Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

モニカ・オヘダ『太陽の祭の電気シャーマンたち』

2024-04-16 | アンデス圏
 モニカ・オヘーダは1988年生まれのエクアドル作家。現代翻訳文学未踏の地と言ってもいい国で、私たちが目を通す文学史の類でもホルヘ・イカサという20世紀の先住民主義小説の嚆矢くらいしか記憶になく、いわば完全なる空白地帯になっているが、近年はこのオヘーダを中心としたグアヤキル出身の女性作家の活躍が目立つというところまでは情報として把握している。
 エクアドルはその名の通り赤道直下の国だが、熱帯性気候なのはグアヤキルなどの太平洋岸だけで、首都キトやその背後にあるアンデス山脈はもちろん高地、しかもコトパクシなど活火山が数多くある火山国である。人種構成はペルーとよく似た混血文化で、グアヤキルは黒人もいてコロンビアのカリブ地域の色を備えた開けた文化の地。
 オヘーダはこれまでに長編小説を三つ出していて、うちの一種の学園ものといえる作風の『顎』がスペイン語圏では話題になり、これは英訳も刊行された。詩集に加えて短篇集『空を飛ぶ女たち』も出していて、現役世代としては、私が関わった作家でいうとメキシコの(+米国の)バレリア・ルイセリやチリのパウリーナ・フローレスらと同じ世代にあたる。
 本書は四作目の長編小説で、風変わりな題名が示すようにエクアドルのアンデス山中で開催されたインティ・ライミを思わせる複合音楽フェスティバルを背景に、そこへ向かうノエという少女の物語を、彼女に同行することになった男女、グアヤキルからの親友ニコル、内気なマリオ、音楽にマニアックなペドロ、容姿にコンプレックスを持つパメラという四人のティーンエイジャーが交互に語り手となって紡いでいく。というよりそれが1・3・5・7の奇数部の構成で、あいだにフェスで歌われていると思しき歌が混じったりして、このカントーラ(歌い手)たちのよるコーラスは古典劇の作法を思わせる。
 いっぽう2・4・6の偶数章は幼いころのノエを捨てて山中の森に暮らすようになった音楽家の父エルネストの手記という形をとり、娘のことより飼い犬サンソンのことばかり気にかけているこの愚かなのか賢いのか分からない「人外魔境に旅立った」男の手記がほとんど詩なので、読んでいて面白い。<はじめに言葉ありき、言葉は父にして、父は言葉であった(99)>といういかにもキリスト教的でマッチョな言葉で始まるエルネストの手記は、ヤチャクと呼ばれるシャーマンたちとの出会いによって徐々にアンデスという女性的地母神の世界へと引き寄せられてゆく。
 背景にあるのはこちらでも報道されるようになったエクアドル都市部での治安悪化で、メキシコやコロンビアのカルテルがこの国に拠点を移したことで殺人件数が飛躍的に増加、若者にとって都市が極めて危険な環境になったことがあるらしく、四人の言葉やエルネストの手記からアンデスの森に隠遁した人々の存在が浮かび上がってくる。相次ぐ火山の爆発や地震国としての背景も見えてくる。いろいろなものが爆発寸前になっているところで、四人がアンデスのフェスを目指しているという設定だ。
 ひとりの少女の成長譚、というのはなにも珍しい物語ではなく、それについてはイサベル・アジェンデのような先達もいるし、さらにその先達も探せば見つかるだろうが、この小説はそこに音楽やアンデスの土着文化とエクアドルの現在情勢なども絡めてしかも構成が多声的、単純な女ビルドゥングスロマンになっていないどころか、一読した限りでは「いったいこの小説は何を語っていたんだ?」とすら思わせるカオスが逆に魅力となっていると言えようか。
 もう少し他の作家も見なければならないが、現代エクアドル文学、できれば死ぬまでに1冊くらいは翻訳紹介してみたいものです。
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グスタボ・ロドリゲス『百匹のクイ』

2023-08-19 | アンデス圏
 今年のアルファグアラ賞はペルー人が受賞した。冒頭、例のあのリマにできた高架鉄道、なぜそんなどうでもいい場所につくる?と誰もが首をひねるあの電車のなかから物語が始まっていて、その後も勝手知ったる土地が次々現れ、実に楽しい。読む小説の現地が目に浮かぶって貴重なことなのですね。
 この小説が描くのは世界共通の現象、独居高齢者の生。
 その目撃者になるのが、これまた世界中で今日も懸命に働いている人々、すなわちヘルパーのひとりであるアンデス出身の混血女性エウフラシア・ベラ。彼女はミラフローレスの高級マンションに住む90代のドニャ・カルメンの訪問ケアをしている。そして隣にはこれまたご老体のジャック・ハリソンという男が住んでいた。高名な医師だったハリソンは妻を事故で死なせたつらい体験があり、いまは半身不随の身でウィスキーにおぼれている、というよりものすごく酒に強いので痛みを酒でごまかしているという設定。そしてジャズマニア。そんなハリソンとドニャ・カルメンのあいだに面識はなかったが、あることがきっかけでエウフラシアはジャックの家も訪れて、彼の良き話し相手になっていく。
 エウフラシアはドニャ・カルメンの紹介で同じく独居の後期高齢者ドニャ・ポジョ(「チキンばあさん」くらいの愛称)のケアもするようになっていて、彼女が入居したケアハウスでも働くようになる。ここには6人の食えない元金持ちのじいさんたちがいて、大昔にサーファーをしていたティオ・ミゲリート(知性のないバルガス・リョサみたいな人)、海軍将校だった堅物のジャコモ、仲間からポンハ(ハポンのもじり)と呼ばれ暴力の時代に商売で財を成した日系のタナカ、そして双子の兄弟エルナンデスとフェルナンデスがいて、彼らは新入りのドニャ・ポジョとあわせて「素晴らしい七人(黒沢映画を下敷きにしたハリウッド映画『荒野の七人』の原題のスペイン語訳)」を名乗り、ぶいぶい言う、というよりホームでのお喋りに花を咲かせている。
 そんなある日、末期癌の痛みに苦しんでいたドニャ・カルメンがエウフラシアにあることを願う。スペイン語の eutanasia つまり安楽死の手伝いだった……。
 そう、実はこの小説は、安楽死をめぐるもの。
 尊厳ある死、という言葉が何度か現れる。
 そのお手伝いをさせられるエウフラシアにはニコラスという小学生の子どもがいて彼女自身は30代後半くらいの設定だろうか。旦那は子どもができたとたんに失踪しているので、彼女はいくつも仕事を掛け持ちせざるを得ない。ニコラスの世話は姉のメルタと交代でやっている。メルタは看護師をしていて病気や薬に詳しく、実はジャック・ハリソンが勤めていた病院でいま働いているという設定。
 エウフラシアは頼まれたら断れない人間。
 そして会う人間の誰もが彼女に心を開く。
 まさにケアの天才なのである。
 姉のメルタは妹のほうが立派な看護師になれたろうと思うくらいだが、いや違う、こんな病人の言うことをぜんぶ鵜吞みにするような人間は病院ではやっていけないと思いなおすほどだった。
 エウフラシアはドニャ・カルメン、続けてジャック・ハリソン、そして最終的には(先に亡くなったタナカも含めて)ホームの七人の死にも手を貸すことになるのだが、ホームの六人の安楽死が大々的に報じられてマスコミからターゲットにされたとき、彼女をある病気が襲う。
 テーマの重さに比して軽い文体が印象的だ。
 老人はすることがないのでテレビばかり見ていて、そこに現れる映画の数々がエウフラシアと彼らを(そして私たち読者を)つなぐきっかけになる。
 近年の女性作家たちに影響されてか、ロドリゲスの文体には過度な抑制が効いておらず、視点人物は自在に入れ替わり(バルガス・リョサが怒りそうな文体です)、それがかえって多面的なユーモアを醸し出し、つい物語から目が離せなくなる。要求のきつい読者は死にゆく老人たちの過去をもう少し重厚に描いてほしいと思うかもしれないが、読んでいるうちにこの物語が扱っているのはそういう「ストーリーの蓄積」ではなく、死にゆく運命にあるはかない人間たちの「命のはかなさと一瞬の輝き」にあることがわかってくる。
 最後、リマからタクシーで(これにも理由がある)トルヒージョを抜けてかつてセサル・バジェホが滞在したメノクーチョのさらに先、プナ帯に出る直前のまだバジェにあるシンバルという町を目指す旅路の描写が私は好きになった。私自身が何度か通った道であること、そこを同道した二人がすでにこの世にいないことも、物語内容とあわせていろいろ考えさせられつつ読んでいた。
 ふつうはいわゆる北側の先進国で浮上しそうな問題系を敢えてペルーという国で扱うことの意味は、いまのところ私には何とも言えないが、エウフラシアが辿る道行きで方々に現れるもうひとつのペルーの存在がずっしりと重い。そのためにホームの物語を作っているとしたら相当に周到な準備をしている作家と言えるかもしれない。
 受賞作特有の、なにかこう、文学的に価値あるものを目指しました感、がないのも素敵で、かえってこの賞のもつ「通俗小説的なドライブ感も外さないきちんとした読物」という性格が今年ははっきりしたのではないだろうか。
 ちなみに題の意味は最後まで読めばわかりますが、(いないだろうけれど)これからこれをスペイン語か英語で読む人の楽しみを損ねてはまずい、と思うので、敢えて伏せておこう。

Gustavo Rodríguez, Cien cuyes. 2023, Alfaguara, pp.254.
 


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クラウディア・ウジョア・ドノソ『ルーマニアで犬を殺した』

2023-07-30 | アンデス圏
 ペルー生まれだが学生時代以降はノルウェーを拠点にしているという変わり種の作家。短編集『小鳥』を旧ブログで紹介しているが行方不明、あればまたお知らせします。本書はその彼女が書いた初の長編小説で、題名通りルーマニアが舞台になっている一人称小説なのだが、第一章の「死んだ犬」では犬がもう死んでいる謎の語り手になっていて続いて誰か(たぶん主人公)と会話も繰り広げる。セルバンテス以来、犬が話をするのはスペイン語文学の伝統なのだろうか。
 通常モードになっての語り手はノルウェーで外国人にノルウェー語を教えるラテンアメリカ出身30代のスペイン語話者、著者自身が投影された人物像のようだ。抗うつ剤を飲んでディープに寝ている彼女を起こしにくるのは、5歳若いルーマニア人ミハイ。彼女のノルウェー語教室に出ていたが、クラスをやめてから彼が運転手をしているバスの中で二人は再会、それからある種の友人になっていたが、彼の方がルーマニアに帰国することになる。ミハイは鬱の極みにあった彼女をブカレストに誘う。
 というあたりで50ページ。
 二人は二人だけのときはスペイン語で話しているのだろう。ルーマニア語はスペイン語の親戚なので二人がノルウェー語で話すよりは意思疎通がしやすいのではないでしょうか、当然ながら語り手の言葉もスペイン語で、ミハイあるいはオビディウは母語のルーマニア語以外にノルウェー語とスペイン語を話すトリリンガルという設定になっている。
 前半の第二部「犬の群れ」はひたすら無名の主人公の語りによるルーマニア紀行なのだが、なにしろ鬱病を患っているという設定なのでひたすらに陰々滅々としている。ノルウェーではミハイと名乗っていた彼は故郷でオビディウ(詩人のオウィディウスに由来)と呼ばれ、どうやら彼には父の七回忌の行事を仕切るという務めがあることが分かってくる。これを文中ではプラーズニクと呼んでいるが、この言葉そのものは「祝宴」という意味があるようだ。最後まで読めば分かるが、司祭を中心に墓場から亡き人の霊を呼び出して迎えた後、再び送り出すというようなものらしい。
 ミハイの母はイタリアへ行ったまま別の男と再婚予定、ミハイには4人の兄弟がいるが長男ペトルスは怠惰な性格でロマの女と結婚して3人の子がいる。結局このペトルスの家が後半の舞台になる。次男のボグダンはむかし女に振られてからふらふらとバイトでその日暮らしを送っていて、叔母のビオリカの家で暮らしている。もうひとりの弟のソリンは遠洋漁業の船に乗って不在。
 最初二人はビオリカの家へ向かい、ボグダンと三人でバーでしこたま飲んで、翌朝ビオリカの家に戻った彼女がゲロをはいて大変なことになる。
 この彼女が全編を通じてとにかくおしっこをする。
 トイレの描写がこれほど多い小説も珍しい。
 人物がその「ドツボ」に至った合理的な背景を組み立てていくリアリズム小説ではなく、そうした暗黒の彷徨そのものの実存的内面を描くという小説なので、私たち読者は彼女の股間から出てくるものも含めて、その苦しみと不毛と不快感のなかにただ潜入することになる。
 最後までいたらどうなることやら、と思っていた矢先の中盤から第三部「犬の吠える声」が始まり、ここからは彼女とミハイの声が交互に現れる。彼女のパートは前半と変わらないが、ミハイのパートは無改行で延々と心の声が吐き出されるという趣向で、前半部でよくわからなかった彼女の声の「背景」が彼の呪詛によって少しずつ明るみになっていくのが面白い。
 ミハイはノルウェーで出稼ぎをしている。彼の稼ぎは怠惰な兄ペトルスや残念な兄ボグダンの面倒を見ている叔母のビオリカのもとへも送られている。というわけで、ルーマニアの置かれたヨーロッパでの位置、貧しくてすべてが遅れている東欧世界というものが次第に見えてくる。
 それなりに複雑な事情を背負っていたミハイにとって、異国の地で出会った「予想と違って金髪でもなく、目も黒く、女としてもいまいちぱっとしない」語学の先生だった彼女がしがないバス運転手だった自分に話しかけてくれた。つまり彼女はミハイにとって男女を越えた友だちとして貴重な存在だった。ところが、そのとてもまともそうな先生が、帰宅するとディープな鬱を抱えた厄介な女だとは知らなかったわけである。
 というように、二人が行動を共にしてベッドまで共にしながらなにもしていないことの事情もうっすら分かってくる。
 イサベル・アジェンデとかバルガス・リョサとかの普通小説もそれなりに読みなれている私のような読者は、つい彼女の鬱の理由を知りたくなってしまうのだが、残念ながら、というか予想通り、それは最後まで明かされない。
 七回忌の準備が進むなか、ペトルスの家で一匹の汚い犬になにかを見出してゆく彼女が最後にとるカタルシスを伴う行動と、そこに至るまでのミハイの焦りと孤独と絶望感がシンクロしていくあたりは個人的には大好きだが、これはバルガス・リョサが言うようないわゆる「連通管の技巧」、すなわち一見すると無関係なエピソードが最後に関係しあうという構成とは少し違う、ある種の音楽というかセッションのようなリズムを形成している。
 このまま終わったら世界中の動物愛護団体からクレームが来る、と思ったわけではないだろうが、最後まで読んでからもう一度冒頭の第一部「犬殺し」の犬の声に戻る(私も読み戻った)という構造。
 文学とは、公共善とは無縁で、万人向けの解が導き出せる問題系ともずれるところがあって、個別的実存を語りつつ、それが受容段階で普遍化する場合もあるという営みだ。したがって、なにか得体のしれない語り手が、いわゆる暗くて不可解なお話をくどくどと展開していることも往々にしてある、なぜならば立場を明らかにした頭脳明晰な人物が世界のある事象について明快な分析を加えているような論説文ではないからだ、とは、建前として学生さんたちにも説明するのだが、それでもやはり、暗い話はいや、とか、ひとりよがりな物語は苦手です、とか、よくわからない小説はなぜよくわからなくしてあるのか理解に苦しむ、とか、適度に泣ける話がいい、とか、社会を批判する小説が読みたい、とか主張する、それなりに善良でそれなりに優秀な若者諸君にはとうていお勧めできない作品かもしれない。
 いや、あるいはこの、生存インフラと消費システムがある程度整っている「近代社会」という、限りなくフラットになったグローバルヴィレッジの片隅に生きる二重言語話者の移民で、それなりに厄介なものを抱えた女、つまり世界の無数にいる女の代表者が声を発している小説だ。そして、その彼女と出会いつつも、出身地のローカルな呪縛に最終的には捕らわれて、にっちもさっちもいかなくなるという、これまた世界に無数にいる田舎者の男、その代表者が相手だ。
 そういう人間たちのお話なのだと思って読めば、ああ、そうですか、そういうのが文学なんですか、と納得いただける機会があるかもしれないなと思って、上のような「お勧めできない」の類の否定的言辞は慎もう。
 男性作家はもはや実存すら書かなく(書けなく?)なった。
 この分野を担うのもスペイン語圏では女性になるみたいです。

Claudia Ulloa Donoso, Yo maté a un perro en Rumanía. 2022, Almadía, pp.360.
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エドムンド・パス・ソルダン『ノルテ』

2023-04-10 | アンデス圏
 旧ブログ(2012年5月30日)を再掲。
 パス・ソルダンは珍しいボリビアの作家。UCBで祖国の作家アルシデス・アルゲーダスに関する博論を書いて、その後アメリカを拠点としているので、やはりボリビアのなかから現れたというよりは数ある米国仕込みスペイン語作家のひとりに数えていいかもしれない。
 日本ではこのあと2014年に『チューリングの妄想』が邦訳された(服部綾乃、石川隆介訳、現代企画室)。代表作がどれになるかはわからないので、詳しくはこの邦訳の訳者解説を参照してください。私自身は下の作品以降に書かれたSF『イリス』を読み始めて途中で挫折した記憶が。早川書房のある国にSF不毛の地スペイン語圏からの参入はハードル高い。比べられる対象のレベルがあまりにも高すぎて。

メキシコの忘れられた画家マルティン・ラミレス(Martín Ramírez)。1925年に米国へ越境、職を転々とするが29年の恐慌で行き場を失う。家族を残してきたハリスコ州はクリステロスの乱という紛争によって大混乱に陥っていた。マルティンは分裂病を発症し入院、その後、治療の一環として描き始めた絵が米国内で評判を呼ぶ。本人はメキシコに残る家族に会うこともないまま肺がんで死亡した。こちらに簡単な紹介と彼の代表作2枚を見ることができる。
 マルティンの死から約半世紀後の1990年代、もうひとりのメキシコ人が米国への越境を試みた。数年後、彼はレールロードキラーと名付けられ、やがて過去二十年間オサマ・ビン=ラディンに次いで全米でもっとも憎まれた外国人犯罪者と化すことになる。
 小説はこの二人の人物の米国での体験をマルティンについて1930年代から、そしてヘスースと名を変えたアンヘル・マトゥリーノ・レセンディスについては1990年代から、章を入れ替えるように並行して追いかけていく。同時に、2009年に国境近くの米国の大学に籍を置いている作家志望の若い女性のエピソードを、一人称で挟んでいく。
 時代の違う3人の人物のエピソードが並行する。
 中心的な役割を果たすのはレールロード・キラーのヘスース。彼の人生だけが子ども時代から死刑の瞬間まで丹念に描かれている。それだけを取り出すと、この小説はカポーティの『冷血』などに接続するニュージャーナリズム系の実録モノである。実際、読後には『冷血』からの強い影響を感じた。
 いっぽうで、作者自身が短いあとがきで述べているように、この小説は、異なる時代を生きる三人のメキシコ人が、米国という巨大な迷宮で路頭に迷っていく様を描いた移民小説として読むこともできる。ただし、それは、ヒスパニック小説の多くがそうであるように、若い主人公の米社会への適応不全を描きだし、越境者の心理的社会的困難に寄り添うようにして書かれているわけではない。
 主人公も悩める青年などではない。
 分裂病の画家、シリアルキラー、作家志望のポストモダン学生。
 三者三様ではあるが、いずれにせよチカーノと呼ばれるメキシコ系移民についてしばしば固定観念として引き合いに出される「季節労働者」や「ブルーワーカー」や「社会的弱者」といったイメージからは程遠い。
 本書は、移民という文脈に “狂気” や “悪” と “知性” といったある種の普遍を加味することで、その実態の現代的多様性をそれなりに文学として再現してみせる。私たちが移民を文学を介して受容する際に、どうしてもそこに「社会的アダプトを目指す正気」や「それなりの善を求める心」や「南の世界ならではの無教養」を想定してしまいがちなことを考えたとき、こうした小説が現われてくるにはそれなりの正当性があったと言える。
 作者のエドムンド・パス=ソルダンは1967年ボリビア生まれ。といってもボリビア人というより今は米国人といったほうがいいほど、米国でのキャリアが長い人。以前このブログでも紹介したチリのアルベルト・フゲーらと親交があり、いわゆる「マクオンド」の一員でもある。したがって、かつてフゲーとSe habla español.と題する米国ヒスパニック短編集(英西語のチャンポン短編集で非常によく売れた)を編んだこともあるパス=ソルダンにとって、本書は同じく移民を扱ったフゲーの『ミッシング』に対する回答とみなすこともできる。比べて読んでみると面白いだろう。
 パス=ソルダンは以前ブログを紹介したペルーの作家グスタボ・ファベロンとボラーニョに関する研究書も書いており、この小説の作家志望の若い女性のエピソードにも彼の「文学通」としての顔が発揮されている。特に彼女がつきあっているファビアンという新進気鋭の若手文学研究者が、今風のカルスタ野郎で、人間的にも最低で、読んでいて嫌になるのだが、こいつがベアトリス・サルロとかネストル・ガルシア=カンクリーニの二世を気取ってラテンアメリカ全土を包含するような批評を目指して四苦八苦している。その姿は大学での生態も含めて多分にパス=ソルダン自身の人生が反映されていると思われる。この部分は「アカデミズム小説」の香りも併せ持つ。
 問題は三つのエピソードの交錯の仕方。
 厳しく言うと未消化。
 特にマルティンのエピソードの他との関係性がやや希薄で、私はもう少しそこ、すなわち分裂病者の脳内イメージを突っ込んで描いてほしかった。
 そこを差し引けば作者の力量並々ならぬものを感じさせ、ほかの旧作も読んでみたい気分にさせられた。

Edmundo Paz Soldán, Norte. 2012, Mondadori.
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ガブリエラ・ビーネル『土偶の肖像』

2022-08-18 | アンデス圏
 ワコとはペルーの先住民文化における土偶を指し、なかでもワコ・レトラトとは北部海岸域で栄えたモチェ人たちが残した人面土偶のことで、上の表紙にあるようなタイプである。スペイン語の retrato はポートレートのことなので、人面土偶であると同時に南米の「文化」としてヨーロッパに連れていかれたある人間の肖像という意味にもとれる題である。
 作者のガブリエラ・ビーネルは1975年チクラヨ生まれのライター。という職業名は redactora がしっくりくるが、百パーセントのフィクション専門小説家というよりは新聞やオンラインジャーナル等のルポが主たる活躍の場で、ときどきそれらの文章を集めて単行本化したり、ときどき本書のようなノンフィクションを書いてそれを小説として売る場合があったりと、純粋な文学とそうでない領域にまたがっているけれどどちらかと言えば後者が中心です、というのは日本ではしばしばライターと十把一絡げにされている人たちに該当するのではなかろうか。ラテンアメリカではペルーのビーネルに、アルゼンチンのレイラ・ゲリエーロが比較的よく知られていて単行本も多い多作なライターである。
 Wiener という名は見ればわかるがスペイン系ではない。
 ウィーンに生まれてフランスに帰化したユダヤ人の高祖父シャルル・ビーネルが19世紀に残したペルー探訪記、この本の刊行に当たって開かれたイベントにリマ在住の子孫、つまりビーネル一族が集まったところから、おそらくこの本の構想は始まっている。一言では定義しがたいし、本人は「およそ考え得る限り最も恥ずかしいライティングのスタイル」と言っているが、仕方がないので用いると、本書は作者が自らのルーツであるユダヤ人と彼がヨーロッパに「サンプル」として連れ去ったひとりの先住民の子どもの運命をたどりつつ、それに関連させて、スペインに生きる南米人である自らの風変わりな性生活や、謎多き父親をはじめとした両親との関係についても綴っていくというオートフィクションである。
 というより、ほとんど事実でしょう。
 こんなの書いて大丈夫か、と思わせるほど。
 そこがかえって新鮮ともいえましょうか。
 自分についてはいいけれど自分と関係を持った相手の性癖まで書いたら、日本なら訴訟覚悟だと思います。
 ビーネルはポリアモリスタを公言している。
 同郷の旦那がいてその間に子どももいるが、スペイン人女性の愛人もいて、この3人(と子ども)でなんと同居していて、ベッドは3人寝られるようになっているんだけど、関係が悪化するとそれぞれの寝場所もあるという、まあ日本の狭い家では無理な関係です。
 ビーネルさんはバイセクシュアルであり、ポリガミーを容認する立場であり、二人の同居者に限らずよそでも自由に関係を持つフリーセックスの実践者でもある。こちらのほうでの本も書いていて、未読だが面白そうなので取り寄せ中。問題はそうした関係が本書でもつまびらかにされていること。痛々しいほどに。
 しかし上述したようにそれはサイドメニューで、本筋は自らの血に流れている(かもしれない、だったことが結末でわかる)19世紀ヨーロッパの差別主義者のユダヤ人の南米放浪をめぐる話が少しずつ明らかにされてゆく。高祖父か誰かわからないこの人物の足跡を追っていくうちに、彼女は亡くなった父、ちなみにこのラウル・ビーネルさんはペルーでは娘よりも有名な共産党の闘士だった、彼に愛人がいたということを知り、自らの性生活に重ね合わせて葛藤しもする。
 面白いのはやはり、19世紀におそらくフランスの博覧会で陳列されたのであろう先住民の少年と彼の眼差しに、作者自身が次第に同化していくこと。ジャーナリストという知的職業についていながら、メスティソの風貌をしてペルー訛りのスペイン語を話すだけで、スペインで「どこのおうちの掃除をしているの?」と悪気なく訊かれる体験を何度も繰り返してきた作者はインディオの少年に自分の姿を重ね合わせてゆく。ワコ、土偶、見られて理解されて消費されて捨てられる存在とは、少年でもあり彼女でもあるのだ。
 私が詳しく知りたいなと思ったのは、主として第三世界出身の女性たちが集まってフリーセックスの実践について語り合う「脱植民地主義セミナー」のこと。妻や女という形で一方的に領有されることをよしとせず、能動的に寝たい相手と寝る、を実践する女たちの集う会、怖いもの見たさで行ってみたいような気も。今なお生きているヨーロッパの植民地主義に対してセックスという実践の現場でしたたかに抵抗している人がいる、というのは、オジサンが書いた本ではなかなかわかんないですよね。バルガス・リョサなんていまやスペインの名誉国民ですし。
 マルタ・サンス、クリスティーナ・リベラ・ガルサ、賛辞を送っている人々の名前を見るにつけなるほどね、という読後感。ラディカルで、バリエンテ(勇気がある)で、ウモリスティコ(ユーモアたっぷり)で。ペルー語満載なので私は読みやすかったし、にやにやしながらページをめくっていたけれど、最後にセミナーで彼女が読んだ詩を見る限り、そういう南米の言葉遣いをするのもひとつの意思表示なんですね。
 ポリアモールの実践もけっこう大変だ。
 ビーネルさんには旦那との間の子のみならず、旦那と彼女の愛人のあいだの子どももいる。
 ただしそれについても最後にちゃんと書いてあって、そこを読んで私は、そうだよね、子どもを持つってやはりそういうことだよね、と奇妙に納得してしまいました。目が点になるほどの奇妙なプライベートライフを送る人に常識を教えてもらう。それが小説の力なのでしょうか。

Gabriela Wiener, Huaco retrato. 2021, Rondom House, pp.170.
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