唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論(3)

2012-08-21 00:28:24 | 資本論の見直し

[図1a]商品1商品2
 労働者の総生産物必要分 剰余分
1万円1万円

 上記図1aにおける商品2は、労働者の総生産物のうちの剰余分である。この剰余商品は、労働者の不払い労働が生産したものである。資本家は、労働者の実労働を自らの労働に扱うことで、労働せずにこの剰余商品を受け取る。必要労働部分に対応する商品は、商品を生産した労働力の充填に当てられる。一方の不払い労働部分に対応する剰余商品は、資本家の生活充実に当てられる。もしこの商品が自らの商品価値に不払い労働を含まなければ、売上は1万円である。それが2万円として現れるのは、不払い労働を含むためである。もちろんこの不払い労働は、存在していない労働ではない。資本家の虚実労働を、労働者の実労働が充実するからである。このためにこの虚実労働は、実質的な必要労働として現れる。その虚実労働は、商品を生産しない資本家の生活にとって、実際に必要不可欠である。この必要労働部分と不払い労働部分の商品に見かけ上の差異はない。したがってその価格表示の内訳に対して、様々な解釈が可能である。そして生産価格論においてマルクスは、商品の価格表示の内訳を次の様に解釈した。

[図4]商品1商品2
 労働の総生産物  費用+平均利潤 費用+平均利潤
5千円+5千円5千円+5千円

マルクスは上記図4の要領で、費用に平均利潤を加えて商品価格を設定し、それを生産価格と銘打って市場価格の基礎に置いた。価格として現われる費用と平均利潤は、それぞれ商品価値に含まれている価値実体と剰余価値を表現している。なおこの図4は図1aの改変なので、一般に費用に含まれる不変資本価値も意識する必要は無い。この生産価格論は、需給関係に商品の価格設定の全権を委ねていた価格理論に比べれば、間違い無く進歩である。ところがその内実は、剰余価値理論からの後退であり、俗流経済学への屈服である。ちなみに俗流経済学の利潤論が示す労働総生産物の価格表現は、次のようになっている。

[図5]商品1商品2
 労働の総生産物  費用+差額利潤 費用+差額利潤
5千円+5千円5千円+5千円

上記の図4と図5の間に差異を見出すのは、無理である。困ったことに図4では、価値表現が全て価格表現に変わっているので、商品の不等交換までが現実の姿のように現われている。それ以上に情け無いのは、図4のように理解した生産価格論では、商品価格と労働力価値が一致するように見えないことである。図1aでは剰余価値が不払い労働にすぎないことが明白だったのに対し、図4ではその痕跡が消失している。なぜなら図4は、商品価格を費用すなわち労賃に、平均利潤を付加した姿として示すからである。これは平均利潤の正体の隠蔽である。つまり不払い労働としての平均利潤を、不等交換における差額利潤に同化する仕業である。もちろんそれが意味するのは、マルクスの生産価格論が労働価値論からの逸脱だと言うことである。当然ながら上記図4は、マルクス自らの剰余価値理論とも一致していない。図1aを見てわかるように本来なら剰余価値は、労賃対価の商品完売後の残余売上としてのみ現われる。資本家にとってこの残余総取りの事実は、労働者に対して隠すべき事柄である。資本家には、少しでも良いから、自らの才覚において自らの利益を得た体裁が必要である。しかし図5のように利潤を商品の単品売上に内包して表現するなら、剰余価値実現の仕組みを完全に隠すことができる。これなら商品売買は、あたかも実勢価格5千円の商品を1万円で売却した不等交換のごとく現われる。資本家はこの誤ったイメージをもとに、市場取引における自らの販売手腕を誇示し、その不労所得を販売労働の報酬として、自他に対して合理的に粉飾するわけである。かつてマルクスは、これらの非難を俗流経済学の利潤論に浴びせかけた。ところが生産価格論は、これと同じ非難を受ける資格を持っている。

 バヴェルクは、マルクスの生産価格論に労働価値論との矛盾を見出した。上述要領で見る限り、バヴェルクのマルクス生産価格論に対する不満は、至極当然のものに見える。ただし上述のマルクス生産価格論に対する問題指摘は、マルクス生産価格論の補正方法を同時に示唆している。労働価値論は、剰余価値理論に基づいて、価格理論の再構築をすれば良いだけである。しかし奇怪なのは、マルクスの説明が俗流経済学に利するものであるのに対し、マルクスに成り代わってバヴェルクが、マルクスの俗流経済学に対する軟弱ぶりを叱咤する姿である。バヴェルクは労働価値論に敵対しており、その資本論批判もマルクスの補正を目指していない。それにも関わらずバヴェルクは、労働価値論に立ち、剰余価値理論を前提にした非難をマルクスにぶつけている。手段を選ばないその非難の姿は、バヴェルクがただ単に共産主義が嫌いであり、唯物論が憎いなだけと言うことを示している。

 バヴェルクの指摘のとおりに資本論第三巻でマルクスが展開した生産価格論は、労働価値論にそぐわないどころか、マルクス自身の剰余価値理論に反した記述であった。資本論は第二巻以後が、マルクス本人の最終チェックを経ずに、マルクス没後に刊行されたものである。実際に資本論第二巻は、同じような記述が何度も登場して、読むのが苦痛なまとまりの悪い出来となっている。そのことは、資本論第三巻についてバヴェルクが指摘した問題も、マルクス自身による体系的見直しがあれば防げたのではないかと淡い期待をもたせる。ところが残念なことに、バヴェルクが指摘した問題は、資本論第一巻での「最後の1時間」の批判の中にほとんど同じ姿をして現われている。その中で労働者の権利擁護のためにマルクスが語った理屈は、実は彼自身が侮蔑した俗流経済学の利潤論であり、逆に剰余価値理論を語っていたのは、ブルジョア経済学の方であった。

 剰余価値は労賃対価の商品完売後の残余売上としてのみ現われる。労賃対価は、労働力価値の価格表現である。そして労働力価値とは、衣食住などの労働力の再生産に必要な生活資材の塊である。例えば上記図1aでの想定は、その必要生活資材の塊の価格を1万円としている。したがってここでの剰余価値は、売上2万円から費用1万円を差し引いた残余1万円である。この剰余価値を確保をする条件は、生産された商品の完売である。残余の取得権は、商品取引の完了をもって有効になる。つまりそれは上記図1の必要分の商品の完売後に、剰余分の商品が完売した段階で初めて実現する。このために資本家の不労所得は、常に不確実である。上記例では商品完売を前提にしているが、仮に生産した2商品を完売できない場合、または商品値下げをして2万円以下で全商品を売却した場合、資本家は自らの利益減少、もしくは利益喪失に直面する。上記例での1万円の利潤は、不労所得だけで生活する資本家にとって利益幅が小さいものである。そのために、ここでの利益減少や利益喪失は、資本家を飢餓に直面させる。したがって商品市場では、不採算資本家の競争脱落を通じて、最低でも上記例の商品価格を一つ当たり1万円で維持する。そうでなければ、資本家は資本家としての自己を喪失するからである。実際にそのような状態を維持するために自ら労働する資本家も存在する。そのような資本家は、実質的に資本家ではなく、生産共同体の単なる管理労働者である。不労所得を目指す資本家だけが、資本家の名に値する。

 剰余価値を確保する条件として、商品の完売を最初に問題にしたのは宇野弘蔵である。彼の問題意識の対象は、バヴェルクのそれと全く同じである。ただし戦前の主流マルクス経済学は、この宇野弘蔵の問題意識を全く理解できなかった。総売上目標を確定事実として扱うなら、マルクスの生産価格論でも一向に問題が無いと、当時は考えられていたのである。しかし終わり良ければ全て良しではない。そのようなことを言うのであれば、最初から剰余価値理論など不要である。俗流経済学の利潤論を散々非難した挙句に俗流経済学の利潤論に落ち着くというのは、馬鹿げた話である。

 図4を補正した労働総生産物の価格表現は、次のようになる。なお下記図も図4と同様に、費用に含まれる不変資本価値を度外視している。

[図6]商品1商品2
 労働の総生産物   費用_ 平均利潤
1万円1万円

上記図6は、泰山鳴動して、結局図1に戻っただけのように見える。しかしここでの価値実体は労賃対価としての費用であり、剰余価値も総売上の残余としての平均利潤である。つまりこの図では、既に価値の価格転形も完了している。とはいえ図6では価値の価格転形のために、特別に何かをしたわけではない。この図は、生産価格論のような費用と利潤の商品単位の均等化をしなかっただけである。実は価値と価格の乖離は、最初から存在していなかったのである。生産価格論の問題として見てきた価値と価格の乖離とは、商品の不等交換と全くの同義なのである。つまりそのような乖離は、不等交換と同様に、俗流経済学が生み出した幻影だったのである。価値と価格の乖離は、主観的勘違いを含む特別剰余価値発生ケースを除くと、せいぜい等価物が表現する価値量の変動で発現するだけとなる。

 このようにして図1の段階で野放図に現われた剰余価値も、今ではその法則性の存在が明らかになった。もともと生産価格論でのマルクスが目論みは、利潤率の法則解明であり、つまりは資本主義の未来の解明であった。もちろんマルクスの考えた利潤率低下法則は、一敗地にまみれたかもしれない。しかしマルクスの目論みは、見当外れのものではない。少なくともそれは、現代にも通用する形で、剰余価値の廃絶が無理だとしても、剰余価値の量的妥当性を問うための基礎を用意した。それだけでも生産価格論は、十分以上に巨大な功績だったのである。(2012/08/21)



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