唯物論者

唯物論の再構築

価値と価値実体2

2012-10-18 01:37:38 | 資本論の見直し

 資本論はその冒頭の価値論で、商品の価値実体を抽象的人間労働と宣言している。一方で資本論は、その価値論より後の記述では商品の価値を、商品の再生産に要する労働力量として扱っている。しかし商品の再生産に要する労働力量とは、各時代の社会的技術水準に応じた商品再生産のための平均的労働力量である。つまりそれは、明らかに抽象的人間労働である。それは、商品に対象化された具体的人間労働とは区別されなければならない。このために資本論の記述には、その冒頭では抽象的人間労働を価値の実体として扱い、それより後では抽象的人間労働を価値の現象形態として扱うという不整合が起きている。ただしこの不整合は、資本論の冒頭部分とそれより後の記述のそれぞれで論述を切り離して見るなら、該当論述の中の文意に整合している。したがってこの不整合は、マルクスが言い表す価値という言葉の二義性と理解すべきである。以下の記述は、それぞれの論述位置で使われている価値と価値実体が指し示す内容を明確にしたものである。


 価値と価値の実体の間に表現上の区別がある以上、価値の実体に対して現われる価値とは、当然ながら価値の現象形態である。マルクスは、資本論の冒頭で価値の実体が抽象的人間労働であると宣言した。それでは逆にここでマルクスは、抽象的人間労働を実体とする価値の現象形態として、一体何を想定していたのであろうか? 価値の実体が抽象的人間労働なら、もしかして価値の現象形態とは、具体的人間労働なのであろうか? 実体と現象の表現の違いは、ヘーゲル弁証法で考えるなら、抽象的な本質と具体的な現実存在として現われる。つまり価値の実体と価値の現象形態の違いも、ヘーゲル弁証法では、抽象的人間労働と具体的人間労働の違いとして現われる。もちろんその弁証法は、抽象的人間労働が具体的人間労働を現実化するというあからさまな観念論である。ひとまずその点を無視して言えば、ヘーゲル弁証法に従って、価値実体を抽象的人間労働として理解するのも可能である。しかしヘーゲル弁証法の逆立ちを指摘したマルクスが、ヘーゲルに追随するかのごとく、価値の現象形態として具体的人間労働を想定するというのは、かなり不自然である。つまりマルクスが唯物論者である限り、抽象的人間労働を実体とする価値の現象形態とは、抽象的人間労働を基礎にした経済学的な上位カテゴリーでなければならない。そしてそのような経済学的な上位カテゴリーとは、価格概念のほかに無い。つまり資本論の冒頭でマルクスが提示した商品価値の現象形態とは価格であり、価格の実体こそが抽象的人間労働なのである。したがって資本論冒頭の価値論における商品の価値実体規定の指し示す内容は、次のようになる。すなわち価格とは、商品の再生産に要する労働力量が貨幣形態で現象した姿なのだということである。


 さて価値の現象形態、およびその実体についての問題はまだその残り半分が残っている。資本論における価値論より後の記述では、冒頭記述とは逆に、価値の現象形態が抽象的人間労働であると宣言されているからである。したがって次に明らかにしなければならないのは、抽象的人間労働を現象形態とする価値の実体として、マルクスが一体何を想定していたのかである。 実体と現象の相関は、唯物弁証法で考えるなら、具体的な現実存在が実体であり、その現象形態が抽象的な本質である。したがって価値が抽象的人間労働として現象するという理解は、もともと唯物論に即応した理解である。そして価値の現象形態を抽象的人間労働とするなら、同じく唯物論に即応して考えるなら、価値の実体とは具体的人間労働となる。ここでの抽象的人間労働とは、商品の再生産に要する労働力量であった。一方でそれを基礎づける具体的人間労働とは、個別の商品に対象化されている労働力量にほかならない。まとめて言い直すなら、個別の商品に対象化された労働力量は、商品価値の実体であり。この個別の労働力量が、総体としてその商品に対象化された平均的な労働力量を規定する。そしてこの平均的労働力量が、商品再生産に要する労働力量を規定する。すなわちそれは、実体としての具体的人間労働が、抽象的人間労働として現象するのを言い表している。


 マルクスが言い表す価値という言葉の二義性では、価値の現象順序に則って言うと、第一に商品に対象化された労働力量が、商品再生産に要する労働力量として、すなわち商品の価値として現象する。そして第二に商品再生産に要する労働力量、すなわち商品の価値実体が、貨幣形態において価格として現象する。つまりマルクスにおいて同じ労働力量が、まず価値の現象形態として、次に価値の実体として、表現されている。これをマルクスの記述誤りと受け取るべきかと言うと、それはかなり酷な言い方である。なぜならどのような論者でも、切り離れた論述では、該当論述の文意に整合している限りで、それぞれの論述において同じ言葉を別様に使うからである。またそのようにバヴェルクが行ったような粗捜しをするよりも、マルクスの記述要領に対して、廣松渉のごとく実体と現象の階層構造を見出す捉え方をすべきである。なぜなら資本論における商品の物神化論そのものが、既に現象の物象化を説明しているからである。そもそも資本論の弁証法は、実体から生起した現象形態がそれ自身実体化する形で、次々と自らの現象形態を生起させている。このように実体と現象の相関が次々に入れ替わって現われる場合、切り離れた論述のそれぞれで同じ主語が、実体としてみなされたり、現象形態としてみなされたりするのは、むしろ当然のことである。つまりマルクスの記述は、価格の実体を価値と扱っただけであり、価値の実体を労働力と扱っただけだと単純に理解すれば良いわけである。 とはいえ問題とすべきなのは、資本論冒頭の価値論における商品の価値実体規定の方である。なぜなら商品価値の実体を抽象的人間労働として宣言した記述の方が、労働価値論にとって問題だからである。上述で見たように抽象的人間労働とは、具体的人間労働が現象したものであり、すなわち商品価値であり、そして商品価格の実体である。価値と価格の乖離を想定せず、そして赤字経営ではない場合、商品の価値と価値実体の一般的な包括関係は、次のような形になる。なお抽象的労働とは商品再生産に要する労働力量であり、具体的労働とは商品に対象化された労働力量を指している。


[図1]|←価値(=抽象的労働)→|
        価値実体(=具体的労働) | 利潤 



上記の図1に対して、資本論冒頭の問題記述に従った形の商品の価値と価値実体の一般的な包括関係は、次のような形になる。



[図2]|←価値(=価格)→|
        価値実体(=抽象的労働) | 利潤 


上記の二つの図は、似ているように見えるが、その意味するところが全く異なっている。図1の利潤論が剰余価値理論に連携しているのに対し、図2の利潤論は俗流経済学に留まっている。なぜなら図2の商品価値は、商品再生産に要する労働力量と等しくないからである。つまり図2が実際に表現しているのは、価値と価格の差額略取の利潤論である。しかも図2では、商品価値の正体が不明なままに価格へと転じているので、価値の大きさの解釈が悪い意味で自由である。結果的に主観が価値の大きさを勝手に規定し、利潤を生み出すという観念論特有の利潤論を、図2はもたらす。言うなれば、図2は、支配労働価値説や限界効用理論を表現したものとなっている。ただしこのような商品価値を超えた高値が成立する条件が揃うなら、図2の要領で分不相応な利潤が発生する。このときの利潤は、一般的な剰余価値と区別された特別剰余価値である。ちなみに図1の利潤は、生産企業体が資本主義的生産者なら、一般的な剰余価値として資本家の所有となる。しかし生産企業体が共同体的生産者なら、この利潤は単なる余剰収益、または付属収益として現われる。この余剰収益、または付属収益は、一般的な剰余価値ではなく、特別剰余価値として共同体構成員全体の所有となる。


 なお商品に対象化された労働力量は、上述で示したように、商品価値の実体であるが、商品価値の現象形態ではない。つまり商品に対象化された労働力量は、商品価値ではない。商品に対象化された労働力量は、一種の背後的実体であり、商品価値の生誕において既に自らの役割を終えた過去の存在である。一方で商品価値とは、人間の共同体的意識の一部であり、実体をもたない現象形態としてのみ現実存在する。だからこそ商品価値は、あくまでも商品再生産に要する労働力量として理解される必要がある。(2012/10/18)






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