民進党の蓮舫代表が2004年7月の初当選以来、昨年2016年10月まで12年以上にわたって「二重国籍」の状態であった旨公表されたようです。この一部、戸籍情報を含む蓮舫氏自身の――しかし、他方、政党助成法(1994~)に基づく政党交付金をその前身に遡れば1998年以降途切れることなく受け取ってきた公党の代表でもある蓮舫代表の――個人情報の公表に対しては、「個人のプライバシーの精髄である戸籍を公表することは、差別を助長し排外主義を勢いづかせるものではないか」「それは、かっては公開が原則であった戸籍をほぼ非公開の現状にまでもってきた、人権保護の努力の蓄積を反古にしかねない行動ではなかったか」等のリベラル派からの批判も囂しい様子。
蓋し、支那や南北の朝鮮、あるいは、文化帝国主義の跋扈するフランスやドイツとは異なり、我が国は米英両国と同様に「言論の自由」が(というか、彼等の場合には「信教の自由」が)保障された国ですから、朝日新聞やTBS、民進党や日教組・自治労などのリベラル派が何を言われようがそれは自由でしょう。而して、問題は彼等のこの問題を捉える枠組み、ならびに、この「二重国籍の国会議員の存在―二重国籍の閣僚の存在」、加之、公党の場合であれば「二重国籍の党首の存在」が孕むこの問題の問題性に関する彼等の認識にある。そうわたしは考えています。
・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
・イスラム女性からベールと尊厳を奪う傲岸不遜なフランスの詭弁(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c5adb326e331632e8e39aaa1b44d47e5
すなわち、この問題の問題性は、①二重国籍を認めることの是非、および、戸籍制度の存続の是非という一般的な問題――もちろん、それら一般的な問題と無関係ではないにせよ、そのような一般的に論じられる問題――とは異なる枠組みで捉えられるべき、②国会議員、就中、閣僚が二重国籍であったことにあるという認識の欠落もしくは軽視にあるのではありますまいか。
この問題に関するわたしの問題の理解。この点に関しては下記拙稿で些か私見を詳らかにしましたので、よろしければご一読いただければ嬉しいです。要は、二重国籍や戸籍制度一般の論題と二重国籍の国会議員が存在したという――「国民主権の原則」に明確に反する政治的のみならず憲法論的にも議論が必要な――問題とを混同することは、所謂「アイドルの恋愛禁止ルール」の是非を巡る一般論と、そのアイドル業界の最高最大の「祭典=AKB総選挙」において<アイドルという存在>の社会思想的な存立枠組み自体を毀損した――本稿作成の時点でもNMB48にいまだに居座っている――「須藤凜々花」が本質的に負うべき責任の内容に関する議論を混同するに等しい誤謬をおかしている、と。
・オーストラリア:二重国籍発覚の議員が辞職。二重国籍は憲法で禁じられている
――須藤凜々花はいつ卒業するんだ❗
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3477b3fe6282ea9f624a98241fd91e1d
・春田哲吉「パスポートとビザの知識」
https://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65371797.html
・【蓮舫会見】産経記者が会見最後の方で3重国籍について質問したら蓮舫逆切れ
http://ameblo.jp/kujirin2014/entry-12293786451.html
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html
今からもう7年も前のこと。当時の――「民進党」に党名ロンダリングする前の――民主党代表選挙に外国人の党員が関与した事態を受けて2010年の秋、ブログやSNSでは「外国人が次の首相の決定に関与するのは憲法違反」という主張が盛り上がったことがあります。以下、本稿は、その旧稿の前に書いたある記事の認識と主張(↓)を憲法訴訟論と政党論の接点から敷衍したものです。と、ここで、7年前の――まだ、<不動のセンター前田敦子>がアイドル界に君臨していた、そんな時代の日本に――タイムスリップ~!
・外国人の「党員・サポーター」が関与する民主党代表選挙は憲法違反ではないのか?
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/402555d03b60d91547bf3fe60d64c850
そして、オマケ~記事♪
・目次:AKB48関連記事
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fccf7d442d636d957a5c1d46ce872827
・AKBは終わりました、以上。
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/78799c7bb9ac3777b26578910b435b9f
前稿で私は概略こう述べました。
今般の「民主党代表選外国人関与問題」は憲法訴訟の地平では違憲とは必ずしも言えないが、それは(訴訟によってではなく、憲法慣習の形態において機能する)「憲法の趣旨」の一斑たる国民主権原理に明らかに反する。よって、民主党に対しては、「民主党代表選挙=憲法の趣旨違反」という批判を政治的に投げつけるべきだ、と。
而して、この主張の前提は次の如き認識でした。
(1)政党は本来的に<私的>な存在である
(2)現行の日本国憲法は議院内閣制を採用しており、よって、現行の<憲法>は政党の不可欠性を想定している。尚、<憲法>とは、憲法典・憲法の事物の本性・憲法の概念、そして、憲法慣習という、いずれも、間主観的に認識可能な諸規範が編み上げている「国の最高法規の体系」の意味である
(3)政党政治の醍醐味は、国民の一部分の利害と価値観を代表する<私的>な政党が、国政選挙と国会での首班指名等の所定の手続を踏む中で、期間を限定的して、あたかも、国民全体を代表する<公的>な国家権力の担い手になる経緯である
(4)政党は<私的>と<公的>の両面を抱える両義的存在である。而して、例えば、国民主権原理、あるいは、結社の自由・政治的な表現の自由といった<憲法>に内在する価値をどの程度まで<憲法>が政党に強制できるのか、その裏面として、政党に対する助成金等の恩恵はどの範囲までなら<憲法>の許容するものと言えるのかという点を巡っては、現実政治的のみならず社会思想的にも二律背反的の緊張関係が見出せる、と
尚、これらの認識に関しては下記拙稿をご参照ください。
政党を巡って<公>と<私>の織成す二律背反模様。しかし、これは日本だけの現象ではない。より間主観的な相でこの矛盾を把握すべく、次に、アメリカ憲法の運用の実際を一瞥します。
◆政治政党と憲法訴訟
アメリカでは、(大統領選挙の予備選挙だけでなく、数多の<公>の役職に対する)共和・民主の各党の候補者確定のための予備選挙が、おおよそ、各州政府の費用と規制の下で実施されています。けれども、アメリカ憲法典には「政党」という文字列は存在しない。
而して、「カズンズ対ウィゴダ事件」(1975年)を嚆矢とする諸判例を通して、政党はアメリカ憲法修正1条から演繹される結社の自由を享受する存在、すなわち、あくまでも<私的>な存在と位置づけられている。よって、ある一線を越えた州政府の規制や助成は<私的領域>への<公的権力>の不適切な容喙として憲法違反とされるのです。
重要なことは、州政府の容喙が、ある一線を越えたかどうかは憲法訴訟を通じて判断され、かつ、その憲法訴訟においては(州政府側にとって最も不利な)厳格な審査基準と合憲性判断基準が適用されることです(ちなみに、アメリカには特別の「党員資格」なるものは、原則、存在しません。各地の選挙管理委員会が管理する、一種、住民票的なプロフィール登録の際に支持政党をチェック(☑)すれば、予備選挙に関してはそれが「党員登録」なのです)。
蓋し、前稿で述べた、憲法論的な「政党の事物の本性」を踏まえるならば、アメリカ憲法の運用の実際は、現行の日本国憲法の理解としてもまずは妥当なものではないかと思います。
ここで英米流の(H.L.Aハート、ドウォーキン、フラ-、ラズ等々、現在の分析法学に分類される)法思考を借用すれば、<憲法>の内部には、(イ)具体的に国家権力の行動規範を定めている「準則」と、(ロ)目標や理念を定めただけの「原理」の両極がある。而して、憲法保障に関しては、(イ)の極の近傍にその座を占めている規範を巡っては憲法訴訟による憲法保障が適切であり、他方、(ロ)の極の近隣に位置する規範の憲法保障は憲法慣習の再構築の営みを通して政治的に解決するのが妥当であろうと思います。なぜならば、「原理」の具体的な内容の確定は困難であり、それは、共約不可能なイデオロギー的対立を呼び寄せかねないからです。
敷衍すれば、(イ)党員資格要件に対する<公>の容喙が現行憲法21条の定める「結社の自由権」の侵害かどうかの確定には「憲法訴訟」の回路を、他方、(ロ)外国人が関与した代表選挙が現行憲法の前文に謳われる「国民主権原理」の侵害であるか否かの確定のためには「政治闘争」の回路を選択した方が、一般的には、より合理的であろうということです。
而して、では、例えば、国民主権原理が現実を拘束する枠組みとして機能するかどうかは、<政治の競技場>における国民主権原理を錦の御旗に掲げた勢力の勝敗次第ということなのか。
・保守派のための「立憲主義」の要点整理
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3
・憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒☆「忠誠の誓い」合憲判決
-リベラル派の妄想に常識の鉄槌(1)~(6)
◆外国人の政治活動の自由と国民主権原理の位相と相貌
所謂「党議拘束」を前提にすれば、与党の代表選挙とその後の国会での首班指名選挙は一体のものではないだろうか。もしそう言えるのなら、実質的に次の首相を選ぶ与党の代表選挙に外国人が関与する事態は明らかに国民主権原理と抵触する。このように重大な憲法違反のケースでも、そこで問題とされる規範が「原理」に属する限り、憲法訴訟の回路による憲法保障は不可能もしくは不適切なのか。
前項の主張に対しては、あるいは、このような疑問が呈される、鴨。而して、この問いに対する回答は「肯」です。蓋し、イデオロギー的な紛争の解決はあくまでも<政治の競技場>で図られるべきであり、他方、<憲法>の規範を巡る現実具体的な紛争は憲法訴訟を通してなされるべきということ。
しかし、そうであるがゆえに、逆に、「原理」を巡る紛争でも、それが憲法訴訟に馴染むタイプの紛争は、憲法訴訟の回路を通して解決されるべきである。あくまでも、<憲法>を「原理」と「準則」に区別する作業は、最適な憲法保障の回路発見のための手段にすぎないのですから。最後に、この経緯を「民主党代表選挙外国人問題」を材料に使い敷衍しておきます。
(甲)憲法は政党の党員資格について白紙である
政党が本来的に<私的>な存在である以上、その党員資格の唯一あるべき内容を<憲法>から演繹することはできません(つまり、「外国人党員の是認」も「外国人党員の否定」も等価であり許されるということです)。
この認識に対して、例えば、「政党交付金が支給されている以上現状の政党が私的団体とは言い切れない」という議論は成立しません。上で紹介した、アメリカの予備選挙に対する州政府のコミットメントを想起していただければ自明なように、喩えれば、ある企業が公の補助金を受けるのと引き換えに、その補助金の使途や成果を行政に報告する義務を負う事態とこれはパラレル。つまり、政党助成金の存在と、<憲法>のある規範の尊重をどこまで政党に要求できるかは別次元の問題ということです。
(乙)国民主権原理と外国人の政治活動の自由
国民主権原理、すなわち、現行の日本国憲法が「国民」に限定している「国政参加」の権能とは、ディノテーションとしては、オフィシャルな選挙権・被選挙権の付与の意であり、コノテーションとしては「日本国籍を保有している者のみが、運命共同体としてのこの国の進むべき進路を決定すべきだ」という「原理」の表明と理解すべきであろうと思います。
なぜならば、①政治活動の自由自体は日本国民に限定されるものではなく、また、②例えば、帰化前の呉善花・金美齢両女史の影響力を想起するまでもなく、外国人や外国のエージェントの実質的な影響力を政治から一切排除することは適切でもなく、また、土台、不可能だからです(イエーリングが喝破した如く、「法は不可能を誰にも要求しない」のでしょうから)。
人権や自由の憲法的な規制と保障には、(a)保障の段階(禁止は不可の段階)→(b)容認の段階(ニュートラルな段階)→(c)禁止の段階、があります。而して、外国人の人権保障に関するリーディングケースである、所謂「マクリーン判決」が、「外国人の政治活動の権利は憲法が保障するものではない」(=禁止するものでもない、要は、許容の段階にある)と述べていることが重要。畢竟、極論すれば、党員のほとんどが外国人の政党があり、その政党が極々少ない日本人党員を選挙に出馬させ、かつ、相当程度の日本人有権者の支持を受けて、結果的に、政党助成金を受けるとしてもそれは現行憲法違反ではないということ。実際、社民党などはそこまでもう半歩ではないでしょうか(笑)。
而して、政党の範囲を定めている政党助成法2条及び政治資金規正法3条1項と、国政参加の権能を国民に限定している現行憲法典とも矛盾しない。他方、この同じ法理から、謂わば「外国人党員排除法」なる法規もまた違憲にはならないことになる。畢竟、外国人を党員とする政党が政党助成金を公布されること、あるいは、政権与党になることと、ディノテーションとしての国民主権原理の間に矛盾は存在しないのです。
(丙)憲法訴訟による国民主権原理の保障の要件
コノテーションとしての国民主権原理の具現は<政治の競技場>で行なうのが手筋ではある。しかし、次のような場合には憲法訴訟の回路を通っての憲法保障も可能と考えます。すなわち、
①与党の代表選挙から国会での次の首相の指名までの間に国政選挙が介在しない場合、かつ、②不特定多数の外国人の意向が、あるいは、ある特定の国の組織的な関与が与党の代表を実質的に決める場合。
このような事態が惹起した場面では、「政党の事物の本性の一斑たる党議拘束」の存在を鑑みれば、すなわち、政権与党の代表選挙とその後の国会での首班指名が実質的に「一体のもの」であることを鑑みれば(代表選から国会の首班指名までの間に当該の与党が分裂する可能性も皆無ではなく、また、論理的には、与党の議員には「党議拘束に従わない自由≒離党の自由」もあり、よって、「一体」という表現が誇大であれば、少なくとも「一連のもの」であることを鑑みれば)、それは、「日本国民のみが、この国の進むべき進路を決定すべきだ」という国民主権原理の、(ⅰ)明白かつ現在の侵害の危険性そのものであり、かつ、(ⅱ)より制限的でない他の取りうる手段(LRA)も存在しないと考えられる。ならば、この様な場面は、それが「原理=コノテーションとしての国民主権原理」侵害のケースでもあるにかかわらず、解決されるべき紛争が具体的であるがゆえに憲法訴訟の回路を通してその代表選挙の違憲と無効を争う必然性がある。と、そう私は考えています。
・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142944811.html