1月辺りに、本家(?)ブラタモリで、水戸をやっててね。それ見て、「行こう」と思ってたんですよ。
水戸に来たのは10年ぶりなんですが、駅周辺、とくに南口はすっかり開けちゃいましたね。「東京の郊外にも、こういうトコあるぞ」くらいにね。
で、初日。
水戸駅前(北口)では、
そんな黄門様御一行に見送られ、まずは弘道館跡へ。水戸駅から徒歩圏内(5,6分かな?)です。
水戸藩の藩校ですね。ここでの教育が、(水戸藩士のみならず)多くの幕末志士に影響を与えたようです。
で、ここからは、二日目に行った常盤(ときわ)神社内の義列公資料館なんかにあったことですが・・・
まあ、「水戸学」とは、簡単にいっちゃえば、「徹底した尊皇」なんですよ。二代藩主・徳川光圀が、上下関係がやかましい儒教(朱子学)の信奉者らしく、
「将軍家は徳川一門の宗家にすぎない。我らの主君は天皇である」
「将来、朝廷と将軍家が敵対したとしても、水戸徳川家は朝廷に弓を引いてはならない」
――簡単にいっちゃえば、こういった思想も教えてたらしいんですよ。
この思想があったから、勤皇派が生まれ、やがて討幕につながるんですが・・・そりゃ、ご先祖様から代々、子供のころからこういった思想を植え付けられたら、水戸家出身の徳川慶喜も及び腰になるよな、戊辰戦争において。
たとえ将軍の身であっても、たとえ佐幕勢力のほうが圧倒的な動員数を持っていても、朝敵となることを恐れるよなぁ。もちろん、「早く内戦を終わらせないと、諸外国につけこまれる」といった判断もあったんでしょうが。
まあ、それはいいとして、弘道館のことに話を戻します。
こういう武家屋敷っぽい雰囲気、いいよなぁ。
まあ、高級な武家の屋敷でしょうけどね。身分の低い武士の家は、こんなに立派ではないでしょうが。
このあと一度、弘道館の敷地を出て、水戸城址に。
途中、義公(徳川光圀の諡)生誕の地(『源義公』とあるのは、徳川氏、松平氏の本姓は源氏だからでしょうか)とされる場所や、
大日本史の編纂が行われたとされる地を経て、
水戸城址。
まあ、現在は学校になっててね、義公生誕碑は中学校(だったかな?)、水戸城址は高校になってます。
もっとも、戦争中までは、三の丸は櫓状で残っていたようです(写真は残ってます)。空襲で焼けたらしいですが。
で、来た道を戻って、再び弘道館の敷地内に。
弘道館鹿島神社。
鹿島神宮の分祀ですかね。ここで引いたおみくじ、オレにとってはうれしい記述でした(内容は内緒/笑)。
このあと、敷地を出て、水戸東照宮へ。
そうそう、東照宮の直前で、
猫が迎えてくれました(笑)。
神社で動物に出会うというのは、歓迎されてるってことらしいですよ。動物は神様の化身らしいです。
こんなに近くまで来てくれるとはね。って、その前に高校生がお菓子あげてたんで、「こいつ(オレ)もなんかくれるだろ」思って、近寄ってきたんでしょうが(笑)。そのせいか、なにもあげなかったオレに対しては(顎をなでてあげたけど)、ちょっと不貞腐れたような視線を(笑)。
ともかく、この神社は名前からして徳川家康を祀っているのはもちろんのこと、徳川頼房(威公。初代水戸藩主)も祀っているようです。
で、境内には、
カノン砲も。
水戸藩沖に現れたイギリス船の打ち払いに使用されたようです。
そんなこんなで、初日の散策はここで終わり、ホテルへ。
まあ、距離的にも旅程的にも、日帰り可能ではあるんですけどね。年のせいか、強行軍が厳しくなってきてるんで、のんびりとしたスケジュールにしときました(笑)。
二日目のことは、後日。
水戸に来たのは10年ぶりなんですが、駅周辺、とくに南口はすっかり開けちゃいましたね。「東京の郊外にも、こういうトコあるぞ」くらいにね。
で、初日。
水戸駅前(北口)では、
水戸黄門(徳川光圀)御一行が迎えてくれました(笑)。
そんな黄門様御一行に見送られ、まずは弘道館跡へ。水戸駅から徒歩圏内(5,6分かな?)です。
水戸藩の藩校ですね。ここでの教育が、(水戸藩士のみならず)多くの幕末志士に影響を与えたようです。
で、ここからは、二日目に行った常盤(ときわ)神社内の義列公資料館なんかにあったことですが・・・
まあ、「水戸学」とは、簡単にいっちゃえば、「徹底した尊皇」なんですよ。二代藩主・徳川光圀が、上下関係がやかましい儒教(朱子学)の信奉者らしく、
「将軍家は徳川一門の宗家にすぎない。我らの主君は天皇である」
「将来、朝廷と将軍家が敵対したとしても、水戸徳川家は朝廷に弓を引いてはならない」
――簡単にいっちゃえば、こういった思想も教えてたらしいんですよ。
この思想があったから、勤皇派が生まれ、やがて討幕につながるんですが・・・そりゃ、ご先祖様から代々、子供のころからこういった思想を植え付けられたら、水戸家出身の徳川慶喜も及び腰になるよな、戊辰戦争において。
たとえ将軍の身であっても、たとえ佐幕勢力のほうが圧倒的な動員数を持っていても、朝敵となることを恐れるよなぁ。もちろん、「早く内戦を終わらせないと、諸外国につけこまれる」といった判断もあったんでしょうが。
まあ、それはいいとして、弘道館のことに話を戻します。
こういう武家屋敷っぽい雰囲気、いいよなぁ。
まあ、高級な武家の屋敷でしょうけどね。身分の低い武士の家は、こんなに立派ではないでしょうが。
このあと一度、弘道館の敷地を出て、水戸城址に。
途中、義公(徳川光圀の諡)生誕の地(『源義公』とあるのは、徳川氏、松平氏の本姓は源氏だからでしょうか)とされる場所や、
大日本史の編纂が行われたとされる地を経て、
水戸城址。
まあ、現在は学校になっててね、義公生誕碑は中学校(だったかな?)、水戸城址は高校になってます。
もっとも、戦争中までは、三の丸は櫓状で残っていたようです(写真は残ってます)。空襲で焼けたらしいですが。
で、来た道を戻って、再び弘道館の敷地内に。
弘道館鹿島神社。
鹿島神宮の分祀ですかね。ここで引いたおみくじ、オレにとってはうれしい記述でした(内容は内緒/笑)。
このあと、敷地を出て、水戸東照宮へ。
そうそう、東照宮の直前で、
猫が迎えてくれました(笑)。
神社で動物に出会うというのは、歓迎されてるってことらしいですよ。動物は神様の化身らしいです。
こんなに近くまで来てくれるとはね。って、その前に高校生がお菓子あげてたんで、「こいつ(オレ)もなんかくれるだろ」思って、近寄ってきたんでしょうが(笑)。そのせいか、なにもあげなかったオレに対しては(顎をなでてあげたけど)、ちょっと不貞腐れたような視線を(笑)。
ともかく、この神社は名前からして徳川家康を祀っているのはもちろんのこと、徳川頼房(威公。初代水戸藩主)も祀っているようです。
で、境内には、
カノン砲も。
水戸藩沖に現れたイギリス船の打ち払いに使用されたようです。
そんなこんなで、初日の散策はここで終わり、ホテルへ。
まあ、距離的にも旅程的にも、日帰り可能ではあるんですけどね。年のせいか、強行軍が厳しくなってきてるんで、のんびりとしたスケジュールにしときました(笑)。
二日目のことは、後日。