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シニア犬と趣味のある暮らし

ペキニーズと趣味やDIYを紹介

第9部:英会話スクールに・・・その4(コミニケーション)

2008年02月23日 14時04分15秒 | 日々反省の日記
後にスクールで講師(外国人)と生徒のパーティー等は諸事情により禁止に
なうrのだが、その当時はまだ公然と行われていた。
特に私は宴会部長並みに会合を催したりしていた。
スクールに行き始めた頃、付き合っていた女性とも別れていたし、冬場の
スキーシーズン以外は暇も多かったので何かと企てていたものです。
スクールの生徒の女性たちとも色々と出かけたり食事に行ったりと
レースに没頭していて失った青春を取り戻すかの様に人生を楽しんでした。
もちろん後に付き合うことになる彼女とも映画を観に行ったり
他の複数の生徒達と一緒に食事に行ったりもしていたけど、特に私も彼女を
意識する事もなく、また彼女も私に対して特別な感情は抱いていなかった。
後に彼女に聞いたところ「変な奴だけど危険はなさそう」程度に思っていたそうだ。

そんな私が彼女を意識するようになったのは、あるイベントからだった。

次回につづく

第9部:英会話スクールに・・・その3(すき焼きパーティー)

2008年02月22日 22時41分12秒 | 日々反省の日記
彼女の家に招待される事になって数日後、私の車に講師と彼女も同乗し彼女の
家に向かった。
勿論、他の生徒も一緒に。
生徒は女性が彼女の他に二人と男性が私に他に一人、講師はアメリカ人と
イギリス人だったと思うが・・・二人とも男性講師。

彼女の家に着くと彼女の母親がすき焼きの用意をして出迎えてくれた。
すき焼きパーティーの始まりだった。
猫がいると聞いていたのだが、大勢の人間に怯えたのか姿を現さない。

彼女の母親もなかなかの社交家で外国人が二人混じっていても物怖じもせず
談笑に参加していた。
このとき彼女の母親は私に対して好印象をもったようだったが、この時点では
私と彼女は単なるスクール友達程度でしかなかった。

次回に続く

第9部:英会話スクールに・・・その2(駅前スクールで)

2008年02月16日 13時28分04秒 | 日々反省の日記
私の通っていた英会話スクールは京阪沿線の一つの駅前にあった。
レッスン内容は普通の3人1クラスの授業と講師が一人付いて50分間自由に
話すフリートークの部屋でのレッスンの2種類で構成されていた。
先日のバレンタインパーティーで同じテーブルについた女性二人は、私よりかなり
上のクラスにいたので通常授業で一緒になる事はないのだが、フリートークでは
一緒になった事がなんどかある。
ある日、スクールで時間待ちをしていると正面からスーツ姿の女性が近づいてきた。
『こんにちは、今度うちでパーティーをすることになったんだけど一緒にこない?』
と声をかけてきた。
化粧もちゃんとしていてメガネまでかけていた彼女はバレンタインパーティーで一緒だった
冴えない印象の女性だった。
その後も何度かフリートークルームで何度か会ってはいたのだが、いつもノーメークで
面倒臭そうにしていた。
だが、その日は違った印象に見えたのは、ちゃんと化粧をしていたからかもしれない。
「結構、かわいいやん!」と内心思った。
結局、私と外国人講師二人と生徒が男女合わせて3人の合計6人で
彼女の家に訪問する事になった。
後に聞いた話では『話の流れで講師の一人が家に来ると言い出したので知ってる人に声を掛けた』らしい。

次回に続く

第9部:英会話スクールに・・・その1(バレンタインパーティー))

2008年02月11日 22時50分37秒 | 日々反省の日記
英会話スクールに通い始めた翌年、スクールの講師や親しい生徒達何人かで
バレンタインデーの近づいたある日、パーティーをする事になった。
1992年の2月だったと思う。
私も誘われたので参加する事に・・・
ただ、その年の冬にスノーボードを始めていた私は転倒の際に右足の腱を
痛めていた為、ジャージ姿での参加であった。

少し遅めに会場に入った私が席を探すと、ほとんどの席が埋まっていた。
当然、かわいい女性の隣は全て埋まっていて見渡すと、あまり花のなさそうな
女性が座っているテーブルの席があいていた。
どちらかというと暗いイメージの女性とその横にその女性と親しそうに話す女性が。
二人ともパッと見、見栄えのしない印象を受けた。
その二人の対面に座り色々と話をしながら一人の女性を見ると
まったくのノーメイクである。
だが、手にはマニキュアをしタバコまで吸っているし・・・
なにか全て面倒くさそうにしている印象だった。
「変わった女性だな・・・」
あまり魅力のある女性とは思えなかった。
それでも一つだけ気になったのが、家に猫が何匹かいるという事だった。
私も猫が好きだったからだ。

次回に続く

第8部:引退後の暮らし・・・その3(英会話)

2008年02月09日 22時58分26秒 | 日々反省の日記
習い始めた英会話だが、学生時代に苦手だった私の英語力は散々だった。
月に2~3回程度のレッスンでは到底、理解できるはずもなく限界を感じていた私は英会話スクールに通う事を決めていた。
今は、なくなった?NOVAである。出張時に乗る京阪電車に広告がでていたので
勤務先からは遠かったが、難波校にとりあえず入学した。
当時、付き合っていた子と一緒に・・・
そのうち、勤務先に近い所にもスクールができたので早速、転校の手続きをとり
移動した。
そこで出会ったのが今の嫁だ。
ただ、彼女と付き合い始めるのは、かなり時間が経ってからだ。

次回からは英会話を中心に話を書いてみようと思う

次回に続く

第8部:引退後の暮らし・・・その2(海外出張から)

2008年02月06日 23時25分11秒 | 日々反省の日記
海外出張でイギリスに行ったことから「英語を喋れるようになりたい」という
気持ちが芽生えていた。
元々、英会話に興味はあったものの学生時代に全くといっていいほど
英語の勉強をしなかったせいで、英語は大の苦手科目になっていた。
それでもイギリスに3週間も滞在しているうちに
「英語が喋れるともっと楽しいはず」という思いが強くなっていった。

国内にいるときも海外から研修にくる人達に講師として講習をする事もあり
外国人と接する機会が増えてきたので英会話を習い始める事にした。
この事が将来、今の嫁と出会うきっかけになろうとは、この時は予想もしなかった・・・

最初に英会話を習い始めた場所は、友人の知り合いで外大の講師が開いていた
小さなスクールでした。
といっても身内ばかりで集まったサークルの様なものでしたが・・・

20代後半から始めた英会話は英語の苦手だった私には、大変だったが
レッスンのあと生徒達、皆で居酒屋に行くのが楽しくて続ける事ができた。

次回に続く

第8部:引退後の暮らし・・・その1(新たな趣味)

2008年02月04日 21時37分45秒 | 日々反省の日記
1988年限りで引退を決意した頃、友人の車で事故を起こしてしまった。
この年は、よくよく運がなかった。
無理に車線変更をしたところに後ろから追突されてしまったのだ。
車は廃車になったが、幸いにも誰も怪我をせずに済んだのは
不幸中の幸いだった。
とりあえず車が無くなった友人に車を手当てしなければならず、
私の過失が6割で相手が4割なので保険で手当てできなかった分は、
マシンを売った金で補填して友人が車を購入する資金に充てた。
これで完全にレースからは引退することに・・・

引退してからは、夏は趣味のオートバイで仲間とツーリングを楽しんだり
冬場はレースをしていた頃から始めていたスキーに没頭していた。
それまでは、正月は田舎で過ごしていたのにスキーをし始めてから、
何年かは正月は友人達とゲレンデのペンションで迎えていた。

仕事面も前年度から初めての海外出張でイギリスに行ったりと
かなり充実していた。
それまでレースの為に色々と犠牲にしてきた事も多かった。
それらを取り戻すかのように日々の暮らしを楽しんだ。

次回に続く

第7部:2年目のシーズン・・・その4(引退を決意)

2008年02月03日 14時21分43秒 | 日々反省の日記
鈴鹿全日本選手権の悔しい予選落ちから、レースを続けていく事に少しづつ
自信をなくしていた。
菅生サーキットでも予選は補欠枠で結局、決勝は走れずじまい。
筑波では恐れていた裏ストレートか侵入する高速コーナーでの転倒。
エンジンの焼き付きが原因だった。再び右手部骨折。
2回目の鈴鹿選手権ではエントリーすら忘れていた。
他にも西仙台サーキットでも予選落ち等、散々なシーズンであった。
年齢も28歳を過ぎて遊びでレースを続けられる年齢ではなくなっていたし
そろそろ次の人生を考えなければいけない時期がきていた。

この頃、人材派遣で入っていた会社の仕事が、派遣を辞めて個人契約の
形になり個人事業者として仕事も楽しくなっていた事もあり引退を決意した。

次回からは個人事業から会社を立ち上げるまでを書いていきます。

次回に続く

第7部:2年目のシーズン・・・その3(第2戦鈴鹿)

2008年02月01日 23時03分42秒 | 日々反省の日記
全日本第1選の筑波から一月も経たないうちに第2戦の鈴鹿でのレースがある。
筑波で負傷した私もエントリーしていたので右手のギブスが外れないまま、参戦することになった。
サーキットで走行するときだけ、ギブスを外しマシンに乗るのだが、握力がほとんどない状態ではアクセルを開け続ける事ができない。ストレートを走っていてもアクセルが戻りスピードが落ちてくる事もしばしばである。
結局、予選でもタイムが出せず鈴鹿での悔しい予選落ちである。
体が問題なければ、鈴鹿で予選落ちする事などなかったはずなのに・・・
言い知れぬ悔しさを胸に、鈴鹿をあとにした。

次回に続く

第7部:2年目のシーズン・・・その2(筑波でクラッシュ)

2008年01月31日 22時23分05秒 | 日々反省の日記
中山サーキットでの優勝で弾みをつけたいという思いを抱き、全日本初戦の筑波に
臨む。
筑波サーキットに入ると、いつもの馴染みの仲間達と顔をあわす。
選手権のときしか、ほとんど顔をあわすこともないのに気の合う奴がいる。
互いに同じ目的を持った仲間だからだろう。
選手権参加の手続きを済ませたら早速、練習走行にはいる。
ここ、筑波サーキットで転倒したくないコーナーが2箇所ある。
一つ目はダンロップ下の右から左への中速コーナーだ。
二つ目は裏のストレートから最終コーナー向かう高速コーナーだ。
2箇所とも転倒すると、ただでは済まないという恐れがあった。

練習走行は、一周目を軽く流し2週目からは少しづつペースをあげていく。
3週目にはいり第一ヘアピンを抜けダンロップ下コーナーを右左へと切り返し
アクセルを開けた瞬間、リアがすべった。あわててアクセルを戻すと一旦グリップを
失ったスリックタイヤが急にグリップを取り戻しリアがすべった反対方向に吹っ飛び
暫くマシンと体が激しく転がっていく。
気が付くと救急車が駆けつけてきた。救急車に乗り込むとそのまま病院に直行し
そのまま手術、入院となった。
右手薬指の腱が断裂と薬指と小指が骨折していた。
破損したマシンは仲間が回収してくれていた。

1988年、筑波での初戦はクラッシュで終わった。

次回に続く

第7部:2年目のシーズン・・・その1(ポールtoフィニッシュ)

2008年01月30日 22時52分30秒 | 日々反省の日記
1987年のシーズンは結局、鈴鹿でのポイントだけだった。
筑波サーキットの選抜レースも雨の中、18位どまりだったし鈴鹿での2戦目も
予選は通過したものの雨の中、マシントラブルも重なりほとんど最後尾だった。
1988年、2年目のシーズンに入り全日本のレース前に岡山県の中山サーキットで
開催される地方選に参加した。
出場台数は少なかったものの参加選手にはチーム片山の二人もいた。
おまけにレースクイーンまでいるではないか!俄然やる気がでてきた。
天気も快晴でコースコンディションも良く、私自身も調子がよかった事もあり
予選ではポールポジションもとれた。
決勝は、スタートで一瞬出遅れたものの一コーナーの進入ではトップで入った。
その後は、一度もトップをあけわたす事なく最終コーナーに入り立ち上がりで
後方を確認しホームストレートへ・・・そこで少し不安を感じていた。
「今のが、最終ラップだった・・・はず・・・」そしてゴールラインを越えたときに
チェッカーフラッグを見落とした。
ウィニングランの筈が、結構全開で走ってしまった。
本来、ウィニングランなら観客に手でも振りながら余裕で走りたかったのに残念!
でもゴール後、3位までの選手はオープンカーでパレードランをしてもらったので
少しは初優勝の感激を味わう事ができた。
ただ、表彰台でシャンペンシャワーが上手くできなかった。
本来、シャンペンシャワーをするときは先に栓を抜いて指でビンの口を押さえてから
ビンを振り勢いよくシャンペンを飛ばすのだ。でも初めてのことで知らなかったのだ。
とにかく初めてのポールtoウィンだ。2位と3位にはチーム片山の二人が入っていた。
このときの優勝トロフィーは20年経った今でも家に置いてある。

この地方選の優勝で勢いをつけて全日本選手権最初の筑波に臨むのだが・・・

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その7(初めてのポイント2)

2008年01月29日 21時34分18秒 | 日々反省の日記
「ぶつかる」と思った瞬間、アウト側にいた選手も車体を起こしたのだが、2台とも
みるみるアウトに膨らんでいく。私はかろうじてコース内に留まったもののアウト側の
選手はコースアウトしてしまった。
「悪い事をしたな・・・」という思いも一瞬あったが、すぐに前走者を追いかける。
シケインを抜け最終コーナーを抜けるとホームストレートにはいる。
前走者に追いついた。おそらく9位の選手だ。「見た事あるマシンだな・・・」
知り合いのマシンだった。そのまま一コーナーへ進入していくその時だった。
奴のマシンがふらつく。リアタイヤの挙動がおかしい、トラブルを抱えている様子だ。
マシンの抑えが効かないせいか、コーナーの攻めが甘い。
難なく抜き去る事ができた。「しかし、あの状態でここまで走るとは・・・」
しかし私の追い上げもここまでだった。
8位との差が大きくて追いつくことが出来ず、9位のままでフィニッシュ。
とりあえず初めての決勝でポイントまで取れた。うれしい初ポイントだ。

このレースでポイントを所得したことでシーズン後半の筑波サーキットでの
選抜レースに出場する権利も得た。

次回は1988年に舞台をうつして書きます。

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その6(初めてのポイント1)

2008年01月28日 21時24分05秒 | 日々反省の日記
その年の鈴鹿での最初のレースでエントリーも120名を超えていた。
決勝を走れるのは42名だけなので予選通過するだけでも厳しい状況だったが
予選は、なんとか20位前後で通過できた。
そして初めての全日本選手権での決勝レース。ピットロードからコースへでると先ず
一周回ってスターティンググリッドにつく。そこで選手紹介がある。
選手紹介が終わるとエンジンを押しがけでかけてウォーミングアップランで一周する。
再びスターティンググリッドにつくとエンジンをかけたままで全車がグリッドに着くのを待つ。
次々とグリッドに戻ってくるマシンと選手の間をタイムボードを掲げたハイレグの女性が
歩いてくる。(独身男には刺激の強い姿だ)
全車がそろった頃を見計らってタイムボード下げて走り去る女性。
何気なく目で追いかける・・・とその時だ、周りからエンジン音が高まる。
慌てて自分もアクセルを開ける・・・が、一瞬の気の緩みでスタートランプの点灯を
見逃してしまった。
ほんの一瞬であったがスタートで大きく順位を落とす。30位前後まで落ちたようだ。
そこからは、気を取り直して追い上げる。
とりあえず目の前を走る選手を片っ端から追い抜いていく。
6週目くらいに入ると12~3番手にあがってきた。
そのくらいの順位になると簡単には抜けなくなる。気を抜くとすぐに抜き返される。
ちょうど裏のストレートを抜けると130Rに入る。そのとき後方アウトから抜きにきた
選手がいた。
「抜かれる!」と思った瞬間、チェンジをミスした。「しまった!」一瞬車体を起こす。
と、そこにアウトからかぶせてきた選手の車体が・・・「ぶつかる!」と

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その5(ヤマハからホンダへ)

2008年01月26日 21時19分21秒 | 日々反省の日記
全日本に参戦し始めた翌年の1987年、マシンをヤマハTZ250からホンダの
RS250に買い換えた。
(RS250はホンダワークスNSR250の市販用レーサー)
ショップがホンダの2輪販売店だったこともありホンダに乗り換えることにしたのだ。
乗り換えてみてわかった事がある。それはヤマハがリア荷重で走るのに対して
ホンダはフロント荷重で走る車体特性があるようだ。
私はリアに荷重をかけるのが苦手だったのでTZのときはタンク後方にパッドを
貼り付けて走っていたが、RSに乗り換えてからはその必要がなくなった。
簡単に説明するとTZがオシリを後方にさげて乗るのに大してRSはフロントフォークに
ぶら下がるようにして走る感じです。
(もっとも人によってはセッティングで色々と変更したり個人差はあると思います)
マシンの作り自体もTZはフレームが柔らかくてサスペンションだけでなくフレームでも
ショックを吸収できるのに対してRSはフレームは硬めでサスペンションだけでショックを
吸収する感じです。

ちょっと専門的になってしまいましたが、私にはホンダの方が向いていたようです。
それを証明するように全日本選手権で最初の鈴鹿でのレースで結果を残せた。

その初めてポイントを取れた鈴鹿でのレースについては次回、詳しく書いてみる。

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その4(鈴鹿サーキット)

2008年01月25日 20時54分15秒 | 日々反省の日記
全日本選手権で最後の鈴鹿のレース、といっても年間2戦しかないので
2度目のレースとうことになるのだが・・・

その年のTZ250にはシフトチェンジアームの支点軸が抜けて2速以上が
使えなくなるトラブルが続発していた。
事前に支点軸に対策をする必要があると聞き早速、自分で分解して
支点軸を強引に引き抜き接着剤を塗布して再度、押し込む。
といった作業なのだが、素人作業がとんでもない結果になろうとは・・・

鈴鹿選手権の当日は、あいにくの空模様で予選の時には雨がかなり降っていた。
「嫌なコンデションだな・・・」と思いながら自分の予選の順番を待っていた。
そして予選スタート、一週目は少し余裕をもって走る。シケインから最終コーナー
そしてホームストレートを抜けて1コーナーめがけて飛び込んでいく。
2コーナーの立ち上がりで3速にシフトアップ・・・と・・・入らない!
3速にシフトアップができなくなっている。
シフトアームの支点軸が抜けたのだ。

素人作業がかえって裏目にでてしまった。
当然予選は通過ならず、その年の選手権は一度も決勝を走ることなく終わった。

ジュニアクラス最初のシーズンは何も結果を残せず終わってしまった。

次回は1987年度に舞台を移して書いていきます。

次回に続く