KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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オリンピックさえ開かれない世界を生きる

2021年02月18日 | マラソン時評
あれはいつの事だったか。記憶は曖昧だ。でも、確かに記憶に残っている。

五輪の閉会式の中継にて、アナウンサーの一言、

「4年後の世界はどんな世界でありましょうか?せめて、オリンピックが開かれる世界でありますように。」

華やかな五輪大会の締めくくりにはふさわしくない、ペシミスティックな言葉。しかし、それがうなずけるような空気の中で終わった大会だった。おそらく1980年のレークブラシッド冬季大会だったのかもしれない。

1979年12月24日、アフガニスタンの共産主義政府からの要請を受けて反政府勢力一掃のためにソビエト連邦はアフガニスタンに軍事介入。その際にソ連はアフガンの首相を暗殺し、親ソ派の新政権樹立を支援。反政府勢力をアメリカ等が支援し10年に渡る泥沼の紛争が始まる。後に、翌年のモスクワ五輪の西側諸国のボイコットを生んだソ連のアフガン侵攻である。

その直後にアメリカのレークブラシッドで開催された冬季五輪。当時のカーター大統領はこの時既に、モスクワ五輪のボイコットを示唆する発言をしていた。当時世界最強で「レッド・マシン」と呼ばれたアイスホッケーのソ連代表チームを破った、学生のみのアメリカ代表チームをホワイトハウスに招待するというパフォーマンスも見せていた。

「オリンピックさえ開けない世界」と言えば。それは「第三次世界大戦」が勃発してしまった世界だろう。アメリカとソ連、2つの超大国による全面戦争。その結果としての世界の滅亡。
小松左京の「日本沈没」に五島勉の「ノストラダムスの大予言」がベストセラーになり、どちらの映画化作品も、今は無くなった松山市大街道のタイガー劇場で見に行った僕にとって、「世界の滅亡」は決して絵空事とは思えなかった。平成以降に生まれた方々に、あの時代の空気をご理解いただけるだろうか?いつ、核ミサイルが自分の住む街に向けて発射されるかもしれないという恐怖。日常生活のほんの片隅にそれは息を潜めていて、時々、目を覚まして僕を震えさせていた。本当、数年前に騒がれた、某独裁国の飛翔体の「脅威」などとは比べ物にならなかった。

1980年代に入ると、映画「マッドマックス2」や漫画「北斗の拳」のような、世界大戦後の無法地帯を生き抜く、暴力的なヒーローが主人公の作品が人気を博したが、僕は今一つ、のめり込めなかった。そして、1995年、世界の終末(ハルマゲドン)を信じる人々が作ったカルト教団が未曾有のテロ事件を起こしたが、1999年、世界は終末を迎えることもなく暮れていった。

21世紀、世界は決して平穏とは言えなかった。テロとの戦い。中東での紛争や内戦。中国での大規模な反日デモに、チベットでの少数民族の弾圧。そんな状況下でオリンピックは1992年以降は大国の政治的な大掛かりのボイコットも無く、表向きは平穏に開催されてきた。

2020年2月、中国で発祥し、瞬く間に全世界に広がった新型コロナウイルスが日本に上陸。「緊急事態宣言」が発令される中、上陸からわずか1ヶ月で4か月に開幕する予定の東京五輪の延期が決定した。繰り返すけど、国内観戦者第1号が死亡した翌月に、五輪の1年延期は決定したのだ。

思えば、ゴタゴタ続きの7年だった。2020年の招致自体、「今、それをやるべき時か?」という声は起こった。東日本大震災の翌年、というタイミングだった。しかし、「復興五輪」という名目を立ち上げ、2013年に開催権を獲得に成功したものの、シンボルマークの盗作騒動に新国立競技場建設をめぐるゴタゴタ、トライアスロン会場のお台場の汚水、そしてとどめは異例のマラソンコースの札幌への変更。そもそも、立秋以前の酷暑と豪雨と台風の東京で五輪が開催出来るのか?この時期に開催することが開催の条件だったというのであれば下りるべきではなかったのか?今更言ってもどうにもならない事だけど。1964年のような10月開催は無理でも、せめて東京や大阪の世界陸上を開催した8月下旬から9月上旬は出来なかったのか?

サマータイムを導入しようとしてまで開催しようとした東京五輪は1年後に延長された。

僕たちの生活は一変した。マスクは必需品となり、プロ野球やJリーグは開幕延長、開幕後の無観客で開催、大規模なイベントは次々と中止になったが、特に芸能やスポーツ界は大打撃だった。NHKの大河ドラマや朝ドラも収録が中止され、テレビのニュースは毎日、五輪のメダル獲得数を伝えるように、感染者の数に一喜一憂していた。「不要不急」のものとして、スポーツや文化・芸能は大きな打撃を受けた。それはあたかも「アリとキリギリス」のキリギリス狩りのように見えた。

僕自身はどうだったか。地元の駅伝大会やらランニング大会は小規模なものも含めてことごとく中止。ランニング仲間たちが毎週集まる練習会も中止。夏祭りや秋祭り等の地域のイベントも中止。しかし、仕事は続いていた。郵便局という公共の仕事は休みにはならない。毎日通常営業だった。ゴールデンウイークも出勤日があったが、JR松山駅のホームが無人だった光景は鮮烈に印象に残っている。当地は観光によって飯を食っている街であるにも関わらず。平日の市内の中心部もまるで休日のようだった。

文字通り、「働いて食って寝るだけ。」の生活が続いた。仕事を無くした人に比べれば恵まれた身分かもしれない。「37.5℃以上の発熱があった際には出勤停止」という事が決まっていたが、この1年で3回、38℃以上の高熱に見舞われた。1度は、夏、ジョギングをした後に高熱が出た。おそらく、熱中症になっていたのかもしれない。2度は痛風の発作。10年以上前に損傷した半月板の古傷を尿酸の結晶が直撃して、高熱も発症した。ウイルス性関節炎の疑いもあったが、それは大丈夫だった。しかし、これに懲りて、節酒と高タンパク質の食事と揚げ物を控えて、本気で痛風予防に取り組み始めた。

59歳、1人暮らし、低収入だがなんとか生きている。ジョギングも週2~3回はしている。友人と集まって遊ぶ機会は減ったが、1人きりを楽しむ事には昔から慣れていた。この数年間、ストレスから休日は引き籠り気味だった。そんな時は、本当に何をする気にもならない。プレイヤーにCDをセットして音楽を聴くという動作でさえ、億劫になる。ましてやパソコンに向いてブログを更新なんて面倒な事は出来なくなってくる(拙ブログの更新が滞っていた理由の1つ)。むしろこのコロナ禍の中、以前に比べてストレスが減っている。今年に入ってブログの更新回数が増えてきた。

しかし、今、僕が生きているこの世界、これが子供の頃はディストピアではないかと想像していた「オリンピックさえ開かれない世界」である。これは間違いない。そこは、砂漠に焼けただれた国会議事堂や自由の女神が埋まっている世界でもなく、異形の人間がミミズを取り合ってケンカする世界でも、モヒカン頭の凶暴な暴走族を胸に7つの傷も持つ男が指先一つでダウンさせる世界でもなく、これまでの日常生活が少し不自由になり、娯楽が減らされた世界であった。

東京五輪に対して、僕は消極的賛成というか、日和見的な態度だった。少なくともツイッターではそういう見解で発言していた。もはや、賛成か反対ではなく、従来通りの開催は不可能だろう。参加国50カ国以下の無観客でも開催するのか、いくつかの競技を中止して小規模の開催となるのか。いっそ、中止にしてしまうのか。中止が決まっても、間違えても喜びはしない。そこまで僕は無神経ではない。今は、「自分にとっては不要にものはこの世から無くしてしまえ。」と思う人間が多すぎる。「五輪」をその対象としている人が少なからずいる。子供の頃、体育が大の苦手だったとか、体育会系の生徒から虐めにあったとか、そうした理由でスポーツそのものがこの世から無くなる事を願う人もいるようだ。「五輪こそ差別の根源」というスローガンも目にした。(僕も小学生の頃、体育の成績は2でいじめられっ子であったが。)

他の人がどう思うかは自由だ。しかし、僕は「オリンピックさえ開けない世界」というのは、「幸福な世界」だとは思わない。今、僕が一番危惧しているのは、昨年、芸能人の自殺が相次いだように、今春以降はアスリートの自殺が続出しなければいいがという事だ。


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