マッシュムラムラ(仮) ――クラ鈴が斬る!――

SINCE:2002.2.24
氷室京介、あぶない刑事、マンガ etc

ブラスズキ 水戸編(二日目)

2017-11-12 14:34:52 | 旅行
二日目。まずは千波湖


水戸駅から徒歩で15,6分ってとこですかね。あ、オレは歩くの速いらしいんで、+2,3分から5,6分で考えたほうがいいかもしれません。
この千波湖、散歩やジョギングにはうってつけですね。水辺はそれだけで景色いいし、道もとことん平坦なんで。
それに、いろんな水鳥もいて、そいつらが人に慣れているせいか、陸に上がって呑気に寝てるし(笑)、犬の散歩コースにもなっているなど、思わず頬が緩んでしまう光景も。
で、水戸駅方面から入った地点の対岸といえる場所まで達すると、



徳川光圀像が。

この黄門様、じつはほとんど江戸にいたんだよね。水戸藩にいたのは、幼少期と隠居後の話のようです。
それはそうと、この光圀像の近くには、徳川斉昭(烈公)と、幼き日の慶喜の像もあります。
で、この地点からは偕楽園につながる道も通ってます。
その道を歩き、まず最初に目に入ったのは、



大日本史完成の碑

「編纂の碑」は、初日に行った水戸城址にあったんですが・・・まあ、光圀公としては偕楽園の風景を眺めながら、好文亭内で編纂したこともあったんでしょう。
で、偕楽園の敷地内にある、







常盤神社。

「ときわ」と読みます。
この本殿の隣には、



常盤稲荷神社。

これらに隣接している、というか常盤神社の敷地内にある義烈館も見学。
義公(光圀)と烈公(斉昭)に関する資料などが展示されています。
って、光圀さんが人気あるのはわかりますが、斉昭さんも地元では人気あるんですね。この義烈館でも、前日に行った弘道館でも、明君として称えられる資料ばかりでしたね。司馬遼太郎の小説では、あまりいい書かれ方してなかったんで(まあ、司馬さんのはあくまで小説であり、史実ではありませんからね/笑)。
この常盤神社からすぐの場所に、



偕楽園東門が。

ここから偕楽園に入ります。
もちろん、いい景色でしたが、今度は梅の時期か桜の時期に来たいかなぁ。じつは20数年前に来たことあって、そんときは梅の時期だった気もするが・・・さすがに覚えてない(笑)。
この偕楽園の奥、っていっても「東門から見て奥」であって、表門からはほど近くなんですが、





好文亭が。

この中からの眺め、とくに三階部分からの眺めは絶景でしたね。


この好文亭を出て、表門までの道に、



いい感じの竹林が。

いや、とくにエピソードもなく、また、偕楽園内のスポットというわけでもないんでしょうが、なんかよかったなぁ。
その後、

表門から偕楽園を出て、



茨城県立歴史館に。徒歩5分くらいです。



ここでは特別展として、「志士のかたち」というイベントをやっててね。


幕末の尊皇、勤皇思想は、元々は水戸学からの影響が強いですからね。桜田門外関連、長州や薩摩といった討幕側に与えた影響、あるいは新撰組のことなんかも。
新撰組は元々、芹沢鴨、新見錦、そして近藤勇の「三巨頭体制」で、芹沢と新見は水戸藩出身ですからね。
まあ、そんなこともあって、ただし、芹沢、新見が殺されたあとのメンバーかと思われますが、



新撰組の英名録も展示されてました。

これを見ると、斎藤一の出身地は江戸になってますね。資料や作品によって、江戸だったり明石だったりするんですが・・・「父親の出身地が明石」だったのかもしれません。

そんなわけで、水戸をブラリと観光したレポでした。
この水戸、都心やその近郊からも近く、なにより観光スポットが駅から徒歩圏内であることが多いんで、なかなかおすすめですよ。
次は、千波湖を一周してみようかな。今回は半周しかしてないんで(笑)。

そうそう、やっぱり水戸周辺こそ、「他県の人間から見た茨城県」って感じがしたかな?  やっぱ、常陸国だった地域のほうが「茨城県」って感じなのかもしれません。
県南の取手、守谷、つくば、あるいはその周辺は、やっぱ下総国、「千葉北西部の延長」って感じかもしれません。「基本は千葉北西部と茨城県(常陸国部分)がブレンドされた感じ、プラスちょっと栃木南東部の雰囲気も」って感じがするかな、個人的には。つくばは常陸国の一部だったのかもしれませんが、位置的に。
これね、ウチの地元なんかも似たようなことがいえるんですよ。
ウチは横浜市なんですが、神奈川県の内、川崎市全域と横浜の北半分くらいは旧武蔵国なんですよ。神奈川の旧国名といえば、相模国というイメージが強いでしょうが。
ですんで、横浜北部は旧相模地域とは、気風がちょっと違うと思います。少なくとも、人心に関しては、多分、旧江戸の延長みたいな感じ。ただし、山の手ではなく、下町ね(笑)。距離的には山の手のほうが近いけど。
先祖代々、この地域で暮らしている人は、「ソフトなべらんめぇ気質(かたぎ)」です(笑)。まあ、オレ自身はどうなのかわからんが。
風土は「多摩地区+ちょっとだけ旧相模地域」って感じかな。
ですんで、「他県の人がイメージする神奈川県」とは、かなり違うと思います。「他県の人がイメージする神奈川県」とは、多分、旧相模地域でしょう。とくに、東は鎌倉や逗子辺りから、西は小田原、箱根の辺り。
あ、横浜中心部――昔からの横浜である、関内、桜木町、本牧辺りは、またちょっと違うよ。あそこら辺は“横浜県”(笑)。「他県の人がイメージする横浜」は、その辺のことを指すのでしょう。
まあ、神奈川の場合は、さらに横須賀、三浦や、あるいは足柄、山北なんかも違った地域性になるんですが・・・神奈川県の話は、また機会があったら。
話を戻すと、あるいは水戸だけでなく、大洗や鹿嶋辺りも、「これぞ茨城」って感じなのかもね。時間がある方は、それらの地域とセットで行ってみるのもいいかもね。
あ、茨城県南も、見どころはありますよ(笑)。東京からはより近いし。
そんなわけで、水戸の観光日記でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラスズキ 水戸編(初日)

2017-11-05 13:29:42 | 旅行
1月辺りに、本家(?)ブラタモリで、水戸をやっててね。それ見て、「行こう」と思ってたんですよ。
水戸に来たのは10年ぶりなんですが、駅周辺、とくに南口はすっかり開けちゃいましたね。「東京の郊外にも、こういうトコあるぞ」くらいにね。

で、初日。
水戸駅前(北口)では、

水戸黄門(徳川光圀)御一行が迎えてくれました(笑)。



そんな黄門様御一行に見送られ、まずは弘道館跡へ。水戸駅から徒歩圏内(5,6分かな?)です。





水戸藩の藩校ですね。ここでの教育が、(水戸藩士のみならず)多くの幕末志士に影響を与えたようです。
で、ここからは、二日目に行った常盤(ときわ)神社内の義列公資料館なんかにあったことですが・・・
まあ、「水戸学」とは、簡単にいっちゃえば、「徹底した尊皇」なんですよ。二代藩主・徳川光圀が、上下関係がやかましい儒教(朱子学)の信奉者らしく、





「将軍家は徳川一門の宗家にすぎない。我らの主君は天皇である」


「将来、朝廷と将軍家が敵対したとしても、水戸徳川家は朝廷に弓を引いてはならない」




――簡単にいっちゃえば、こういった思想も教えてたらしいんですよ。
この思想があったから、勤皇派が生まれ、やがて討幕につながるんですが・・・そりゃ、ご先祖様から代々、子供のころからこういった思想を植え付けられたら、水戸家出身の徳川慶喜も及び腰になるよな、戊辰戦争において。
たとえ将軍の身であっても、たとえ佐幕勢力のほうが圧倒的な動員数を持っていても、朝敵となることを恐れるよなぁ。もちろん、「早く内戦を終わらせないと、諸外国につけこまれる」といった判断もあったんでしょうが。
まあ、それはいいとして、弘道館のことに話を戻します。





こういう武家屋敷っぽい雰囲気、いいよなぁ。

まあ、高級な武家の屋敷でしょうけどね。身分の低い武士の家は、こんなに立派ではないでしょうが。

このあと一度、弘道館の敷地を出て、水戸城址に。




途中、義公(徳川光圀の諡)生誕の地(『源義公』とあるのは、徳川氏、松平氏の本姓は源氏だからでしょうか)とされる場所や、



大日本史の編纂が行われたとされる地を経て、



水戸城址。

まあ、現在は学校になっててね、義公生誕碑は中学校(だったかな?)、水戸城址は高校になってます。
もっとも、戦争中までは、三の丸は櫓状で残っていたようです(写真は残ってます)。空襲で焼けたらしいですが。

で、来た道を戻って、再び弘道館の敷地内に。







弘道館鹿島神社。

鹿島神宮の分祀ですかね。ここで引いたおみくじ、オレにとってはうれしい記述でした(内容は内緒/笑)。

このあと、敷地を出て、水戸東照宮へ。








そうそう、東照宮の直前で、



猫が迎えてくれました(笑)。

神社で動物に出会うというのは、歓迎されてるってことらしいですよ。動物は神様の化身らしいです。
こんなに近くまで来てくれるとはね。って、その前に高校生がお菓子あげてたんで、「こいつ(オレ)もなんかくれるだろ」思って、近寄ってきたんでしょうが(笑)。そのせいか、なにもあげなかったオレに対しては(顎をなでてあげたけど)、ちょっと不貞腐れたような視線を(笑)。
ともかく、この神社は名前からして徳川家康を祀っているのはもちろんのこと、徳川頼房(威公。初代水戸藩主)も祀っているようです。
で、境内には、



カノン砲も。

水戸藩沖に現れたイギリス船の打ち払いに使用されたようです。

そんなこんなで、初日の散策はここで終わり、ホテルへ。
まあ、距離的にも旅程的にも、日帰り可能ではあるんですけどね。年のせいか、強行軍が厳しくなってきてるんで、のんびりとしたスケジュールにしときました(笑)。
二日目のことは、後日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする