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覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない

2011年11月27日 13時29分42秒 | 雑記帳

⤴️ブログ冒頭の画像:記事内容と関係なさそうな「美人さん系」が少なくないことの理由はなんだろう?

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c566c210ad11db94fc1d87a5fddcf58e


本稿は、下にURLを記した旧稿の補論です。というか、旧稿につけたレスの加筆・改訂稿。而して、保守系とされるブログには、「男系の女帝」を包摂する「男系の万世一系論」と整合的な『記紀』の叙述や欧州等々の<女帝>に関する歴史を紐解きつつ、<女帝>批判、要は、女系天皇制否定の主張も少なくないようです。



・宮内庁、「女性宮家」創設検討を首相に要請・・・と、これは当然の要請、鴨
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/533cb5afe5c58ba91b433d5604ee07a6

 

けれども、それらの女系天皇制批判が、もし、暗黙裏にせよ「事実」から「価値」を演繹できるという前提に依拠しているのなら、それらの理路は破綻していると言わざるを得ません。

畢竟、新カント派の方法二元論や、(「反証可能性論」および「定議論」等々、「正しい言説が備えておくべき条件」に関して、現在では)分析哲学に組み込まれている思考枠組みを持ち出すまでもなく(「歴史学的-」と「社会学的-」な考究によって、過去に本邦に妥当していた皇位継承ルール、あるいは、皇位継承ルールの基盤にあったであろう国民の法的確信の内容を復元することは可能としても )、「事実」から「価値/規範」を演繹・抽出することはできず、よって、そのような思索からなされる限り、どのような皇位継承ルールが今後の日本社会に妥当すべきか、要は、「将来のあるべき皇位継承ルールの確定」は不可能なのですから。

ならば、そのようなタイプの議論は、単に論者が考える「将来に亘ってあらまほしきルール」に関する<信仰告白>や<自己が真理と信じる事柄の吐露>にすぎないの、鴨。蓋し、それらは、結局、

「私はこう思う/そう思いたい」という自省タイプの主張に求められる論拠や論理と、「私はこれこれの根拠に基づいてこう思う。君もこの根拠を否定できない限り、そう考えられよ」という他者を説得するタイプの主張に求められる論拠や論理が位相を異にしていることを看過しているもの、鴨。   


敷衍すれば、「事実」から「価値」を演繹・抽出するタイプの女系天皇制批判は(実は、そのタイプに属する限り肯定論もそれとパラレルなのですが、為念。)、論者の誠実と勤勉にかかわらず、「巨大な無駄」「膨大な時間資源の浪費」「エコじゃない! 節電に協力しようよ!」でしかない。皮肉ではなくそう断ずるしかないのです。

而して、「女性宮家」と「女系天皇制」の是非を巡る議論を、より生産的かつ保守主義の醍醐に沿った、なにより、今上天皇と皇后陛下の上意に適ったディスクールにすべく、そこでこのイシューが展開される<舞台>とも言うべき、社会科学方法論的のパラダイムを記すこと。これが本稿をアップロードする所以です。尚、旧稿にもリンクを施しましたが、「女系天皇制」という言葉を巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・女系天皇は憲法違反か
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e09e106241e90ceb12505b8e1ae1d06b





ある男系の皇位継承ルールの維持を支持する(以下、「男系論」と記します。)論者は、
概略こう述べておられる、

男系は日本の伝統だ。本邦に限らず洋の東西を問わず、「紀元は2600年♪」とまでは言わないが、間違いなく1600年近く繰り返されてきた事実を「伝統」と言わずして何を「伝統」と言うのか、と。


確かに、(ある天皇が本当にその男系尊属の子であったかどうかは、歴代すべての天皇のDNA鑑定など到底不可能とすれば、本当の所は誰にも分からないにせよ、また、『記紀』の叙述を信用しないとしても、)第29代の欽明天皇以降、第125代の今上天皇に至るまでの約1600年間に亘って、「【男系で皇統がつながれてきた/男系で皇統はつながれていくべきだ」】と社会的には了解されてきた事実」は動かないでしょう。

ならば、例えば、

(1)財産権にせよ、あるいは、家長や氏長者の権能たる家督の継承者の選定権限にせよ、それどころか、家督相続権自体においてさえ(それが普通だったまでは言わないけれど、中世の「女地頭」、そして、朱子学全盛時代の江戸期でさえ「女名主」が珍しくはなかったことも含め)日本では、古来、家内・氏族内のみならず、女性の社会地位が高かったという社会史的知見

(2)天武朝(673~)の頃まで、少なくとも、継体朝成立(507~)以前は、「天皇≒大王」を出せる複数の王族があり、加之、(その出自の女性を妻妾に迎えた者が、より有力な「天皇≒大王」候補になれるというタイプの)複数の「皇后≒王妃」を出せる氏族があったのではないか。すなわち、その王族&姻戚氏族の貴種コミュニティー内部では、「天皇≒大王」の皇統に関しても、謂わば「双系制」の皇位継承ルールが成立していたという文化人類学的な有力な仮説   


これらを踏まえた、要は、「男系の万世一系」の原理などは、日本の本来の国柄とは異質な支那源流のイデオロギーに汚染された紛いものにすぎないという主張は、それ自体は傾聴に値する説得力を持つにしても、しかし、約1600年間に亘って、「【男系で皇統がつがれてきた/男系で皇統はつがれていくべきだ】と社会的には了解されてきた事実」を否定するものではありません。両者は矛盾するものではないのです。

すなわち、かくの如き女系天皇制肯定論と男系論は、共に「事実」のみから「価値」を演繹する誤謬の上に各々の「あらまほしき皇位継承ルール」の華々を咲き競わせているにすぎないのでしょう。

再々になりますが、畢竟、「事実」から「価値/規範」が直接演繹されることはない。ならば、1600年が16万年であれ、ある事実の継続と「これからも男系で行くべきだ」という当為命題は論理的に無関係。畢竟、国民の規範意識に媒介されない限り「事実」が「規範」の世界に到達することはない。なぜならば、国民の規範意識に基礎づけられない限り、どのようなルールも個々の国民に対して法的拘束力を帯びることはできないだろうからです。要は、「事実」とは規範意識形成のための<資料>にすぎないのです。

蓋し、ある皇位継承ルールが法的拘束力-法の妥当性と法の実効性-を欠く場合、そのルールは論者の個人的な願望にすぎない。そして、この経緯は、上記のタイプの女系天皇制肯定論についてもパラレル。逆に言えば、それが国民の規範意識に基礎づけられるのならば、論理的には女系天皇制の導入にはなんの問題もないのです。





而して、そうなると、男系論の一部の論者からは、

б(≧◇≦)ノ ・・・伝統を踏まえない「皇統」など<皇統>の抜け殻にすぎなーい!
б(≧◇≦)ノ ・・・ならば、君達は「保守を名乗る極左分子」だぁー!  

とかなんとかお叱りを受けるの、鴨。

実際、「天皇は女性に限る!」という謂わば「真正女系天皇制」(いやー、その人達は自説に自信がないのでしょうかね、例えば、「真正保守主義」だの「真正護憲論」等々、「真正」の2文字が好きな人が世の中には少なくない。つまり、「真正女系天皇制」というこの呼称は些か彼等の言葉遣いを嘲笑したものですねん)、そんなタイプの女系天皇制こそ日本の国柄には寧ろ相応しいと私は考えないわけでもないですから、そんな自説などは、彼等から見れば乱臣賊子的の暴論に映るの、鴨。

いずれにせよ、上の如き男系論からの指弾に対しては、
正直、私は、

まー、レッテル貼りはご自由にどうぞ。
でも、籠城中の仲間内でする<城内の宴>はご自分達のブログでしてね。
老婆心ながら、その際、「左翼」と「保守主義」の定義くらいはもう少しきちんとされれば?   

と、思うだけ。鴨。


而して、「保守主義」。その意味を私はおおよそ次のように理解しています。すなわち、(社会思想の学説史博物館の陳列物にすぎない「バーク保守主義」などではない、)現代における「保守主義」とは、英米流の分析哲学と功利主義の哲学、並びに、新カント派の認識論、および、現象学と現代解釈学と親和性の高い「社会と社会内存在としての人間の双方のあるべきあり方」に関する立場のことだ、と。尚、その理解の詳細に関しては下の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

①左右の教条主義に対する不信と嫌悪
②慣習と伝統、歴史と文化の尊重と、それらの構築主義的で恒常的な再構築の希求
③自己責任の原則の称揚と同胞意識の勧奨 
④差別排外主義の忌避
(要は、①~③に共感・承認される外国籍市民とその歴史と文化、伝統・慣習の尊敬と尊重)



・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65230144.html

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html






本稿の「本線」に復帰します。一部の男系論の論者から出されるかもしれない、「伝統を踏まえない「女系天皇制」など<天皇制>の抜け殻にすぎない」という主張は、しかし、(同じく「皇統」や「天皇制」という言葉を使いながら、その語義が異なることを巡る彼等の主張は)間違いではない。確かに、女系天皇制を組み込んだ<皇統>などは、(その論者が「男系」しか認めない以上、彼等の定義からは間違いなく)「皇統」ではないはずですから。

要は、白黒はっきり言えば、(例えば、愛子女帝が男系男子とご成婚あそばしその皇子に皇位を引き継がれない限り/秋篠宮悠仁親王殿下と、例えば、キムヨナ親王妃殿下の間の皇子が皇位を引き継がれない限り)、彼等の考える<皇統>はそこで途絶えるということ。    

でもね、「皇統」という言葉の「独占的な定義権」の如きものを彼等が持っているわけではない。まして、何が社会的に妥当する皇位継承ルールであるかを排他的・独占的に認定する権限や能力を彼等が保持しているということもない。すなわち、彼等が、女系天皇制が組み込まれたそんな「皇統」概念を認めないのは彼等の自由。しかし、他方、国民各位が女系天皇制に沿って引き継がれる(その配偶者の出自とは無関係に)<女帝>とその卑属によって代々継承される皇位を「皇統」と呼び、そのような実態を<皇統>と観念するのもまた各自の自由なのです。而して、

今上天皇・皇后の両陛下の上意を翼賛して、国民の多数が、女系天皇制がビルトインされた/包摂された<皇統>も「皇統」の指示対象であると考えるのならば、それがこれからの日本の<皇統>であり「皇統」である。それだけのこと。   


畢竟、「保守主義」が、非論理的なあらゆる教条を忌避してされる恒常的な伝統の再構築の志向性と規定するならば、「保守主義」が積極的に女系天皇制を要請しているとまでは言えないけれど、女系天皇制は「保守主義」と矛盾するものでもない。

と、そう私は考えます。





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