ダ・ヴィンチはレプタリアン、という言葉をキーワードにしてネット検索をしたら、非常に沢山の情報が出てきます。
ダ・ヴィンチの真実の姿は無視され、情報が独り歩きしているようなイメージを持ちます。
数年前ですが、グリーのコミュニティ内で、ダ・ヴィンチの格言(ダ・ヴィンチが手記、手稿等で語っている内容に基づく)を、参加者の皆さんと共に集めました。
そこでは、子供のように無垢な感性の、愛に溢れるダ・ヴィンチの姿が、見えてきました。
さて、ダ・ヴィンチは、本当にレプタリアンなのでしょうか?
下記の文章を読んで頂けたら、その答えが見えてくると、私は信じます。
グリー 「モナ・リザ」の謎解きのコミュニティ
トピックス『ダ・ヴィンチの格言』
※以下、コミュより転写
わからないことがあると私は答えを求めて田園をさまよった。なぜ貝殻が山の頂上で見つかるのか。しかも、海にあるはずのサンゴや海藻などの跡をつけて。雷はなぜ起こった後までなり続けるのか。雷光は起こった瞬間から目に見えるのに、雷鳴はなぜもっとあとになって聞こえるのか。水に石を投げると、水面に輪ができるのはなぜか。鳥はどうして空中にとどまっていられるのか。こういう数々の疑問や不思議な現象が私の心をとらえていた。
贅沢な装飾品よりも、美しい顔のほうが見る者を惹きつける。大切なのは、人の持つ心の姿を描き出すことなのだ。
絵かきというものは、神さまのようなものだ。驚くほど気味の悪いものでも、おかしくて笑ってしまうようなものでも、見たいものは何でもつくることができる。
暑い時に涼しい場所が、寒い時に暖かい場所が見たければ、自由につくりだせる。
同じように、山の頂上から海や野原を見下ろすことだってできるのだ。
そんな小さな空間に、全宇宙の姿を抱えることができるなど誰が信じるだろう。
水の流れに手を入れてごらん。手に触れる水は、流れていく最後の水でもあるし、流れてくる最初の水でもあるのだ。
現在という、今の時間も、同じなのだよ。
すべては、すべてから来る。すべては、すべてから創られ、すべては、すべてに戻っていく。すべては、すべてに包み込まれる。
真実において、大いなる愛は愛する対象についての大いなる知識を生む。
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