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いよいよ桜も満開、イングリッシュスクエア草加校も新年度の体制がほぼ確定しました。多くの既存の大手学習塾が英語科を小学生クラスに導入していく中で、英語だけで勝負していくのは、とても不利にも思えるのですが、私たちは単に英語を教えているのではない。英語教育を通じて子どもたちを愛し、育てていくのだという使命をこれからも淡々と果たしていきます。さて、4月は新しい出会いの季節です。私自身の素晴らしい教師たちとの出会いをシリーズで書き綴っていこうと思います。
■素晴らしい教師たちとの出会い~必ずしも時系列ではないけれど・・・
私は小学生時代から本当に素晴らしい先生に恵まれ続けてきました。そんな先生お一人お一人のお陰さまで、私の人格が少しずつ形づくられてきたと感謝しています。このブログ記事のシリーズでは、私が実際にお世話になった素晴らしい先生方をお一人ずつご紹介申し上げたいと考えています。必ずしも時系列とはいきませんが、その点はご了承ください。第一弾は白鳥令先生です。
■白鳥令教授とのであい~獨協大学時代
高校時代のアメリカ留学をきっかけに政治家になりたいと思った私は、獨協大学で白鳥令先生に出会いました。1年生の時に白鳥先生の政治学概論を履修して、白鳥先生の学問がまさに実学であることに感激しました。そして、3年生になったら、絶対に白鳥先生のゼミを取るんだとそのころから決めていました。
■白鳥令教授が英国のプロフェッサーとなり、居なくなる・・・
ところが、いよいよ3年生になって白鳥ゼミに入る時期がくると、肝心な白鳥先生が英国のプロフェッサーとしてエセックス大学で1年間、教鞭をお取りになることが発表され、私はいてもたってもいられなくなりました。そして何の見境もなく、白鳥先生に、「私は先生のゼミに入るために今日まで働きながら大学に通ってきたのに、なんで先生はイギリスに行ってしまうんですか。」と文句を言いにいきました。
■君、交換学生に応募してみたら。
後から分かったことですが、日本人で英国のプロフェッサー・シップ~つまり英国では教授というのは社会全体で限られた学者だけが名乗ることを許された「社会的身分」のひとつなのです。白鳥先生はこの称号を許された、当時日本人で2人しかいなかった学者のお一人だったわけです。そして、その先生の言葉は思いがけないものでした。「たまたま僕が行くエセックス大学と獨協大学が学術協定を締結するから、君、交換学生に応募してみたら。」というものでした。
■応募資格もないままに受験
3年生の応募資格はすべての教養課程科目の履修を修了した者。というものでしたが、私は午後から夜にかけてECCで非常勤ではありましたが、サラリーマン生活をしていましたから、教養課程科目の履修が完了していませんでした。それでも応募してしまいました。
■人生最大のはったり~強いコミットメントが環境を動かす・・・
交換学生試験に必要な論文などの必要書類を揃え、筆記試験やリスニング試験や英語面接を終え、いよいよ最後の教授面接になったとき、各学部の教授陣の内ひとりが「あれっ?君、応募資格がないじゃないか。」と切り出しました。正直、私は「えっ?何で今さら・・・」と思いましたが、ばれちゃあ、しょうがねぇ~。「獨協大学がエセックス大学との学術協定における学生派遣プログラムを成功させたいなら、私を送り出すべきです。」と啖呵をきりました。でも、本当にあの瞬間、私はそう思いましたし、絶対にこの留学経験を最高の成果に結びつけていくという強い決意=コミットメントがありました。
■君、決まったよ。~白鳥先生の言葉に天にも昇る心地
最終選考で5人の交換学生を選び出す教授たちの会議で、ある女性教授が「瀬戸君はまず決まりね。」と切り出してくれたそうです。白鳥先生は公正な方ですから、自分のゼミ生に手心を加えることはされなかったと後に私の初代の後援会長をして下さった国際交流センターの南さんが私にこっそり伝えてくれました。それでも、もう時効ですから言っちゃいますけど、白鳥先生がゼミの直前に短く一言、「君、決まったよ。」と正式な発表がある前に私に耳打ちしてくれました。
■君、毎日ぼくのところへ来て、おさんどんしなさい。
英国に渡ってすぐに、私が母子家庭で経済的に苦しいことを知っておられた白鳥先生は「君、毎日ぼくのところへ来て、おさんどんしなさい。」とおっしゃいました。先輩たちからは白鳥先生はあまり就職とか、面倒みはあまりよくないよと噂を聞いていましたが、これが白鳥先生流なんだとあらためて思いました。実はとってもおもいやりがあってやさしくて繊細。
■ぼくは君が別の意味で優秀だと思ってあげてるんだからね・・・
正直、英国の大学の学問水準は日本やアメリカの比ではありません。毎週20冊ものリーディング・リストを各教科で手渡され、いわゆる3,000ワードエッセー~A4判にダブルスペースでタイプして10-12ページにもなる論文を各学期ごとに提出しなければなりません。同じ政治学部で学んでいた別大学から来た、もう一人の日本人学生が優秀で私が劣等感からつい、「○○君のようには出来ない。」と弱音をはくと、「僕は君が別の意味で優秀だと思ってあげてるんだからね・・・」と励ましてくれました。「君は君でいいんだよ。」というふうに聞こえました。本当に白鳥先生のその言葉に、苦しい中で、勇気をいただきました。
■僕たち教師は君たちに知識を授けることはできるが、問題意識は授けることができない。
そしてさらに、白鳥先生から私が全人格的に認めて頂いていると確信することができる言葉もありました。それは、「僕たち教師は君たちに知識を授けることは出来るけれど、問題意識を授けることはできない。」という言葉。この言葉で、先生の私への「別な意味で」がどういう意味なのかを教わりました。いくら勉強が出来ても、問題意識がなければ学問は実学にならない。先生が切り開いた政治分析学の原点もここにある。世の中に役に立たない学問は意味がない。そんなことも学びました。
■君、ぼくのところへきて少し修行してみたら。
白鳥先生は英国から帰国後、私にさらに1年間獨協大学に残る意思がないことを知ると、「君、政治家になりたいんだろ。ぼくのところへきて少し修行してみたら。」と日本政治総合研究所(IPSJ)への就職を許可してくれました。そこで私が体験させていただいた様々なことがらが、今の私の基礎になっています。
■君、マメじゃなくっちゃ出世しないよ。
白鳥先生の秘書として、スケジュール管理、政財界人とのアポイントメントの取り方、交渉術、オフィスまわりの細かな作業から複式簿記にいたるまで、とにかく学生時代以上にいろいろなことを先生にはご指導を賜りました。
■瀬戸君には瀬戸君の考えがあってやっていることなんだから・・・
まだ20代の中盤の頃、白鳥先生は私を研究所の運営委員兼事務局長という立場に立たせてくださいました。しかし、まだ若くて経験もないころでしたから、スタッフから不満がでて、白鳥先生の前であることを指摘されたことがあります。その時、先生はそのスタッフにむけて、「瀬戸君には瀬戸君の考えがあってやっていることなんだから、口をはさんじゃいけない。とその訴えを退けてくれました。白鳥先生は私のことを本当に認めてくれているんだ。そんな思いが、今でも私の支えになっています。
■私の「承認のコップ」を満たし続けてくれた人
白鳥令先生との出会いがなければ、今の私はここに居ないでしょう。白鳥先生のいつも私を認めてくれる目がなかったら、私の承認のコップは満たされないままだったかもしれません。「承認のコップ」とは、誰でも持っていて、これがある程度、満たされていないと人は生きていけないという考え方です。このコップは自己承認と多己承認があって、この割合は人によって異なります。私の場合はこの前提にクリスチャンとして神様からの承認がありますので、自分が生きることへの不安はありません。
■巣立ちの時~君、今日草加に引っ越せ。
白鳥先生のもとで丸3年~4年目の春。私は日本の政治を実際に動かしている当時の大臣級、党首クラスの大物政治家たちを選び、交渉し、毎月の朝食会の設営を任されていました。その朝食会のメンバーは新聞各紙の政治部長クラス以上のジャーナリスト、日本を代表する大企業のオーナー社長、社長、会長クラスの経済人たちと政治学者、政治評論家の先生方でした。私だけが明らかに異質。こんな中に自分が加われたらと思えば思うほど、そのギャップが大きくて・・・そんな多少、自暴自棄に入りかけていた私に、白鳥先生は「○○さんの秘書になる?それとも、草加で市議会議員になる?」と尋ねられました。(○○さん=某大物代議士)
■毎朝、松原団地の駅頭で演説しなさい。
白鳥先生の懐の中で社会のありとあらゆる側面をいろんな角度から見せていただいたことで、私は決しておごりとかではなく、誰かの力に頼るよりも、自分で何かを切り拓いていきたいと思いました。そして迷わず、草加で市議会議員を目指してゼロからスタートすることを選択しました。そして、「毎朝、研究所に出てくる前に松原団地の駅頭で演説しなさい。」この白鳥先生の言葉どおり、松原団地駅での駅頭演説活動は、市議会議員としての私の原点だと、今もそう思っています。
母子家庭の貧しい一人の苦学生を一人の市議会議員にまで育てて下さった白鳥令先生は、私にとって今も、かけがえのない素晴らしい教師でいて下さっております。
長くとりとめもない記事ですが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
瀬戸健一郎
Kenichiro Seto
草加市議会議員
Soka City Councilor
■素晴らしい教師たちとの出会い~必ずしも時系列ではないけれど・・・
私は小学生時代から本当に素晴らしい先生に恵まれ続けてきました。そんな先生お一人お一人のお陰さまで、私の人格が少しずつ形づくられてきたと感謝しています。このブログ記事のシリーズでは、私が実際にお世話になった素晴らしい先生方をお一人ずつご紹介申し上げたいと考えています。必ずしも時系列とはいきませんが、その点はご了承ください。第一弾は白鳥令先生です。
■白鳥令教授とのであい~獨協大学時代
高校時代のアメリカ留学をきっかけに政治家になりたいと思った私は、獨協大学で白鳥令先生に出会いました。1年生の時に白鳥先生の政治学概論を履修して、白鳥先生の学問がまさに実学であることに感激しました。そして、3年生になったら、絶対に白鳥先生のゼミを取るんだとそのころから決めていました。
■白鳥令教授が英国のプロフェッサーとなり、居なくなる・・・
ところが、いよいよ3年生になって白鳥ゼミに入る時期がくると、肝心な白鳥先生が英国のプロフェッサーとしてエセックス大学で1年間、教鞭をお取りになることが発表され、私はいてもたってもいられなくなりました。そして何の見境もなく、白鳥先生に、「私は先生のゼミに入るために今日まで働きながら大学に通ってきたのに、なんで先生はイギリスに行ってしまうんですか。」と文句を言いにいきました。
■君、交換学生に応募してみたら。
後から分かったことですが、日本人で英国のプロフェッサー・シップ~つまり英国では教授というのは社会全体で限られた学者だけが名乗ることを許された「社会的身分」のひとつなのです。白鳥先生はこの称号を許された、当時日本人で2人しかいなかった学者のお一人だったわけです。そして、その先生の言葉は思いがけないものでした。「たまたま僕が行くエセックス大学と獨協大学が学術協定を締結するから、君、交換学生に応募してみたら。」というものでした。
■応募資格もないままに受験
3年生の応募資格はすべての教養課程科目の履修を修了した者。というものでしたが、私は午後から夜にかけてECCで非常勤ではありましたが、サラリーマン生活をしていましたから、教養課程科目の履修が完了していませんでした。それでも応募してしまいました。
■人生最大のはったり~強いコミットメントが環境を動かす・・・
交換学生試験に必要な論文などの必要書類を揃え、筆記試験やリスニング試験や英語面接を終え、いよいよ最後の教授面接になったとき、各学部の教授陣の内ひとりが「あれっ?君、応募資格がないじゃないか。」と切り出しました。正直、私は「えっ?何で今さら・・・」と思いましたが、ばれちゃあ、しょうがねぇ~。「獨協大学がエセックス大学との学術協定における学生派遣プログラムを成功させたいなら、私を送り出すべきです。」と啖呵をきりました。でも、本当にあの瞬間、私はそう思いましたし、絶対にこの留学経験を最高の成果に結びつけていくという強い決意=コミットメントがありました。
■君、決まったよ。~白鳥先生の言葉に天にも昇る心地
最終選考で5人の交換学生を選び出す教授たちの会議で、ある女性教授が「瀬戸君はまず決まりね。」と切り出してくれたそうです。白鳥先生は公正な方ですから、自分のゼミ生に手心を加えることはされなかったと後に私の初代の後援会長をして下さった国際交流センターの南さんが私にこっそり伝えてくれました。それでも、もう時効ですから言っちゃいますけど、白鳥先生がゼミの直前に短く一言、「君、決まったよ。」と正式な発表がある前に私に耳打ちしてくれました。
■君、毎日ぼくのところへ来て、おさんどんしなさい。
英国に渡ってすぐに、私が母子家庭で経済的に苦しいことを知っておられた白鳥先生は「君、毎日ぼくのところへ来て、おさんどんしなさい。」とおっしゃいました。先輩たちからは白鳥先生はあまり就職とか、面倒みはあまりよくないよと噂を聞いていましたが、これが白鳥先生流なんだとあらためて思いました。実はとってもおもいやりがあってやさしくて繊細。
■ぼくは君が別の意味で優秀だと思ってあげてるんだからね・・・
正直、英国の大学の学問水準は日本やアメリカの比ではありません。毎週20冊ものリーディング・リストを各教科で手渡され、いわゆる3,000ワードエッセー~A4判にダブルスペースでタイプして10-12ページにもなる論文を各学期ごとに提出しなければなりません。同じ政治学部で学んでいた別大学から来た、もう一人の日本人学生が優秀で私が劣等感からつい、「○○君のようには出来ない。」と弱音をはくと、「僕は君が別の意味で優秀だと思ってあげてるんだからね・・・」と励ましてくれました。「君は君でいいんだよ。」というふうに聞こえました。本当に白鳥先生のその言葉に、苦しい中で、勇気をいただきました。
■僕たち教師は君たちに知識を授けることはできるが、問題意識は授けることができない。
そしてさらに、白鳥先生から私が全人格的に認めて頂いていると確信することができる言葉もありました。それは、「僕たち教師は君たちに知識を授けることは出来るけれど、問題意識を授けることはできない。」という言葉。この言葉で、先生の私への「別な意味で」がどういう意味なのかを教わりました。いくら勉強が出来ても、問題意識がなければ学問は実学にならない。先生が切り開いた政治分析学の原点もここにある。世の中に役に立たない学問は意味がない。そんなことも学びました。
■君、ぼくのところへきて少し修行してみたら。
白鳥先生は英国から帰国後、私にさらに1年間獨協大学に残る意思がないことを知ると、「君、政治家になりたいんだろ。ぼくのところへきて少し修行してみたら。」と日本政治総合研究所(IPSJ)への就職を許可してくれました。そこで私が体験させていただいた様々なことがらが、今の私の基礎になっています。
■君、マメじゃなくっちゃ出世しないよ。
白鳥先生の秘書として、スケジュール管理、政財界人とのアポイントメントの取り方、交渉術、オフィスまわりの細かな作業から複式簿記にいたるまで、とにかく学生時代以上にいろいろなことを先生にはご指導を賜りました。
■瀬戸君には瀬戸君の考えがあってやっていることなんだから・・・
まだ20代の中盤の頃、白鳥先生は私を研究所の運営委員兼事務局長という立場に立たせてくださいました。しかし、まだ若くて経験もないころでしたから、スタッフから不満がでて、白鳥先生の前であることを指摘されたことがあります。その時、先生はそのスタッフにむけて、「瀬戸君には瀬戸君の考えがあってやっていることなんだから、口をはさんじゃいけない。とその訴えを退けてくれました。白鳥先生は私のことを本当に認めてくれているんだ。そんな思いが、今でも私の支えになっています。
■私の「承認のコップ」を満たし続けてくれた人
白鳥令先生との出会いがなければ、今の私はここに居ないでしょう。白鳥先生のいつも私を認めてくれる目がなかったら、私の承認のコップは満たされないままだったかもしれません。「承認のコップ」とは、誰でも持っていて、これがある程度、満たされていないと人は生きていけないという考え方です。このコップは自己承認と多己承認があって、この割合は人によって異なります。私の場合はこの前提にクリスチャンとして神様からの承認がありますので、自分が生きることへの不安はありません。
■巣立ちの時~君、今日草加に引っ越せ。
白鳥先生のもとで丸3年~4年目の春。私は日本の政治を実際に動かしている当時の大臣級、党首クラスの大物政治家たちを選び、交渉し、毎月の朝食会の設営を任されていました。その朝食会のメンバーは新聞各紙の政治部長クラス以上のジャーナリスト、日本を代表する大企業のオーナー社長、社長、会長クラスの経済人たちと政治学者、政治評論家の先生方でした。私だけが明らかに異質。こんな中に自分が加われたらと思えば思うほど、そのギャップが大きくて・・・そんな多少、自暴自棄に入りかけていた私に、白鳥先生は「○○さんの秘書になる?それとも、草加で市議会議員になる?」と尋ねられました。(○○さん=某大物代議士)
■毎朝、松原団地の駅頭で演説しなさい。
白鳥先生の懐の中で社会のありとあらゆる側面をいろんな角度から見せていただいたことで、私は決しておごりとかではなく、誰かの力に頼るよりも、自分で何かを切り拓いていきたいと思いました。そして迷わず、草加で市議会議員を目指してゼロからスタートすることを選択しました。そして、「毎朝、研究所に出てくる前に松原団地の駅頭で演説しなさい。」この白鳥先生の言葉どおり、松原団地駅での駅頭演説活動は、市議会議員としての私の原点だと、今もそう思っています。
母子家庭の貧しい一人の苦学生を一人の市議会議員にまで育てて下さった白鳥令先生は、私にとって今も、かけがえのない素晴らしい教師でいて下さっております。
長くとりとめもない記事ですが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
瀬戸健一郎
Kenichiro Seto
草加市議会議員
Soka City Councilor
人と人との出逢いは、本当に不思議です。
私のJC現役時代、君が指南したインターネットでホワイトハウスを映し出さなければ、
今のブログをしている私はあり得ません。
そう言う意味で、貴方は私の先生です。
貴方の今回の話、う~ん実に良いなあ・・
私も17歳で父を亡くしましたから、貴方の
働きながら大学へ行った事、言葉は少ないけど、その苦労は、分かります。
こればっかりは、同じ境遇にならないと分からないですよね!
ちょっと涙腺が・・・参ったなあ・・