モナリザを母にしようプロジェクト

モナリザを聖なる母にしようという
プロジェクトを立ち上げました。

ダ・ヴィンチが託した想いやテーマは、キリスト教の概念に反した。

2015-06-19 11:59:26 | 日記

確かに、私はダ・ヴィンチの魂から
あの微笑みの女性の、正確なタイトルは
「来世の母」だと聞いた。
勉強不足で、あまり多くを語れないがキリスト教には、輪廻転生の概念はないらしい。
ダ・ヴィンチが生まれ生きた時代は、キリスト教の束縛が強かった時代。
さすれば、ダ・ヴィンチが、あの絵に思いを込め、全身全霊を降り注いで一人の聖なる母を描き、
来世で、あの微笑みの女性のような理想の母に廻り合いたいと、いくら願い続けたとしても、その感情は、宗教的に受け入れられるわけがない、ということは、当然理解出来る。
色々と調べていると、キリスト教のなかでも、カタリ派は、輪廻転生が信じられていたという記述を見つけた。
当時の抑圧されたキリスト教の支配下で、ダ・ヴィンチの思いは、無残に打ち砕かれた?
やはりあの絵は、モナリザではない。
特定の人物を描いた肖像画として、モナリザというタイトルを付けることは、キリスト教の枠組みに外れた、真実のタイトル(幻のタイトル)である「来世の母」を阻止する目的の為にも、重要だったのだろう。
ローマ法王が被った冠と、風刺画のモナリザが被った冠が、同じだったので、私が持ち続けていた感情は、
もはや自論ではなく、公に出来ない真実の物語ではないだろうか?そういう思いは、益々強められた。

真実のマグダラのマリア ※転写文と私の感想

2015-06-19 11:10:44 | 日記
先の「悔悛する娼婦」としてのマグダラのマリアのイメージも、長い歴史の中で私たちの心に浸透し、払拭出来ぬほど強固なイメージとなっていったが、聖書そのものを丹念に読めばもともと「マグダラのマリア=娼婦」といった図式などどこにもない。
無論マグダラのマリアを娼婦に仕立てたのは正統派の神学者たちであり、彼女を教会の中枢である使徒の座から抹殺するために貼ったレッテルである。
「マグダラのマリアによる福音書」や「ユダの福音書」のように、現在では「異端」といったひと言で区別される教義資料にしても、聖書がまとめ上げられるまでの初期キリスト教サークルには、イエスについて、イエスの磔について、そして復活についての意味・意義に関しては様々な意見があったと考えられている。
そもそも「マグダラのマリアによる福音書」が書かれた時代は、教会組織がどの方向に向かうのかも分からない時代だったのだ。
本書の筆者カレン・L・キングは現在ハーバード大学神学部教授であり、古代キリスト教史、コプト語を担当し「マグダラのマリアによる福音書」研究の世界的第一人者だそうだ。彼女により、なぜマグダラのマリアは娼婦に仕立て上げられたのか?といった興味あるテーマが克明に暴かれると同時に、正典の「福音書」が伝えるイエスと驚くほど違う、もう1人のイエスが緻密に解き明かされていく。
興味は尽きず…私のイエス研究は続く…(笑)。
★転写終わり★
聖書そのものを丹念に読めばもともと「マグダラのマリア=娼婦」といった図式などどこにもない。
という部分に関心を持ちました。
私は、モナリザに関連付けて、この方の文章を元に下記のような文章を書かせて頂きました。
ダ・ヴィンチが書いた手記手槁そのものを丹念に読めばもともと「ベールを被ったフィレンツェの宮廷婦人←(※ダ・ヴィンチの没後50年間は、このタイトルが定着していた)=ジョコンダ夫人」という図式などどこにもない。

要するに、人類は、知らず知らずのうちに改ざんされた歴史に翻弄され、洗脳されてしまっているのですね(>_<)

しかし、目覚める人も増えてきていますよね!(b^ー°)これからも、真実の歴史を探求していきましょう!



真実のマグダラのマリア ※全て転写文

2015-06-19 11:06:17 | 日記
例えば、聖書に描かれている時代は女性の地位は大変低く、その発言は信頼・容認され得ないものだったが、マグダラのマリアは復活したイエスに最初に出会った証人としての栄誉を与えられている。これも教会側からすれば、ペトロとかヨハネであった方が権威も増し、都合がよいはずだがそうではないところに信憑性を感じるのだ。

さらに、あのユダはイエスを裏切った代名詞とされているが、イエスを三度否認したペトロも含め、結局は12使徒全員が師イエスを裏切っているのである。
イエスが磔にされるとき、見守っていたのはマグダラのマリアをはじめ、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメといった女性たちだった…。
私の最大の疑問は、そうした出来の悪い弟子たち(12使徒)が師の死後、自身の命をも惜しまず布教の旅に出るほど強い人間になったのは何故なのかということなのだ…。
故遠藤周作は、自身の小説でその直接的な原因こそ「復活」が実際にあったのだと臭わせている。そんな劇的な何かがなければ、師が磔にされるまで逃げ隠れしていたような普通の弱い人間たちが…それも複数、迫害され惨殺されるリスクを承知で布教活動を続けるようになるとは考えられないのではないだろうか…。
さて話を「マグダラのマリアによる福音書」にもどすが、19世紀後半にコプト語訳の断片写本が発見され、20世紀になってさらに2つのギリシャ語の断片も明るみに出された。こうして入手解読された写本はわずか8ページ足らずの大変短い物語だが、これまで知られていなかった別種類のキリスト教の存在、イエスの姿を垣間見ることができる…。
そこに登場するマグダラのマリアは娼婦などではなく、師の一番の理解者であり最高の女性使徒として描かれている。その姿にペトロは嫉妬さえして彼女の話しにクレームを付けマグダラのマリアを泣かすシーンもある。
イエスは生前、制度としての教会組織はもとより自身で著作は残さなかった。したがって良くも悪くも現在の教会組織やそのより所ともなる正典(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書)は後年残された多くの資料から選別され、”ニカイア信条” が代表するようにある意味教会側に都合の良い解釈の元にまとめ上げられたものである。

真実のマグダラのマリア

2015-06-19 10:53:42 | 日記

以前書いたブログ記事の記述間違いを見つけたので、編集しようと思ったら文章が途中で途切れてしまいました。

よく見ると注意事項がちゃんと書かれていました。

↓↓↓

ご利用の機種の仕様により、本文が途中で切れている場合がございます。この状態で[投稿する]ボタンをクリックすると、本文の一部が失われます(このまま[戻る]をクリックした場合は保持されます)。


途中で切れる場合がございます!?

はい。切れました(>_<)

、、、ということで、書き直します(;_;)


※ タイトルと、文章の一部を変更しました。


河出書房新社刊「マグダラのマリアによる福音書」について


私が気になっている本を読まれ、感想を書かれている方のブログを見つけました。

下記全て転写文です。


★転写★
※河出書房新社刊「マグダラのマリアによる福音書」表紙
ところで信徒でない私ではあるが、史実のイエスならびその歴史に興味を持ち続けてきた1人としてどうしても納得できないことがある。それは処女受胎でもなければイエスが行ったという奇跡でもなく、処刑3日後の復活でもない…。
聖書をざっと読んでみればわかるが、そこに登場する12人の使徒は決して優秀な弟子たちではなかった。イエスの言葉を理解できず、うろたえ、疑い、彼の真意を誰1人くみ取ることができなかったといっていいだろう。
ちなみに聖書そのものを歴史書として見ることは出来ようもないが、一方多くの真実が含まれていると感じるのはまさにこの点にある。なぜなら歴史の記録はすべて勝ち組の残したものであり、負け組の存在や記録は抹殺されるのが普通だ。もし自身で自分の伝記を書くとしたら、触れられたくない過去は装飾するなり無かったこととして記述するのが人間であろう(笑)。
しかし聖書には都合の悪いことも多々そのまま記録されているという点に大いなる興味を感じる…。