唯物論者

唯物論の再構築

不可知論3(基底還元論)

2014-10-18 23:03:14 | 各論

 唯物論も観念論も、現象における各種存在者の相互作用を認める。また最終的な現象の行方を規定するのが、根源的に規定的優位にある存在だとみなす点でも、唯物論と観念論の間に差異は無い。もちろん唯物論はこの規定的優位者を物質だと考え、観念論はそれを意識だと考えている。ただし単純な基底還元論では、根源的規定者が個別存在を規定し、個別存在における自由や偶然が存在しない。すなわち個別者は根源的な規定者の奴隷であり、根源的な規定者に従うだけの操り人形となる。しかし実際には世界に自由や偶然が存在している。端的に言えば世界に無が存在している。当然ながら単純な基底還元論は、非現実な機械論や予定調和説にすぎない。なぜなら人間は物理の奴隷ではないし、神の操り人形でもないからである。簡単にいえば、単純な基底還元論は誤った理屈である。ところが実際には基底還元論に対する批判は、もっぱら唯物論に対する世俗的批判としてもてはやされている。同じ要領で世間には、共産主義を単純な経済還元論だとみなすことで、共産主義を誤った理屈に扱う論調が頻繁に登場する。例えばそれらの批判は、経済的下部構造は上部構造としての人の意識を規定しないとか、上部構造としての政治や文化は経済的下部構造と無関係に複雑な運動をしていると述べ立て、共産主義を誤った理屈に数えようとしている。これらの論調が言わんとするのは、現象は実体に規定されないという考えである。簡単にいえば、それらの論調の前提には不可知論がある。
 ちなみに現象から実体への遡及を否定する見解は、カントやヒュームのような明示的な不可知論として現れると限らない。それは現象学のように、自ら積極的に実体への遡及を停止する見解としても現れる。つまり不可知論が積極的に実体を話題として取り上げるのに対し、現象学は積極的に実体の話題から逃避している。しかし唯物論から見れば、両者の差異は実体の思いみなしの差異に留まっており、結局のところ同じ不可知論である。このような現象学における実体からの逃避に対してハイデガーは、同じ現象学の立場から哲学的憤慨を催す。ところが現象から実体への遡及に関して、ハイデガーがフッサールの現象学を改善できた気配はあまり無い。それと言うのもハイデガーの現象学は、決意をもって現象の側から実体を恣意的に構築するからである。

 基底還元論に対する批判がもっぱら唯物論に対する世俗的批判として現れるのは、物質が根源的規定者の場合なら個別者が自動人形として現れやすいのに対し、意識が根源的規定者の場合だと個別者が自動人形として現れにくいことにある。もともと自律的ではない個別者と自律的な個別者の自律ぶりの違いは、それぞれが根源的規定者に対していかなる関係にあるのかに応じている。もし根源的規定者が個別者と別に独立して現れるなら、個別者は根源的規定者の操り人形として現れる。その場合の個別者は、他律に支配されるからである。したがってもしこのような根源的規定者が神や悪魔として現れるなら、そのときの個別者は、神や悪魔の単なる操り人形になる。個別者にとって神や悪魔は、単なる他律として現れるからである。そのような個別者は、言うなれば根源的規定者により自己要求を封殺された圧政下にいる。そして基本的に意識にとって物質は、意識ではないもの、すなわち他在として現れる。このために唯物論における個別者は、物理的自動人形として現れる宿命を避けられない。
 一方で根源的規定者が個別者を包括して現れるなら、個別者は既に根源的規定者の操り人形ではない。その場合の個別者は、最初から少なくとも他律の完全支配を脱しているからである。そのような個別者は、完全な自律とは言わなくても、ある程度の自律する力を得ており、言うなれば少なくとも議会政治に対して選挙権および被選挙権を得ている。もともと意識は、自らが他在として現れない限り、自らに等しい。当然ながら観念論では、個別者は自己原因となり得る。それどころか観念論では、個別者が自己原因として現れないことの方がよほど謎の事態である。このために唯物論における機械論が必然的に現れたのと真逆に、観念論では独我論が必然的に現れる。しかし世界が独我であるなら、なぜ自分は世界を意のままにできないのか? なぜ自分は思うままに行動し得ないのか? このような独我論の非現実性に苦しむ観念論は、個別者が自律できない謎を説明するために、今度は個別者の意識に並存し得るような、なんらかの別の実体を想定せざるを得なくなる。ここでもし観念論が物質を、個別者の意識に並存する実体として承認するなら、その観念論は意識と物質を二実体として持つ二元論となる。しかしこの解決は、観念論にとって後退である。二元論の承認は、すぐに唯物論へと移行するからである。そこで観念論は、個別者の意識に並存するなんらかの実体として、個別者の意識ではない意識の存在を要請する。つまり個別者の自律不能は、他者の意識すなわち観念的他在に起因することとなる。ちなみに自らが他在として現れる意識として、フロイトにおける無意識理論があるが、この記事ではそれについて触れない。
 個別者から見た他者の意識は、ひとまず社会一般および他人の意識として現れる。意識の規定的優位を信じる観念論は、他者の忠告や世間的風評が個別者の意識に対して規定的優位に立つ場合を想定し、個別者の自律不能を説明する。このときの物一般は、物自体ではなく、意識の対他存在の究極の姿である。しかし社会一般および他人の意識は、常に経験的真理や世俗的慣習を示すだけであり、真理や道徳としての完全性を備えていない。逆にそれらは個別者の意識に対して、虚偽や悪として現れることも多い。そこで個別者の意識は、真理や道徳を経験的真理や世俗的慣習から切り離して純化し、その人格的表現を神として想定する。悪魔はこの神の単なる対極であり、神の影にすぎない。しかし人格を持つような神は、実際には神ではない。感情や意識の流れは常になんらかの欠如を必要とする。しかしそのような欠如は、神に求められる完全性の資質に反するからである。このことに対する反省から次に観念論は、神の代わりにイデアを擁立することになる。当然ながらプラトンは、ギリシャの個性的な人格に溢れた神々を排斥しており、代わりに不変不可分の球体の姿をした神を思い描いている。ちなみにカントにおける物自体および道徳律、およびヘーゲルにおける絶対理念も、このプラトンのイデアと同じように、つまるところ観念的他在としての神の代替者にすぎない。いずれの観念論においても個別者の自律不能は、イデアの正当性において発生する形に純化している。すなわち個別者の自律は、イデアに反する限りで発生している。そのことが意味するのは、虚偽および悪の根拠がイデアの側には無く、個別者の側にだけ存在すると言うことである。
 上記要領で言えば、個別者の自律不能がイデアの正当性において発生する場合、このイデアへの称賛は観念論の正当性を証明する。ところが逆に個別者の自律不能がイデアの虚偽において発生するなら、虚偽イデアを正当化することが逆に正当な個別者を不当化する。この場合に正当な個別者は、イデアの輝きの前に汚名を着せられ、屈辱の仕打ちに耐えなければならない。素直に考えれば、この段階で悪しきイデアの被害を受けた個別者の意識は、イデアを廃して事実を直視する唯物論的思考へと進むべきである。しかしイデアの正当性を信じる個別者の意識は、唯物論へと進むことができない。そこでこの観念論にはまり込んだ意識は、今度はこの虚偽イデアの正体を見極めようとする。すなわち汚名を着せられた個別者たちの観念論は、今度は虚偽イデアが正当なイデアとして君臨した背景を暴こうとする。例えば直観主義は、虚偽イデアが媒介された真理であることに、その虚偽性を見出す。また実存主義は、虚偽イデアが平板で無機質な抽象的真理であることに、その虚偽性を見出す。けれども結局そこでは、無媒介の直接の真理、および充実した現実存在が、もともと物体のうちにあったことは無視されている。

 観念論の場合、意識の自由を前提にして基底還元論を排除した安楽が、逆に観念論自らに意識の不自由を説明する困難を与えた。言い方を変えるならそれは、自由の中から機械的因果がいかにして発生するのかの説明の困難である。一方で観念論と逆に唯物論は、基底還元論を維持することで、話の冒頭から既に意識の自由を説明する困難と向き合わなければいけない。すなわちそれは、機械的因果の中から自由がいかにして発生するのかの説明の困難である。しかも意識の自由が、意識において常にアプリオリな前提として現れるのは、唯物論から見ても明らかである。一見すると実体の前提と可知論を要求する唯物論に対して、因果の否定または不可知論を唱える観念論の勝利は確実であるかのように見える。ところがこれらの不利な事情にも関らず唯物論の前には、無機物から始まる生物史、または人間社会の歴史を見ることで、この困難を解決する目処が立って現れる。唯物論者は、いかにして無機物が行動の自由を得て生物となり、いかにして野生動物が意識の自由を得て人間になったのかを想像すれば良いわけである。また実際に生物前史および人類前史で、それが起きたはずである。逆を言えばそのことが示すのは、観念論の理屈が、世界に生命が誕生する以前に自由および意識の先行的既存を前提にしていることである。つまり無生物の時代や人類史以前の存在事実において、本当に分が悪いのは、唯物論の側ではなく観念論の側である。したがって基底還元論は、唯物論的思考の欠点なのではなく、むしろ圧倒的な優位点だと言って良い。基底還元論が持つ対象認識に対する姿勢は、常に不可知論を拒否する可知論として現れるからである。基底還元が成立しない事象、すなわち自由の成立は、基底還元論を前提にして説明されるべきである。
(2014.10.18)

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