こんばんは、神急です。
今日は弥彦線用115系Y編成にとって最後の本線走行の日となってしまいました。
思えばY編成の車種となった115系の6両の中間車は昭和40年から41年にかけて東北線の宇都宮運転所に配置された車輌で、そののち6両とも広島へ転属し、かの地で先頭化改造を受けたのち新潟へと転属という風に、全国を渡り歩きました。(ほかにも所属していたことがある地域があるかもしれませんがここまでしかわかりませんでした…)その彼らの最後の本線走行に、最初の走行線区である東北・高崎線が含まれたというのはなんという偶然でしょうか。何十年かぶりに訪れたであろう、かつての仕事場は彼らにはどう映ったのでしょうかね?
あと余談なのですが、弥彦線のY1編成にとっては今回は2度目(もしくはもっと多い?)の上京なのかもしれません。というのもY1編成の冷房改造に関する銘板は山手電車区になっているんですよね。
↓今年の3月12日に撮影した車内
↓冷房改造の銘板
そういえば銘板といえば、幡生工場の銘板がなぜか外されていたんですよね。Y1編成は。おかげで幡生の銘板とJR東の銘板が共演という夢のような状況を見ることはかないませんでした。
↓赤丸の部分のビスはおそらく幡生工場の銘板を止めていたのではないかと考えられます。
まぁ戯言はほどほどにして写真を載せていきましょうか。
大学の授業終了後大急ぎで中央線を下ります。かなりギリギリだったのでとれるか不安だったのですが国立(?)で当該の列車を追い抜かしほっと一安心。(さすがに国立では撮影できませんでした)
↓豊田では189が昼寝してました。
大急ぎでホームの端に移動するとすぐに青い機関車が現れました。
↓来るの早いよ~
そして構図の決定もままならまいまま、入線。
↓本当に来てしまった弥彦の115系
ちょっと消化不良気味ではありますが、場所を移動して撮影を続行します。なんせこれが本当の最後の機会。おそらくもうこの車両を見ることはできないでしょうから必死でシャッターを切りました。
↓最後尾、取り付けられた反射板がどこかさみしげです。
↓反射板はよく見るとステップにつけられているようです。手すり以外の場所についているのは新鮮なような気がします。(取り付け部の写真撮ればよかった…)
↓最後尾はY1編成
Y1編成は新潟で見送った時にもまして満身創痍という印象を受けました。なにせ雨どいに穴が開いていたり、雨どいの一部が失われてしまっているような部分までありましたからね。にしてもどうしてここまでY1だけがひどい有様になってしまったのでしょうか?
↓Y1編成(左)とY2編成の連結部
はたしてY編成同士が連結した機会というのはあったのでしょうか?ひょっとしたら最初で最後の連結なのかもしれません。
↓Y2編成はY1編成と比べると幾分きれいてした。そういえば雨どいのゴムが白ゴムで残っていたとは…今回初めて知りました。
↓Y2編成とY3編成の連結部
っとここでまさかの時間切れ。結局Y3編成を観察することはかなわず、弥彦線専用115系Y編成たちは北長野へと旅立っていったのでした。
↓八王子を出発する同編成。ゆっくりとしかし着実に最後の旅路を再び歩み始めました。
これにて今回の弥彦線の廃車回送の撮影は終了です。実はこの後、せっかく八王子まで来たのだからと京王の撮影を行いました。その話は後日公開しようかと思います。
おまけ
↓横浜線のこの表示機ももうじき見納めなんですかね?
というかなんでJRマークがついているんでしょうか?京浜東北にあった103系タイプのイラスト入り表示器にはJRマークなんてついてなかった気がしますが。
↓今回盛大に邪魔をしてくれたタキ1000
↓ホキはいつまで現役なんでしょうかね
↓よくわからないけどなぜかEF65がいました
それではまた
にほんブログ村
今日は弥彦線用115系Y編成にとって最後の本線走行の日となってしまいました。
思えばY編成の車種となった115系の6両の中間車は昭和40年から41年にかけて東北線の宇都宮運転所に配置された車輌で、そののち6両とも広島へ転属し、かの地で先頭化改造を受けたのち新潟へと転属という風に、全国を渡り歩きました。(ほかにも所属していたことがある地域があるかもしれませんがここまでしかわかりませんでした…)その彼らの最後の本線走行に、最初の走行線区である東北・高崎線が含まれたというのはなんという偶然でしょうか。何十年かぶりに訪れたであろう、かつての仕事場は彼らにはどう映ったのでしょうかね?
あと余談なのですが、弥彦線のY1編成にとっては今回は2度目(もしくはもっと多い?)の上京なのかもしれません。というのもY1編成の冷房改造に関する銘板は山手電車区になっているんですよね。
↓今年の3月12日に撮影した車内
↓冷房改造の銘板
そういえば銘板といえば、幡生工場の銘板がなぜか外されていたんですよね。Y1編成は。おかげで幡生の銘板とJR東の銘板が共演という夢のような状況を見ることはかないませんでした。
↓赤丸の部分のビスはおそらく幡生工場の銘板を止めていたのではないかと考えられます。
まぁ戯言はほどほどにして写真を載せていきましょうか。
大学の授業終了後大急ぎで中央線を下ります。かなりギリギリだったのでとれるか不安だったのですが国立(?)で当該の列車を追い抜かしほっと一安心。(さすがに国立では撮影できませんでした)
↓豊田では189が昼寝してました。
大急ぎでホームの端に移動するとすぐに青い機関車が現れました。
↓来るの早いよ~
そして構図の決定もままならまいまま、入線。
↓本当に来てしまった弥彦の115系
ちょっと消化不良気味ではありますが、場所を移動して撮影を続行します。なんせこれが本当の最後の機会。おそらくもうこの車両を見ることはできないでしょうから必死でシャッターを切りました。
↓最後尾、取り付けられた反射板がどこかさみしげです。
↓反射板はよく見るとステップにつけられているようです。手すり以外の場所についているのは新鮮なような気がします。(取り付け部の写真撮ればよかった…)
↓最後尾はY1編成
Y1編成は新潟で見送った時にもまして満身創痍という印象を受けました。なにせ雨どいに穴が開いていたり、雨どいの一部が失われてしまっているような部分までありましたからね。にしてもどうしてここまでY1だけがひどい有様になってしまったのでしょうか?
↓Y1編成(左)とY2編成の連結部
はたしてY編成同士が連結した機会というのはあったのでしょうか?ひょっとしたら最初で最後の連結なのかもしれません。
↓Y2編成はY1編成と比べると幾分きれいてした。そういえば雨どいのゴムが白ゴムで残っていたとは…今回初めて知りました。
↓Y2編成とY3編成の連結部
っとここでまさかの時間切れ。結局Y3編成を観察することはかなわず、弥彦線専用115系Y編成たちは北長野へと旅立っていったのでした。
↓八王子を出発する同編成。ゆっくりとしかし着実に最後の旅路を再び歩み始めました。
これにて今回の弥彦線の廃車回送の撮影は終了です。実はこの後、せっかく八王子まで来たのだからと京王の撮影を行いました。その話は後日公開しようかと思います。
おまけ
↓横浜線のこの表示機ももうじき見納めなんですかね?
というかなんでJRマークがついているんでしょうか?京浜東北にあった103系タイプのイラスト入り表示器にはJRマークなんてついてなかった気がしますが。
↓今回盛大に邪魔をしてくれたタキ1000
↓ホキはいつまで現役なんでしょうかね
↓よくわからないけどなぜかEF65がいました
それではまた
にほんブログ村
越後線電化開業当初、内野午前10時半頃に吉田方面へと走って行く4M0Tがありました。
165の内野折り返しと交換してる風景が蘇り、懐かしく思い出しました。
私は弥彦線の115系は今の塗装になってからしか知らないのですがそれでも感慨深いものがありました。初めての乗車はどうにもスケジュールが組めなくて弥彦~吉田間の終電で、ほぼ貸し切り状態だったというのも良い思い出です。
また電化開業の当時は2両編成を2本つなげた運用があったとは知りませんでした。貴重な情報をありがとうございました。
またのお越しをお待ちしています。
弥彦線用の115系、遂に廃車になってしまいましたね。とても残念です。
ただ、車齢50年に至るまで現役で活躍し続けたことの方が奇跡に近いのかもしれません。同年代に製造された車両は既にことごとく引退し、より新しい車両さえ廃車が進んでいます。
私は弥彦線には1回しか乗ったことはないのですが、電動車の2両編成が排雪運転をする様子は、いかにも新潟らしく、好きな光景でした。
新潟エリア全体で新車の投入が進んでいますので、次に訪ねる頃には見違えるように綺麗な列車ばかりになっていそうです。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
新潟の115系の中でも1、2を争う珍形態グループであった弥彦線専用編成の引退は非常に残念に思います。
まるで時が止まったかのような車両たちが新潟の魅力でもあったのですがさすがに限界が来てしまったようです。
またのお越しをお待ちしています。