唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論と生産価格論(2)

2021-06-26 17:34:12 | 資本論の見直し


3)剰余価値理論における二つの商品価格構成

 生産価格論と労働価値論の不整合は、もともと労働価値論と剰余価値理論の不整合から派生する。ただし生産価格論には不変資本の介在があり、それが必要以上に労働価値論と生産価格論の不整合を見えにくくする。それゆえに労働価値論と生産価格論の不整合を確認する前に、まず労働価値論と剰余価値理論の不整合がどのようなものかを捉える必要がある。どのみちその不整合に対する解釈の仕方は、そのまま労働価値論と生産価格論の不整合に対する解釈に充当される。その不整合の起点は、上記2d)における商品再生産に必要な労働力量の二通りの価格への現れ方にある。それはとりもなおさず労働価値論と剰余価値理論の価格理論の違いであり、二通りの一方が労働価値論であるなら、他方は剰余価値理論である。しかし剰余価値理論の商品価格決定は、労働価値論の理屈を踏襲しており、その価格構成の内訳を変えているだけである。したがって労働価値論と剰余価値理論の対立は、旧新二つの労働価値論の対立にすぎない。しかしこの対立は剰余価値理論において、さらに商品総量から利潤を生み出す形態、および商品単体から利潤を生み出す形態の二種類の商品価格構成に転じる。もちろんその価格構成の後者は、前者から転形したものである。


3a)旧来の労働価値論と剰余価値理論の間の齟齬

 上記2c)でも述べたが、旧来の労働価値論と剰余価値理論の間で、商品の再生産に必要な労働力量の扱いに齟齬がある。ただし齟齬があると言っても、単純にその商品の再生産に必要なら労働力量を言うなら、両者のそれは同一量である。例えば或る生産者が一日かけて商品を1個生産するなら、その商品価値は旧来の労働価値論と剰余価値理論のいずれにおいても1労働日に相当する。しかしそれは小資本家的な商品生産であり、資本主義的商品生産ではない。それは生産者の生活を可能にするだけであり、剰余はどこにも無い。仮に資本家がその生産者を雇用して働かせても、生産者から収穫物を取り上げて餓死させない限り、資本家は利潤を得ることができない。このことは等価交換において利潤が生まれる謎として、リカード以前の経済学では有名な経済学のアポリアであった。剰余価値理論が示したのは、資本主義的生産では生産者が一日かけて生産する商品価値が1労働日分を超えることであり、その差額が資本家の利潤となることである。したがってこのことは、実際には商品の再生産に必要な労働力量を変えている。資本主義的生産で作られる商品では、生産者が1労働日分のその商品を生産するのに、1労働日を使う必要は無い。しかしその1労働日は資本家にとって必要である。このことは同じ商品の価値を、小資本家的に見れば1労働日に満たない半労働日にし、大資本家的に見れば1労働日にする。とは言えもっぱら小資本家が持つ生産手段で、その大資本家的商品を作ることはできない。この商品価値のギャップは、そのまま旧来の労働価値論と剰余価値理論の間の商品価値に対する齟齬となっている。なお実際に資本家に雇われた生産者が、資本家による雇用を拒否し、1労働日分の商品を半日労働で生産して自らそれを消費して生活することも不可能ではない。しかし資本主義社会より前の旧時代の場合、そのような支配者への生産物の奉納拒否は暴力において弾圧された。これに対して資本主義社会の場合、そのような奉納拒否は資本家による生産手段の所有において封じ込まれる。また個人が所有可能な範囲の生産手段で生産可能な商品種類も限られている。個人で生産可能な商品の生産は、新規参入者に対する敷居の低さもあり、その商品種類の価格競争も苛烈である。加えてそれら小資本家における商品取引は大資本家の支配下にある。小資本家の偶然な増益は単に市場競争により目減りするのでなく、半ば強制的な小資本家の労働者化を通じて大資本家に吸収される。結局そのような小資本家の生活は、労働者と同様の人間生活の下限をさまようことになる。


3b)剰余価値理論の新たな商品価格構成がもたらす必要利潤と剰余利潤

 価格に現れる商品再生産に必要な労働力量は、労賃相当額なのか、それとも商品再生産における労賃相当額と利潤相当額の合計として現れるのかの問題は、そもそもの剰余価値理論における必要労働と剰余労働の規定に関与する。利潤相当額に投じられた剰余労働が必要労働となれば、必要労働と剰余労働の垣根は無くなり、価格は労賃相当額と利潤相当額の合計となる。ただし剰余労働が必要労働となっても利潤は消失するわけではない。むしろここでの利潤は、自らの減額を心配していない。ここで利潤減額の心配を追放するのは、商品価格=労賃相当額とする労働価値論である。それは労賃相当額と利潤相当額の合計としての価格に対しても、労賃相当額を下限とする制約を適用する。しかしもともと剰余労働は必要労働ではないので、ここでの必要労働化した剰余労働は、必要労働を偽装した剰余労働にすぎない。そこで後に述べる剰余利潤と区別するために、この必要労働化した剰余労働に対応する利潤を必要利潤と呼ぶことにする。結果的に剰余価値理論は商品単価において必要労働を水増しで小さくし、総量としての商品価格において必要労働を水増しで大きくする。もちろんその大きさの釣り合わない二つの必要労働は、一方が労働者にとっての必要労働であり、他方が資本家にとっての必要労働である。さしあたりその水増しされた必要労働の大きさは、商品総量全体を覆う。

[労賃を商品1個分相当としたときの、商品単価から利潤を生み出す形態の商品価格構成]
 商品1  労賃/2  | 必要利潤 .
 商品2  労賃/2  | 必要利潤 

[上記例の元となる、商品単価を規定する商品総量から利潤を生み出す形態の商品価格構成]
 商品1  労賃           .
 商品2  残余売上(利潤)     

一方で剰余価値理論に従えば、この水増しされた必要労働に対してさらに新たな剰余労働が可能となる。その剰余労働は、先の必要労働に組み込まれた剰余労働と違い、純粋に剰余労働である。したがって必要労働に組み込まれた剰余労働に対応する利潤を必要利潤とするなら、この純粋な剰余労働に対応する利潤は剰余利潤と呼ぶことができる。ここでの必要利潤と剰余利潤は、同じ利潤の内訳に出現した新たな区別である。剰余利潤が純粋な剰余労働が対応するのに対し、必要利潤は剰余労働でありながら必要労働でもある両者の中間労働が対応する。しかし必要利潤と剰余利潤は、いずれも剰余労働が生み出す利潤であり、両者の間に利潤としての差異は無い。

[上記例での、必要利潤と異なる剰余価値が現れる商品価格の構成]
 商品1  労賃/2  | 必要利潤 
 商品2  労賃/2  | 必要利潤 .
 商品3  残余売上(利潤)     

なお上記の剰余利潤を含まない商品価格構成をもう少し具体的な形で示すと、次のようになる。以下の例は、労働者が商品3個を労賃1万2千円で生産して、商品1個あたり2千円の利潤を得る場合である。その商品単価は6千円であり、その内訳は労賃相当額が4千円であり、必要利潤額は2千円である。同じものを元の剰余価値理論式の総価格の内訳で見るなら労賃相当額が1万2千円であり、必要利潤額は6千円である。商品単価が労賃を生産数で除した4千円ではなくて6千円なのは、労働者が労賃1万2千円で、1万8千円分の商品3個を生産したからである。この例での労働者は商品2個を労賃として受け取り、商品3個を生産する。商品2個を人間生活に必要な労働力量とすれば、必要利潤1個はその半分に相当し、それが資本家利益となる。とりあえず資本家は、労働者2人を雇用して同じ労働をさせれば、彼の人間生活に必要な利益を自ら働くこと無しに得られる。

[商品単体版の商品価格構成例]
 商品1  労賃/3相当4千円 | 必要利潤2千円  
 商品2  労賃/3相当4千円 | 必要利潤2千円  .
 商品3  労賃/3相当4千円 | 必要利潤2千円  

[上記例の商品総量版の商品価格構成例]
 商品1  労賃/2相当6千円            
 商品2  労賃/2相当6千円            .
 商品3  残余売上(必要利潤)6千円        


3c)剰余価値理論の新たな商品価格構成における労賃と必要利潤の一般的運動

 もともと労働価値論では、市場の需給関係が調整して現れる価格は労賃相当額であり、それが商品価値である。そしてそこでの労賃相当額が体現したのが、商品再生産に必要な労働力量であった。これに対して剰余価値理論がもたらす剰余労働で水増しされた必要労働は、商品単価における労賃相当額を小さくする。ここでの問題は、その水増しされた価格において商品単価が水増しされる前の商品単価と同等水準で、価格の下限としての制約を成すかどうかである。もしそれが価格の下限として制約を成すのなら、商品再生産に必要な労働力量は単に労賃相当額ではなく、労賃相当額と必要利潤額の合計となる。しかしそれが次に必要とするのは、必要利潤額の規定者だと予想される。たださしあたり最初の商品単価は、労働価値論において労賃を生産個数で除した金額として守られている。少なくとも小資本家商品に混ざって資本主義的商品が浸透する場合、その始まりの商品価格は、旧来の労働価値論式の商品再生産に必要な労働力量である。判りやすく労働日あたりの生産個数を1個とするなら、その商品単価と労賃は等しい。当然ながらその商品単価は、既に価格の下限であり、同時に価格の上限である。ただこの商品単価と生産個数は、資本家的利益を含まない。それゆえに同じ労賃で労働日あたりの生産個数を1個より多くすると、その差分の生産個数が必要利潤額となる。それは商品を余計に生産しなかったときの労働力量と余計に生産したときの労働力量のギャップである。このギャップは、商品の余計な生産が可能で限り存続し、商品の余計な生産が不可能となった段階で消失する。この労働力量ギャップの消失は、そのまま資本家的利益の消失に等しい。その資本家的利益の大きさは、単純に言えば商品の余計な生産の可能量に比例する。そして商品単価における必要利潤の大きさも、商品の余計な生産の可能量に比例する。逆に商品単価における労賃相当額の大きさは、商品の余計な生産の可能量に反比例する。したがって商品の余計な生産の可能量が大きければ、商品単価に占める労賃相当額の割合は小さい。そして商品の余計な生産の可能量が小さければ、商品単価に占める労賃相当額の割合は大きい。さしあたりこれらの事情は、資本家に商品の大量生産を動機づける。

[商品の余計な生産の可能量が大きいときの商品価格の構成]
 商品1      労賃/n  | 必要利潤    .
 商品2      労賃/n  | 必要利潤    
  :          :
 商品n      労賃/n  | 必要利潤    

[商品の余計な生産の可能量が小さいときの商品価格の構成]※m<n
 商品1      労賃/m     | 必要利潤 .
 商品2      労賃/m     | 必要利潤 
  :          :
 商品m      労賃/m     | 必要利潤 


3d)小資本家的商品と資本主義的商品の交替

 上記3c)に示した労賃と必要利潤の一般的運動での商品単価は、旧来の労働価値論式の価格規定に守られていた。すなわちその商品単価は、その商品の再生産に必要な労働力量において価格を規定されている。その価格規定を可能にしたのは、資本主義的商品が小資本家的商品に混ざって商品市場に浸透したからである。またむしろそのことが資本主義的商品の剰余価値を初めて可能にした。ただしそのことは同時にその剰余価値を特別剰余価値にする。特別剰余価値とは、技術進歩の過程で一過的に生まれるコスト低下により得られた差額収入を言う。この剰余価値が特別剰余価値であるのは、資本主義的生産それ自体が、労働力売買を駆使して大量生産を可能にする一つの新しい技術だからである。それに対して労働力の自給に頼る小資本家経営は、商品と引き換えに自らの生活を維持するだけの等価交換に留まる。それは資本主義的経営と違い、搾取を主眼にして自らの収益にするものではない。また小資本家経営では、偶然に手にする増益を労働力と生産設備の資本拡充に振り向けない。そのような小資本経営は、大量生産で価格と品質の優位に立つ資本主義的経営に対抗し得ない。それゆえにこの資本主義的商品は、その技術力を通じて自らに対抗する小資本家とその商品を該当商品市場から一掃する。しかし小資本家が一掃されてしまえば、これまで小資本家が支えてきた旧来の商品単価規定も無効になる。そしてその旧来の商品単価規定が無効化になれば、剰余価値理論を基礎づけた同じ商品単価規定も同時に無効になる。剰余価値理論がさしあたり依拠してきた商品単価が体現してきたのは、小資本家水準の商品生産に必要な労働力量だったからである。一方で大きな利潤の存在は、同じ商品市場への他の生産資本の参入を促す。それがもたらす市場競争は、商品単価の下落を促して商品価格の構成から必要利潤の割合を小さくする。商品単価が下落するのは、もともと資本主義的商品の生産に必要な労働力量が小資本家水準の同じ労働力量よりも小さいからである。そしてその商品単価の下落が、必要利潤の商品価格構成上の割合だけでなく、必要利潤額自体を小さくする。

[価格下落時の商品単体版の商品価格構成例]
 商品1  労賃相当4千円   |必要利潤1千円
 商品2  労賃相当4千円   |必要利潤1千円.
 商品3  労賃相当4千円   |必要利潤1千円

[上記例の商品総量版の商品価格構成]
 商品1  労賃相当5千円           
 商品2  労賃相当5千円           .
 商品3  労賃相当2千円| 必要利潤3千円  

上記例は、上記3b)において労働者が商品3個を労賃1万2千円で生産して、商品1個あたり2千円の利潤を得る例の変化版である。その商品単価は6千円だったものが5千円となり、その内訳における必要利潤額も2千円だったものが1千円に推移する。同じものを元の剰余価値理論式の総価格の内訳で見ても、必要利潤額が6千円から3千円に推移する。しかしこれらの変化の中でも労賃相当額は変化しない。労賃相当額は、商品単体版の商品価格構成で見ても元の商品一つ当たりで4千円のまま変わらず、商品総量版の商品価格構成で見ても総額1万2千円のまま変わらない。これら労賃相当額が変わらないのは、それが人間生活を可能にする下限だからである。したがってそれは変化しないのではなく、変化できないと言うのが正しい。商品単価が労賃を生産数で除した4千円ではなくて5千円なのは、労働者が労賃1万2千円で、1万5千円分の商品3個を生産したからである。この例での労働者は商品2個半弱を労賃として受け取り、商品3個を生産する。商品2個半弱を人間生活に必要な労働力量とすれば、必要利潤半個強はその5分の1程度に相当し、それが資本家利益となる。さしあたり労働者一人当たりの商品生産に対する資本家利益は上記3b)の例と比べると半減しており、以前は労働者を2人雇用すれば生活できた資本家も、労働者の雇用を4人まで増員しなければ生活できない。しかし商品価格の下落は、何も必要利潤額を半減させるだけで留まると限らない。その下落は商品価格の構成から必要利潤が消失するまで続く可能性もある。そのときは労働者をどれほど増員しても、資本家利益は生まれない。


3e)旧来の労働価値論の復活

 黎明期の資本主義において資本家による剰余価値の取得を可能にしたのは、市場を支配するより多くの投下労働力量を必要な商品、そしてそれより少ない投下労働力量で商品を作る資本主義的生産工程の二つである。先に述べたとおり、この投下労働力量の差異が、商品再生産に必要な労働力量を、商品価格の外延を成すより大きな労働力量、および商品価格に内包されるより小さな労働力量の二通りに表現する。単純に言えばより多くの投下労働力量で作られる商品とは、小資本家の商品である。またより少ない投下労働力量で作られる商品とは、大資本家の商品である。そしてここで労働価値論に忠実な価格設定をしているのは、小資本家の商品である。当然ながら資本主義的生産工程が小資本家の商品を市場から一掃すれば、労働価値論に忠実な価格設定をしている商品も市場から一掃される。そうなれば市場に残るのは、労働価値論に忠実な価格設定をしていない大資本家の商品だけである。ところがここに資本主義的商品の価格設定のジレンマが待っている。もともと資本家による剰余価値の取得を可能にする条件の一つ目は、より多くの投下労働力量で作られる商品による市場支配である。資本主義的商品がその商品を一掃してしまえば、資本家は剰余価値を取得できない。このときの大資本家の商品は、商品価格に内包されるより小さな労働力量を持たず、商品価格の外延を成すより大きな労働力量だけを持つ。すなわちその商品に投下労働力量の二重表現は現れない。しかし剰余価値を取得できない資本家は、生活のために労賃を得る労働者とならざるを得ない。このことは大資本家を、労働者の一角に混ざって働く小資本家にする。したがって上記3d)で示した資本主義的生産による小資本家の一掃は、また新たな小資本家を作り出しただけの結末を迎える。それは労働価値論に忠実な価格設定の復活である。そしてそれは同時に旧来の労働価値論を復活させる。しかしこの小資本家と大資本家の勢力交替、および大資本家の小資本家化の運動は、とりあえず悪無限の反復である。そしてそのように見るなら、最初に現れた小資本家も、以前は大資本家だったのであろうとの推測が立つ。逆に言えば大資本家であった経験を持たない小資本家だけが、悪無限の最初に現れ得る始元的な小資本家である。


3f)商品単体からの剰余価値取得の要請

 上記3d)の例で言えば、剰余価値が商品総量と商品単体のどちらから発生しようと、商品価格の下落が商品価格における利潤部分を徐々に消失させる。さしあたり上記例の場合での商品価格例で言えば、商品価格3個を労賃相当の1万2千円、すなわち商品単価を4千円まで引き下げ可能である。しかしその利潤の消失は資本家を破滅させ、それにより市場競争の停止を実現する。しかしそのような需給調整だけの理屈で捉えられた経済は、現実の経済の姿と異なる。市場競争における価格下落局面で特定商品の生産資本が頻繁に崩壊を繰り返すなら、商品一般の生産工程は長期に存続することができない。そうであるなら市場競争における利潤減少局面でも、商品価格構成は商品単体においても利潤を含むものでなければいけない。このことは上記の商品価格構成に示した必要利潤が、命名のとおりに必須となっているのを示している。そしてそのことが商品価格の構成における剰余価値の形態も規定する。すなわち剰余価値は今では商品総量から生み出されるのではなく、商品単体から生み出される。このことは最初に現れた剰余価値理論の商品価格構成の、新たな商品価格構成への転形を規定する。すなわちそれは、商品総量で捉えた商品価格構成を、商品単体で捉えた商品価格構成へと転形させる。ただむしろその転形の根拠は、旧来の労働価値論が守って来た労賃相当額を、資本主義的生産が剰余価値論式の労賃相当額に代替して駆逐することに従う。とは言えここでの転形の必要は、相変わらず転形を可能にするだけであり、それを必然としない。なぜなら商品単体から剰余価値取得を要請するのは、個々の資本家の自己都合にすぎないからである。とくに剰余価値の喪失において既に小資本家に転じた大資本家には、この剰余価値取得の要請は必ずしも必須ではない。小資本家は自らの労働と人間生活の等価交換により延命する。したがって小資本家に転じた大資本家は、商品価格における利潤部分の消失を自らの生活の脅威としないからである。


3g)商品総量で捉えた商品価格構成の、商品単体で捉えた商品価格構成への転形の根拠

 特定商品市場における小資本家および小資本家が生産する商品の一掃は、特定商品市場を大資本同士の市場競争の場に変える。その厳しい価格競争は商品価格における利潤部分の減少を招き、或る場合には利潤部分の喪失を通じて大資本家を小資本家に変える。しかし特定商品市場における小資本家および小資本家が生産する商品の存在は、それ自体が大資本の商品市場参入を根拠づける。それゆえに小資本家と大資本家の勢力交替、および大資本家の小資本家化の悪無限な循環運動は、大資本家の消滅で収束できない。その悪無限な循環運動が収束するのは、やはり小資本家の消滅においてだけである。したがってここには大資本の利潤消滅にまで進もうとする価格下落運動と、それに対抗する利潤増大運動の二力の均衡点が現れる。価格下落運動の力が強ければ、利潤部分の喪失を通じて大資本家が小資本家に変わる悪無限が反復する。利潤増大運動の力が強ければ、資本家は商品を増産して再び剰余価値理論の元の商品価格構成による剰余利潤の獲得を目論むかもしれない。しかしそれを成功させるための労賃相当額は、すでに枯渇を迎えている。それゆえに資本家は資金の借り入れでもしなければ、黎明期の資本主義的商品で行った剰余価値搾取の手法をこの局面で駆使できない。資本家にとって景気後退期に剰余利潤の取得を目論むのは、目測の困難な経営的な賭けである。その結末は同業他社を壊滅して自社を生き残らせるかもしれないし、反対に負債を抱えて自らが破滅するかもしれない。しかしこのような成功と破滅の二者択一は、相互の資本家にとって避けるべき事態である。それゆえにここでも、上記3f)で示されたように、商品総量で捉えた商品価格構成の、商品単体で捉えた商品価格構成への転形が要請される。ただしその要請は、上述3d)での要請と少し異なる。上述3d)での要請は、端的に言えば個々の資本家の自己都合にすぎない。それに対してここでの要請は、同業資本家全体の共通利害に従う。ここで市場競争する資本家のそれぞれが反発するのは、労働価値論式に規定される価格そのものである。その商品価格は、資本家にとって到達するやいなや利潤が消滅する恐怖の商品価格である。それゆえに資本家は、労働価値論式に規定される価格に反発して、その価格を核にしてそこに墜落しないように、その外周をくるくると回る衛星のような商品価格を取る。当然ながらその商品価格構成は、商品単体において労働価値論式に規定される価格ではない。すなわちその商品価格構成は、商品単体において利潤を含むものとなる。もちろんここでの商品価格構成の転形は、単なる可能ではない。それは資本家にとって逃げ道の無い必然である。むしろ問題は、その労賃相当額に離反して現れる必要利潤の示す値が一体何を表現しているかにある。


4)商品単体で捉えた商品価格構成と差額略取

 剰余価値理論が転形でもたらす商品単体で捉えた商品価格構成は、労賃相当額に必要利潤を上乗せする。しかしこの商品価格構成は、商人が差額略取を目論んで商品元値に見込み利益を上乗せして仕上げる商品売値と何も変わらない。またこの形状の同一こそが、利潤の起源を単なる強奪で捉える差額略取の利潤論を醸成する。ただ差額略取の利潤論と言えば、剰余価値理論もやはり差額略取の利潤論である。それは労働者が提供する大きな労働力の見返りに、資本家が小さな労働力を労働者に引き渡す差額略取である。その労使間の雇用取引が行うのは、労働者の大きな労働力と資本家の小さな労働力との不等価交換である。そして商人の売買に現れる不等価交換も、商品購入者の大きな貨幣額と商品提供者の小さな貨幣額との不等価交換だと思われている。これらの不等価交換を可能にするのは、物品に対する支配力の差異である。それゆえに労働価値論には、支配労働価値論の幻惑が常に付随して現れてきた。しかし商人の売買に現れる不等価交換は、明らかに商人の商品提供者としての付加労働が物品に上乗せされており、その集積において商人は自らの人間生活を支える。また商品購入者が大きな貨幣額を商人に対して提供するのも、その商人の付加労働を承知の上で、それに見合った金額として支払うだけである。したがって商人の売買に現れる不等価交換はまるで不等価交換ではなく、単なる等価交換である。それでは労使間の雇用取引に現れる不等価交換は、この商人の不等価交換と同様の正当な等価交換なのかどうか? おそらくそのように捉えることは不可能ではない。そしてそれが等価交換であるなら、暴力と脅迫によって成立する全ての物品取引の全ては、正当な等価交換だと言うことになる。小作人や労働者にとって自らの不利な雇用取引は、彼ら自らが承諾するものであり、呪うべきは生活と家族を人質に取られた彼らの貧者としての生まれ育ちだと言うことになる。これらの嫌悪すべき結論は、さしあたり商人の売買に現れる不等価交換と労使間の雇用取引に現れる不等価交換の非同質性を示している。しかしこの二つの不等価交換がやはり同質性を持ち、それゆえに剰余価値理論の商品価格構成と差額略取の商品価格構成の同一視が可能となっている。その差額略取に現れる商人利益と資本家の得る必要利潤の同質性は、いずれも商人ないし資本家の生活を支える彼らの収入としての性格にある。すなわち資本家にとって彼が得る必要利潤は、商人の商品提供者としての付加労働が物品に上乗せする付加価値と同じ役割を持つ。そしてその限りで資本家の得る必要利潤は、商人が得る収入と同等の正当性を持つかのごとき仮象を得る。ただし資本家の得る必要利潤がその正当性の仮象を現実とするためには、商人の場合と同様に資本家もなんらかの労働をしなければいけない。しかしそれは資本家を労働者、あるいはせいぜい小資本家にする。ところが資本家の定義と役割は、不労所得者である。したがって資本家の得る必要利潤が、その正当性の仮象を現実とすることは無い。

(2021/06/26) 続く⇒剰余価値理論と生産価格論(3) 前の記事⇒剰余価値理論と生産価格論(1)


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