唯物論者

唯物論の再構築

価値形態論(2)

2013-10-06 10:34:56 | 資本論の見直し

 先の記述で見たように、次の商品交換連鎖では、麦1グラムが交換を通じるだけで同じ麦5グラムに帰結する。



(2)麦1グラム⇒米2グラム⇒塩3グラム⇒麦5グラム



交換行為だけで商品量が増加することから見て、麦⇒米、米⇒塩、塩⇒麦の三組の商品交換関係のうち、少なくともどれか一つに分不相応な商品の高値取引が隠れていることが予想される。しかし交換行為の外側から見るだけでは、分不相応な高値を示している商品を限定するのは無理である。そこでこれらに次のような表現を加えて見る。



(6)1労働日⇒麦10kグラム
(7)1労働日⇒米10kグラム
(8)1労働日⇒塩60kグラム



上記(6)~(8)は、麦10kグラムまたは米10kグラムまたは塩60kグラムの再生産に必要な労働力量を表現している。つまり人間は自然を相手にして、1労働日と麦10kグラムの商品交換を行なう。同様に人間は、1労働日と米10kグラム、または1労働日と塩80kグラムの商品交換を行なう。したがって労働価値論の理想を言えば、先の商品交換連鎖(2)も次のように現れるべきである。



(9)麦10kグラム⇒米10kグラム⇒塩60kグラム⇒麦10kグラム



ここで比較のために(1)の表示単位を1万倍にすると次のようになる。括弧の中は、各種の定量商品生産のために要する日数を表現している。



(10)麦10kグラム⇒米20kグラム⇒塩30kグラム⇒麦50kグラム
    (=1労働日) (=2労働日) (=半労働日) (=5労働日)



上記(10)の商品交換連鎖では商品流通者が、相対して現れる生産者との間で、麦⇒米、米⇒塩、塩⇒麦の全ての商品交換を仕切っている。各取引における商品流通者の所有物の価値変遷を整理すると、次のようになっている。



    商品流通者の所有       相対的価値          流通者利益
(11)麦10kグラム(1労働日)  米20kグラム(2労働日)  +1労働日
(12)米20kグラム(2労働日)  塩30kグラム(半労働日)  -1労働日半
(13)塩30kグラム(半労働日)  麦50kグラム(5労働日)  +4労働日半
(14)麦50kグラム(5労働日)  [5労働日分の生活資材]



各種の定量商品生産のために要する日数を差し引き換算で見れば、麦所有者として始まった商品流通者は、相対して現れる米生産者と麦生産者の二者との取引で、有利な商品交換を行っている。ここでの商品流通者に限らず、資本主義的取引に慣れた現代人から見ると、米生産者と麦生産者の自らに不利益な商取引は、不可解なものに見えるであろう。ところがそれぞれの商品交換は、商品生産者において生活上必要な取引である。彼ら全員は、否応なしにこの商品取引を進行させるしかない。なぜならこの商品交換は、厳密には商品交換では無いからである。と言うのも、商品生産者において交換の両辺に商品として現れる生産物は、ただの使用価値であり、交換価値ではない。交換の両辺に現れる生産物が商品として、すなわち交換価値として現れるのは、ここでの商品流通者のように、資本主義的取引に慣れた現代人の意識の上だけである。ただし意識の上に現れるこの交換価値は、幻覚ではない。その現実的な力は、不等価交換を通じて、米と麦の生産者の生活を直撃するからである。とくに各種の定量商品生産のために要する日数は、1年間かけて収獲する米や麦の総量に対する定量部分の按分値にすぎない。すなわち麦10kグラムは、麦生産者が1労働日の労働を生産に投じただけで実現できるような商品ではない。麦から米への交換比率が上記のように麦1グラム⇒米2グラムだとすれば、米生産者が1年かけて収獲した米の全量は、麦生産者が1年かけて収獲した麦の半分の量と交換されてしまう。そのことは、収獲した麦の全量が麦生産者の1年の生活をギリギリ限界に支えるものだとすれば、収獲した米の全量は米生産者の生活を1年どころか半年支えるのがやっとなのを意味する。すなわちそれは、この交換比率での米生産者の人間的生活がほぼ不可能なのを表現している。もし米作に必要な労働力が麦作のそれの半分で済むならいざ知らず、そうでなければ米生産者は全て麦作への転作をせざるを得ない。同じことは塩3グラム⇒麦5グラムの商品交換にも当てはまり、しかも米生産者に対して不利だった麦⇒米の交換比率以上に、塩⇒麦の交換比率は麦生産者に対して不利である。マルクスは、商品交換におけるこのような困難の発生を、使用価値と交換価値の矛盾対立とみなす。ただしそれは、交換関係において使用価値と交換価値が直接に対立していると主張するものではない。それは、二種類の商品交換の間の矛盾対立を言い表している、この二種類の商品交換とは、一方における使用価値により成立する商品交換、他方における交換価値により成立する商品交換を指している。そして最終的に交換価値において成立する商品交換は、それが持つ現実的な力により、使用価値において成立する商品交換を壊滅させることになる。もちろんそれがもたらすのは、不等価交換の一般的死滅であり、商品交換における等価交換の一般的支配の確立にほかならない。これこそが第三の価値形態、すなわち等価形態の意義であり、かつ必然性である。つまり上記(9)の商品交換連鎖は、商品流通者に相対して現れる生産者の要請により、次の形の商品交換連鎖への転換を目指す。



(15)麦10kグラム⇒1労働日相当の米(10kグラム)⇒1労働日相当の塩(60kグラム)
            ⇒1労働日相当の麦(10kグラム)



前出(10)の商品交換連鎖の上記(15)への転換は、基本的に商品市場での商品需給関係が行なう。ただしこの商品交換連鎖への転換は、次の形が正しい。



(16)1労働日の労働力
   ⇒麦10kグラム⇒1労働日相当の米(10kグラム)⇒1労働日相当の塩(60kグラム)
            ⇒1労働日相当の麦(10kグラム)



上記(16)の商品交換連鎖では、最初の1労働日の労働力⇒麦10kグラムの商品交換関係だけが、自然と人間の間の商品交換関係であり、商品市場から離れている。その他の商品交換連鎖は、全て商品市場での商品交換関係である。もちろん現実には1労働日相当の米や塩も、自らの生誕の背景に、自然と人間の間の商品交換関係を抱えている。しかしこのままでは商品生産者と購買者の双方が、各商品量の体現する価値量を自らの経験的感覚だけを頼りにして決めて、交換の現場で商品量を相互の交渉で調整する必要がある。結果的にこの困難を克服するために、上記の商品交換連鎖は、次の形の商品交換連鎖への転換を目指す。



(17)[1労働日の労働力⇒]麦10kグラム⇒1労働日の労働力⇒米10kグラム
    ⇒1労働日の労働力⇒塩60kグラム⇒1労働日の労働力⇒麦10kグラム



上記(17)の商品交換連鎖では、各商品の価値量が交換関係の両辺で常に等価になる。偶発的価値形態および相対的価値形態が抱えた困難も、ここでは消失している。もちろんここでの各商品間の交換の媒介として現れる1労働日の労働力とは、等価物を指している。ただしこの等価物としての1労働日の労働力が、商品交換関係の現場に現れるのは無理である。このために(17)の商品交換連鎖は、例えば次の形の商品交換連鎖に帰結する。



(18)[1労働日の労働力⇒]麦10kグラム⇒1労働日相当の金銀⇒米10kグラム
  ⇒1労働日相当の金銀⇒塩60kグラム⇒1労働日相当の金銀⇒麦10kグラム



上記(18)の商品交換関係では、商品交換が金銀を媒介にして行なわれており、常に商品⇒金銀の交換関係として現れる。ここでの金銀は商品の等価物であり、その価値形態は等価形態にある。マルクスはこの等価形態を、価値形態の3番目の姿として捉えている。等価物は、自らの量において全ての商品の価値を表現することとなる。ただし等価物は、自らの量において、自らの価値を表現するのは許されない。また表現できるわけも無い。等価物の価値は、その定量が交換する人間生活の量をもってのみ表現される。マルクスは等価形態における交換関係を、商品⇒金銀の形で捉えずに、金銀⇒商品の形で捉え直す。この捉え直しが意味するのは、宇野弘蔵が考えたように、第一に等価形態における商品交換順序の順不同化である。そして宇野弘蔵は理解しなかったのだが、第二に商品価値の物神化である。



 等価物は、条件が揃うなら、米でも塩でも良い。等価物がいかなる商品に落ち着くかは、価値形態論だけをいじくっても出てこない。ヘーゲル貨幣論においても、等価物の最終形として現れる貨幣が、いかなる商品の姿を得て落ち着くのかは、意識の偶然が決めている。このことは、交換過程論であっても変わらない。交換過程論も、貨幣が無いと市場での商品流通に困難が起きますよ、と述べるのが精一杯だからである。そして貨幣論が交換過程論を必要とする理由も、この一点だけである。すなわち交換過程それ自体の必然性の説明である。言い換えればそれは、商品交換の動因の説明であり、商品交換が普遍的な等価交換へと落ち着く理由の説明でしかない。上記記述では等価物に金銀を想定した。しかし交換過程論の限りでは、等価物が金銀である必要はどこにも無い。このためにマルクスは、交換過程論に続けて、等価物商品に求められる資質において、金が持つ自然属性の圧倒的優位性を説明する。そして金を筆頭にした商品の物神化論において、商品の対極に現れる本来の等価物を指し示す。等価物としての金は、所詮労働力の代理表現にすぎない。このことは上記(6)~(8)の交換関係で既に明らかである。人間と自然の間に現れる交換関係は、最初から等価交換であり、それ以外にありようが無いわけである。だからこそマルクスの価値形態論は、物神化論において完結しなければならない。ただしマルクスの交換過程論は、へーゲル流レトリックの色合いが強く、商品交換の動因説明としても、等価交換への帰結を説明するものとして見ても、筆者としては不満な出来である。そのことはさておくとして、ともかく等価形態の次に現れる第4の価値形態、すなわち貨幣形態は次の擬制的な形態へと落ち着く。



(19)定量の金銀⇒金銀相当の麦10kグラム⇒定量の金銀⇒金銀相当の米10kグラム
  ⇒定量の金銀⇒金銀相当の塩60kグラム⇒定量の金銀⇒金銀相当の麦10kグラム
  ⇒定量の金銀



貨幣形態では、等価形態でかろうじて残っていた価値の出生の秘密が消滅し、金銀が商品交換連鎖の出発点に現れる。それは、商品⇒金⇒商品の商品交換連鎖、すなわちW-G-Wの商品交換連鎖が、G-W-Gの商品交換連鎖に擬制するのを表現している。もちろん価値形態がこの段階に至れば、定量の金銀が商品交換連鎖の上に現れる理由も一緒に消滅してしまう。したがって貨幣形態の商品交換連鎖は、次のように帰結せざるを得ない。



(20)定量の貨幣⇒価格相当の麦10kグラム⇒定量の貨幣⇒価格相当の米10kグラム
  ⇒定量の貨幣⇒価格相当の塩60kグラム⇒定量の貨幣⇒価格相当の麦10kグラム
  ⇒定量の貨幣



上記(20)では、国家が商品交換連鎖の成立を保証するなら、貨幣は紙幣として現れても良いし、電子マネーとして現れても良い。むしろ貨幣が金銀の形で現われないことが、国家経済を金銀の現実的保有量の鎖から解放し、金融政策の恣意的発動を容易にする。しかし金銀の兌換停止は、担保無しに売買契約をするのと同じである。このために貨幣価値暴落に恐怖する資産家の前には、金が常に神仏の如く立ち現れる。金だけが真の貨幣なのである。(2013/10/06)





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