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故 久枝秀夫氏の書かれた宮迫薬師についての考察文 その1

2010年04月18日 | 宮迫薬師

今日の一言



17年以上前のことである。
宮迫薬師について大朝町史を編纂された一人の久枝秀夫さんに
宮迫薬師について調べていただいたことがある。

以下は長くなるが、その文章の紹介である。

名称
管見によれば、「宮迫薬師」のことが始めて古文書に現れるのは正徳五年(1715)未の
四月、宮迫村庄屋太兵衛が所務役人(俗に郡代官という)勝浦小兵衛あてに提出した
「山県郡宮迫村寺社畝高御改帳」(控え)である。
それには次の記事がある。

せうたうあん
・ 一、薬師堂境内 畝数拾弐歩
  内
  一 堂畝 四歩
  一 空地畝 八歩
    畝〆 拾弐歩
  高無御座候、堂守 無御座候
  先年より百姓彦左衛門田地わき、野地ニ御座候

・ また正徳五年四月廿一日付、川本六兵衛・河野茂左衛門・勝浦小兵衛の三人が
  作成した「山県郡寺社堂祠古城・・・開基由来縁起棟札宝物改寄帳」にも
  せぅとんあん
  一 辻堂 壱宇   薬師
    右開基由来知不申候、縁起宝物棟札等無御座候

・ さらに同じこの年に描かれた「宮迫村絵図」には、現在と全く同じ場所に
  お堂が描かれている。

・ ところで、肩書きの「せぅたぅあん」また、「せうとんあん」は薬師堂の堂名
  であり、当時はそのように発音されていた。
  しかしどのような漢字を当てていたのか。
  幸いにも「元和九年(1623)宮迫村名寄帳」が保存されていて、それによると
  「正東あん」と書かれており、別の古書には「正等庵」と書かれたものも見られる。
  そこで、「大朝町史」では前者の「正東庵」を採用しているのである。

● 本尊のこと
・ 薬師如来尊像背面に、次のような墨書銘がある。
  奉造立薬師如来来之
    (像)
  尊像 為善慶禅尼
  逆修善根功徳 伏願
  三番金色宝光妙光成就如来
    現世安穏 後生善処□□
  者也
    文正元年丙戌十月八日

・ この銘によれば、この薬師如来は、吉川氏七代経基時代の文正元年(1466)十月八日
  善慶禅尼の逆修のために、この尊像は造立されたことになる。「逆修」(ぎゃくしゅ)
  とは、「自分が善根を積んでそれを他人に施せば、自分のためにも他人のためにもなる
  という、回向思想にもとづくもので、生前に自分で自分の供養をするのを逆修と呼ぶ。 (民族辞典)」


・ 岩国徴古館長であった桂芳樹氏の教示によれば。{「善慶禅尼」は吉川家法名集には見
  当たらない。また、年号の上からもこの年に亡くなった女の人は見当たらない。
  (大部分が不明であること)。参考までに「慶」の字のつく法号は「経基は慶本」、
  その子「国経は慶守」、国経の姉「尼子経久の室が慶受大姉」など、「慶」の字が案多い
  「逆修」とあるから年寄ではないでしょうが、「禅尼」だから子供ではない。








  以上のことから正統の夫人ではないことは確実と思われ、とすると正統経基の妹か何か
  (未婚で二十歳前後)、または庶流のうちか、あるいは家臣のうちの有力者、これらの
  うちかと考えられる。}(回答要旨) 続く・・・



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