唯物論者

唯物論の再構築

価値形態論(1)

2013-10-06 10:28:24 | 資本論の見直し

 「資本論」の冒頭でマルクスは、貨幣発生のメカニズムを説明する価値形態論を展開する。この価値形態論は、自ら語ったようにヘーゲル貨幣論のパクリであり、マルクスの独創ではない。加えて両者の貨幣論は、ともにアリストテレスの貨幣論を原型にしている。ただしヘーゲル貨幣論の骨子はむしろアリストテレスのいわゆる第三の人間論にあり、その貨幣論も第三人間論の批判的検討の上に構築し直されたものである。アリストテレスの第三人間論は、プラトンのイデア論への批判として登場したものである。それは存在者のイデアの成立を、プラトンのように先験的なものとして捉える限り、イデアの自家撞着を避けることができないと言う批判である。この批判によりアリストテレスは、天上界にイデアを措いたプラトンに対し、実在のうちにイデアを見出すことになる。すなわちアリストテレスが提示したのは、存在者のうちからイデアが生み出されるという結論である。そしてこのアリストテレスの提示が、ヘーゲル弁証法の肝となっている。ヘーゲルはアリストテレスにならって、高次のカテゴリーの導出を低次のカテゴリーから行うという芸当を行なう。ヘーゲルの挑戦は、カントの提示した先験的カテゴリー表を粉砕し、カント超越論を超越するものとなった。しかもヘーゲルは、媒介を通じた自己定義という弁証法において、アリストテレスの理屈が抱えていた困難も克服している。アリストテレスの理屈は、存在者の本質を存在者自らの実在において説明する点で、プラトンと同じ自家撞着に至るものだったからである。巷に頻繁に登場する労働価値論批判として、次のようなものがある。商品価値を規定する労働力商品は、自らの価値を労働力商品で規定する自家撞着を起こしている、と言うのがそれである。明らかにこの批判の背景には、哲学史におけるイデア論争の軌跡に対する無知がある。そもそも価値の実体を労働力に求めようが、効用に求めようが、価値規定の自家撞着に差異は無い。すなわち、商品価値を規定する価値実体は、媒介を通じた自己規定を経なければ、自らを現わすことができない。価値実体は常に、自らに代置する商品量によってのみ自らの価値を規定するわけである。そもそも労働価値論に対する自家撞着批判とは、「資本論」冒頭での価値形態論において、理念形成論の最終形を丁寧に開陳しているマルクスの努力を無視したものである。しかも商品が自らの価値を自らで表現できないというのは、価値形態論の前提事項である。この前提なしに価値形態論は、意味を持たない。価値規定の自家撞着などと言って労働価値論批判を行なう人は、とりあえず「資本論」を読むべきである。



 商品は、自らの価値を自らで表現できない。例えば、麦1グラムの価値を同じ麦1グラムで表現するわけにいかない。この自家撞着を避けるために商品は、自らと異なる商品を持って自らの価値を表現せざるを得ない。例えば、麦1グラムの価値を米2グラムで表現するようにである。そしてこのような価値表現は、麦と米の間だけでなく、全ての商品品目の間で互いに行なわれる。しかし全ての商品品目の間で商品価値の整合性がとれなければ、麦1グラムの価値が同じ麦5グラムで表現される事態が発生する。例えば、麦1グラムの価値が米2グラムで表現され、米2グラムの価値が麦5グラムで表現されるなら、商品交換を通じて麦1グラムの価値が、同じ麦5グラムで表現されてしまう。



(1)麦1グラム⇒米2グラム⇒麦5グラム



ただしこのような不都合は、現実に発生可能なものである。というのも現実の商品交換過程では、価値の自己増殖が偶発的に発生するからである。またこのような偶然が、商品投機行為を動機づけている。一方でこの場合の商品流通過程は、実質的に商品生産工程としても機能する。その場合に流通行為は生産行為として現れ、交換元の商品も生産のための不変資本として現れる。もちろんそれは、自己増殖を行なう資本の再生産過程の萌芽になり得る。ただし現実の二商品だけの相互交換において、一般に商品量の増大は起きない。商品の還流で商品量の増大が起きるためには、少なくとも交換元と還流先の商品交換者の間に時間的・場所的・人的な差異が必要である。したがってここでの有効な交換関係は、麦1グラム⇒米2グラム、または、米2グラム⇒麦5グラムのいずれか一つだけである。このような偶発的な交換関係を、マルクスは価値形態の最初の姿として捉えている。なおこの偶発的な交換関係には原初的な姿が存在し、それが商品交換関係の本質をなしている。それは、労働力と商品の間の交換関係であり、労働力同士の交換関係である。この原初的な商品交換が、全ての商品交換の基礎にあり、商品価値を実体的に規定している。つまり商品自体には価値が無いにも関わらず、商品交換が商品に価値を膠着させている。なお宇野弘蔵は、交換関係における価値実体論を不要とみなした。しかし価値実体論を省いた場合、商品交換における等価物の必然性は、価値関係の整合化だけに収斂してしまう。この場合に等価物の体現する価値は、支配的労働や商品効用のように、純粋に主観的な価値に留まらざるを得ない。明らかにそれは、ヘーゲル貨幣論への退行である。しかし価値関係の整合化をさらに根拠づけるものを考えるなら、そこに労働力という客観的実在が必要となることは容易に見て取れる。だからこそマルクスは、価値形態論に先立って価値実体論を展開する。もちろん労働力が自らを交換する対象商品とは、労働力を維持するための一群の商品塊を指している。とは言え、ひとまずここでの偶発的価値形態を見る限り、麦1グラムは米2グラムで表現され、米2グラムは麦5グラムで表現され得る。ここでは、二つの等式の整合性が未調整のままに置かれるのを確認するだけで良い。


 このような商品交換への動機付けは、次のような商品交換連鎖として現れても変わらない。



(2)麦1グラム⇒米2グラム⇒塩3グラム⇒麦5グラム



この交換過程が先に示した交換過程と異なるのは、商品交換の連繋に塩が加わっている点である。ここでの各商品の商品交換は、米や塩の価値下落が起きなければ、それらの媒介を省いた直接交換に向かわず、媒介を自己目的化した間接交換へと向かう。間接交換を通じるなら、等量の各商品は最終的に直接交換の5倍量の商品に転じるからである。例えばこの商品交換例は、次の3通りに解釈可能である。



(3)麦1グラム⇒米2グラム⇒塩3グラム⇒麦5グラム
(4)米1グラム⇒塩1.5グラム⇒麦2.5グラム⇒米5グラム
(5)塩1グラム⇒麦1.67グラム⇒米3.33グラム⇒塩5グラム



これらの商品交換は、いずれの商品を始点に立てても、循環の終点で5倍の商品量に転化する。このために、逆方向の交換、および交換順序を飛び越した直接交換は、商品流通者による商品増殖欲求の前に、強制的に封鎖させられる。このために、先の偶発的な価値形態とは違い、この商品交換連鎖での価値形態には必然性が生まれる。ただしそれ以外に両者の間で価値形態としての差異は無い。このときの麦の交換商品として現れる米、または米の交換商品として現れる塩、または塩の交換商品として現れる麦は、擬似的な等価物として、各商品の価値量を表現する。先の例で言えば、麦1グラムは米2グラムを対価にした。この米の量は、麦の価値量を表現している。ここで米0.01グラムをドル表示に例え、米の量を貨幣らしい言い方に変えるなら、麦の価格は200ドルと言い表せる。ただしここでの米は、まだ等価物ではない。と言うのも、この交換関係は、逆方向の交換、または交換順序を飛び越した直接交換を含み得ないからである。したがって麦1グラムが米2グラムと交換されたにもかかわらず、米2グラムは麦1グラムではない。もしかしたら米2グラムは、塩の媒介を通じて、麦5グラムを対価にすると理解される方が良いかもしれない。ただし塩の価値表現の正当性が確立していない以上、塩を媒介にした価値表現にも問題がある。このために麦1グラムは、ただ単に米2グラムでしかない。同様に米1グラムは塩1.5グラムであり、塩1グラムは麦1.67グラムである。ここでの商品の価値表現は、相対的価値形態として、等価物の登場を準備するものにすぎず、等価形態になっていない。このような相対的価値形態を、マルクスは価値形態の2番目の姿として捉えている。相対的価値形態での商品価値は、商品が相対する他の商品によってのみ表現される。結果的に、麦1グラムが米2グラムで表現される一方で、塩3グラムを媒介にして米2グラムが麦5グラムで表現されるという理不尽は、相変わらず放置される。なおマルクスの価値形態論では、交換関係に現れる交換元の商品を相対的価値に扱い、交換先の商品を等価物に扱っている。しかし価値形態の進展を考えるなら、交換元の商品を無視し、交換先の商品が現わす価値形態に限定して、その商品が表現する価値がいかなる価値形態にあるかを述べるべきである。この意味で、ここで筆者が語る相対的価値形態と等価形態は、マルクスの記述と違っている。つまり筆者は、それぞれの価値形態を、交換関係の両辺に同時に登場させることをしていない。 加えて上記の記述は、宇野弘蔵流に交換関係の不可逆を前提にしており、その点でもマルクスの記述に即していない。宇野が指摘したように、マルクスの記述では交換順序の可逆の扱いが一貫していないからである。とはいえマルクスが、交換順序に全く無頓着だったわけではない。マルクスも価値形態論において、第二形態と第三形態の記述で、等式の向きを逆転させているからである。しかしマルクスの記述での第二形態は、第三形態と交換関係の向きが逆なだけで、それ以外に第三形態と差異が無い。そのことに対して、宇野が抱えたであろう不満を指摘するなら、マルクスの価値形態論には、自らの価値形態を成立させるための動因が欠けている。少なくともマルクスにおける商品流通者は、商品交換連鎖に対して興味を持っていない。またその価値形態論では、何よりも相対的価値形態自体の等価形態に対する独自性が欠けている。もちろんマルクスは、この欠落した動因を語るために価値形態論に続けて交換過程論を展開し、ヘーゲル貨幣論を補足している。しかしその交換過程論では、既に商品交換が自律的に進展しており、商品交換自体の必然性は自明なものに扱われている。この点ではマルクスの貨幣論は、価値形態論に限らず交換過程論においても、ヘーゲル弁証法よろしく商品交換連鎖の動因が欠落しているわけである。そしてこの動因の欠落は、後で登場する等価形態の発生の説明にも波及している。その説明では、交換関係の両辺で使用価値と交換価値の対立において純化が進んだあげくに、両者の矛盾対立の落とし子として等価物が生まれ出る。このマルクスの論旨は見事なものなのだが、あまりにヘーゲル風のレトリックに見える記述要領であり、読者に対してまるで親切ではない。筆者も含めた読者は、使用価値と交換価値という別次元の価値が、どうして矛盾対立し合えるのかを理解できないからである。まるでそれは、緑の四角を指して、緑と四角が矛盾対立していると指摘しているかのごときである。この点については、後で再び取り上げる。(2013/10/06) (続く)





関連記事       ・・・ 剰余価値理論(1)
           ・・・ 剰余価値理論(2)
           ・・・ 剰余価値理論(3)

           ・・・ 特別剰余価値
           ・・・ 特別剰余価値2
           ・・・ 労働価値論vs限界効用理論(1)
           ・・・ 労働価値論vs限界効用理論(2)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(1)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(2)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(3)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(4)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(5)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(6)
           ・・・ 剰余価値理論と生産価格論(7)
           ・・・ 価値と価値実体
           ・・・ 価値と価値実体2
           ・・・ 貨幣論
           ・・・ 貨幣論2(価値形態論)(1)
           ・・・ 貨幣論2(価値形態論)(2)
           ・・・ 国別通貨価値(1)(現代植民理論)
           ・・・ 国別通貨価値(2)(国別通貨価値)
           ・・・ 国別通貨価値(3)(国外労働力価値)
           ・・・ 国別通貨価値(4)(非生産的経費)
           ・・・ 国別通貨価値(5)(通貨政策)

唯物論者:記事一覧


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ALWAYS 続・三丁目の夕日 | トップ | 価値形態論(2) »

コメントを投稿

資本論の見直し」カテゴリの最新記事