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シニア犬と趣味のある暮らし

ペキニーズと趣味やDIYを紹介

第6部:全日本選手権参戦・・・その3(第一戦、筑波)

2008年01月24日 21時55分19秒 | 日々反省の日記
ジュニアクラスに昇格して最初の全日本選手権は筑波サーキットからだった。
1986年の3月末、トランポのホーミーにTZ250と工具やレーシングスーツと
日常品一式を積み込み、夜中か筑波を目指し出発した。
今回はショップの常連の人に同行してもらうことになった。
ただ、この人は車の免許を持っていなかったので運転は実質自分ひとりだ。
大阪から筑波までは、順調に走れば7~8時間で着く。

筑波サーキットに着くと先ず選手権参加の手続きを済ませ練習走行の
準備にかかる。
ただ、この日は非常に風が強かったのを今でも憶えている。
初めてのサーキットでコースにも慣れていないのに強風で走り難くて
まともに練習にならない。
それでも翌日は、すぐに予選が始まるので、とりあえずコースを頭に入れる為、
無理せず練習時間終了まで走りきった。
走行が終わるとマシンの点検と整備をさっさと終わらせる。

その日の夜は、サーキットで顔馴染みの仲間達と一緒に銭湯に行き食事を
とった後、ビールを買ってからサーキットに戻る。
車中でビールを開けひとしきり仲間達と2輪談議に花が咲き夜も更ける頃、
それぞれの車に戻り眠りに就いた。

翌日は朝から雲行きが怪しい、雪でも降りそうな空だった。
そんな中、出場車両の車検も終わり予選が開始される。
自分の番が回ってくると緊張とも興奮ともわからない感覚が湧いてくる。
予選スタート、大一コーナーを抜けてS字コーナーからバンクのついた左コーナー
次はダンロップ下を右左と切り返し右ヘアピンの後は裏ストレート、
ストレートを走り終えると最終の右コーナーへと突っ込んでいく。
ホームストレートに戻ってくると再び第一コーナーを目指してストレートを
全開で駆け抜ける。

だが、結果は予選落ち。自分の腕の悪さは棚にあげて初めてのサーキットと
コンディションの悪さのせいにして、さっさと帰路についた。

翌日は、記録にも残る大雪となるのだ。
決勝もジュニアクラスのレースが終了する頃には雪のためレース続行不能と
判断されて中止になったそうだ。

次回は、その年の記憶に残っている、もう一つの全日本選手権鈴鹿編を
書きます。

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その2(TZ250)

2008年01月22日 22時53分57秒 | 日々反省の日記
1986年の初め注文してあったヤマハTZ250の入荷を待っていた。
補修部品は付いているものの車両本体が¥140万円以上するマシンだ。
最高速度もストレートの長さにもよるが、鈴鹿で220キロ以上でるという
レース専用マシンである。
早く走らせてみたい気持ちを抑えて一日千秋の思いで入荷を心待ちにしていた。

そして待ちに待った納車の日、ショップを訪れると既にマシンは届いていた。
早速、エンジンを掛ける為、ガソリンとオイルを用意する。
水冷2サイクルエンジンでガソリンにオイルを混合して使用するのだが、今回は
試し掛けをするだけなので少量のガソリンを計量しオイルをガソリンの5%ほど
計量して混合燃料をつくる。
燃料タンクに混合燃料を給油して早速、マシンの押し掛け・・・のはずが
エンジンが掛からない。
いくら押し掛けを繰り返してもエンジンがかからない。
ここで、ハタと気が付いた。ガソリンとオイルの混合比を間違えていた事に。
ガソリンの量があまりにも少なかった為に5%入れたつもりのオイルが
実は50%になっていたのだ。
『これじゃあ、掛からんわな』と笑われながらも混合燃料を作り直し
再度挑戦。今度はすぐに掛かった。

次回は初戦の筑波サーキットを書いてみるつもり

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その1(クラス変更)

2008年01月21日 20時57分02秒 | 日々反省の日記
ノービス4時間耐久レースの予選で惨敗したその年のシーズンオフにクラス変更が
MFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)より通達された。
それまでのクラス分けでは一番上のクラスが国際Aクラス、次が国際Bクラスそして
入門クラスがノービスクラスとなっていた。
上のクラスに上がるには決勝でポイントを稼ぎ一年で一定ポイント以上
所得する必要があった。
ただ、その年の異常なレース人気でノービスクラスが増えすぎた為、国際Bを
Aクラスに自動昇格させて、その年のレースで決勝に参戦したノービスクラスの
選手を新たに設けたジュニアクラスに昇格させたのだ。
入門クラスはノービスのまま残された。

私もMFJからの通達によりジュニアクラスに昇格した。
翌年に向けてマシンを整備するのに補修用の部品を発注する為、チームの
バイクショップを訪れていた。
オーナーと発注する部品の事を色々話しているうちに
『こんなに部品を発注するんだったらマシンを買換えたらどうや?』という
オーナーの意見に『ほんまですね』と応えていた。
結局、レース専用のヤマハTZ250を新車で発注することになってしまった。
それまで使用していたTT3用のVF400は、知り合いに買い取ってもらって
少しでも新車の購入費用に充てた。

翌年からは、ジュニアクラスで全日本GP250クラスに参戦する事に決まった。

次回に続く

第5部:出直し・・・その9(予選走行で・・・)

2008年01月19日 20時04分04秒 | 日々反省の日記
初めての4時間耐久レースの予選当日、私の予選が前半でおっさんが後半。
何組かが先に走り、いよいよ私の順番が回ってきた。
順番を待っている間にチームヘルパーの女性と軽口を叩いたりしながら緊張を
ほぐしていたが、直前になると緊張してきた。
そして予選走行スタート、1週目は少し慎重に走りホームストレートに戻ってきた。
2週目に入るとペースアップし1コーナーへ全力で突っ込んで行く。
2コーナー、S字コーナーから逆バンクコーナーを抜けてダンロップコーナーに
さしかかったところでマシンの異常に気がついた。
ハンドルが小刻みに震え始めてマシンが思うように倒し込めない。
ダンロップ下辺りでマシンがどんどんアウトに膨らんでいくのを無理やり倒し込むと
フロントタイヤがグリップを失った。
次の瞬間、コース外へマシンと一緒に飛び出して激しく転倒していた。

前半の予選終了後、転倒車の回収にレッカー車が回ってくるので破損したマシンと
自分も乗り込みピットまで戻ってくるとチームの人達が駆け寄ってきた。
チーム監督が私の無事を確認すると次にマシンの破損状況をチェックして
『これなら何とか後半のおっさんの予選までに直せそうだな』と言うとすぐに
作業に取り掛かっていた。
ハンドルのブレが、かなりでていた事を告げると私は椅子に腰掛けて休息を
とらせてもらった。
後半の予選が始まるぎりぎりまで作業は、続いていたが何とか間に合ったようだ。
おっさんが後半の予選に出走していった。
一週目が過ぎ2週目に入る、しかしタイムが伸びない。
やはりマシンのダメージが思っていたより大きかったようだ。

結果は、予選落ち。
同じチームのオヤジとハマゾウ組もタイムが伸びず予選落ち。
痛む体とともに帰路についた。

私の初めての4時間耐久レースへの挑戦は、惨敗と苦痛に終わった。

次回からは、ノービスクラスを卒業してジュニアクラスになるところから書きます。

次回に続く

第5部:出直し・・・その8(ペアで初練習走行)

2008年01月18日 21時51分21秒 | 日々反省の日記
4時間耐久レースのペアを組む事になった「おっさん」との初めての練習走行は
今でもハッキリ憶えている。
鈴鹿の東コースでショートコースだった。
タイムが良かったか悪かったかは憶えていないが、ピットロードに入る直前で速度も
落としていたにも関わらず何故か、ふらついて転倒してしまった。
マシンの破損状況は最小限に留めたものの理由の分からない転倒だった事を
今でも憶えているからだ。

それは、その年の4時間耐久レースの行く末を予測していたかの様な出来事だった。

ショップでのチームからは、2組が参戦する事になったいた。
私とおっさん、それと「オヤジとハマゾウ」の2組だ。
(まるでギャグのような呼び名の人達ばかりだが・・・ちなみに私はナベです)

それと嬉しかったのは、ヘルパーに女性が3人来るというではないか。
少しは気合が入るというものだ。
(野球で商業高校が強いのは女子が多いからだ、というのは私の持論だ)

次回は予選の内容を書いてみようと思う・・・

次回に続く

第5部:出直し・・・その7(4時間耐久レースに向けて)

2008年01月17日 23時09分37秒 | 日々反省の日記
4時間耐久レースでペアを組む相手を紹介してもらう為に向かったショップは、八尾市にあるホンダの販売店だった。
そのショップのレーシングチームに名古屋から通ってきているライダーが一人いて、その人が私とペアを組む事になる相手だった。
チームの人達は彼の事を「おっさん」と呼んでいた。
何故、名古屋からわざわざ大阪まで通って来ているのか不思議に思い尋ねたところ、
『おっさんは店が以前製作したTT3用のコンプリートマシンを雑誌で見て、購入する為にわざわざ大阪までやってきたんや』
『で、そのまま、うちのチームに入ったちゅうわけや』と、ショップの従業員が教えてくれた。
『へ~そうなんですか』と応える私に
『あれで昔、サンデーレースでポール To クラッシュしよってん』ともおっさんの事を
教えてくれた。
『え、ポール To フニッシュじゃないんですか?』と聞きなおすと
『予選でポールとって1週目のスプーンコーナーまではトップできよってんけどな・・・
   そこで、クラッシュしよってん』
『そ、そういうことですか・・・』
おっさんは結構、早かったらしいのだ。今は少しスランプらしい・・・?

おっさんの乗るマシンはCBX400をTT3用に改造したものだった。
私としては、できれば自分のマシンを使用したかったのだが、おっさん要望もあり
彼のマシンで4時間耐久レースに挑むことになった。
その日は、とりあえず簡単な打ち合わせと連絡先の交換程度で済ませ練習走行等の
予定は又、次回にすることにして帰宅した。
とりあえず、今年の4時間耐久レースに出れることに決まった事で一安心だった。

次回は、おっさんとの初練習走行から耐久レース当日までを書いてみようと思う。

次回に続く

第5部:出直し・・・その6(レース活動再開)

2008年01月15日 00時23分35秒 | 日々反省の日記
一ヶ月近い入院生活を終えて暫くはレース活動も控えていたが、退院から2ヶ月も過ぎた頃には鈴鹿サーキットでの練習走行も始めていた。
ただし実際にレースにエントリーをしたのは翌年の西日本サーキットからだったと思う。
この西日本でのレースは、予選もあまりパッとしなかったが決勝でも結果は残せなかった。
天候も雨で、おまけにマシンのクラッチにトラブルを抱えていて押しがけの際にクラッチが完全にきれない状態でマシンの押し出すのも一苦労でスタートも最悪、それにウェットコンディションは大の苦手で思い出すの嫌なレースだった。
ただ、このレース前の練習走行の際に前年度、私がクラッシュした相手から謝罪の申し入れがあった事は嬉しかった出来事でしたが・・・。

その次にエントリーしたのは鈴鹿200kmロードレースの前哨戦でノービスTT3クラスだったのですが、予選走行中に気合を入れた2週目に最終コーナー手前のシケインで痛恨のオーバーラン。
結局、予選通過はならず決勝当日は観客席にいました。

そして次は、8時間耐久レースの前哨戦でノービスの祭典、4時間耐久レースに望む事になるのだけど相棒が決まっていなかった。
このままでは「今年も耐久レースは諦めないと駄目かな・・・」と思い始めていた頃、
当時行きつけだったバイクショップのオーナーから『知人のショップのメンバーが
4時間耐久レースの相棒を探している』と聞かされ早速、話を聞きに紹介された
ショップに向かった。
そのショップのオーナーとの出会いが、その後の私のレース人生を大きく変えることに
なるとは想像もしていなかったのだが・・・。

次回に続く

第5部:出直し・・・その5(2度目の入院)

2008年01月13日 23時03分01秒 | 日々反省の日記
人生2度目の入院生活を送ることになったのが、岩国国立病院(国病)だった。
入院設備の整った整形外科は他にもあったのだけど両親の勧めもありこの病院に
行く事になったようだ。
ここの国病は以前、友人が亡くなった病院だったのであまり良い思いでがない。
おまけにその日以来、看護婦が好きになれないでいたし・・・。
別に看護婦が嫌いになったわけでなく、友人が亡くなったときに当たり前の事だが
彼女達が遺体に対して何の感情も表さないで、てきぱきと作業をこなしていく姿に
職業人としては素晴らしいと思うが女性としては、見れなくなってしまっていた。
実は、私はそれまでに看護婦と2度ほど交際していた事もあったが、職場の姿を
見る事はほとんどなかったので・・・それだけに受けた印象のギャップが大きかったのだ。

話が少し横道にそれてしまうけど、私がレースを始めた理由の一つに
その時の友人の死がある。
あれは忘れもしない1982年の10月10日の夜、10時頃だったと思う。
欽明路有料道路の自販機コーナーの前を走り去ったCBX1000と供に
あの世に飛び立った友人が私には憧れの先輩でもあった。
2輪に乗らせれば敵なしの速さと腕をもっていた友人でも公道では限界があった。
そんな事もあり私はサーキットへ走る場所を移していったのである。

また10月10日の命日は、その16年後に同じ病院で私の父の命日にもなってしまった。
二人の命日は偶然とはいえ私にとって忘れる事が出来ない日になってしまったわけだ。

で、私の入院も26日間の長期入院になったわけだが、最初の1週間ぐらいは
疲れもあってベッドで寝ていられる事が嬉しかった・・・が、1週間も過ぎた頃から
昼間に寝てしまうと夜が眠れなくなり夜、寝つけるまでの時間が苦痛になっていた。
それでも昼間にベッドで横になっているとウトウトとしてしまい気がつくと
寝てしまっていた。
半月も過ぎた頃、鎖骨の骨折だけだった私は自由に歩けるので昼間は病院の
すぐ近所にあった喫茶店に入り浸るようになっていた。
その喫茶店ではまっていたのが高橋留美子先生の「めぞん一刻」でした。
既に単行本になっていたので退院するまでの数日間で一気に読みきってしまった。
入院中、一番楽しかった事だったかもしれない。

次回からは、退院後のレース活動再開について

次回に続く

第5部:出直し・・・その4(クラッシュ)

2008年01月12日 21時22分35秒 | 日々反省の日記
鈴鹿200kmロードレースの予選落ちからしばらくして、エントリーしてあった
西日本サーキットのレースに出場する為、8月には山口県に戻っていた。
本来なら4時間耐久レースに出場する予定だったのだが、相棒が見つからず今年の
4時間耐久レースを見送って西日本のレースに出ることにしたからだ。
勿論、このときもヘルパーは弟に頼んであった。弟もちょうど会社の夏休みと合わせてくれていたので頼みやすかったこともあるのだが・・・。
この年、トランスポーターもタウンエースから日産ホーミー(キャラバンと同位車種)の
ロングに乗り換えていたので長距離移動も車内泊もかなり楽になっていた。

決勝の前日から西日本サーキットに入り練習走行もこなし決勝当日に臨むことに。
車検も無事にパスして予選が行われ決勝を走る予定だったのだが、
決勝を走る事はなかった・・・と思う。
実は、この時の記憶をあまりハッキリと憶えていない・・・クラッシュのせいだ。
第一コーナーから裏のストレートを抜けるとバンクのきついコーナーがあるのだが、
その立ち上がりで直前の前走者が転倒してしまったのだ。
当然、避けきれずクラッシュ・・・そして鎖骨骨折となった。
でも、私が憶えているのはクラッシュの直前までで再び記憶が戻ったのはサーキットに
待機していた医者の『折れてますね』の一言だった。医者の前に座っていたのだ。
あとから弟に聞いたところ、自分で救急車に乗り込んで医務室に自分で歩いて
入ったらしいのだけど全く記憶がない。
その後もその1日の記憶が所々、不鮮明である。
以前にもクラッシュで頭部を強打したときにヘルメット越しであったにも関わらず一時的な記憶障害を起こした経験があるので、それほど不安には思わなかったが・・・。

結局、約一月の入院生活を送ることになってしまった。
サーキットから岩国の実家に戻るとそのまま国立病院に行き検査の結果、単純骨折でなく複雑骨折でおまけに神経に非常に近い位置で折れていた為、即入院となったのである。

次回は入院生活についても少し書いてみようと思う。

次回につづく

第5部:出直し・・・その3(レース活動再開)

2008年01月06日 13時47分08秒 | 日々反省の日記
4時間耐久レースに向けてTT3用マシンを購入したもののレギュレーションの変更で燃料タンクをFRP製のタンクから純正のタンクに変更せざるをえなかった。
同時にシートもノーマルタンクに合わせた物を購入して取り付けることになるのでマシンを購入したショップに取り寄せてもらった。
そのシートの製造メーカーは2輪用のFRP製品を製造販売するショップで後に私が、ジュニアクラスの4時間耐久レースにエントリーした際のチームオーナーでもあった。
そのショップは現在でも活動しており、最近では「仮面ライダーTHE FIRST」でサイクロン号のカウルを製作担当したことでも有名である。

マシンも仕上がり当面、出走するサーキットを鈴鹿と西日本サーキットにしぼり、先ず6月に行われる鈴鹿の200kmレースに併催されるノービスTT3クラスにエントリーしていた。
レース開催日まで鈴鹿サーキットで何度か練習走行をするのだが、当時は空前のレースブームだったこともあり練習走行も予約制になっていた。

その予約も取り難い状況で満足に練習もできず、レース当日がやってきた。
レース前日からトランポ(マシンを運ぶトランスポーター)にマシンや用具を一式積み込み、既に以前いたチームを離れていたので大阪に就職で出てきていた弟にヘルパーを頼んであったので弟にも同伴してもらいサーキットに泊り込んでいた。
当日は、先ず受付を済ませ次にマシンの車検を受けて車検が通るとあとは予選の順番がくるまで待機するのだが、決勝の出走台数は42台(多分)に対し予選出走台数は200台前後集まってくるので予選を通過するだけでも大変である。
チームの中にはノービスクラスでもワークス並みのチームも幾つかあり、実際まったくのプライベーターが決勝に残るには、よほど才能があるライダーでもなければ困難な時代だった。
もっとも才能のあるライダーは既に有力チームから声が掛かっていたと思うが・・・

その頃は私も自分の才能を少しは信じていたので練習さえしっかり出来れば・・・と思っていたわけで、その後の4年間をレースに費やしていた。
ただTT3クラスを勝つには、有力なチームに入るかよほどの才能がなければ無理と言っても過言ではなかった・・・が、その事実を受け入れられるには少し時間が掛かってしまった。

結果は、あえなく予選落ち・・・

次回に続く

第5部:出直し・・・その2(再度大阪へ)

2008年01月04日 18時00分35秒 | 日々反省の日記
1984年2月末
資金もある程度、貯まってきたのでアルバイトも辞めて大阪へ再度出て行くための準備に取り掛かかっていました。
大阪での働き口は、実際に大阪に戻ってから探すことにしてたので若干の不安もあったが「まあ、なんとかなるだろう」という気楽な考えで3月には、再びタウンエースに荷物を積み込み岩国をあとにした。
その当時は、中国縦貫道もまだ開通していなかったので12時間近く掛けて下道を走り大阪へ戻る事に。
ただ車の運転自体は平気なのだが長距離運転で眠たくなる事だけが辛かったのを今でも憶えている。
大阪へ戻ると確保してあった松原市の借家へ戻り、先ず仕事を探すことから始めた。
とりあえず就職情報誌を買い漁り条件の良いところを探したが見つからず、最終的には人材派遣会社の派遣社員になる事にきめました。
週休2日条件と時給の高さが決めてになり、派遣先は松下電器のグループ会社で現在の事業を起こすきっかけになる会社だった。
借家から働き先のある門真市までは電車を3回も乗り換えて1時間以上かけて通う事になり、その通勤時間が辛くて門真市で借家を探し早速引越し、それと同時にレース活動を再会する為の準備も始めていたのですが、当面の目標を8時間耐久レースの前哨戦でノービスクラスの祭典でもある4時間耐久レースに置いていたので出場クラスでもあるTT3(フォーミュラ3)用のマシンを探していたときに以前の働き先のショップオーナーから紹介してもらった別のショップでマシンを購入しました。
そのマシンは、ホンダのVF400をTT3用に改造されたマシンでエンジンはハイカムとマフラーにキャブセッティング程度だったのですが、足回りはTZ350用の物を移植してあり燃料タンクもシートもオリジナルなFRP製でカウルはハーフタイプのもので見た目は完全なレーサーでした・・・が、しかしその年のTT3マシンのレギュレーションが変更されて燃料タンクはFRP製が禁止になるとは、そのときは気付きもしなかった・・・(T T)

次回からは暫くの間、レース活動に重点をおき話を続けていこうと思っています。

次回に続く

第5部:出直し・・・その1(岩国に帰る)

2008年01月04日 16時25分30秒 | 日々反省の日記
3ヶ月ちょっとで岩国(山口県)に一旦帰る決意をした私ですが、その間に結局鈴鹿での
レースは一度も出ずじまいだった。
ただ一度、西日本サーキットに遠征した事があります。
このときは、AR125でプロダクションクラスと同居していた同僚に売ってもらったMT125という市販レーサー(現在のRS125の前身モデル)でGP125クラスのWエントリー。
結果は、3位と4位だったと思います。
その2台のマシンも岩国に帰る前には売り払っていました。
岩国に帰る際も借家の家賃は同僚と折半だったので自分の分は払い続けて再度大阪に戻ってくる際の住居として確保しておいた。

1983年の12月の雪の降る日だったと思うのですが、当時トランスポーターに使用していたタウンエースに大阪に持ってきていたGPz750と荷物を載せ大阪をあとにした。
岩国に戻ると先ず失業保険の手続きをして(実は住所を未だ大阪に移していなかった)
資金稼ぎの為、アルバイト先を探し所有していたGPz750も購入したバイク屋に依頼して売却しました。
アルバイト先は地元でなく広島で見つけて毎日30分以上かけて通う事にしましたが、作業内容はコンビニエンスストア「ポプラ」の各種弁当を詰めて配送する作業で夕方から早朝にかけての深夜のアルバイトでした。
正月は昼間も働いた事を今でも憶えていますが、一番憶えている事はアルバイト先の社員の人に自宅の山口から広島の寮に荷物を運ぶ手伝いをして欲しいと頼まれて行った時のこと。
その人は以前、女子プロレスラーのマネージャーをしていたと言っていたのですが、それもかなり有名だった「ビューティ・ペア」の一人。
ただ真実かどうかは定かでないのですが、本人は自慢げに一緒に写った写真を私に見せてくれましたけど・・・。

そんな生活を1984年の2月末まで続け再度、大阪へ向かう準備にかかっていました。

次回に続く

第4部:大阪へ・・・その5(同僚達との共同生活)

2008年01月02日 22時06分18秒 | 日々反省の日記
この頃、同僚の一人と一緒に借家を借りて共同生活をしていたのですが、
その同僚は数年後に世界GPを走るほどのライダーになりました。
世界GPで表彰台にも何度か立ちました。でもその当時は、それほど早い選手では
なかったのですが・・・

共同生活では、食事の時にもう一人の同僚も加わって
3人で食費と役割を分担していました。
私が食事係りでもう一人が片付け係り、あともう一人が・・・思い出せない(T T)

そんな生活も3ヶ月ちょっとで終わる事になります。
ショップの経営状態が悪くなり人員削減を余儀なくされていました。
私は自ら退職を申し出て暫く田舎に帰ることを決意していました。

次回に続く

第4部:大阪へ・・・その4(初めての鈴鹿サーキット)

2007年12月03日 22時24分05秒 | 日々反省の日記
初めての鈴鹿サーキットを走行する前に同僚と賭けをしていました。それは、
その同僚がのるホンダの単気筒250?のRS250というバイクと私の乗るAR125で
どちらがタイムが出せるか、といった賭けです。
負けた方が御飯をおごるという単純なものでしたが・・・
ただし私は鈴鹿は初めてで今回が初走行になるのですが、自分なりに自信があったので
勝てると思い込んでいました。

いざ、走行が始まると『この賭けは失敗だった』事を思い知らされました。
単気筒の4サイクル250といえどもストレートでは簡単に離されてしまう。
それに鈴鹿のストレートは西日本サーキットより最高速がでるのです。

さらに同僚の走りもかなり早くて、どんどんと引き離されてしまい完敗でした。

結局、帰りのファミレスで飯代をおごる事になったのですが、支払うお金よりも
傷ついたプライドに落ち込みました。

それでも「いつか、もっと早くなってやる」と密かに誓ったものです。

つづく

第4部:大阪へ・・・その3(大阪での生活が始まる)

2007年12月01日 20時57分57秒 | 日々反省の日記
大阪に着いたものの、まだ住む所も決まっていなかったので
ショップの従業員のアパートに仮に同居させてもらう事になりましたが、
数日後には、他の従業員が家を出て一人暮らしを始めるという事で
一緒に借家を探して二人で共同生活をする事になりました。

住む家も決まり働き始めたそのショップは、大阪の松原市にある2輪用の
マフラーやチャンバーを製作する店でした。

主な仕事は、他のブランドショップの下請け的な仕事でしたが、
ショップ自身のブランドも持っていましたが、そちらは少ない仕事でしたね。

レースをする為に就職したショップですので当然、レーシングチームはあります。
オンロードとオフロードもあるチームでしたが、
チーム名は、あるアニメタイトルからとられていました。
その名は『チームうる星やつら』です。

私が働きだす以前に一度、雑誌にも紹介されたことがあったそうですが・・・

働きだして何日か過ぎた頃、鈴鹿サーキットを走る為のライセンスを所得する為
同僚達がサーキット走行をする日に同行させてもらい鈴鹿へ向かいました。

その時、初めて大阪から鈴鹿までの距離が結構あることを知ったのです。

松原インターから天理までは有料道路を走り天理からは西名阪道を
通っていくのですが、この西名阪道は自動車専用道路でありながら無料なのです。
ほとんどの車が80キロ前後で走っているのですが、制限速度は60キロです。
これにもかなり驚かされました。

鈴鹿につくと所定の手続きを済ませ講習を受けてライセンスの発給を受けました。

この後、鈴鹿でのサーキット走行を初めて体験するのですが、
そこでまた、あるエピソードがあるのですが、その辺りは次回で又書きます。

つづく