★弁護人を通じ、ぱぉんさんの手記が届けられたので、掲載します★
『メッセージ <7> 』
ぱぉんです。
"保釈中につき期間限定"「ぱぉん手記」。
※発信する文章は全て、信頼している弁護人の先生方を通じて書いています。
のぞき見している大阪腐警の公安三課さん、天満太郎さん、此花花子さんも、よかったらどうぞ最後までお読み下さい。
「デタラメ大阪腐警から拘置所へ」
今回は、大阪腐警から拘置所に移された経緯を書こうと思います。
<布施署の留置場にさようなら>
12月3日、勾留満期の前日、「明日は昼ぐらいから裁判所に行く」と留置係に言われ、布施署での私の私物を全て梱包する作業がありました。
この作業、20時の薬を飲んだ後、就寝時間の前に行われたので、詳細は思い出せません。
(薬飲む時間を変えてくれよっ!!)
この時点で、「釈放はあり得ない」「起訴やな」と察しました。
私物は、その全てがリスト化されており、留置係2人がリストと照らし合わせ、紙袋に私の私物を詰めておりました。
ぱぉんは座ってただ見てるだけー。
「一般」と「危険物」を、袋を分けて入れていました。
ちなみにボールペンだけでなく、私が色々書き溜めたノートも、「危険物」扱いの紙袋に入れておりました。
・・・なんでやねん。
逮捕時に履いていた靴も当然リストの中にはあるのですが、どうやって保管していたのか、靴の形が変わっていました。多分、ぞんざいな扱いをしてたんでしょうね。
イラッとしました。。。
「ノートや書籍は今夜梱包してしまうから、明日(4日)裁判所へ出発するまでの時間も使えない」と言われました。
しかし、それでは午前中の時間をつぶす手段が全然ないので、「ノートだけでいいから使わせろ。ペンは貸してくれるやつでエエから。」と言い続け、一応許可されました。
くどいようですが、こんな些細な事すら、何度も抗議をしなければ彼女らは「ダメだ」と言います。
・・・なんでやねん。
12月4日当日の午前中は、布施署の留置場で過ごす最後の時間でした。
お風呂の日でもないし、ホンマに時間をつぶすのに一苦労。ノートにあれこれと書くことに時間を使いました。
結局、昼ごはんの前にノートすら回収され、後はただ出発を待つのみ。
この日の留置係は、初日に会った比較的マトモな人だったのですが、出てく時、「お世話になりました」的な言葉は言いませんでした。私より先に留置場を出た方は、そういう言葉を言っていたみたいです。ちょっぴり漏れ聞きました。
つーか、そもそも彼女らにお世話される覚えなんかないし。それに、持病・薬の件でも「お世話された」とは到底思えなかったですからね。
昼ごはんの後、私を護送するポリが房までやってきて、手錠をかけられ、腰縄をつけられて、且つ紙袋3つの大荷物を持って、布施署を後にしました。
手錠をかけられた状態で、荷物持って歩くって、結構危ない。歩きにくいことこの上なし。
無言で布施署に「さようなら」。
<12月16日の衆議院選挙への投票>
布施署を後にする前日、「留置場でも投票はできる。投票したい場合は、ココに氏名・住所を書いて。」と言われました。留置場が"簡易投票所"になるとのこと。勾留されている状態で投票をしたい人は、「行政機関(市とか)に、選挙権があるか確認をするから」と言っていました。
ヤツラも、一応"参政権"は無視できないんですね。
ただ、こっちは黙秘です。
黙秘してるのに、何で名前や住所を書く必要があるの?
権力側は、しゃべっていない私の住所も当然知っており、本籍までよ~くご存知だったので、「参政権があるかどうか、あんたら、よく知ってるやん」とか思いました。
とにかく自分から書面に記載して、投票したい旨をお知らせしなければ、選挙の投票すらできません。
警察含め、権力側への信用は一切ありませんので、「色々わからん」と返答をあいまいにしました。
結果的に私は投票はできませんでした。
こうして参政権の行使すら、ヤツラは邪魔してきます。
・・・なんでやねん。
<求令起訴。威力業務妨害?!(°Д°)>
裁判所で長~~~いこと待たされ、どうやら私たち3人が最後の取り調べだった模様。呼ばれた時には、待合に誰もいませんでした。
(実は待ってる間、仲間の声がチラッと聞こえました^^)
呼ばれて行った先にドドーン。小野寺くん(裁判官)。
ぱぉんが呼ばれ、ポリが手錠を一旦外してから、小野寺くんが「先ほどの方をもう一度呼んで下さい」と言い、私は再び手錠をかけられて待合のイスへ。何事?! 誰が呼ばれたんだろ。
小野寺くんは何かを忘れたのか。それとも少しぐらいは悩んだのか。
彼のみぞ知る…。
再び呼ばれ、一人で裁判所の取調室へ。
小野寺くんは「罪名が切り替わっていますので、弁護士へ連絡した方がいいかと思いますが」と一方的に言うてはりました。
私は終始、無言。
というか、待たされた時間が長く、もう外は真っ暗、お薬の効き目が切れてくる時間帯だったので、しんどくてあんまり覚えていません。
「威力業務妨害?!なんじゃそら!!建造物侵入どこ行った?!」とか思ってました。
その後、検察庁へ行き、車の中で、例の"執行待ち"。
女性のポリに「夕食食べ」と、携行食のおにぎりを手渡されましたが、片手は手錠、両脇にポリ、運転席のポリまでこっち向いてる。…食べれません。
食後のアレルギーの飲み薬を、例の「らりるれろ」で飲み、車内で待ってました。
勾留決定を待つ時と違い、この日は30分程度で、別のポリがペラペラの紙を1枚持ってきて、横のポリに手渡しました。女性のポリがその紙を受け取り、「威力業務妨害で起訴されたので、これから大阪拘置所に移送します。」と言い、その紙にハンコ押してました。
なるほど、起訴はもう決まってた、ということです。裁判所での取調べが、いかに形だけのものであるかを再認識。
この時、「求令起訴」ということをポリ自身がよくわかっていなかった模様で、「書面ないの?」「ないと思います」「求令ってそうやったっけ?」「多分…」などなど、大丈夫か?!と思うようなやり取りをしてました。
そして、多分他の仲間の護送だろうと思いますが、別の運転手が「そっちから先に出て下さい」などのやり取りをし、私を乗せた車が先に拘置所に向かいました。
(大阪の方ならわかると思いますが)検察庁→大阪拘置所までの、あの短い距離を、ポリは高速使って走りました。
税金無駄遣いすな!下道でエエがな!
19時を過ぎてたかな、拘置所に到着。
普段は夕食後に飲む薬を与えられないままだったので、しんどいな~と思って、一応ポリに「薬は?」と聞いてみましたが、「拘置所の職員に言って」と、予想通りの返答。
はいはい。あなたたちポリはもう関係ないもんね。
拘置所の「新入取調室」にて、やっと手錠やら腰縄やら布やらを外され、大阪腐警のポリが帰って行きました。
こうして、12月4日の夜から、拘置所での辛い拘禁生活が始まったのでした。拘置所での生活は、書くと長くなりそうなので、また改めて。
<最後に>
保釈条件が緩和されてから、別件でパクられていた仲間の話をちょこちょこ聞くようになりました。
雑居房にいたという仲間が結構いて、同室の人たちがすごく優しかったとか、色んな話をしてくれたとか、すごい人間味のある話を後で知り、「いいなぁ~」とか思ってました。私は保釈されるまで、ずっと独居房だったので、誰かと会話を交わすことすらなく、寂しかったなぁ。中では「むっちゃしゃべりたい!」「誰かと会話したい!」って思ってました。もちろんヤツラ以外と。
・・・「いいなぁ~」とか思ってる場合か!ですが。
あんなトコには誰にも入って欲しくないよ!
あと1人!仲間を返せ!!
また書きます。
ぱぉん、でした。
2013年6月17日
************************
<救援会から お願い>
これから長く続く裁判に、たくさんの費用がかかります。
仲間達を救援するため、引き続きカンパのご協力をお願いいたします。
▼カンパ振込先▼
郵便振替「00910-1-145152」
加入者名「関西大弾圧救援会」
詳細は、コチラ
『メッセージ <7> 』
ぱぉんです。
"保釈中につき期間限定"「ぱぉん手記」。
※発信する文章は全て、信頼している弁護人の先生方を通じて書いています。
のぞき見している大阪腐警の公安三課さん、天満太郎さん、此花花子さんも、よかったらどうぞ最後までお読み下さい。
「デタラメ大阪腐警から拘置所へ」
今回は、大阪腐警から拘置所に移された経緯を書こうと思います。
<布施署の留置場にさようなら>
12月3日、勾留満期の前日、「明日は昼ぐらいから裁判所に行く」と留置係に言われ、布施署での私の私物を全て梱包する作業がありました。
この作業、20時の薬を飲んだ後、就寝時間の前に行われたので、詳細は思い出せません。
(薬飲む時間を変えてくれよっ!!)
この時点で、「釈放はあり得ない」「起訴やな」と察しました。
私物は、その全てがリスト化されており、留置係2人がリストと照らし合わせ、紙袋に私の私物を詰めておりました。
ぱぉんは座ってただ見てるだけー。
「一般」と「危険物」を、袋を分けて入れていました。
ちなみにボールペンだけでなく、私が色々書き溜めたノートも、「危険物」扱いの紙袋に入れておりました。
・・・なんでやねん。
逮捕時に履いていた靴も当然リストの中にはあるのですが、どうやって保管していたのか、靴の形が変わっていました。多分、ぞんざいな扱いをしてたんでしょうね。
イラッとしました。。。
「ノートや書籍は今夜梱包してしまうから、明日(4日)裁判所へ出発するまでの時間も使えない」と言われました。
しかし、それでは午前中の時間をつぶす手段が全然ないので、「ノートだけでいいから使わせろ。ペンは貸してくれるやつでエエから。」と言い続け、一応許可されました。
くどいようですが、こんな些細な事すら、何度も抗議をしなければ彼女らは「ダメだ」と言います。
・・・なんでやねん。
12月4日当日の午前中は、布施署の留置場で過ごす最後の時間でした。
お風呂の日でもないし、ホンマに時間をつぶすのに一苦労。ノートにあれこれと書くことに時間を使いました。
結局、昼ごはんの前にノートすら回収され、後はただ出発を待つのみ。
この日の留置係は、初日に会った比較的マトモな人だったのですが、出てく時、「お世話になりました」的な言葉は言いませんでした。私より先に留置場を出た方は、そういう言葉を言っていたみたいです。ちょっぴり漏れ聞きました。
つーか、そもそも彼女らにお世話される覚えなんかないし。それに、持病・薬の件でも「お世話された」とは到底思えなかったですからね。
昼ごはんの後、私を護送するポリが房までやってきて、手錠をかけられ、腰縄をつけられて、且つ紙袋3つの大荷物を持って、布施署を後にしました。
手錠をかけられた状態で、荷物持って歩くって、結構危ない。歩きにくいことこの上なし。
無言で布施署に「さようなら」。
<12月16日の衆議院選挙への投票>
布施署を後にする前日、「留置場でも投票はできる。投票したい場合は、ココに氏名・住所を書いて。」と言われました。留置場が"簡易投票所"になるとのこと。勾留されている状態で投票をしたい人は、「行政機関(市とか)に、選挙権があるか確認をするから」と言っていました。
ヤツラも、一応"参政権"は無視できないんですね。
ただ、こっちは黙秘です。
黙秘してるのに、何で名前や住所を書く必要があるの?
権力側は、しゃべっていない私の住所も当然知っており、本籍までよ~くご存知だったので、「参政権があるかどうか、あんたら、よく知ってるやん」とか思いました。
とにかく自分から書面に記載して、投票したい旨をお知らせしなければ、選挙の投票すらできません。
警察含め、権力側への信用は一切ありませんので、「色々わからん」と返答をあいまいにしました。
結果的に私は投票はできませんでした。
こうして参政権の行使すら、ヤツラは邪魔してきます。
・・・なんでやねん。
<求令起訴。威力業務妨害?!(°Д°)>
裁判所で長~~~いこと待たされ、どうやら私たち3人が最後の取り調べだった模様。呼ばれた時には、待合に誰もいませんでした。
(実は待ってる間、仲間の声がチラッと聞こえました^^)
呼ばれて行った先にドドーン。小野寺くん(裁判官)。
ぱぉんが呼ばれ、ポリが手錠を一旦外してから、小野寺くんが「先ほどの方をもう一度呼んで下さい」と言い、私は再び手錠をかけられて待合のイスへ。何事?! 誰が呼ばれたんだろ。
小野寺くんは何かを忘れたのか。それとも少しぐらいは悩んだのか。
彼のみぞ知る…。
再び呼ばれ、一人で裁判所の取調室へ。
小野寺くんは「罪名が切り替わっていますので、弁護士へ連絡した方がいいかと思いますが」と一方的に言うてはりました。
私は終始、無言。
というか、待たされた時間が長く、もう外は真っ暗、お薬の効き目が切れてくる時間帯だったので、しんどくてあんまり覚えていません。
「威力業務妨害?!なんじゃそら!!建造物侵入どこ行った?!」とか思ってました。
その後、検察庁へ行き、車の中で、例の"執行待ち"。
女性のポリに「夕食食べ」と、携行食のおにぎりを手渡されましたが、片手は手錠、両脇にポリ、運転席のポリまでこっち向いてる。…食べれません。
食後のアレルギーの飲み薬を、例の「らりるれろ」で飲み、車内で待ってました。
勾留決定を待つ時と違い、この日は30分程度で、別のポリがペラペラの紙を1枚持ってきて、横のポリに手渡しました。女性のポリがその紙を受け取り、「威力業務妨害で起訴されたので、これから大阪拘置所に移送します。」と言い、その紙にハンコ押してました。
なるほど、起訴はもう決まってた、ということです。裁判所での取調べが、いかに形だけのものであるかを再認識。
この時、「求令起訴」ということをポリ自身がよくわかっていなかった模様で、「書面ないの?」「ないと思います」「求令ってそうやったっけ?」「多分…」などなど、大丈夫か?!と思うようなやり取りをしてました。
そして、多分他の仲間の護送だろうと思いますが、別の運転手が「そっちから先に出て下さい」などのやり取りをし、私を乗せた車が先に拘置所に向かいました。
(大阪の方ならわかると思いますが)検察庁→大阪拘置所までの、あの短い距離を、ポリは高速使って走りました。
税金無駄遣いすな!下道でエエがな!
19時を過ぎてたかな、拘置所に到着。
普段は夕食後に飲む薬を与えられないままだったので、しんどいな~と思って、一応ポリに「薬は?」と聞いてみましたが、「拘置所の職員に言って」と、予想通りの返答。
はいはい。あなたたちポリはもう関係ないもんね。
拘置所の「新入取調室」にて、やっと手錠やら腰縄やら布やらを外され、大阪腐警のポリが帰って行きました。
こうして、12月4日の夜から、拘置所での辛い拘禁生活が始まったのでした。拘置所での生活は、書くと長くなりそうなので、また改めて。
<最後に>
保釈条件が緩和されてから、別件でパクられていた仲間の話をちょこちょこ聞くようになりました。
雑居房にいたという仲間が結構いて、同室の人たちがすごく優しかったとか、色んな話をしてくれたとか、すごい人間味のある話を後で知り、「いいなぁ~」とか思ってました。私は保釈されるまで、ずっと独居房だったので、誰かと会話を交わすことすらなく、寂しかったなぁ。中では「むっちゃしゃべりたい!」「誰かと会話したい!」って思ってました。もちろんヤツラ以外と。
・・・「いいなぁ~」とか思ってる場合か!ですが。
あんなトコには誰にも入って欲しくないよ!
あと1人!仲間を返せ!!
また書きます。
ぱぉん、でした。
2013年6月17日
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<救援会から お願い>
これから長く続く裁判に、たくさんの費用がかかります。
仲間達を救援するため、引き続きカンパのご協力をお願いいたします。
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