犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

どこにおるのかのう。

2018年06月20日 | おせわがかり日誌
その日、朝からなんとなく、理屈ではなく、今日が最期だとわかっていて、
そして、そのときがきて、聴覚は最期の最後まで機能するというのを思い出し、
あわてて、こんちゃんに、

「すぐに生まれ変わっといで!今度はまっすぐおいで!
 子犬からおじいちゃんになるまで、ずーっと一緒だからね!」

って一方的に約束したんだけれども、まだこない。

(もしかして今日目覚めたら、枕元に子犬がいるかも!)

なんてわくわくしながら、寝て、起きて、やっぱりいない。
サンタクロースは大人のところには来ないのだ(季節も違うしなー)。

それにしても、いまごろこんちゃん、どこにいるんだろう?
竜宮城みたいなところで楽しくしていて、下界のことは、もう忘れちゃったかな?



ちょっと不思議なことなら、何度かあった。
お父さんとオレコは爪音を(2度も)聞いたし、私は壁だか家具だかに、頭をぶつける音を聞いた。
リビングで3人ではしゃぎ、キャーキャーいっていたら、突然オレコ(一番ノリノリだったのに)が真顔になって、
振り返ってリビングの入り口(←こんちゃんが姿を現すところ)を見つめると、
黙ってとぼとぼソファーに向かい、座り、ぶすーっと怒ったような、困ったような顔をした。
それからどんなに(ゴマをすって)誘っても、ソファーから降りようとはしなかった。

「こんちゃんが来たのかな?」

あんまり楽しそうにしていたから、壺から出てきちゃったのだろうか。
だけど爪音もしないし、何かぷ~んと老犬の香りが漂うとかでもない。
なんだけれども、なんだかそういえば、そんな気配がないわけでもない。
なんじゃなんじゃと出てきては、こちらをじーっと見、突進してくる、いつものこんちゃんの気配。

私たち(ひと)にはわからないけど、オレコにはわかるのだろうか?

こんちゃんなら怖くないから、いくらでも見えていいし、現れる力がないんであれば、
においを漂わすとか、そういうかたちでもいいから、何かサインをくれたらいいのにね、と語らった。
49日が過ぎたら、こういうことはなくなるのかな。



「息を引き取る」、とはよくいったもので、
こんちゃんは最期、大きく息を吸い込んで、次に吐き出すことはなかった。
それで、終わったんだな、というのがわかったんだけれど、
表情もさっきと変わらない、かわいい顔をしていたし、まるで嘘みたいなのだった。

抱き上げて、かわいい鳴き声のような音が口から漏れて、
生きているような気がしたけれど、経験からこれは、さっき吸い込んだ息が、
肺から気管を通って出てきた時に鳴った音なので、こんちゃんの『声』ではないことは知っていた。
頭ではわかっているのに、最期の声のような気がしてしまう。

心臓が止まってからもしばらくは、体は、いろんな反応をする。
それがまるで生きているように、昔の人なら、感じたのかもしれないなあ。
そこにはきっと願いも重なるから、無理もないことだと、遠いむかしの誰かに思いを馳せる。



犬でも猫でも、人でもなんでも、そのひと一代限り。
こんちゃんみたいな、面白くて、かわいくて、気持ちのやさしい子には、
もう出会えないんだろうなと思いながらも、どんな子だって、かわいいし、面白いし、それぞれに魅力がある。
もしこんちゃんみたいな子がいたにしたって、こんちゃんとは違う、どんなに似ていても、その子じゃなくて、
こんちゃんがいいんだから、こんちゃんに会いたいんだから、なんていうことを堂々巡り的に考えていた。
もし会えたら、ぎゅーっと抱っこして、顔を両手で挟み込んで、わしわししたい。
にこにこ喜ぶ顔が見たい。




もう泣いたりしないし、くよくよめそめそしていない。
オレコと楽しく過ごしているし、ごはんも食べてるし、仕事もしている。
普段どおりの暮らしを営み、家族みんな、元気にしている。

でもときどき、ぼんやりと考える。



最後の夜、うしがえるの声を聴きに、橋のところまで抱っこしていった。
真っ暗闇、黒い川のどこかで鳴いている、うしがえる。
どこにいるのかな、行ってみてみようか、ねえ、こんちゃん。
話すことはもうなくて、意味のないこと、目に入ったことばかり言ってしまう。
もうちからがないので、からだを全部、私に預けるようにして、黙って、抱っこされていた。
明日にもこのからだから、こんちゃんが出て行ってしまうかもな、と思うと、条件反射で、抱っこの腕にぎゅーっと力が入ったのを覚えている。
こんちゃんはちょっと苦しそうにして、でも、黙ったままだった。



あんなにずっと鳴いていたのに、最近うしがえる、鳴かないなあ。
いつもの年なら、今時分から秋口まで、夜はずっと鳴いていたのにね。
誰にというわけでもなく、語りかける。
暗い川のほとり、去って行くうしがえるの後ろ姿が、ぼんやりと脳裏に浮かんで、消えていく。

鳥にとられたのだろうか、水にとけて流れてきた毒にやられたのだろうか、それともこんちゃんについて行っちゃったのかな。

お花やおやつが次から次へとたくさん届き、こんちゃんは人気者だね、さすがだね、と褒めたり、笑ったりして、花いっぱいのなか、箱におさまり、笑っているのかいないのか、そもそもそこにいるかもわからない今の姿を眺め、どこにいるのだろう、何をしてるんだろう、といつのまにか考えては、いやいや、お礼の手配しないと、などと現実に帰り、立ち上がって部屋をあとにした。

そういう3週間だった。



オレコも念願の一人っ子生活に戻った割に、元気なんだけれど、
寂しがってはいないんだけれど、張り合いをなくしたような、いまひとつ覇気がない。
黒ぐろと濡れた目が、どこでもないどこかを見つめ、首を傾げている姿を見ると、
こんちゃんのことを思い出しているのかな、と、勝手に思う。



オレコはぬいぐるみが大好きで、いつも身近においている。
たくさん抱え込んで、おなかの下に入れることもあって、知る人にきくと、
これは子供の代わりなんだそうで、なるほどオレコはお母さんになったつもりのようだ。

もちろん、ほんものの子犬はもっと好きで、義実家の太郎ちゃんの子犬時代は、
母性本能にスイッチが入り、しばらく自分の子のように接していた。
太郎ちゃんをかまうと、触るなといって、私たちに抗議したり、取り返そうとしたり。
あんまり聞き分けがないので、叱られて、あきらかに、

「なんでおれこ、しかられるわのか」

という不満顔で、おかしなくらい、しょぼくれていた。
人間界の掟の都合で避妊手術をしたけれど、そのとき家族でとことん話し合った。
今では生殖器系の病気にかからなくて済んだことや、仮に出産したとして、出産や育児のストレスがどう影響するかわからないので、避妊自体に後悔はないし、むしろよかったと思っているけれど、子犬がとても好きで、母性本能のかたまりのようなところを見ると、母親という選択肢のひとつを奪ってしまったことに、なんだか申し訳ない気持ちになる。

そんなわけで新しい人形がどんどんふえている。
こないだは、プレーリードッグのぬいぐるみを買ってきた。
そんなみんなのお母さんであるオレコは、たくさんの子を従えて、ソファで物思いにふけっている。



あんまり好きではなかったこんちゃんのことを考えているのか、いないのか。
わからないけれど、さびしげではある。


その物足りなさは『科捜研の女』を見ることで、少し解消されているのかもしれない。



介護生活のラストスパートのことを書くつもりが、なんだかまた別の話になってしまった。
折りをみて、介護生活のラストスパート、それから、去年はブログはほったらかしで、
(こんちゃんの世話と変化への対応でいっぱいいっぱいだったので)実はあちこち行っていた、
旅のことについて、書いたりもしようかなという気ではいる。
いるのだが、しかしあれだね。もう、何があって、どんなことに笑ったか、すっかり忘れている。
特に日記もつけていないので、画像を見て、思い出しながら、書いてみるとするか。

とりあえず今日は、花を買って帰る。
芍薬があればいいな。