唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論と生産価格論(5)

2021-07-04 08:16:16 | 資本論の見直し


8)価値と価格

8a)商品市場における多数派商品が小資本家商品の場合

 労働価値論は、商品の再生産に必要な労働力量をその商品の価値と捉える。商品価格は、この商品価値の貨幣表現である。一方で剰余価値理論は、単体版の商品価格構成において、既に商品の再生産に必要な労働力量が商品価格に満たない。したがって剰余価値理論は、生産価格論を待たずして既に商品の価値と価格が一致していない。

[剰余価値理論における単体版の商品価格構成]
 商品  労賃相当額 | 利潤相当額 

しかしこの商品の価値と価格の不一致は、商品市場が資本主義的黎明期にある場合、該当商品の商品市場における多数の商品の価値と価格が一致することで隠蔽される。それら多数派商品の商品価格構成は次のようになっている。

[市場における多数派商品の商品価格構成]
 商品  労賃相当額         

多数派商品の商品価格構成には利潤相当額が現れない。その単純な理由は、多数派商品の生産者が小資本家だからである。それは、彼らがもともと小資本家である場合でも良く、大資本家が市場競争の中で小資本家に転じた場合でも良い。またさしあたり大資本家が生産した商品であっても、その商品の販売数が労賃相当額を超えない内は、その商品価格構成に利潤相当額は現れない。したがってその商品価格は、商品価値と一致する。そしてこの商品の価値と価格の一致は、そのまま少数派の大資本家商品に対しても適用される。


8b)商品市場における多数派商品が大資本家商品の場合

 上記の二つの商品価格構成は、簡単に言えば少数派の大資本家商品と多数派の小資本家商品のそれぞれの商品価格構成である。しかし大資本が技術と資本規模において良質で安価な商品を大量生産するなら、少数派の大資本家商品は多数派の小資本家商品を商品市場から一掃し、自らを多数派にすることができる。しかし小資本家商品が商品市場から一掃されれば、商品市場における大資本家商品は、同業他社の大資本家商品と市場競争をすることになる。当然ながらその市場競争において大資本家商品も、自らの利潤相当額を厳しく削減せざるを得ない。しかし利潤相当額を失えば、その大資本家商品は小資本家商品に転じてしまう。したがって大資本家商品は大資本家商品である限り、自らの利潤相当額を失うことはできない。大資本家同士は利潤相当額を確保するために、相互の価格調整を行う実質的な寡占に踏み切る。このときに利潤相当額の削減に対して見切りをつけた大資本は、該当商品市場から撤退して他業種へと移動する。結局これらの大資本家同士の思惑は、市場における平均利潤率を実現する形に市場価格を停止させ、自らの利潤相当額を確保する。一方でこの市場競争の停止は、極限的な価格低下に耐えてきた小資本家商品を延命させる。なぜなら利潤相当額の確保を必要としない小資本家にとって、逆にこの利潤相当額の価格ギャップは収益を増加させる余剰利益幅となるからである。しかし商品市場に小資本家商品がまだ残留可能であるなら、この余剰利益幅を含む市場価格はそのまま商品価値と一致する。なぜなら小資本家を通じることにより、その市場価格は商品の再生産に必要な労働力量を体現するからである。ここでの小資本家の労働力が、同業大資本家の配下にいる労働者の労働力と同水準に人間生活の下限にいるかどうかは、大資本と小資本のそれぞれの資本の有機的構成に応じて決まる。小資本が大資本に必要な各種資源の多くを不要とするなら、小資本はまだ大資本と対抗可能である。この場合にはさらに小資本へと生活移動する労働者が現れる可能性もある。新たな小資本家の市場参入は再び大資本と小資本の競争をもたらし、最終的に商品価値を労働価値論式に規定する。もし大資本と小資本のそれぞれの資本の有機的構成に差異が無ければ、小資本家は労働者以下の人間生活に耐えきれず餓死する。


8c)商品市場における大資本家商品の独占が成立する場合

 大資本と小資本のそれぞれの資本の有機的構成に差異が無い場合、すなわち大資本でのみ生産可能な商品の場合、商品市場には大資本家商品だけが生き残る。さしあたりここでの市場価格の規定者は、平均利潤率だけである。市場価格がもたらす利潤相当額が平均利潤率を超えるものであるなら、新たな大資本が商品市場に参入し、競争を通じて市場価格を平均利潤率を体現する水準まで引き下げる。逆に市場価格がもたらす利潤相当額が平均利潤率に不足するものであるなら、既存の大資本が商品市場から撤退し、競争の緩和を通じて市場価格を平均利潤率を体現する水準まで引き上げる。ここでの商品単体版の商品価格構成は、先に示した旧来の労働価値論式のものではなく、剰余価値理論式のものに純化する。当然ながらその商品価格は、商品の再生産に必要な労働力量を恒常的に凌駕する。すなわち商品価格は、労賃相当額と必要利潤額の合計として現れる。このことは一見すると、その商品取引を差額略取による購入者からの富の強奪にする。もちろん大資本による独占は、往々にして商品支配力に応じた購入者からの富の強奪である。しかしそれは大資本家商品に限らず、商品取引の一般的姿ではない。剰余価値理論における単体版の商品価格構成は、総量版の商品価格構成と表裏一体にある。そして総量としての商品完売が大資本家的商品の剰余価値搾取を可能にしている。

[剰余価値理論の商品単体版の商品価格構成]
 商品1  労賃相当額 | 利潤   .
 商品2  労賃相当額 | 利潤   

[剰余価値理論の商品総量版の商品価格構成]
 商品1  労賃           .
 商品2  残余売上(利潤)     

実を言うと剰余価値理論の総量版の商品価格構成は、もともと価格規定要素を持たない。すなわち資本主義的商品は、その価格規定を自らの外部に持つ。その価格規定は、資本主義的生産と異なる小資本的生産が行う。小資本的生産は、投下労働力量に見合った金額で商品価格を設定し、その販売を通じて継続的な商品再生産を可能にする。資本主義的商品は、その模倣を通じて初めて自らの価格を設定する。それだからこそ上記8a)8b)の商品価格は、対抗する小資本家の価格規定に従っていた。ところが大資本が独占する商品市場には、小資本家は消失している。結果的にその大資本家商品は、小資本家商品の価格が被っていた労賃相当額の外皮を必要としない。しかしそれにも関わらず大資本家商品の価格は、労賃相当額である必要がある。その必要は、小資本家商品の価格と同様に新たな競合他社の商品市場参入を阻止することにある。それが労賃相当額であるのは、大資本の市場参入を阻止すること以上に、小資本の市場参入を阻止することに根拠を持つ。それゆえに商品市場を大資本家商品が独占する場合でも、市場価格はそのまま商品価値と一致する。すなわちその商品価格は、商品の再生産に必要な労働力量を体現する。それゆえにここで問われるのは、小資本家のいない商品市場においていかなる商品価格が労賃相当額に該当するかである。


8d)総量版価格規定と単体版価格規定

 剰余価値理論の商品価格構成は、商品総量版に始まり、商品単体版へと展開する。この過程で商品総量版の商品価格を規定していた旧来の労働価値論が廃れ、価格規定はむしろ労賃相当額と利潤額の合計額に転じる。この場合に旧来の労働価値論が単純に放棄されると、価格規定に残るのはせいぜい価格下限の労賃相当額だけである。しかしそれだと商品価格は、労賃相当額を超えるだけの不定値になってしまう。この不定値を避けるためには、利潤額の規定者が必要である。そしてその一般的解答としてマルクスが用意したのが、利潤額を規定する平均利潤率である。一方でこの価格規定は、労賃相当額と商品価格の乖離を是認する。すなわち商品単体版の商品価格構成は、その価格規定の樹立がそのまま旧来の労働価値論の廃棄である。一見するとそれは、労働価値論の死に見える。したがって労賃相当額と商品価格の乖離は、ことさらに生産価格論を待たずとも、上記の商品単体版の商品価格構成において既に露呈している。ここでの労賃相当額と商品価格の乖離は、さしあたり労賃相当額を商品価格の下限として必要とする以上に、労賃相当額と商品価格の相関を何も表現していない。そしてこのことが、商品の価値と価格の完全乖離を認める価値不要論を生む背景になっている。しかしそれは労働価値論の死ではない。そのことは商品総量版の商品価格構成があらかじめ示している。商品総量版の商品価格構成において最初に現れるのは、常に労賃相当額に等しい商品価格だからである。またそもそも商品単体版の商品価格構成に現れるのも、まず労賃相当額であり、利潤はその後である。一方で商品総量版の商品価格構成における商品価値ないし商品価格は、小資本家的に商品再生産を可能にする値にそのまま従う。ここには価値と価格の乖離も無い。したがってその商品価格は、直接に必然である。この総量版の商品構成に対応する単体版の商品構成は、労賃相当額と必要剰余の混成体である。この総量版と単体版が同じ商品価格において現れることは、総量版の商品価格の必然をそのまま単体版の商品価格を必然にする。商品単体版の商品価格構成において乖離する労賃相当額と商品価格の偶然な相関は、やはり偶然ではなく必然である。それゆえに先の3b)において単体版の商品価格構成に現れる利潤を、筆者は必要利潤として示した。逆に小資本家的な商品再生産においてこの必要利潤は、全く必要利潤ではない。それが必要利潤であるのは、資本主義的生産にとってだけである。すなわち労賃相当額と必要利潤は、ともに資本主義的生産にとって不可欠である。したがって商品価値を、商品の再生産に必要な労働力量とするなら、ここでの価値と価格に乖離は無い。乖離が起きているのは単体版の商品価格構成における労賃相当額と商品価格の間だけである。そして剰余価値理論は、もともとそのことに利潤の起源を見出している。労賃相当額と商品価格を同一視するのは、旧来の労働価値論であり、剰余価値理論ではない。商品価格は、労賃相当額と平均利潤率から算出された必要利潤額により規定される。生産価格論は、この規定値に固定費を上乗せしただけの理屈にすぎない。

(2021/06/26) 続く⇒剰余価値理論と生産価格論(6) 前の記事⇒剰余価値理論と生産価格論(4)


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