唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論と生産価格論(7)

2021-07-25 09:31:20 | 資本論の見直し


13)総計一致命題の意義

 ヘーゲル論理学の一つの特徴的な思考法では、部分を独立した部分として捉えず、全体の一部分として捉える。もしその全体からはみ出す部分、または全体に足りない部分があるとしても、それらは全体を大きくしたり小さくするだけであり、全体の中に常に包括される。なぜならそれらは外化した全体の自己自身であり、それらはもともと全体において根拠を持つからである。もし無根拠に外化した全体の自己自身があるなら、それを外化させた全体は、別の全体である。その場合に元の全体は、自らの内に自らと別の全体を宿した偽の全体である。そのような全体は、全体ではない。この思考法に従い商品価値ないし価格の全体を考えると、商品交換の全体は一つの全体として完結しなければいけない。その全体としての完結は、商品の始元が商品交換の円環において自らを根拠づける。すなわち商品生産者が生産した商品は、別の商品生産者が生産した商品と交換され、別の商品生産者が生産した商品も、また別の商品生産者が生産した商品と交換され、その商品交換が巡り巡って最初の商品生産者の生産を根拠づける。この商品交換の円環は、最終的な根拠づけが始元商品を根拠づける限りで現実的である。もしその商品交換の円環が途中で途切れるなら、または最終的な根拠づけが始元商品を根拠づけないなら、円環は成立しない。したがってその商品交換は円環でもなければ現実的でもない単発的な偶然である。そしてそのような商品交換の全体としてマルクス経済学に立ち現れるのが、総計一致命題である。それは総労働を総価格とし、総剰余価値を総利潤とする。それが前提にするのは、商品が労働なしに産まれ得ないことであり、商品生産に要する労働力量が商品の価値ないし価格として現れることである。もし総計一致命題が成立しないのであれば、それは労働に関与せず生れ出る商品を表現する。すなわちその商品は、労働を通じることなしに商品市場に現れる。当然ながらその商品価格を規定するのは、商品生産に必要な労働力量ではない。端的に言えばその商品の再生産に必要な労働力は無であり、その商品を再生産するのに、全く労働を必要としない。すなわちその商品価格は、無の労働力に対して付与される。もちろん労働価値論は、そのような商品の存在、および商品価格を認めない。


14)総労働と総実現価格、および総剰余価値と総利潤の不一致

 商品価格が商品の再生産に必要な労働力量であるなら、総労働は総価格である。しかし価格は市場において売れ残る商品に対してもつけられる。そして売れ残る商品は、その価格に対応する労働力量を無駄にする。その限りで総労働は総価格であるとしても、総労働は総実現価格ではない。このときに総労働は総実現価格より大きくなる。総労働が総実現価格であるためには、総労働が生産した商品が市場において完売されなければいけない。一方で剰余価値は、生産商品全体から労賃相当部分を差し引いた残余商品部分である。しかし剰余価値が利潤として実現するためには、その残余商品が売れなければいけない。もし残余商品が売れ残るなら、その価格に対応する利潤も実現しない。もしかして労賃相当部分でさえ売れ残るなら、その価格に対応する損益だけが資本家の手元に残る。このいずれの場合でも総剰余価値は総利潤より小さくなる。総剰余価値が総利潤であるためには、残余商品が市場において完売されなければいけない。総労働と総実現価格の不一致、および総剰余価値と総利潤の不一致は、いずれも商品の売れ残りにより発現する。ただし総労働と総実現価格の不一致は、必ずしも資本家にとって看過できない損失ではない。なぜならもともと既存の商品生産工程でも無駄になる労働は存在し、それに対応する無駄な商品が存在するからである。それは排除される不良商品や搬送中に消失する商品であり、それに具現化された労働である。しかしそれらの無駄労働や無駄商品は、必要な無駄として商品生産工程に既に組み込まれている。したがってそれらの商品やそれに具現化された労働も、無駄労働や無駄商品ではなくいずれも必要労働や必要商品である。一方でこの廃棄商品と売れ残り商品の間にそれほどの差異は無い。当然ながら売れ残り商品をそれらの廃棄商品と同様に扱うのも可能である。この場合の売れ残り商品に投下された無駄労働は、必要労働の一つの装飾に数えられる。すなわちその商品の無駄な在庫も商品の外郭的な使用価値を構成する。他方で売れ残り商品は恒常的な在庫形成ではなく、偶発的な在庫形成かもしれない。そうであるとしてもその商品在庫は、商品販売のための必要な伸びしろになっている。逆にその冗長性の喪失は、資本家のための剰余価値増大の機会を奪う。その限りでやはり冗長な無駄労働にも必要性は存在する。しかしこれらのいずれの場合であってもその商品価格は、無駄な労働の分だけ増額される必要がある。この必要性は、先の8d)で示された剰余価値確保のための商品価格構成の転形必要性と同じものである。そこにあるのは、総量版の商品価格構成を単体版の商品価格構成に転形させる資本家の自己都合である。この自己都合は、売れ残り商品の完売がそのまま剰余価値の増額と直結することに従う。ここに現れる商品価格は売れ残りを前提にするが、その前提には既に資本家にとって必要な利潤が組み込まれている。とは言え総剰余価値と総利潤の不一致は、総労働と総実現価格の不一致と違い、やはり資本家にとって直接的な損失である。資本家はこの損失に対応すべく、単体における商品価格構成を見直さなければいけない。


14a)単体版商品価格構成の総量版商品価格構成の統一

 無駄労働の発生は、実際に商品の売れ残りが出た後で初めて判明する。しかし無駄労働に対しても労賃負担が存在する以上、その支払いのための収益確保が必要である。このことは資本家にとっての必要労働部分である利潤部分についても該当する。それゆえに商品単体版で捉えられた商品価格構成における売れ残り部分における労賃部分と利潤部分は、実現価格部分に転移されなければいけない。下記例は商品の1/3が売れ残る場合の商品価格構成で捉えた単体版の商品価格構成の変化である。

[剰余価値理論の商品総量版の商品価格構成]
 商品1  労賃部分                   …実労働の1/3
 商品2  利潤部分                   …実労働の1/3.
 商品3  売れ残り                   …実労働の1/3

[剰余価値理論の商品単体版の商品価格構成]
 商品1  労賃部分 | 利潤部分 | 売れ残り     …実現価格部分
 商品2  労賃部分 | 利潤部分 | 売れ残り     …実現価格部分.
 商品3  労賃部分 | 利潤部分 | 売れ残り     …売れ残り部分

[剰余価値理論の商品単体版の変化した商品価格構成]
 商品1   労賃部分   |   利潤部分   
 商品2   労賃部分   |   利潤部分   .
 商品3   売れ残り              

単体版の商品価格構成の変化は、一方で実現する単体価格構成の労賃部分と利潤部分の比率を増大させ、売れ残り部分を追放する。他方で同じ単体版の商品価格構成の変化は、売れ残り商品の単体価格構成から労賃部分と利潤部分を追放し、その実現に必要な価格をゼロにする。この場合に資本家にとって売れ残り商品の現金化は、さしあたり火急の課題ではない。売れ残り商品は無料で配布されても良いが、1円でも高く値がついて買われるなら、その売り上げはそのまま資本家の追加利潤となる。ただしその不要化した商品の在庫管理ないし廃棄に必要な労働力は、商品生産のための必要労働力量に追加される。それどころか場合によって、売れ残り商品の価格は実質マイナス値になる。すなわち資本家は、金を払って売れ残り商品を処分する。したがって資本家は一方で在庫商品の放出、他方で生産調整を行う事で、在庫商品の圧縮を目指す。これにより上記の商品価格構成例は、売れ残り商品を一掃して次のような生産価格論の原型に落ち着く。売れ残りにおいて現れた総剰余価値と総利潤の不一致は、下記の商品価格構成では消失する。

[剰余価値理論の商品単体版の最終的な商品価格構成]
 商品1   労賃部分   |   利潤部分   .
 商品2   労賃部分   |   利潤部分   


14b)資本主義的経営における生産調整

 先の3g)で示した商品単体における商品価格構成の転形の根拠は、同業資本家同士の自分たちの利潤を確保する共通利害である。しかしその転形には、価格競争する競合相手と価格協定を持たずに同一水準の価格を維持する困難を持つ。このことに対して上記記述が示すのは、売れ残りが発生した段階で現れるや絶壁のように商品価格がゼロ化する資本主義的商品の価格運動である。それは同業資本家間の価格協定の必要なしに資本家に対して生産調整を強いる。この商品価格のゼロ化は、小資本家的生産でも起きる単なる需給の不整合である。しかし小資本家的商品には、同業小資本家同士が共通利害を形成するための土壌が存在しない。またその必要もない。それゆえに小資本家的生産では、需給不整合による売れ残りの発生が、小資本家における該当商品の余剰生産を直接に壊滅させる。ただし彼らは自分たちの商品が売れなければ、似たような別の商品を作るだけであり、ことさらに自分たちが現在作っている商品に執着する必要も無い。またその必要のない単純な生産部門においてこそ小資本家経営が成立する。それは固定の商品生産部門において生産調整の逃げ道を持たないが、同種商品生産部門への資本移動の点では大資本以上の自由度を持つ。そしてこの小資本経営の短所と長所は、大資本経営では逆転する。またそれだからこそ資本主義的経営は、生産調整において同業資本家同士の暗黙の共通利害を形成する。もちろんこの暗黙の価格協定は、容易に現実の価格協定に転化できる。その場合に商品価格は独占価格となり、生産価格論の水準を超えて価格法則から自由となる。それゆえに独占価格は、独占資本家連合における恣意によって規定される。とは言え実際にはその恣意も、代替商品の商品価格を規定する価格法則に従わざるを得ない。資本主義的経営は生産調整において安定した継続的な商品生産工程の維持を可能にする。そこに現れる商品は、価格構成を総量版で表現しても単体版で表現しても差異を持たない。資本家的収益を評価する場合、単体版の価格構成分析が優位な場面もあれば、総量版の価格構成分析が優位な場面もある。その区別は価格分析の必要に応じて決定される事柄に属する。ただしそのことは利潤の源泉を差額略取に求めることを許容するものではない。


14c)生産調整後の資本主義的経営

 生産調整は資本主義的経営の安定をもたらす一方で、売れ残り商品が持つ積極的役割の消失でもある。しかし技術進歩がもたらす生産性の向上が、労賃部分のさらなる圧縮と特別剰余価値、そして新たな売れ残りを可能にする。それは必要なセロ価格商品の売れ残りを可能にし、売れ残りを前提にした生産調整をも可能にする。一方で技術進歩がもたらす商品再生産に必要な労働力量の減少は、大資本家同士の競合により商品価格を減額させ、それが他方で小資本家による大資本家市場への参入を可能にする。この小資本家の市場参入は、商品価格をさらに旧来の労働価値論式に規定する役割を果たす。このような小資本家の新たな市場参入が可能となる産業部門は、大資本にとって落日の産業部門である。そこでの小資本家が得る収益は、大資本家が得る剰余価値ではない。小資本家は自らの投下労働に応じた収益を得て生活するだけであり、資本家でありつつ労働者でもある。剰余価値を必要としない小資本家と剰余価値を必要とする資本家の競争は、よほどの大型設備を擁する市場部面が存在しなければ、大資本の側に不利である。この場合に大資本は次々にそのような産業部門から撤退し、それらの産業部門を中小資本家たちに明け渡すこととなる。中小資本家たちにとっての商品価格は、大資本家にとっての商品価格ではなく、旧来の労働価値論の商品価格である。それが表現する商品価格は、あからさまな投下労働力と原材料費の合計である。そこに剰余価値理論を見出すのは既に無理である。とは言えこの中小資本家は、小資本家と同様に、資本主義的生産工程に組み込まれるのであれば、単なる労働者である。このときにそれら中小資本家群は、大資本家に対して剰余労働を提供し、その見返りに労賃を得る。それが構成するのは、進化した資本主義の新たな搾取構造である。


15)資本循環の外延の拡大

 総剰余価値と総利潤の不一致は、さしあたり商品の売れ残りにおいて発生する。しかし上記14)で示した要領で売れ残りを見越した商品価格の増額をした場合、売れ残り商品の売却が予定の必要利潤に追加する形の剰余利潤を資本家にもたらす。ただしこの剰余利潤は、予定の商品生産工程の資本循環の外に現れる単発の偶然な利益である。つまりその剰余価値は、特別剰余価値に留まる。したがって本来的にそれは総剰余価値に含まれない。しかし特別剰余価値を総剰余価値に含めるなら、ここでも総剰余価値と総利潤の不一致が発生する。この不一致は売れ残りが資本家の利潤を一時的に減少させたのと反対に、資本家の利潤を一時的に増大させる。とは言えそれが単発の偶然な利益であるなら、その総剰余価値と総利潤の不一致も一時的な事象に終わる。そうでなくその総剰余価値に対する総利潤過多が持続するなら、そこに現れた剰余利潤は、特別剰余価値ではない。その場合に現れる総剰余価値と総利潤の不一致も、やはり恒常的な事象となるからである。しかしそのような総利潤過多は、同業資本家同士の競争における売れ残りを見越した商品価格の増額設定を減額補正させる。また一方で該当商品市場への他資本の参入がもたらし、その市場競争が剰余商品と剰余利潤を減少させる。結果的に商品売れ残りが資本循環の外延を縮小させるのに対し、商品完売は資本循環雄外延を拡大させただけに終わる。いずれにおいてもその終局において総剰余価値と総利潤の不一致は補正される。なおここでの商品価格の減額補正と該当商品市場への他資本参入は、売れ残りにおける商品価格ゼロ化がもたらす利潤防衛ほどに資本家に対する強制力を持たない。しかしその特別剰余価値の収奪は、該当商品に支配される中小資本家と労働者群の隷属と貧困化と表裏一体にある。すなわちその商品価格の内実は独占価格であり、その特別剰余価値の収奪は実質的な市場と資本の独占である。それが封建主義的人間支配へと転化するのを許容しないのであれば、該当商品価格の減額補正と該当商品市場への他資本参入もまた必然でなければならない。もちろんその必然の承認は、総剰余価値と総利潤の一致の必然の承認と同義である。

(2021/06/26) 前の記事⇒剰余価値理論と生産価格論(6)


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