である。
 弁護士をしている(とされる)父は厳格で、家にはテレビを置かず、子どもたちの読む本まで口を出すうるさ型の父親で、ダウン症児の支援のための募金もするなど人格者(のよう)でもある。母はその父に子どもたちの前では従うだけだが、二人は子どもたちに見えない台所でしばしば言い争いをする。
 というのは時間軸の最初のほう、つまり4人の子どもたちが10歳前後の子どもだったころの話にすぎず、それ以降の大人になった4人のエピソードがまじりあう。
 手慣れた小説読みがこの作品を読むと違和感を抱くだろう。
 語り手の位相について。
 私も途中からちょっと首をひねることが何度かあって、そして最後から二番目の断章でその謎が一気に前景化した。
 一人称複数形が現れるのである。
 そして、それにもかかわらず、その「私」が四人の誰かは明かされないまま終わってしまう・
 続く最終断章がひとつの答になっているけれど、それは、改めて最初から読み返してみても、そうか、と首肯できるような明快な答ではなく、いったい語り手は誰だったのだろう?という問いが読後もいつまでも消えない。
 家族そのもの、というのは考え過ぎだろう。
 こうした語り手の「揺らぎ」と呼ぶしかない文体上の特徴は現代スペイン語圏の女性作家に特有のもので、旧世代の男性作家たちの目には許しがたい暴挙と映るかもしれないが、私はけっこう面白がって読んでいる。
 強いていうならアルバムに近い小説。
 家族のアルバム。
 誰が撮影したかは分からないが彼らの誰かが撮っている。その夜に何があったかは知らないが皆が笑っている。全員が死んでいるにもかかわらず現存している。そういう気持ちの悪い不思議、私たちをつなぎとめる、私たちをしつこく追いかけまわす何か、友人や恋人のように気軽に捨てて忘れ去ることのできないやっかいなしこり。なのになんとなくよきものとして残存している。
 だからこそ痛々しいわけである。
 ちなみに私は粗忽者のロサがお気に入り。
 現代スペイン語圏はとりあえずダメ女がきちんと描けたら一流作家?

Sara Mesa, La familia. 2022, Anagrama, pp.224.
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人類とぼく

2021-03-30 | スペイン

スペイン風邪はやや伝統的というか、洗練された人生観をもつ女性だ。そういうのを「昔なつかしい」女という人もいるかもしれないが、彼女がさほど頭脳明敏でもないことを考えると、それはあまりに遠回しな形容詞だ。誰も面と向かって言い出せないのは、実は彼女がスペイン生まれですらないこと。彼女はペスト――彼女より二倍も年寄りでしわしわのおばあちゃん――よりはるかにコンサバだ。本当のところは生きる意欲に欠けるだけ。歳月は長すぎた。彼女は生きるのがつらい。もし人間なら安楽死法に救いを求めていることだろう。
 エボラとマラリアは主に貧しい国々で暮らしていて、そういう地域における人類の資源不足を糧としている。彼らは信仰深くはないけれど、西欧の人類がそういう地域の医療に投資をする決断をしないよう、毎晩お祈りをしている。それこそ真の大惨事になるからだ。
 そして最後に僕がいる。知らないなんて言わせないよ。僕は最新型のパンデミック。アルファ世代とかいうらしい。24時間接続している生まれついてのネット世代だから。その証拠に、僕は歴史上はじめて、ツイッターのアカウントを有するウィルスになることに決めた。
 これから皆さんに、僕たちパンデミックが人類の歴史といかに付き合っているか、どういう風に協力して人類を絶滅しようとしているか、僕たちひとりひとりのウィルスはどういう性格なのか、誰にも聞かれていないときにどんな話をしているか、教えてあげよう。以下に続くページでは、歴史上もっとも強力な(と僕たちが少なくとも考えている)パンデミックの生きざまと奇跡を、僕たちが交換し合っている WhatsApp. 画像の抜粋を交えてお見せしよう。私的やりとりを公開するのが倫理的によくないことは知っているけれど、みんなからの同意は得ているし(そうじゃなければこんな本を書かないよ)。
 僕たちがみな人類を絶滅させたいのは知られているけれど、どうやってそれを実現してきたか、どうしてそこまで頑張るのか、きっと知りたいんじゃないかな。それに、人類絶滅の願いに加えて、僕たちパンデミックが共有しているもうひとつの資質がある。実はみんな理系じゃなくて文系なんだ。(31-33)>
 パンデミックと文学に絡めて何か書くというかなり先のお仕事を引き受けて、あれこれ読んでいるうちに気付くと、こんな本を読んでいた……。いまやるべきことを真面目に続行せよ、と自分に言い聞かせてやりたいです。
 書いているのはマリオ・デ・ディエゴ君というバルセロナ在住のスペイン人、ツイッターに投稿した文章をまとめなおした本書がスペインで売れているのだとか。アマゾンスペインの本、この1月あたりまで発注から受け取りまで長くて2か月ほどのブランクが生じていたが、3月になって元に戻りつつある。個人的には発注後2週間で受け取りというのがちょうどいい。どうせ5年前に受け取った本もロクに読んでいないのに…という後ろめたい気持ちと、すぐに触れてみたいという焦燥感、そのへんを整理するのに2週間ほど冷却期間があったほうが。
 2月に受け取っていちばん落胆したのはバルガス・リョサの『ボルヘスと付き合って半世紀』という本で、ほんと期待していたのに、過去のボルヘス関係エッセイの単なる寄せ集めでした。スペイン語圏へ行く機会がなくなり、こういう「本が届いてみたらがっかり」という機会が急増中。なんだか若い頃に戻ったようで、これはこれでいいのかもしれないですね。
 本書、冒頭にペドロ・バジンという作家が書いているように、あくまでこの状況をユーモアという観点から書いているものなので、不謹慎だ、とかケチをつけるのはお門違いの本です。コロナウィルスを語り手とするツイッターをそのまま編んだということで、第二言語話者の私が読んでいても「もう少し丁寧に書けよ」と言いたくなる文体で、そこの接続詞は porque じゃなく pero でしょ、とか思わず突っ込みたくなる箇所満載ですけど、ちゃんとした編集が入らないまま元のツイッターのもつ勢いを重視したのでしょうね。あと笑いの種として当然ながらスペインローカルのものが多く、スペイン現代社会の事情にゴシップまで含めて通じていないと本格的に笑えないという難点もあり、翻訳などを介した世界化は難しい本でしょうか。
 それでも、スペイン風邪なる不名誉な名前を100年前に勝手につけられた国の人がこういう本を面白がっている、その現象はそれなりにやはり理由があるような気もするのです。少し振り返れば同じことが起きている。私たちはすぐにそういうことを忘れる。その時代の世界はいまほどパンデミックに興味を持たなかった。それが今は違う。なぜなのだろう。スペイン風邪に関する記憶を有さないスペインという国の現代人がそう思ったとしても不思議ではない。
 取り上げられているパンデミックは順にスペイン風邪、マラリア、ペスト、麻疹、エイズ、天然痘、エボラ出血熱、そしてcovid19。これらのウィルスがネット上のミームとして擬人化され、ときどきワッツアップ上でコミュニケーションしたりする。
c19:みんな元気? 今週末の予定は?
 エイズ:重度の二日酔い続行中です。
 チフス:出かける気になれないよ。いつまで続くかこの鬱。
 マラリア:僕も地元から出られない。みんなに会いたいよ。
(天然痘さんがWhatsAppを退会しました。(54)>
 ほかにも写真を使ったコラージュの戯画が満載で、ある種のビジュアル本と言えるでしょうか。最後にコロナウィルスは自分を語りだす。だって彼は世界中の人間が語る対象なのだ。そういうことはヨーロッパローカルのペストには起きなかったことだし、先進国でいまエイズやマラリアを語る人間はいないが、コロナウィルスのことだけは世界中の誰もが語っている。
 それこそが彼の最大の特徴なのだ。
 ワールドカップのあいだはスペイン語圏のほとんどの男性が自国チームの監督と化し、頼まれてもいないのに自国チームの戦術を語りだす。関西地方では4月になるとオヤジどもが一斉に阪神タイガースの監督と化すように。しかし次回大会まで2年を切ったいまなお、スペイン語圏の男どもはサッカーを語らず、むしろ自らサッカーを語るのをやめ、そしていまは彼のことを語っている。
 自分はコロナを知っている。
 自分はコロナ対策を熟知している。
 自分はコロナに勝つ方法を知っている(勝つというスポーツ用語がこの1年ただの伝染病を語る際に頻繁に現れるようになった、世界中で)。
 自分が対コロナ戦の監督ならこうする。
 いやちょっと待って、僕にも言わせて。
 というのが最終章。
 アメリカや中国、EUをはじめ、世界中の指導者たちの悪戦苦闘ぶり(と無能ぶり)が笑いの対象になっているけれど、こういう本がとりあえず市場に現れているというのはまだスペインが健全な証拠でしょうか。
 先日ふとテレビを見ると「聖火リレー」というものが始まったという。えっ、あの国際アマチュアスポーツ大会、ほんまにやるんですか?とわが目を疑ったのもつかの間、なんだかそういう方向で進んでいるのだとか。
 うちんとこ、こんな状況なんですけど、これについてどう思います?とマリオ君に尋ねてみたくなりました。
 奥付もユニーク。
この本は2021年2月にバルセロナで製本された。コロナウィルスのパンデミックはワクチンのせいでこっそりと死に始めている……って本当かね。

El Coronavirus de Twitter, Cómo acabar sigilosamente con la humanidad. 2021, ARPA, pp.204./コロナウィルスツィッター『人類をこっそり絶滅させる方法』  
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スペイン式の喪

2021-03-20 | スペイン
出たくないとソフィーに伝えるにはもう遅すぎる。舞台にいる男の芸人はいまにも終わりそうだ。最後にもう一度メモ帳を見ておくべきかは分からない。どうなるにせよ、いますぐに出たい。この待ち時間は長すぎて、手が汗ばんでくる。すっかり気まずい雰囲気になっていて、こんな演芸場だというのに、ジョークを重ねたりネタの裏話を披露することもない。アヤワスカ(幻覚剤)も、ジェントリフィケーションも、ヴェルナー・ヘルツォークのドキュメンタリー番組も、WorldStarHipHopも、フィッシュ(バンド)も、サンペレグリーノ印のミネラル水も、ヤフーに投稿される質問も、NPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)も、『隣のザインフェルド』も、ユーチューブでゲームをする人のビデオを見る人たちも、カッパよりフィラのサンダルを買うかの多数決も、4chanのヒーローやアンチヒーローも、ASMR(自律感覚絶頂反応)も、ヴィーガン主義も、ヒッチハイカー・カイの監獄暮らしも、ヴェイパーウェイヴも、ニコラス・ケイジの有名なセリフもどれひとつとして芸人たちの口にはのぼってこない。どれひとつとして! オルタナティヴ・コメディ・セミナーは完全にぶち壊し。すべてがわたしの頭に入っている。ポケモンの話題のひとつすらなし。なにしろすべてがあのビッグテーマ、すなわちこの国の、アメリカ合衆国の大統領選なのだから。ここに来て二〇年になるが、こんなのは見たこともない。ジョージ・W・ブッシュのときですら。あんなのとはくらべものにもならない。わたしは緊張しているだけでなく、感動すら覚えている。新大統領のおかげでみんながコントを入れ替え、この果てしない待ち時間にわたしを楽しませてくれたのだから。
 ようやくわたしの名前が聞こえて、ソフィーを見ると、彼女は一歩さがってわたしを招き入れ、わたしは自分の頭から離脱し、そして今度は舞台へ出て行く。水のペットボトルをテーブルにそっと置く。これまで汗をかいた記憶の無い場所から汗が出ている。
「みなさん、どうも。お越しいただいてありがとう」マイクをスタンドから外す。拍手がやむのを待つ。客を見渡す。「ここにフェミニストはいるかしら?」(9-10)>
 スペインにもついに、ニューヨークの小劇場に立つ芸人の話から始まる小説が現れた。主人公のノラは女芸人、米国に来て二〇年になる。長らくあっていなかった母がスペインで死んだとの報を受け、彼女は母国に帰還するのだが……。
 作家が年交代で編集者となり、若手の作品を自由に6つずつ出すというカバージョ・デ・トロヤ、2019年はルナ・ミゲルがすべて女性の作家を選んでいる。それ以前にさかのぼるのは無理目なので、とりあえずこのピンク色のシリーズを読んでみることにした。このなかから中期的に優れた作家が出てくるかは、まさに未知数ですけど、もう芽を吹くには遅すぎる(けれどなぜか一部からは評価されている)オジサン作家を読むよりは有益かと思いまして。
 舞台上の話から40がらみであることが分かる一人称の語り手は、主として3つの場所にいるようだ。ひとつは母が死んでひとり残された70過ぎで頑固な元歯科医の父が暮らすスペインの家、ひとつは上で引用した米国(おそらくニューヨーク)のとあるアングラ小劇場の舞台上、そしてもうひとつは10代で米国にホームステイして進学してからの過去を回想する声として。
 思うに読者の99%はスペイン人で、残りも(私みたいな)スペイン語しか読めない人々であろう、読者にスペイン語の読めないアメリカ人はいないだろうし、仮に読めたとしてもスペインになど興味はあるまい、だからこそ私と同じ境遇のスペイン人読者を思い浮かべながら「いったいスペインのその家はどこにあるんだよ?」と一人称複数形で作者に向けて問いかけつつ読み進めるわけだが、それがなかなか分からない。分からないように敢えて書いているのですけど、あのままスペインに留まっていればナバラ大学にでも進学して…とあるのでパンプローナあたりでしょうか。
 女芸人の語り手は、高校時代から親の強い勧めもあって英語圏進学を選択、ノースカロライナの高校からノースカロライナの大学の映画学科に進んで今に至る。親には医学部生だと嘘をついて。舞台上の彼女は2016年の(つまりトランプが選ばれた年の)アメリカ人を相手に、ちょっと大阪に暮らす日本語話者のオジサンには分かりづらいコメディを展開していて、それは観客との掛け合いで成立する極めてアメリカ的なスタンダップコメディだ。スペイン語で書かれてますけど英語に脳内翻訳しながら読む、あーヤヤコシ。これが40を越してまだ独身の女が世の中のポリティカルコレクトネスを相手に罵倒を浴びせかけるという痛々しい(のを芸風にした)スタイルで、ここが読んでいて非常にすがすがしい。
 と思わない人も多いでしょうけど(特にオジサンで)。
 そんな、米国の小劇場で自由に好きな毒を吐ける彼女が、帰国したスペインで相対するのは、日常生活のすべてを母(彼の妻)とベルタというお手伝いさんにしてもらっていた昭和のオヤジ(スペインではフランコ時代のオヤジと言います)。このギャップが小説を駆動するエンジンになっている。
 作者のシエンフエゴスは1984年生まれ。80年代生まれというのは、2021年現在で言えば30代ということになる。30代とは決して若くはないけれど、50代の私からすれば相対的に若く見える。自分のことを振り返れば、この若さの本質とは、ある種の結論がまだ見えていない、いわば「引き伸ばされた未熟さ」に基づくもので、なにかをつくりあげるという仕事においてはこうした伸び悩みそのものが飛躍のきっかけになるのだろうと(今だからこそ)思う。かつては思春期から20代をそうしたモラトリアムに設定し、多くの小説はビルドゥングスロマンから私小説までその辺の青年(女は極端に少なかっただろう)をターゲットにしていた。今日ではそれが30代の女性なのである。
 この小説は、スタンダップコメディの部分をどれだけ楽しめるかによって、やや受け取り方が違ってくるだろう。もともと英語のやり取りをスペイン語に翻案しているわけで、私のような第三言語の人間は少し困惑する。スペインは映画やテレビドラマを字幕ではなく声優の演技で受容してきた歴史があるので、この小説もスペインの読者は違和感なく受け入れるのかもしれない。
 スペイン・パートは疎遠になっていた母親のことを回想するしみじみしたトーンと、前時代の異物みたいなフランコ時代のオヤジさんへの愛憎ないまぜの感情が交差し、まあ、ふつうの家族小説なんだけど、主人公はそういう「古き良き」親世代には理解できない次元の言葉のやり取りに骨の髄まで染まっている。その埋めがたいギャップを、敢えて埋めることなく語り手が受け入れて、母の死という見たくない現実とも和解し、父というよりいっそう見たくない現実もいちおう認め、そしてニューヨークへ帰るまでが描かれる。
 最後、飛行機の中でコメディの台本を見直すという設定が斬新でした。消去されたところに彼女の変化を垣間見ることができる。消去線を小説で使用し始めたのはいつごろなんでしょうね。

Abella Cienfuegos, Cómica. 2019, Caballo de Troya, pp.248./アベリャ・シエンフエゴス(スペイン)『女芸人』
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テネリフェの元気な少女たち

2021-02-04 | スペイン
 1月に届いた本来なら去年に読んでいるべき本たちのうち、なんとなく直観でこの一冊を選んでみた。作者は1995年生まれ、テネリフェの子。もはや娘が書いた小説を読むような気持ちですね、どれどれ、はっはーん、いきがいいねえ…とか目を細めたりして、我ながらジーサンになったなあ…と思います。カナリア諸島は西サハラの沖合、要するにアフリカ。この小説にもスペイン王立アカデミアの会員が見たら立腹しそうなヘンテコなスペイン語が続出、でもなぜか懐かしいなあと思っていて、作者のインタビューを見たら、景色もスペイン語もヨーロッパというよりはラテンアメリカのそれでした。
 語り手は十歳にもなっていない少女で、テネリフェの山あいに広がる貧困街に暮らしている。子どもが語り手なので、文体も子どものそれ、しかもカナリア諸島の方言や英語から入った俗語が大量に混じり、ほとんどスペイン語に見えないときもある。
 自称キンキー(quinqui)の少女たち。
 ビッチが口癖のイソラ。
 カナリア諸島という辺境のスペイン語の実態を再現することが目的であるかのような小説。これはラテンアメリカでは珍しくはない。小説というジャンルがもつ書き言葉の構造、つまりあらかじめできているいくつかの語りの仕組み、いわば既製服のような文学史のストックから書き手がいかに逸脱するか、それは20世紀を通じて世界中の小説が試みてきたことであろう。その延長線上にアブレウもいる。
 テーマは強いて言えば少女どうしの友情と性の芽生え。
 ロバのおなかと呼ばれる曇天が巨大な火山(富士山より高いテイデ山がテネリフェ島にはそびえている)をいつも覆い隠し、晴天がめったにない島、イギリス人観光客がひしめくビーチのホテルで下働きをしているような貧しい人々が暮らす街。
 語り手の目線で風変わりな親友のイソラ、彼女の暮らす店、そこを仕切っている煮ても焼いても食えない祖母やおばたち、魔女みたいな民間療法士など街を生きるマージナルな女たちのあいだを縫って走っていくような読書感。
 私はアルゲーダスの『深い河』を最初に読んだ時のことを少し思い出した。ただしスペイン語の切り崩し方はインディへニスモなんかより彼女の小説のほうがはるかに上。その読みにくさが途中から少し苦しくなってくるけれど、それは私がそれだけインターナナショナルソートのスペイン語に毒されているからに過ぎない。
 このインタビューで彼女自身が言っているように、この小説のスタイルはラテンアメリカ文学のものだろう。フェルナンダ・メルチョールがここでもひとつの参照項になっている。彼女の話すスペイン語の響きもスペイン本土のそれとはかなり異質で、私の耳には心地よい。
 いずれにしても、スペイン語圏の全域で、ゆるやか~な女の語りのネットワークが生まれつつある。カナリア代表はこの子と覚えておけば間違いないだろう。

Andrea Abreu, Panza de burro. 2020, Editorial Barrett, pp.172/アンドレア・アブレウ(スペイン)『ろばのおなか』
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