唯物論者

唯物論の再構築

マルクスの貨幣論

2012-10-08 16:48:15 | 各論

 マルクスは、資本論の冒頭を貨幣論から始めた。そこで展開されている貨幣論は、彼自身が認めるとおり、ヘーゲル法哲学にある貨幣論の丸写しになっている。ただしその丸写しは、単なる丸写しに終わっていない。マルクスは丸写しに続けて、その貨幣論を唯物論に改変するからである。資本論において等価物としての貨幣を基礎づけるのは、金属としての金の自然属性である。したがって資本論では、金属としての金だけが貨幣であり、金本位制こそが通貨制度となっている。このようなマルクスに比べると、ヘーゲルは等価物となる商品を、観念論者らしく個人意識の欲求と社会内部の協定が決定するものと考えている。つまりヘーゲルからすれば、貨幣は銅でも鉄でも良く、また金属である必要も無く、ことさら金である理由も無い。したがってヘーゲルにすれば、金本位制の樹立も単なる偶然の産物にすぎない。このような両者の差異に着目して言えば、マルクスの貨幣論は固定相場制であり、ヘーゲルの貨幣論は変動相場制であると捉えるのも間違いではない。ただしマルクスにおける金価格は、定量の金の再生産に要する労働力量を表現している。したがって資本論の描く金本位制は、金本位のように見えるだけで、実際には金価格も労働力価値に対して変動する。結果的にマルクスの貨幣論は、金本位の固定相場制にもなっていない。それは、労働力本位の固定相場制と呼ばれるべき内容となっている。 金が労働力を価値表現するのか、それとも労働力が金を価値表現するのかという問題は、天動説と地動説の対立構図に似ている。マルクスは商品の物神化論で、この水掛け論ないし循環論に対する答えを示した。それは、労働力が金を価値表現するのであり、その逆ではないとする労働価値論である。要するにそれは、唯物論である。逆に言えば、金が労働力を価値表現するというのは、単なる観念論的錯覚である。実は先の水掛け論に対するこの回答は、同時にヘーゲル貨幣論への反論なのである。とはいえマルクスは、自らの貨幣論をヘーゲルの丸写しから始めている。したがって彼の理屈は、反論と言うよりも補足記述と言うべきかもしれない。ヘーゲル貨幣論の内実は、価値理念としての貨幣が商品交換を可能にするのであって、商品交換が価値理念として貨幣を現実化するように見せかけただけである。そのように見えるのは、ヘーゲルが唯物論的な概念形成の運動を、観念論的な理念現実化の運動と同一化させるからである。またそのことが、ヘーゲル論理学の特徴になっている。このために、現実存在が概念形成の動因となっているのか、理念が概念現実化の動因となっているのか、という唯物論と観念論の対立は、ヘーゲルにおいて常に隠蔽されて現われる。実際には現実存在に対する本質の優位は、ヘーゲル論理学の前提事項である。もちろんヘーゲルの観念論的見地は、このヘーゲル論理学を実質的な動因不在の理屈に変える。そのことがマルクスに対して、唯物論的足場に常にこだわらせる理由となっている。 宇野弘蔵は、商品論に物神化論が鎮座するのを嫌った。しかし筆者の見解では、むしろ物神化論は商品論の中心にいる。物神化論が無ければ、マルクスによるヘーゲル貨幣論の唯物論的改変は完結しないからである。とくに労働力量と貨幣量の相関、すなわち価値実体と価値の相関は、労働価値論の核を為している。なるほどヘーゲルのように価値実体から遊離した価値を論じても、等価物生成の理屈は可能である。等価物は、常に商品交換を本質的に規定するからである。ところが貨幣は、その存在を予期されながらも、原初的な商品交換の現場に現われ得ない。貨幣の実体化は、逆に商品交換によって規定されている。この原初的な商品交換とは、生産者間の直接的な労働サービスの交換である。そこでは交換を媒介する貨幣はもちろん、物品そのものが登場しない。この原初的な商品交換では、交換を媒介し、それを規定するものは、明らかに貨幣ではなく、労働力である。またそれ以外にあり得ない。そして労働力が物品と交換されるときに、物品の価値が初めて決定される。しかもこの原初的な商品交換は、人間同士で行われている必要は無い。そもそも原初的な商品交換は、人間と自然の間で行われるものである。自然は人間から一定量の労働力を受け取り、その見返りに自然は人間にその果実を渡す。自然の果実取得に必要な労働力量は、果実の価値量に等しい。商品価値は、常に労働力に規定されている。労働力こそが、本来の等価物なのである。当然ながら後に等価物商品として現れる貨幣の価値も、労働力に規定されるしかない。それは金属としての金であっても同じである。商品価値は貨幣数量で表現されるとしても、その貨幣数量が表現するのも労働力量でしかあり得ない。明らかに先行する理念として貨幣を捉える見方は、ヘーゲル特有の逆立ちである。マルクスにおいてこのような理解は、剰余価値理論の前提であり、資本論第三巻での価値の価格転形の伏線になっている。



 等価物商品としての貨幣に求められる使用価値は、価値尺度に見合う分割や合体の容易性であり、流通や蓄蔵を可能にする耐久性や不朽性である。そしてマルクスは、金属としての金の自然属性にその全てを見出す。しかしヘーゲルが考えたように、特定の条件を満たすなら、紙幣のような非貴金属でも、価値尺度や流通・蓄蔵の使用価値を持つのは可能のはずである。とはいえ紙幣は所詮、紙切れである。そもそも通貨は、インフレの影響を考えるなら、蓄蔵に向いていない。その意味では土地商品の方が、通貨よりよほど蓄蔵に適している。なにしろ土地は、盗難の心配が無い。その耐久性や不朽性に対する心配も、天災による水没か放射能汚染以外に、ほとんど考えられないからである。とはいえ明らかに土地は、価値尺度としても流通手段としても不適である。ただし実際には、土地商品も蓄蔵にも向いていない。なにしろその土地商品が表現する価値量は、社会内部の協定が決定するからである。結果的にヘーゲル式の等価物理念は、紙幣や土地に自らを体現させただけに留まることはない。社会内部の協定が決定するなら、等価物は紙幣や土地として現実化する必要も無いからである。等価物の理念はさらに、純粋な観念としての自らの存立を目指す。なぜなら共通観念として成立した価値意識は、価値尺度のための分割や合体が容易であり、それ自身が流通や蓄蔵を可能にする耐久性や不朽性を持つからである。ただしこの価値意識は、客観的な共通観念として成立している必要がある。そうでなければ、等価物の理念としての価値意識は、自らの存立要請に反するからである。ところが価値意識は、物質的姿を持たずに、共通観念として成立することはできない。物質的姿を持たない価値意識とは、どこまでも主観的な個別観念である。主観的な個別観念としての価値意識は、実際には価値意識でさえなく、等価物になることはない。つまりそれは、貨幣として現われることも無い。もちろん観念論が提示したこのような主観的な価値意識とは、現代経済学における効用概念のことを指している。効用は、自らの存立基盤を見失った偽の等価物なのである。したがって貨幣論の理解は、次の文言を理解するだけで十分である。すなわち、観念論では価値意識の物象化表現が貨幣であるのに対し、唯物論では労働力の物象化表現が貨幣である、ということである。



 なお上述では、等価物商品の使用価値として、分割や合体の容易性と耐久性と不朽性を上げた。しかし等価物商品の使用価値には、これら以外に再生産不可能性も必要である。それは希少性として捉えられても良い。労働価値論において、金属としての金の価格は、金の再生産に要する労働力量を表現した。したがって金の再生産の必要労働力量が増大すれば、金価格は高騰するし、金の再生産の必要労働力量が軽量化すれば、金価格は下落する。しかし実際には、等価物商品としての貨幣は、自ら表示する労働力量をはるかに超える労働力量を、自らの再生産に要する労働力量として要求する。そうでなければ汎用的に商品交換可能でなおかつ蓄積可能な等価物商品の生産を目指して、全ての生産資本が集中するという経済活動上の不都合が発生するからである。 かつて金鉱採掘が様々な時代の様々な場所でブームとなり、生産資本が金生産に向かって激しく集中する事態が発生した。しかしいずれのブームでも集中した生産資本は、投入資本に見合った金の再生産を実現していない。それらはもっぱら、金の再生産に要する労働力量を増大させ、金価格を押し上げただけに終わっている。今後も、技術革新により金の再生産に要する労働力量が軽量化しない限り、金の価値的恒常性は損なわれないものと見られる。しかし紙幣の場合だと、偽造も含めて生産技術の向上が、容易に紙幣の再生産に要する労働力量を軽量化する。このために紙幣の再生産に要する労働力量は、あらかじめ自らが表示する労働力量を凌駕している必要がある。つまり1万円札の原価は、1万円を大きく超える必要がある。ただし兌換紙幣の場合、兌換貨幣の地金価値が紙幣の額面価値を大きく超えるようになると、今度は紙幣から貨幣への兌換が進行する。それが意味するのは、地金市場への溶解貨幣の流出開始である。かつてアメリカがドルの金兌換を停止したのも、ドルの通貨価値下落に連動して、大量の金が国外へと流出したのを原因にしている。なお紙幣原価が表示価格を大きく下回ることは十分に可能である。例えば一万円札の原価が百円となるようにである。しかし実際に百円で一万円札を作れるのは、北朝鮮の偽ドル札のように、その製造のための特異な条件をクリアする必要がある。そしてその特異な条件を実際にクリアしようとするなら、結局一万円札の原価は百円に収まることができない。ただしそうだとしてもまだ技術革新が偽札作りを成功させる可能性は十分にある。偽札作りの可能性の先行的検知と対策は国家的使命であり、それらに対応するために結局一万円札の原価は百円に収まることができない。結果的に国家経済は、紙幣を大量印刷するほどに疲弊する。ただしそこで疲弊するのは国民であり、資本家ではない。 ちなみに土地商品は、紙幣との比較で言えば、もともと再生産が不可能である。したがって耐久性と不朽性だけでなく、希少性として見ても、土地は等価物商品として優れている。もちろんその優秀さは、身分制度社会が吸い取る貧民の生き血が保証するものである。それは、金や紙幣に比べると、倫理的に見て、はるかに嫌悪すべき代物である。健全な社会は、まず最初に土地商品の等価物的性格の廃棄を目指す必要がある。(2012/10/08初稿 2015/06/10改訂 2019/02/02改訂)





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