犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

静かな生活。

2018年06月08日 | おせわがかり日誌

時間は静かに流れる。

こんちゃんをお空に返してからというもの、気持ちがすっかり落ち着いた。

目の前に魂の抜けたその姿があると、気持ちがざわつき、なかなか落ち着かないものだが、その姿がなくなると、心の波は穏やかになり、いままさに明鏡止水といったところ。



生活にも余裕ができた。

まず洗濯物が圧倒的に少ない。

片付けや掃除の時間もごく短くて済む。

オレコの世話といえば、歯磨き、ブラッシング、お散歩くらいなもの。

ごはんはもちろん自分で食べるし、失敗がないから、手がかからない。

歯磨き、食事、おめめきれいきれい、お顔きれいきれい、おくすり、お尻洗い、毎日のおむつのゴミ捨てまで、フルセットだったこんちゃんの世話に比べたら、1%くらい。

改めて、これまで、一日のほとんどが、こんちゃんのお世話に費やされていたのだと知る。

そういう時間と対象がなくなって、心に穴があくのではないか、ペットロスに捕まるのではないかと危惧したこともあったが、これが不思議とさびしくない。




こんちゃん。

なんとなくカメラロールを見ていると、この何年かで少しずつ確実に、ここ数ヶ月では幾度もギアチェンジが入ったように荒々しく老犬化していたことがわかる。

頭ではそのときが近いことはわかっていたけれど、そこに生活を伴うと、死はまだまだ先のことのように感じてしまう。

暮らしというのは、行く手に明るい光がないと、やっていられないからだ。

覚悟はしているはずなのに、つい、期待してしまうのだ。

でもカメラロールを見ていたらよくわかった。納得した。こんちゃんはよく生きた。かなり頑張った。

彼はじっくりと時間をかけて生き、奮闘努力の末、つくべきゴールにたどりつき、安息の日を迎えたのだ。

そのことがストン、とわたしの中に入ってきて、悲しみはずいぶんと癒えた。




もともとわたしたちは、『すぐに死んでしまいそう(オット曰く)』なひどい状態で出会い、「あんまり一緒にいられないかもしれないな」というところから、始まっている。

むちむちの子犬時代も知らないし、いたずら盛りの少年時代も知らないし、頼もしい青年時代すら知らないのだ。

だから傷が浅いとか、あまり落ち込まないで済んでいるとか、そういうことをいうつもりはないし、感じてもいない。




以前なら欲深く、もっと一緒にいたかったとか、最初からお世話したかったとか、願っていたところだけれど、それもない。

いやある。あるけれども、そこのところをぐっと抑えて、それでも一緒にいられてよかったな、という肯定的な気持ちでいまは満たされているのだ。

3年5ヶ月あまりの、短いといえば短く、しかしながら濃密な日々。




たくさんのことを与えてもらい、あるいは奪われ(時間とかお金とか睡眠とか・・・それでもプライスレスな存在だった)、総じて幸せだった。

失敗もあったし、後悔もあるけれど、その都度その都度、もっとよい判断と対応ができたのでは?なんていうのは、おこがましいにもほどがある。

わからないなりに、精一杯、やり尽くした。心を尽くして暮らしてきた。それでいいじゃないか。そういう納得が、はやくやってきた。




他の人だったらもっといろいろしてあげられたのでは?なんて、これまでのすべてを否定してみたって、なんにもならない。

わたしたちはとても幸せだった。そして今も幸せだ。




汚れたマットもラグも洗ったし、使っていたぐるぐるサークル、食器や日用品も片付けた。

フード、サプリ、おむつ、投薬トリーツ、ハーネス、日用品の数々は、こんちゃんが喜びそうだったので、柴女子たちに送って使ってもらうことにした。

オレコはまた一人っ子生活にもどり、このところ老犬用に改造したり工夫したりのあれこれが、徐々に以前のしつらえに戻っていった。

iPhoneのケースに入り込んでいたこん毛をきれいにとり除いたり、車の中に落ちていた抜け毛を掃除したり、ひとつひとつ、その都度ふたたび別れを経験するような、何かこんの痕跡を消すようで、これきっとあとからさびしいのではないかなあというような気もしたが、意外とサッパリ「じゃあね」と手を振って別れるような、さわやかさだった。




それでも思いがけず、こんちゃんが汚した場所や、頭をつっこんだかなんだかでなぎ倒した何かを発見すると、まるくてやさしい笑いがこみ上げる。

わたしにしかわからない場所に、それはひっそりと残っていて、いますぐきれいにしてもいいんだけれど、もう少しこのままでいようかなあ、と思う。

時々目に入っては、ひとり笑いする。

いなくなって、それがなくなってしまうと、うん子の匂いですら、かわいらしく(実際本格派の香りであるオレコのに比べると離乳前の赤ちゃんのそれのように愛らしい香りだった)思い出され、目を閉じて痕跡をたどるが、すっかり掃除してしまったので、あとかたもなく消えている。

最期のほうは、毎日まいにち、おびただしい数のおむつを交換していたし、仕事から帰ってくると、「あのねえ、ぼくたち出たよ~」と香りが漂ってくるので、あれはもう、日常どまんなかだった。

欠けてしまうとさびしいのは、意外とそういう、あーあ、というような出来事やその痕跡なのかもしれない。今では懐かしく、恋しく思い出す。




思いがけず、いろんな方から、お花やらなにやら、自宅に会社に送っていただいて、ここしばらく、美しい花とやさしい気持ちに包まれて過ごした。

普段、あまりお花を愛でる生活をしていなかったもので、というのも、花なり緑なり、外にあるほうが自然だし美しいし、というような小さなこだわりがあったような気がするのだが、悲しみの底にいると、その花々のやさしさ美しさが、どれだけ自分を救ってくれたか、計り知れないのだった。

これからは月命日にでも、お花を買ってくることにしよう、と、やんわり決めると、にわかにそれが楽しみになった。




オレコはひとり遊びが得意で、特にテレビが好きなのだけれど、今いちばん好きなのは『科捜研の女』。

これも、もともとは、こんちゃんの世話で相手をしてやれなかったもので、偶然テレビでやっていたのを「おーちゃん、こんちゃん転んじゃったから、おかあさんあっちいかないといけないんだけど、つまんないようなら、テレビ見てようか」と見せておいて、そこから始まったようなので、考えようによっては、こんちゃんからのプレゼントとも言える。




今ではすっかり趣味になって、消化がはやいので、録画がおいつかない。

警察犬が出てきたり、土門さんの聞き込みの相手や、第一発見者として、犬を散歩させている人が出てきたり、川が出てきたり、山が出てきたり、くすぐりどころ(オレコの心の)が満載なのである。

おかげでリビングのテレビはすっかり『科捜研の女』上映専用になってしまって、ここのところ野球は見ていない。



なんでうちの子たちはそろいもそろって(猫もそうだった)、なんだか少し面白いのか、理由はよくわからないが、オレコにもずいぶんと助けられている。

そんなこんなで、落ち込むことなく、元気にやっています。きっとこんちゃんが、そばで支えていてくれるのでしょう。