牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月24日(月) 「礼拝②」 レイモンド・アバ著

2014-02-24 07:29:42 | 日記

 ソチ冬季オリンピックが閉幕した。彼らは金メダル(朽ちる冠)を目指して努力し、全力を尽くした。その姿に感動した。日本選手も残念な結果もあったが、全体として健闘したと思う。健闘をたたえ拍手を送りたい。4年後が楽しみである。私たちキリスト者も彼らを倣って全力を尽くして、クリスチャン生活と教会生活を送るべきである。パウロはそのことをこのように書いている。コリント人への手紙第一 9章24-25節 「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」

 自制できない、歩いたり止まったりして走らないクリスチャンがあまりにも多すぎる。初代のクリスチャンたちと何と違うことだろうか。パウロが考えていたクリスチャンの姿と何と違うことだろうか。

 オリンピックと礼拝の関係で言えば、1981年だと思うがアカデミー賞の作品賞を受賞した「炎のランナー」が思い出される。これは実話を元にしている。感動的な映画で、礼拝の大切さを教えてくれる。私が今まで観た映画(DVD)で一番印象に残り、影響を受けた作品だ。様々な(正当的に見える)理由をつけて礼拝を休むクリスチャンが多くいるが、私は彼らは結局のところ神を第一としていないだけだと思っている。自分が第一で、神は第二、第三もしくはそれ以下の存在でしかないのである。一言で言えば、礼拝の心が欠如しているのである。私は基本的に礼拝を第一としないクリスチャンを信用していない。


 さて本書である。著者は礼拝は神への応答であるし、そのためには神の言葉(聖書朗読、説教)が先行しなければならないと書いていた。聖書の言葉に対する応答として、祈りがあり献金があり、様々な礼拝の行為があると。

 初期の教会は聖書朗読が重んじられていたようだ。旧約聖書から読まれ、詩篇から読まれ、福音書から読まれ、使徒たちの手紙から読まれ、というように多くの箇所から読まれ、会衆はそれらの言葉に真剣に耳を傾けたようだ。これには教えられた。現代は聖書朗読が少ないように感じる。だからバランスに欠いているのであろう。日本の多くの教会では新約聖書から説教がなされているようだ。それ自体は良いと思うのだが、しかし、旧約聖書からの言葉を全く教会で聞くことがないと、強いクリスチャンは生み出されないのである。弱いというか、根が張らないのである。なぜならキリスト教のルーツは旧約聖書にあるのだから。旧約新約の両方からバランスのとれた聖書朗読と説教がなされることが求められているであろう。礼拝ですべてをカバーできないなら他の手段を用いることも大切になってくるであろう。例えば平日の集会で共に旧約聖書を学ぶなど。

 具体的な説教の準備として、4段階を挙げている。
1.素材を集める段階。学びメモをする段階。
2.素材が集められた後、それが有効に活用される前に、一定期間置く段階。
  熟成させ、黙想する段階。
3.説教を書き、仕上げる段階。
4.仕上げた説教を手直しする段階。


 また礼拝の順序についても述べている。大きく3段階に分けて構成するのが良いだろうと勧めている。
1.賛美と祈りによって、神に接近する時。
2.聖書と説教によって、神からの言葉を聞く時。
3.祈り、献金、感謝と礼典(聖餐)によって、神へ応答する時。


 礼拝にとって、賛美と祈りは非常に大切な要素である。絶対に欠かすことはできない。しかし、「礼拝」において、初代の教会と宗教改革時代の教会によって重んじられたのは、「説教」と「聖餐式」であり、現代においてもこの二つが特に重んじられるべきである、というのが著者の主張である。私は賛成である。本書を通して、礼拝の流れが重要であること、礼拝の行為ひとつひとつがなぜ行われているかを吟味することが大事であると思わされた。早速、開拓教会において礼拝の順番をどのようにすればよいのかを再検討していきたい。そのことを通して、神へ真実な礼拝を捧げたい、礼拝の行為ひとつひとつに意味を持たせたい、新しく来られる方々に礼拝を分かりやすいものにしたい。