唯物論者

唯物論の再構築

国別通貨価値(2)

2013-11-10 11:52:06 | 各論

2.国別通貨価値

 通貨額面に対応する商品定量は、ある一時期において特定の値として現れる。例えば100円がキュウリ10本と交換されたりする。しかし通貨額面と商品定量の相関、すなわち定量の商品につけられた価格は、市場における全商品の相互関係によって経験的妥当性を得ただけの偶然な数値である。すなわちキュウリ1本の価格が10円表記が妥当なのか、それとも1000円表記が妥当なのかの選択は、1円の価値を確定させない限り無意味な試みである。ただしここで実際に重要なのは、1円の価値を解明することではない。重要なのは、キュウリ1本の価格ではなく、キュウリ1本の価値が表現するのは一体いかなる値なのかである。なぜなら先に起きるべき出来事は、キュウリを含めた価値一般の価格決定であり、1円の価値はこのキュウリを含めた価値一般の価格から類推すべきだからである。つまり先行して一労働日あたりの生活資材の価値と価格が1円の価値を決定するべきであり、その1円の価値を元にしてキュウリの価値と価格が決まるべきである。そうでなければ、人間生活から離れた1円の価値が、全ての商品交換に先行して、天上から降臨してくるという不自然が発生する。結局このことが要求する価値規定の一般的な動きは、先行して一労働日あたりの生活資材の価値と価格が定量の貨幣価値を決定し、その定量の貨幣価値を元にして個々の商品の価値と価格が決まるという商品価値実体から価値交換過程に進む論理展開である。当然ながら固定相場制における各国通貨の交換比も、国際的な貨幣価格、すなわち金価格に従わなければならない。もちろんこの定量の金の価格が10円表記が妥当なのか、それとも1000円表記が妥当なのかも、通貨単位形成上の一つの偶然にすぎない。その偶然性は、通貨単位を100分の1にするデノミが実施されれば、1000円の商品も10円になってしまうと言う事実に示される。このようなデノミの実施可能性は、全ての商品交換に先行して、1円の価値が天上から降臨してきたわけではないのを体現している。またそれだからこそ経済学は、価格ではなく価値を問題にしている。 上述の通貨単位が抱える事情は、現象面で見たときに各国の通貨価値がその需給量によって変動し、あたかも需給関係がその通貨価値を規定するかのような錯覚を生む。それは、現象面で見たときに商品価格がその商品の需給量によって変動し、あたかも需給関係が商品価格を規定するかのような錯覚が生まれるのと全く変わらない。しかし通貨が商品と異なるのは、時期を限定するかもしれないにせよ、それが定量の商品交換を保証する債券だということにある。したがって、もし通貨の交換可能な商品定量が増減するなら、通貨価値も連動して増減しなければならない。例えば国内的なインフレ発生により、1ドルを金10グラムと交換していたのが、半量の金5グラムと交換するように変わるなら、1ドルの通貨価値が以前の半量に下落するようにである。ただしその国内的なインフレが、本当に国内事情に起因したのか、それとも対外的事由に起因したのかは、ここであまり意味を持たない。重要なのは、何らかの事情が通貨価値を変動させるなら、同時にその交換可能な商品定量も既に変動しているという事実である。当然ながらここでは、通貨需給によって通貨は価値変動しているわけではなく、逆にその通貨額面に対応する商品定量の変動の方が、通貨の価値変動の正体なのであろう、という労働価値論特有の推測が可能となる。 このような理解で通貨価値を見るなら、それこそ通貨価値とは、その本質において商品価格と同じものとなる。また通貨を対外的な商品交換の手段として扱うなら、対外的に商品交換される商品もまた、該当国家が国外向けに処分可能な商品のはずである。すなわち、対外的な通貨の価値変動は、該当国家が国外向けに処分可能な商品の対外的な価値変動として理解されるべきとなる。もちろんこの対外的商品が究極において労働力商品なのであろうというのは、本論の冒頭陳述からも察しのつく話である。と言うのも、商品一般の国際的な高値ないし安値を支えるのは、結局それを生産するための労働力の高値ないし安値だからである。ただし労働価値論において労働力商品の価値とは、労働力自らの再生産に必要な生活資材の塊の大きさを言う。したがって対外的な通貨の価値変動も、労働力自らの再生産に必要な生活資材塊の大きさの変動として理解されるべきである。

 貨幣の地金市場への売却が無意味化した現代では、通貨額面と商品定量の間の交換比を国家が規定する。当然ながら国家は、一定額面の通貨と定量の商品交換を保証をする役割を果さなければならない。したがって通貨価値とは、国家信用の価格であり、すなわち国家の経済力評価、または国家の経済価値である。商品価格を商品効用の貨幣表現とみなす感覚で言うなら、さしずめ通貨価値は国家の経済的効用の貨幣表現にみなされるのかもしれない。ただし労働価値論は、そのような支配価値的な見解をリカードの段階で基本的に放棄している。労働価値論において商品価格とは、商品効用の貨幣表現ではなく、商品再生産に必要な労働力量の貨幣表現である。当然ながら通貨価値も、国家の経済的効用の貨幣表現ではなく、該当通貨の再生産に必要な労働力量の貨幣表現となる。ただしこのような通貨価値理解の水準は、国際的な通貨価値を考える以前の、国内的な貨幣価値理解の水準である。言い直すとそれは、通貨発行国の国内でのみ通用する貨幣価値についての説明であり、国際的に通用する通貨価値についての説明としては不十分である。なぜなら国際的な通貨価値比較において等価にみなされた二国間の各通貨量も、その体現する労働力量が等しくないからである。そのことは、既に示したように、二国間における労働力の内訳の差異に基づいている。またそれだからこそ、二国間の人件費の差異が可能となっている。なおここで言う労働力の内訳とは、労働力の再生産に要する生活資材の内訳を指している。労働価値論は労働力を、労働力の再生産に要する生活資材の塊に還元可能だとみなすからである。したがってここでは、先進国の労働力に代置される生活資材塊と途上国の労働力に代置される生活資材塊とでは、それらの内訳に差異があるのを前提にして、そこから国際的に通用している通貨価値についての説明を見直す必要が生まれる。例えば農地の豊穣度合いや気候のような国土に属した条件、または国内で認知される学童教育の重要度に対応して、労働力の再生産に要する生活資材の塊は国によってその大きさが変わるはずである。このことから、もともと生活資材所有が容易な生活の楽な国、またはそもそも生活資材所有に制約を持つ国では、労働力の再生産に要する生活資材塊も小さなものになるであろうし、そうではない国なら逆に生活資材塊も大きなものになるとの予想が生まれる。ただしこの前者に現れた生活資材所有の容易さは、必ずしもその国における生活環境のアプリオリな特性である必要は無い。その特性は、先進国並みの資本主義的社会関係の構築と商品生産技術の導入によっても実現可能だからである。同様に後者に現れた生活資材所有に対する制約も、必ずしもその国における生活環境のアプリオリな特性である必要は無い。その特性は、劣悪な生活基盤や戦乱のような極限状況の発生によっても実現可能だからである。 通貨価値をその再生産に必要な労働力量と扱うにしても、二国間で必要な生活資材塊という労働力の大きさ自体が異なるなら、そのことが国際的な通貨価値の大きさにも影響を与える。二国間において、まず必要な生活資材塊の比較的少ない国の労働力は、相対的にではなく、絶対的に安い。この労働力の安さは、対外的にその国の通貨の安さとして理解される。このことは、本論の冒頭陳述の大根価格に対する主婦流の評価と同じである。買い物上手の生産資本は、遠くのスーパーまで労働力商品を買いに行くだけである。したがって国際的な生産資本の移動も、この安い労働力を目指して進行するのであり、通貨安を理由にして生産資本の移動が起きると考えるのは、逆立ちした見方となる。すなわち労働力の安さこそが、通貨の安さなのである。そして商品の場合と同様に通貨における安値も、通貨の低品質とセットになって現れる。ここで言う通貨の低品質とは、債券としてのジャンク性である。

 発展途上国の資本が、先進国の商品と同品質で安価な商品を生産する条件は、次の3点である。

  ・先進国を下回る生活水準の強要
  ・先進国を超える資本主義的社会関係の構築
  ・先進国を超える商品生産技術の導入

 さらに発展途上国において上記の安価商品生産の成立条件を現実にする条件は、次の3点である。

  ・生産活動を阻害するような政治的経済的混乱の収束
  ・整備された生活および産業インフラの構築
  ・商品生産を実現するための資本の導入

ただしこれら3点の先進国化を阻む原因は、途上国において先進国化のための資格欠如として存在する。その資格欠如は、大概の途上国では半ば前提事項として存在し、むしろその欠如こそが途上国の証しとなっている。なお安価商品生産の成立条件の1番目に現れた「先進国を下回る生活水準の強要」だけは、これら3点の先進国化を阻む欠如を助長する役割を果している。すなわち、劣悪な生活水準の強要が、その国の政治的経済的混乱を助長し、生活および産業インフラ構築や生産資本導入を遅らせる役割を果している。他の「先進国を超える資本主義的社会関係の構築」と「先進国を超える商品生産技術の導入」は、「生活および産業インフラの構築」と「資本の導入」を強めただけの同じ内容にすぎない。つまり途上国は、自らが先進国並みになるより先に、あらかじめ先進国を超えていなければならないというジレンマを抱えている。このために途上国は、社会不安と生活および産業インフラ不足に対抗し、それを凌駕するために、人件費を筆頭にした商品価格のさらなる低廉化を必要とするという事態悪化の悪循環に直面する。しかも上記条件を満たしたとしても、途上国の市場と商品には、自らが国際競争力を得る条件として次の2点が必要である。

  ・自国市場における外国商品に対する輸入障壁の構築
  ・外国市場における自国商品に対する輸入障壁の除去

ここでの輸入障壁と輸出障壁は、貿易における関税障壁だけを表現するものではなく、それに加えて輸送費などの諸経費、および輸入側と輸出側の双方の法律面や制度面が抱えた非合理な困難を包括したものである。しかし結局ここでも発展途上国は、他国の関税と輸送費に対抗し、それを凌駕するために、安価商品生産の条件成立をますます必要にする。なおここでの商品低廉化への要請は、途上国だけではなく、先進国の産業にも等しく向けられている。先進国もまた、自国の商品輸出の障害となるような法的および制度的な非合理な困難の除去を行い、競合する諸外国に対抗しなければならない。ちなみに発展途上国において低廉化を要求されているのは、基本的に商品価格ではなく相変わらず人件費である。資源に恵まれた国でなければ、原材料費は先進国と途上国の両者において等しいものとして現れるしかない。つまり両者の競争は、基本的に人件費の低廉化競争となる。しかも商品価格の低廉化は、資本の側にとって回避すべきものであり、人件費がその全てを肩代わりせざるを得ない。また人件費の低廉化の要求は、資本撤退も辞さない形で途上国側の経営者に対し、資本導入した先進国側の経営者があからさまに訴えている。もちろん発展途上国における人件費の低廉化とは、発展途上国における人の命の低廉化にほかならない。発展途上国における人の死は、先進国にすれば遥か遠くの出来事であり、あたかも虫けらが死ぬのと同じように現れる。ただしこの現象は、先進国に起きる差別的錯覚ではない。と言うのも、当の発展途上国においても人の死が、あたかも虫けらの死と同等に現れるからである。(2013/11/10)
(続く)


関連記事       ・・・ 剰余価値理論(1)
           ・・・ 剰余価値理論(2)
           ・・・ 剰余価値理論(3)

           ・・・ 特別剰余価値
           ・・・ 特別剰余価値2
           ・・・ 労働価値論vs限界効用理論(1)
           ・・・ 労働価値論vs限界効用理論(2)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(1)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(2)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(3)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(4)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(5)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(6)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(7)
           ・・・ 価値と価値実体
           ・・・ 価値と価値実体2
           ・・・ 貨幣論
           ・・・ 貨幣論2(価値形態論)(1)
           ・・・ 貨幣論2(価値形態論)(2)
           ・・・ 国別通貨価値(1)(現代植民理論)
           ・・・ 国別通貨価値(2)(国別通貨価値)
           ・・・ 国別通貨価値(3)(国外労働力価値)
           ・・・ 国別通貨価値(4)(非生産的経費)
           ・・・ 国別通貨価値(5)(通貨政策)

唯物論者:記事一覧



コメントを投稿