皆さんは「ダビンチコード」という本をお読みになりましたか?これがトム・ハンクス主演で、今年の5月20日から日本でも映画「ダビンチコード」が公開される予定です。実は、まだ私は読んでいません。
しかし、その中身について聞いていることから、ひとつだけ受け入れがたいものがあるので、原作を読む前に、映画を観る前に、そのポイントだけ先にブロッギングしておきたいと思います。
ズバリ!それはマグダラのマリアはイエスの子どもを絶対に生んでいない!ということです。
■モナリザはマグダラのマリアだ!
実はレオナルド・ダ・ビンチが生まれたビンチ村の教会の守護聖人が「マグダラのマリア」であり、ベニスの裕福な商人ジョコンダ氏の夫人がモデルだとされてきたルーブル美術館にある「モナ・リサ」(ジョコンダ)は実はジョコンダ夫人なのではなくて、マグダラのマリアがそのモデルなのだという説を私は支持しています。
■マグダラのマリアってだれ?
マグダラのマリアとは、十字架にかけられたイエスの死を最後まで看取った数名の人物の内の一人。それは聖母マリアとイエスの12弟子中の最年少であり、イエスが最期に母マリアを託した聖ヨハネ。そしてマグダレン(マグダラのマリア)らの女性たちでした。
聖書の人物の中で私が一番好きなのは実はイエスの一番弟子の聖ペテロなのですが、彼はイエスが予言していたとおり、イエスを知らないと3度言って、逃げてしまっていました。つまり聖書にイエスの十字架のそばに最期まで付き従ったと記されているのは上述の3名を含む数名だけなのです。
■マグダラのマリアのイメージ
キリスト=イエスの受難を描いた問題作「パッション」では、このマグダラのマリアをイタリアの女優モニカ・ベルッチが演じています。これまでクリスチャンでさえも目を背けて見てみぬそぶりできた2千年前の残忍なキリストの受難を人々に直視させたことは、イエスが神の子であったことを人々に鮮烈に印象づける効果があったと思います。
しかし、このパッションのなかでのマグダラのマリアについての演出にも聖書の記述からは不正確な部分があると私は感じています。
聖書なりキリスト教なり、もしくは人として現世に現れたイエスの生涯を描いた様々な文学や映画作品を一つでもご覧になったことがある方なら、おそらく「マグダラのマリア」=「石打の刑から救われた娼婦」だという印象をお持ちかもしれません。
■マグダラのマリアは娼婦?
娼婦は売春をして生活していましたから、姦淫の罪を犯し犯させる罪人として扱われる存在でした。そしてそんな罪びとである娼婦は石で打ち殺してもいいとされていました。しかし、聖書中にはそんな娼婦をイエスが「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)と言って助けたという記述があります。
戒律による信仰生活を愛の実践による信仰生活へとイエスが当時のユダヤ教徒たちの信仰の土台をトランスフォームさせようとしていたことが分ります。
確かにマグダラのマリアもイエスによって「7つの悪霊」を追い出してもらったという記述がありますから、当時どん底の状態に居たことは確かなのですが、彼女がイエスに救われた娼婦であると関連付ける証拠も記述もありません。
■マグダラのマリアがイエス復活の第一発見者
イエスが13日の金曜日に十字架にかかり死んで、3日後の日曜日に死から復活したときに、イエスが復活して墓から出たことを最初に目撃したのがマグダラのマリアであったのは聖書の記述とも一致しています。
イエスの最期を看取り、復活の第一発見者になったという破格の用いられ方をした女性であることから、処女のままイエスをみごもった聖母マリアがイエスの母であるならば、マグダラのマリアはイエスの妻だったのではないかというのが、ダビンチコードがマグダラのマリアがイエスの子どもを産んでいたとする説の根拠になっているのかもしれません。
しかし、それではイエスの神聖が根底から崩れてしまいます。だからバチカンがこの秘密を封じ込めようとしたとまでダビンチコードは推理小説ばりの論理を展開していくことになります。
※神聖もしくは神性と読み替えていただいてもいいと思います。イエスは人間の罪を一身に背負い、私たちの身代わりに十字架で死ぬために生まれてきた神の子=神ご自身であるがゆえにクリスチャンの信仰は成り立っています。インマヌエル=肉体をもって現れた神はイエスただ一人であり、その子孫が存在することは聖書の記述と矛盾します。
■イエスの神聖とフリーメイスン
もし、イエスが神でなかったなら、もし、イエスの神聖が否定されたら、もし、イエスの子孫が本当に今でもその血統を受け継いでおり、中世に名をはせたテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団と現代社会にも脈々と存続している友愛団体「フリーメイスン」とのつながりがあるのだとしたら、神の存在が嘘になってしまいます。だとすると私を含めて多くのクリスチャンが日常的に体験している神様との交信、交わり、様々な奇跡と聖霊の働きが実存することが説明できなくなってしまいます。これは信じるものにしか分らないことかもしれませんが、マグダレンがイエスの子どもを産んだというのは断固として「嘘」です!私の全身全霊がそう主張しています。
■世界列強と手を結んだバチカン
さて、ダビンチ・コードが触れる世界情勢に少し視点を移していきましょう。
当時、ローマカトリックがキリスト教の総本山であり、唯一の教会組織でした。その権威はまさに偉大で、彼らの使命は「世界宣教」でした。世の中のすべての人々に「イエスを神の子であると信じて、自分自身の救世主であると信じるならば、すべての罪が許されて、死んでも生きる。天国に行ける。」という「福音」(Good News)を伝えることは今でもクリスチャンの使命です。
※ダビンチはルネッサンス期の人物であり、十字軍~宗教改革は中世以降の出来事です。しかし、教会制度に対して様々なクリスチャンとしての反応がどの時代にも存在していて、それらが何らかの対抗もしくは反抗的な行為だと裁かれかねない社会情勢だったことが、私は重要な視点だと感じています。
■教会の堕落とプロテスタント運動
しかし、当時のバチカンはヨーロッパ列強諸国と手を結び、世界征服という時の権力者と手を結んで、世界宣教を果たそうとしました。政治権力とむすびついた宗教的権威はやがて失墜する。極端な権威主義と権力がキリスト教の教理さえも形骸化させてしまったことが、ルターの宗教改革の原因であったことは歴史が物語っています。プロテスタントとはプロテスト(抗議)する人々という意味です。
そして、当時の教会の権威主義や形式主義に抗議したのはルターらの聖書回帰主義の聖職者ばかりではなかっただろうと私は考えています。
■教会の圧力と表現の自由
教会建築や宗教芸術の分野でもカトリック教会(バチカン)の影響力はすさまじいものがあったはずです。たとえそれがダビンチほどの人物であったとしても、教会権威に対抗して自らの主観による聖画を描くことは許されませんでした。
■教会権威と教養人たち
一方、話しは変わりますが、フリーメイスンも私は同様な歴史を経験した人々だと考えています。メイスンとは「石工」のことですが、これは同時に教会建築に携わった人々のことです。そしてこれらの人々も天才ダビンチと同様に当時の社会の最高の教養と技術を身につけた人々であり、しかし、バチカンの権威の下におかれていた人々です。
■世界宣教と世界征服
世界宣教を振りかざし、時の権力と結びついて世界征服を進め、本来の人々の救済から少しずつはづれていったカトリック教会(バチカン)に抗議したのはルターを筆頭としたプロテスタントの聖職者ばかりではなく、ダビンチや建築家などの時代のメキキたちでもあったのではないでしょうか。
そして彼らは彼らにしか分らない方法で、自己主張したのです。
■ダビンチの真意
決して私はダビンチがキリストの神聖に疑念を抱いていたのではないと思います。彼は聖人といえば必ず頭の上にリングがあって明るい色彩で描かねばならぬというバチカンの注文に抗議し、イエスでさえも、ありとあらゆる聖人とされる人々もみな、今も生きている我々普通の人間と同じ肉体を持ち、生々しく生きていた人々なのだから、そのありのままを、ありのままの姿を描ききりたいと考えたに違いないと思います。
■モナリザこそダビンチの究極の人間像
英国留学中のアフター・クリスマス、年末年始を私はパリで過ごしました。その間何度も足を運んだルーブルで観た「モナ・リサ」の鮮烈な印象は今でも忘れることはできません。彼女こそは究極の人間像。
特に際立った目鼻立ちでもなく、化粧もアクセサリーも身につけてはいない。「眉毛」すらない!でも、人生の酸いも辛いもわかっていてなお、やさしい微笑を浮かべている。彼女こそは7つの悪霊の苦しみから解き放たれ、ただでさえ男尊女卑の時代に、虐げられた女性という立場でありながら、神の子イエスに最期まで仕えた究極の献身者マグダラのマリアその人である。
イエスと彼女が夫婦であり、その間に子どもがいたなどというのは、単純にそういうつくり話にすぎない。ダビンチもそんな「平凡な」「女性」を描いたつもりはないはずだ。ダビンチが描きたかったのは「究極の」「人間像」なのだと私は思います。
■ダビンチコードを読む前に
最後に、これからダビンチコードを私も読んでいきますが、この問題作に思考をあやつられないために、いくつかご覧になっていただきたいお勧めの映画もご紹介させていただきます。
ひとつは「キング・オブ・キングス」、もうひとつは「キングダム・オブ・ヘブン」です。フリーメイスンにもご興味がおありなら、「ナショナル・トレジャー」も痛快でおもしろいです。
以上、とっても長~くなってしまいました。すいません。読んでくださって、ありがとうございました。
追伸
ようやく私も話題の映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観てきました。この記事の第二弾「ダ・ヴィンチ・コードPartⅡ」も合わせてご覧ください。
瀬戸健一郎
Kenichiro Seto
草加市議会議員
Soka City Councilor
ブログタイトル:「ダ・ヴィンチ・コード」/ダ・ビンチ・コード/ダヴィンチコード/キリスト教/マグダラのマリア/マグダレン/ヴィンチ村/ビンチ村/シオン修道会/フリーメイスン/聖ヨハネ騎士団
しかし、その中身について聞いていることから、ひとつだけ受け入れがたいものがあるので、原作を読む前に、映画を観る前に、そのポイントだけ先にブロッギングしておきたいと思います。
ズバリ!それはマグダラのマリアはイエスの子どもを絶対に生んでいない!ということです。
■モナリザはマグダラのマリアだ!
実はレオナルド・ダ・ビンチが生まれたビンチ村の教会の守護聖人が「マグダラのマリア」であり、ベニスの裕福な商人ジョコンダ氏の夫人がモデルだとされてきたルーブル美術館にある「モナ・リサ」(ジョコンダ)は実はジョコンダ夫人なのではなくて、マグダラのマリアがそのモデルなのだという説を私は支持しています。
■マグダラのマリアってだれ?
マグダラのマリアとは、十字架にかけられたイエスの死を最後まで看取った数名の人物の内の一人。それは聖母マリアとイエスの12弟子中の最年少であり、イエスが最期に母マリアを託した聖ヨハネ。そしてマグダレン(マグダラのマリア)らの女性たちでした。
聖書の人物の中で私が一番好きなのは実はイエスの一番弟子の聖ペテロなのですが、彼はイエスが予言していたとおり、イエスを知らないと3度言って、逃げてしまっていました。つまり聖書にイエスの十字架のそばに最期まで付き従ったと記されているのは上述の3名を含む数名だけなのです。
■マグダラのマリアのイメージ
キリスト=イエスの受難を描いた問題作「パッション」では、このマグダラのマリアをイタリアの女優モニカ・ベルッチが演じています。これまでクリスチャンでさえも目を背けて見てみぬそぶりできた2千年前の残忍なキリストの受難を人々に直視させたことは、イエスが神の子であったことを人々に鮮烈に印象づける効果があったと思います。
しかし、このパッションのなかでのマグダラのマリアについての演出にも聖書の記述からは不正確な部分があると私は感じています。
聖書なりキリスト教なり、もしくは人として現世に現れたイエスの生涯を描いた様々な文学や映画作品を一つでもご覧になったことがある方なら、おそらく「マグダラのマリア」=「石打の刑から救われた娼婦」だという印象をお持ちかもしれません。
■マグダラのマリアは娼婦?
娼婦は売春をして生活していましたから、姦淫の罪を犯し犯させる罪人として扱われる存在でした。そしてそんな罪びとである娼婦は石で打ち殺してもいいとされていました。しかし、聖書中にはそんな娼婦をイエスが「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)と言って助けたという記述があります。
戒律による信仰生活を愛の実践による信仰生活へとイエスが当時のユダヤ教徒たちの信仰の土台をトランスフォームさせようとしていたことが分ります。
確かにマグダラのマリアもイエスによって「7つの悪霊」を追い出してもらったという記述がありますから、当時どん底の状態に居たことは確かなのですが、彼女がイエスに救われた娼婦であると関連付ける証拠も記述もありません。
■マグダラのマリアがイエス復活の第一発見者
イエスが13日の金曜日に十字架にかかり死んで、3日後の日曜日に死から復活したときに、イエスが復活して墓から出たことを最初に目撃したのがマグダラのマリアであったのは聖書の記述とも一致しています。
イエスの最期を看取り、復活の第一発見者になったという破格の用いられ方をした女性であることから、処女のままイエスをみごもった聖母マリアがイエスの母であるならば、マグダラのマリアはイエスの妻だったのではないかというのが、ダビンチコードがマグダラのマリアがイエスの子どもを産んでいたとする説の根拠になっているのかもしれません。
しかし、それではイエスの神聖が根底から崩れてしまいます。だからバチカンがこの秘密を封じ込めようとしたとまでダビンチコードは推理小説ばりの論理を展開していくことになります。
※神聖もしくは神性と読み替えていただいてもいいと思います。イエスは人間の罪を一身に背負い、私たちの身代わりに十字架で死ぬために生まれてきた神の子=神ご自身であるがゆえにクリスチャンの信仰は成り立っています。インマヌエル=肉体をもって現れた神はイエスただ一人であり、その子孫が存在することは聖書の記述と矛盾します。
■イエスの神聖とフリーメイスン
もし、イエスが神でなかったなら、もし、イエスの神聖が否定されたら、もし、イエスの子孫が本当に今でもその血統を受け継いでおり、中世に名をはせたテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団と現代社会にも脈々と存続している友愛団体「フリーメイスン」とのつながりがあるのだとしたら、神の存在が嘘になってしまいます。だとすると私を含めて多くのクリスチャンが日常的に体験している神様との交信、交わり、様々な奇跡と聖霊の働きが実存することが説明できなくなってしまいます。これは信じるものにしか分らないことかもしれませんが、マグダレンがイエスの子どもを産んだというのは断固として「嘘」です!私の全身全霊がそう主張しています。
■世界列強と手を結んだバチカン
さて、ダビンチ・コードが触れる世界情勢に少し視点を移していきましょう。
当時、ローマカトリックがキリスト教の総本山であり、唯一の教会組織でした。その権威はまさに偉大で、彼らの使命は「世界宣教」でした。世の中のすべての人々に「イエスを神の子であると信じて、自分自身の救世主であると信じるならば、すべての罪が許されて、死んでも生きる。天国に行ける。」という「福音」(Good News)を伝えることは今でもクリスチャンの使命です。
※ダビンチはルネッサンス期の人物であり、十字軍~宗教改革は中世以降の出来事です。しかし、教会制度に対して様々なクリスチャンとしての反応がどの時代にも存在していて、それらが何らかの対抗もしくは反抗的な行為だと裁かれかねない社会情勢だったことが、私は重要な視点だと感じています。
■教会の堕落とプロテスタント運動
しかし、当時のバチカンはヨーロッパ列強諸国と手を結び、世界征服という時の権力者と手を結んで、世界宣教を果たそうとしました。政治権力とむすびついた宗教的権威はやがて失墜する。極端な権威主義と権力がキリスト教の教理さえも形骸化させてしまったことが、ルターの宗教改革の原因であったことは歴史が物語っています。プロテスタントとはプロテスト(抗議)する人々という意味です。
そして、当時の教会の権威主義や形式主義に抗議したのはルターらの聖書回帰主義の聖職者ばかりではなかっただろうと私は考えています。
■教会の圧力と表現の自由
教会建築や宗教芸術の分野でもカトリック教会(バチカン)の影響力はすさまじいものがあったはずです。たとえそれがダビンチほどの人物であったとしても、教会権威に対抗して自らの主観による聖画を描くことは許されませんでした。
■教会権威と教養人たち
一方、話しは変わりますが、フリーメイスンも私は同様な歴史を経験した人々だと考えています。メイスンとは「石工」のことですが、これは同時に教会建築に携わった人々のことです。そしてこれらの人々も天才ダビンチと同様に当時の社会の最高の教養と技術を身につけた人々であり、しかし、バチカンの権威の下におかれていた人々です。
■世界宣教と世界征服
世界宣教を振りかざし、時の権力と結びついて世界征服を進め、本来の人々の救済から少しずつはづれていったカトリック教会(バチカン)に抗議したのはルターを筆頭としたプロテスタントの聖職者ばかりではなく、ダビンチや建築家などの時代のメキキたちでもあったのではないでしょうか。
そして彼らは彼らにしか分らない方法で、自己主張したのです。
■ダビンチの真意
決して私はダビンチがキリストの神聖に疑念を抱いていたのではないと思います。彼は聖人といえば必ず頭の上にリングがあって明るい色彩で描かねばならぬというバチカンの注文に抗議し、イエスでさえも、ありとあらゆる聖人とされる人々もみな、今も生きている我々普通の人間と同じ肉体を持ち、生々しく生きていた人々なのだから、そのありのままを、ありのままの姿を描ききりたいと考えたに違いないと思います。
■モナリザこそダビンチの究極の人間像
英国留学中のアフター・クリスマス、年末年始を私はパリで過ごしました。その間何度も足を運んだルーブルで観た「モナ・リサ」の鮮烈な印象は今でも忘れることはできません。彼女こそは究極の人間像。
特に際立った目鼻立ちでもなく、化粧もアクセサリーも身につけてはいない。「眉毛」すらない!でも、人生の酸いも辛いもわかっていてなお、やさしい微笑を浮かべている。彼女こそは7つの悪霊の苦しみから解き放たれ、ただでさえ男尊女卑の時代に、虐げられた女性という立場でありながら、神の子イエスに最期まで仕えた究極の献身者マグダラのマリアその人である。
イエスと彼女が夫婦であり、その間に子どもがいたなどというのは、単純にそういうつくり話にすぎない。ダビンチもそんな「平凡な」「女性」を描いたつもりはないはずだ。ダビンチが描きたかったのは「究極の」「人間像」なのだと私は思います。
■ダビンチコードを読む前に
最後に、これからダビンチコードを私も読んでいきますが、この問題作に思考をあやつられないために、いくつかご覧になっていただきたいお勧めの映画もご紹介させていただきます。
ひとつは「キング・オブ・キングス」、もうひとつは「キングダム・オブ・ヘブン」です。フリーメイスンにもご興味がおありなら、「ナショナル・トレジャー」も痛快でおもしろいです。
以上、とっても長~くなってしまいました。すいません。読んでくださって、ありがとうございました。
追伸
ようやく私も話題の映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観てきました。この記事の第二弾「ダ・ヴィンチ・コードPartⅡ」も合わせてご覧ください。
瀬戸健一郎
Kenichiro Seto
草加市議会議員
Soka City Councilor
ブログタイトル:「ダ・ヴィンチ・コード」/ダ・ビンチ・コード/ダヴィンチコード/キリスト教/マグダラのマリア/マグダレン/ヴィンチ村/ビンチ村/シオン修道会/フリーメイスン/聖ヨハネ騎士団
ミクシィからやって参りました。
市会議員というお立場にあられる方が、こうしてしっかりとしたご見解を表明してくださることは、本当に灯火です。地の塩世の光として、お働きが祝福されるように、お祈りしております。
(事後承諾でスミマセンが拙関連記事にトラバさせて頂きました。)
さいもん
出版業界も、ネタ探しに大変なんでしょうね。これだけ出版不況と言われていますから。
ひと昔前の、ノストラダムスの大預言も、出版業界が本を売りたい為に、一生懸命やっていましたね。
今では覚えている人も少ないかも知れません。
おそらく、ダビンチコードもそんな感じなのでは。
深いご考察、興味深く拝見いたしました。
それにしても、生モナリザを何度も見られたそうで……う、うらやましいっ!!(笑)
絶対に新婚旅行は、ルーブルをコースに入れようと誓いました。
ダ・ヴィンチ・コードは、本当にオススメです。
読み終わったら、ぜひ感想を書いてください。
楽しみにしています♪
それでは、また。