あさねぼう

記録のように・備忘録のように、時間をみつけ、思いつくまま、気ままにブログをしたい。

陶芸作家・河井寛次郎「手考足思」

2019-08-10 10:48:14 | 日記
大正から昭和にかけて京都を拠点に活躍した陶芸作家・河井寛次郎さんの言葉です。
「手で考え足で思う。つまり頭脳だけでさかしげに思考するのではない。手で土をこね足でろくろを蹴って作品を作っていく陶工のありようを述べているようなものでもあり、“無私”でありたい希求を語っているようでもある。」との解説は、筑紫哲也さん。

「手考足思」
                河井寛次郎作

私は木の中にゐる石の中にゐる、鉄や真鍮の中にもゐる、
人の中にもゐる。
一度も見た事のない私が沢山ゐる。
始終こんな私は出してくれとせがむ。
私はそれを掘り出し度い。出してやり度い。
私は今自分で作らうが人が作らうが
    そんな事はどうでもよい。
新しからうが古からうが西で出来たものでも
    東で出来たものでも、そんな事はどうでもよい、
すきなものの中には必ず私はゐる。

私は習慣から身をねじる、未だ見ぬ私が見度いから。

私は私を形でしやべる、土でしやべる、火でしやべる、
木や石や鉄などでもしやべる。
形はじつとしてゐる唄、
    飛んでゐながらじつとしてゐる鳥、
さういふ私をしやべり度い。
こんなおしやべりがあなたに通ずるならば
    それはそのままあなたのものだ。
その時私はあなたに私の席をゆづる。
あなたの中の私、私の中のあなた。

私はどんなものの中にもゐる
立ち止つてその声をきく
こんなものの中にもゐたのか
あんなものの中にもゐたのか

あなたは私のしたい事をしてくれた、
あなたはあなたでありながら、
    それでそのまま私であつた
あなたのこさへたものを、
    私がしたと言つたならあなたは怒るかも知れぬ。
でも私のしたい事を
    あなたではたされたのだから仕方がない。

あなたは一体誰ですか
さういふ私も誰でしやう
道ですれちがったあなたと私

あれはあれで、あれ
これはこれで、これ
言葉なんかはしぼりかす

あれは何ですか、あれはあれです。
    あなたのあれです。あれはかうだと言つたなら
それは私のものであなたのものではなくなる。

過去が咲いてゐる今
未来の蕾で一杯な今

(『六十年前の今』東峰書房)
(『蝶が飛ぶ葉っぱが飛ぶ』(河井寛次郎、講談社文芸文庫/現代仮名使い版)


ルドルフ・シュタイナーは、真実なる思考が四肢にまで浸透し世界に創造の芽を吹くことを願い、晩年のある講演ではそれを「私たちは、手で考え、足で思うような境地に至るまで努カを続けてゆかねばならない。」と表現したそうだ。梶井寛次郎は「手霊足魂」という力強い文字の書を残している。畑違いに見える両者から、同じような言葉がでてくるのが感慨深い。そしてそれは、いつの日か私の言葉となっておきたい。