唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論と生産価格論(3)

2021-06-30 22:00:02 | 資本論の見直し


5)労働者による資本家のための剰余労働部分としての必要利潤

 資本家のための中間労働を必要労働に組み込むと、労賃と商品価格を同額とする労働価値論に代わり、剰余価値理論のための新たな労働価値論を構築できる。しかしそれが落ち着くのは、資本家による搾取を是認する労働価値論である。果たしてマルクスはそのような労働価値論を是認するであろうか? マルクスがそのような労働価値論を是認したと考えられる根拠は、地代論をめぐるリカードとマルクスの差異に見出せる。リカードの場合に地代は、無価値の土地に労働力を投じることで成立する。すなわち土地の豊饒化に投じられた労働力量が地代である。それに対してマルクスの差額地代論は、無価値の土地に労働力を投じなくても成立する。あるいは土地に投じられた労働は、土地の豊饒化のためではなく、純粋な土地所有のための労働で十分である。すなわち所有それ自体が無価値の土地に価値を与える。マルクスが自らの地代論をリカード地代論と違えた理由は、土地に投じられた労働が死んだ労働であること、また土地の豊饒化を含めて耕作をおこなうのが小作農民であること、およびそれらの事情が永久に地主に支払われる地代を説明しないことだと考えられる。同様の理屈を剰余価値理論で考えた場合、資本家が取得する必要利潤は、地代ならぬ資本代である。土地所有が地主に対して小作生産物の分与を強要したように、資本所有は資本家に対して労働生産物の分与を強要する。小作および労働者にとって、土地および資本の生産手段は不変資本であり、商品生産において支払いを避けようの無い固定費である。そしてその所有の絶大な支配力が、小作および労働者に人間の最低限の生活を強いる。そして地主および資本家はその土地および資本の残余生産物の全所有権を与えられる。ただし形式的に小作は土地生産物の所有権を持つ小資本家であるのに対し、労働者は労働生産物の所有権を持たない無産者である。それゆえに小作は労働者よりも本来的に自由である。なぜなら自由と所有は、同義だからである。しかし所有は同時に所有者を拘束し、不自由にする。それゆえに小作は労働者よりも現実的に不自由である。その不自由は、与えられた自由に全く中身が無いことに起因する。これらの必要利潤生成の事情は、資本家が取得する必要利潤になんら正当性を与えるものではない。当然ながらマルクスがそれらの搾取を是認するわけもない。これらの事情は労働価値論における価格理論転形の一つの歴史的背景となるだけである。


5a)資本家による資本家のための必要労働部分としての偽装

 資本家のための中間労働を必要労働に組み込む捉え方は、あくまで剰余価値理論を維持することで現れる価格理論である。この捉え方は剰余価値理論を維持する代わりに商品価格=労賃相当額とする本来の労働価値論と対立する。それゆえに逆に剰余価値理論を廃棄することで本来の労働価値論を維持する価格理論も可能である。当然ながらその価格理論は上記と似た形状で、必要労働の中に資本家のための中間労働を組み込む。端的に言えばそれは、資本家のための必要利潤をそのまま資本家の労賃とみなす資本家的利益=管理報酬論である。この場合の資本家は、本来の不労所得者としての資本家ではない。ここでの資本家は、資本家であることを自らの労働とする労働者である。ただしそれは、形式的に現れるだけの労働者を支配する管理労働者である。資本家は実際に管理労働をする必要はない。なぜならその資本所有は、既に労働者を支配している。また実際の管理労働は、それを専門とする労働者に任せれば良い。すなわち資本家が行う管理労働とは、労働として無内容な所有それ自体である。しかし資本家的利益を資本家の管理報酬として捉え、それを労賃の一角に含めると、その労賃規定は商品価格構成の必要利潤部分から剰余利潤部分へと波及する。なぜなら必要利潤と剰余利潤の間に利潤としての差異は無く、それらはいずれも剰余労働が産出するからである。それゆえに中間労働に限らず剰余労働に対応する利潤の全ては、資本家の労賃となる。したがって固定費を無視する限り、この場合に商品売上全体の構成に現れるのは、全て労賃だけである。当然ながらこの商品売上全体の構成に剰余価値搾取も存在しない。この資本家的利益=管理報酬論では、資本家的利益の全てが彼の管理労働の正当な報酬として現れる。ただしその報酬の妥当性を問えるのは、同族の資本家だけであり、労働者にその権利は無い。この結末がもたらすのは、可知可能範囲を定めた経済学の矮小化である。その矮小化された経済学は、資本家報酬を含めた労賃へ商品売上を適正分散させる。しかし資本家報酬の妥当性を問わずに商品売上を本当に適正分散できるかどうかは疑問である。その最大の障害は、その適正分散が資本家の所有権と最初から対立する点にある。また貧窮する労働者に対して現れる資本家の高収入も、その管理報酬の正当性を疑わせるのに十分な根拠になっている。


5b)資本家的利益=管理報酬論の価格理論上の問題

 労働価値論における労賃はまず経費として商品価格の下限を規定し、次に市場競争を前提にして商品価格の上限を規定した。ところが資本家的利益=管理報酬論に従い、必要利潤と剰余利潤の全てを労賃として理解すると、商品価格の構成も全て労賃だけで占められる。労働価値論の価格理論に従えば、その商品価格に減額の余地は無い。逆に商品価格を増額したとしても、その増額部分が生み出す利潤も資本家の労賃にみなされる。ここでの商品価格の規定者は、生産者および消費者の二つの恣意だけである。そこには生産者および消費者の生活維持に対する物理的事情は存在せず、全てを意識が規定する。あるいは価格設定に必然は存在せず、偶然が価格を規定する。つまりそれは、価格法則が存在しないこと、または不可知であることを宣言する。それがもたらすのは、それらが市場において同水準の価格で並存する謎である。この価格不可知論における人間は生活の全てが不定であり、或る時は心や身体が無くても生活できるし、或る時は宇宙全体を消費しても生活に足りない。しかし人間はそのような生き物ではないので、少なくとも生活可能な物資総量が労賃として確保されるべきである。そうであればその生活物資総量は、商品価格の下限として現れなければいけない。そうすると話は労働価値論の振り出しに戻る。そしてそれは、資本家的利益を説明するために剰余価値理論を生む。しかし剰余価値理論の否定を通じて商品売上全体の構成を全て労賃だけにしてしまうと、話はまた巡り巡って労働価値論の振り出しに戻る。この価格理論の悪無限は、必要利潤と剰余利潤の間に利潤としての差異を見出すことでのみ収束する。このことは、労働価値論が自らを維持しようとするなら、剰余価値理論に転ずるほかなく、剰余価値理論において自らを滅ぼす必要を示す。ただしそこで滅びる労働価値論はプルードン水準の労働価値論であり、労働価値論そのものではない。


5c)管理労働者

 必要利潤を資本家の管理労働報酬と捉えることは、商品価格決定の根拠を喪失させる。したがって資本主義的生産工程を管理するのは資本家ではなく、労働者でなければいけない。ただしその管理労働者の労働目的は単なる生産工程の管理に留まらず、資本家のための必要利潤を確保し、さらにそれを増額することにある。一方で労務管理も含めて生産工程の管理には相応の技術が要求される。管理労働者にとってもその技術進歩への対応は、生産工程を維持する上で欠かせない。また生産工程を存続できなければ、管理労働者はそもそも労務管理する対象を失う。したがって技術進歩への対応は、単に資本家のための必要剰余を維持確保または増額する以上に、管理労働の重要な使命として現れる。しかしその管理労働者の労働目的は、往々にして管理労働者を同族の労働者に敵対させ、管理労働者を資本家の僕にする。そのような管理労働者の同族との敵対を可能にする条件は、第一に管理労働者の僕としての気質と信条であり、第二に管理労働者を優遇する雇用条件である。また旧時代では支配者による分断統治を可能にするために、民族や身分や家柄などの出身差別が使われた。しかしこれは管理労働者の僕としての気質と信条の代替条件であり、上記条件の第一条件に含まれる。ただし結局その差別化を根拠づけるのは、第二条件である。そうでなければ管理労働者と言えども、自らの見返りも無い状態で同族の労働者と敵対を続けることはできない。これらの事情は管理労働力に質的差異を与える。そしてそのことが第二条件を管理労働者の権利にする。管理労働者に与えられる管理報酬は、その生産工程における労働力の質的優位を表現する。この質的優位を規定する条件は、売上全体に占める管理報酬の労賃増額比と管理労働がもたらす労賃全体の減額比の差分に従う。もしそれが管理労働の有無に関わらず差し引きに増減が無ければ、管理労働に対する質的優位も存在しない。管理労働の意義は、たとえ労賃全体が増額しても、売上全体に占める労賃比率を減少させることにある。もし逆に管理報酬の増分がそのまま売上全体に占める労賃比率を増大させるだけなら、それは無益な管理労働である。いずれにせよ管理労働者に対する管理報酬の付与は、一方で商品単体版の商品価格構成における労賃相当額の増大圧力として働き、他方で資本家のための必要利潤の減額圧力として働く。その増減の運命は資本家のための必要利潤の増減とともにあり、それゆえに管理労働者は労働者でありながら、資本家の利害を代弁する。管理報酬は管理労働者に繋がれた金の鎖である。しかしそれは金で作られたのだとしても、鎖であるのに変わりはない。


5d)必要利潤の体現値

 必要利潤が商品価格構成において労賃から除外されることで、資本家は基本的に生産工程の管理作業から除外される。したがって資本家利益を賄う必要利潤の命運も、管理労働者の手に委ねられる。とは言え資本家は、彼が無能と判断する管理労働者をその地位から追い出すであろうし、逆に有能と見込んだ労働者を管理労働者の地位に据えることができる。その限りで管理労働者は資本家自らを体現する。管理労働者は、資本家と同様に人格化した資本である。その個人に人間としての人格は無い。必要利潤は商品価格構成における労賃部分の残余なので、その残余部分の増大のために管理労働者は資本家に成り代わって、様々な工夫をこらす。しかしその努力は同業他社の管理労働者も実施しており、その市場競争が労働者の労賃を人間生活の下限水準に固定するだけでなく、当該商品の価格下落をもたらす。この価格下落の圧力は、管理労働者が受け取る管理報酬にも波及し、或る場合には商品の価格下落幅の糊代として管理報酬が利用される。ただし管理労働者の管理報酬が減額されるなら、資本家が受け取る必要利潤も同じ運命を辿る。管理労働者が資本家の代弁者である以上、管理報酬は必要利潤の血を分けた兄弟だからである。これらの事情は、おそらくマルクスが利潤率低下法則を提唱する一つの背景になっている。とは言え当該商品の価格下落が管理報酬ともども必要利潤の全てを無にすることは無い。もし必要利潤の全てが無になるとすれば、その当該商品の生産は存続できない。あるいは本当に当該商品が社会生活上で不要になったのかもしれない。実際には往々にして資本家は必要利潤の減額を察知したなら、所有する資産を処分して当該商品の資本市場から撤退する。このときに管理労働者は、沈没する船の船長と同様に死滅する生産共同体と運命を共にするかもしれないし、資本家に帯同して新たな生産共同体の船長になるかもしれない。したがって必要利潤は下限値をその利潤率の下限に対して持つ。もちろんその下限は、労働価値論における商品価格と同様に、市場競争において利潤率が安定する上限値となる。マルクスが想定するその利潤率の下限ないし上限は、当該商品に限らない全ての資本市場における平均利潤率である。したがって必要利潤の下限も生産共同体の資本規模に対応するその平均利潤率から算出された額面となる。もちろんその平均利潤率は、労働力を度量衡にした剰余価値搾取を根底にして成立する。

(2021/06/26) 続く⇒剰余価値理論と生産価格論(4) 前の記事⇒剰余価値理論と生産価格論(2)


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