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小倉紀蔵『歴史認識を乗り越える』の秀逸と失速

2010年09月22日 13時31分21秒 | 書評のコーナー



誠実に書かれた一書だと思う。小倉紀蔵『歴史認識を乗り越える』(講談社現代新書・2005年12月)のことだ。しかし、どう贔屓目に見てもそれは「靖国問題、従軍慰安婦、南京事件、歴史教科書・・・不毛な議論に打たれた61年目の終止符」という帯広告の言葉には程遠いものだと思う。

問題意識は明確、問題を捉えるその構えはラディカル。
しかし、その論は空中分解している。


と、これが私の正直な読後感。左派の歴史認識の不在と右派の歴史認識の不毛を糾弾し、また、ポストモダンの思潮を補助線に用いつつ西欧流の<主体>と東アジアにおける儒教的な<主体>を切り結ぶ;これらの思索を基盤として、21世紀のアジアにおける日本人にとっての<あるべき歴史認識のあり方>とでもいうべき「第三の道」を尋ねる著者の言葉は真摯である。日本における歴史認識の不在と不毛という問題を、日本と東アジアにおける<主体>のあり方の究明という、いわばゼロベースから再構成しようとするその構想は雄大である。

著者は本書の問題意識についてこう書かれている(以下、引用開始)。



 


歴史認識問題に関して考えるとき、日本には三つの欠陥があると私はつねに思ってきた。それは戦後日本の構造的欠陥でもある。第一の欠陥は、歴史認識問題はまさに「日本とアジアの間」の問題であるにもかかわらず、これについて語る日本人の言葉がアジアにきちんとした形では全く届いていないというものである。そして対話ができていない。唯一対話ができているのがオールドな「左派」であるが・・・。

第二の欠陥は、(中略)日本国民の関心が真摯にそこに(★註:歴史認識問題に)収斂するという状況にはなっていないことである。これはこの問題を考える際に土台となる「日本人」という責任主体自体が確立していないためだと思われる。・・・。

第三の欠陥は、この問題を考える際に、学問的かつ政治的な軸が定まっていないという点である。たしかに「左派」「右派」という軸はあるようなイメージがあるが、現実政治における選択肢を見据えた軸とはいえず、冷戦時代の非現実的な空論乃至神学論争の域を出ていない。(以上、引用終了:pp.11-13)



日本と他のアジア諸国の間には(オールド左派の「32テーゼ」をほとんど唯一の例外にして)対話の土台となる歴史認識が存在していない。けれども、冷戦構造というアジア諸国を相互に隔ててきた<垣根>が消失した今、日本とアジア諸国の関係を整序する歴史観が希求されている。

冷戦構造とは<垣根=桎梏>であったと同時に、その構造下ではお互いが各々どのような歴史認識に基づいて相手に何を口走ろうが相互の関係にさして重大な影響を与えることはないという<垣根=保護壁>でもあった。ならば、東アジアにおいても<抜き身の日本刀や青龍刀をワンルームマンションで互いに振り回すような事態>が冷戦構造の崩壊によって成立したのだ、と。まあ、このような国際関係の歴史認識がこの著書の根底にあるのではなかろうか。そして、私もこの認識に特に異論はない。

冷戦構造崩壊後の言わば<失楽園の時代>を生きている我々日本人は、アジアの諸国民(といっても、著者小倉さんの念頭にある「アジア諸国」は中韓朝の特定アジア三国に限定されているのだけれども、)と共生していく上で、政治的にもより有効で、かつ、学問的にもしっかりとした基盤を持つ歴史認識を獲得せねばならない。これが、著者の捉える日本人が現在おかれている姿であり、この認識の上に著者は歴史認識再構築の方針を著書の冒頭「はじめに 二十一世紀の歴史認識」の中でこう宣言されている(以下、再度、引用開始)。




本書では、「歴史を認識している」と思い込まされているわれわれ(中略)東アジアの人びとの「心」のレベルにまで分け入って議論をしてみたいと思う。そうすることによって、われわれが「認識」しているのは実は歴史そのものではなく、「国民国家」という枠組みがつくり出した幻影にすぎないこと、このことがわかるであろう。(pp.10-11)

右の三つの欠陥(★註:上で引用した、日本における歴史認識問題の3個の欠陥のこと)に対して私が本書で提示したキイワードは、<主体>というものである。

「アジアと対話できない日本」の淵源は、日本が精神的にあまりにもアジアから離れてしまっているという「精神的距離」・・・にあると思われる。アジアの中での発話主体・責任主体をもういちど立たせるために、<主体>という概念の東アジア的意味を考察することが必要だと考えた。儒教的伝統と近代化の過程において形成されたそれは、西欧近代の<主体>とどのように異なるのか。どのような問題を抱えているのか。その<主体>が表象する「歴史」は、いかにして幻影たらざるをえないのか。そしてポストモダン日本において、この古いモダンな<主体>はいかに解体されてしまったのか。もういちど「アジアの中の日本」を立たせるためには、幻影をいかに克服して、政治的選択肢における「センター」の軸をいかに構築しなくてはならないのか。(以上、引用終了:pp.13-14)


この「はじめに 二十一世紀の歴史認識」(pp.10-14)は素晴らしいと思う。僅か2,200字余り、400字原稿用紙にして5枚半のこの「はじめに」に私は正直感動した。

更に、特定アジアの人々が(私に言わせれば古代ヘブライの民のごとく)、「最後に愛は勝つ」じゃなかった「最後に中華は勝つ」という歴史認識を持っていることの指摘;その妄想の根拠が、世事の動因たる「気」と、他方、歴史という普遍的な物語の定まった筋書きとしての「理」による(二元論というより)重層的の世界理解にあること;「大日本帝国」も「理」の体制として理解できる(p.98)という小倉さんの説明は美しい(4章および5章)。

畢竟、ここに鮮明に打ち出された雄大で豊潤な著者の構想と知見は、しかし、本書叙述の進展の中で見事に失速している、そう私には見える。而して、本書の結論はこうまとめられている(以下、引用開始)。




日本社会自体(が)・・・「西欧近代」以外のものはくだらないもの、というアメリカ流の押しつけを捨て、精神的にアジアの一員とならなくてはならない。(p.226)

本書における私の核心的な主張のひとつは、日本には「センターの軸」がない、一刻も早くこれを作りあげることが必要だというものである。(p.231)

この「センター」の軸は、具体的には「謝罪し国際貢献する日本」というものであるが、この軸はあくまでも「自由と民主主義」という土台の上に立てられてあるべきだと、私は本書で語った。そして日本の役割は、アジア全体を、自由と民主主義というフィールドに引っ張ってくることである。そして歴史認識の問題も、朱子学的つまり中華思想的な<主体>の序列化(それは幻影の争奪戦にすぎない)という観点からではなく、自由と民主主義の土台の上で語り合うこと、このことが重要なのである。(p.234:以上、引用終了)




本書の失速を指摘する根拠は以下の3点。

蓋し、それは、本書の中のどこにも、①ご自分の結論的主張のキイワードたる「自由と民主主義」と「謝罪し国際貢献する日本」の具体的な内容は説明されていない、また、②それらが左右の軸に比べてなぜ歴史認識に関する優れた政治的パラダイムなのか言及されていない;更に、③朱子学的歴史認識のパラダイムに支配される中韓朝と縁を切り、他の多くのアジア諸国やアメリカとの連携を深める道を日本が選ぶという選択肢が考慮された気配がないこと。その3点に収束する。


蓋し、著者の問題意識や問題解決の構想と本書の帰結との間にはほとんど何の関係もない。例えば、「植民地支配・・・に関して欧米も謝罪・反省はしていないのだから、日本もその必要はない、という「西欧=普遍」論に組することは決してできない。それは間違った普遍によって、正しい特殊を無化してしまうことにほかならない」(p.144)や「民主主義という価値観、資本主義の成熟度、国民の生活水準、文化内容・・・これらの尺度」から考えても「現在、日本がアジアで手を組むことのできる相手は韓国しかありえない」(p.220)の根拠はそれほど自明でもないし著者もそれを述べてはおられない。

著者は「左派」の歴史認識を荒唐無稽と考えざるをえない理由については少なからず言及されているが、「右派」批判の根拠の提示は皆無である。実際、首相の靖国神社公式参拝を「憲法違反」(p.195)とする点や所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を前提にした記述等々、歴史と法律に関する無知も随所に見られるものの、本書の「左派」批判は妥当である。

而して、当然のことばかりとはいえ、「左派」にとっては、日本と特定アジアとの連帯強化を説く小倉紀蔵さんがこれらを指摘したことは衝撃ではあったろう(尚、「右派」批判が、自明どころでは全くないことに関しては下記拙稿をご参照ください)。


・憲法における「法の支配」の意味と意義
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5a21de3042809cad3e647884fc415ebe

・首相の靖国神社参拝を巡る憲法解釈論と憲法基礎論(1)~(5)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144005619.html

・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e9bd71b8e89b78acebe2041a11217ee4

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧-あるいは、マルクスの可能性の残余

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/385e8454014b1afa814463b1f7ba0448

・完全攻略夫婦別姓論-マルクス主義フェミニズムの構造と射程(上)~(下)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-398.html


曰く、家永三郎氏の「良識ある日本人である限り・・・戦争責任を感ずるのが当然だ」という主張は、「良識ある日本人」とは「戦争責任を感じるような人間である」という同語反復にすぎない(p62-65):ドイツの戦争責任の取り方に比べて日本のそれが必ずしも不十分なわけではない:植民地支配に関して被植民地国に対して謝罪した国はない(6章3節参照):「「左派」は、日本人を「永遠に謝罪する<主体>」と定位したく思っている。・・・この考えは法理論を超越している。二国間条約などで法的に解決済みの問題に関しても、永続的に道徳的贖罪意識を持ち続けなくてはならないというのは、明らかに過剰な自国批判である」(pp.175-176)、と。

・ほしのあきさんの<無罪>確定-あんだけ可愛いんだから当然なのです 

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/78478ca7d4aebc00f057beebd43f17a4



畢竟、本書は、「右派」の歴史認識の不毛さについては論ずるまでもないという暗黙の前提に立った上で、「左派」の再生を企てるものである。そして、著者は「自由と民主主義」を土台にした「謝罪し国際貢献する日本」という<日本におけるあるべき歴史認識のあり方>を結論としていずこからか持ち出されるが、それはおそらく著者・小倉紀蔵さんが「中韓朝と疎遠な日本/特定アジアと決別して国際関係においても益々安定する日本」というイメージを構想することができなかっただけという、極めて個人的な理由に起因するのかもしれない。

しかし、「西欧=普遍」論の是非は別にして、確立した国際法と国際政治の慣習に従い国際関係を整序すべきだと考える者にとって、あるいは、アジア経済とアジアの安全保障の最大の不安定要因である中国の現状、その経済が失速した場合、韓朝両国経済の崩壊が必至であることを鑑みるならば、これら特定アジア諸国と日本が「政冷経涼」の関係に移行することは、21世紀前半においてはむしろ日本の国益に適うと考える論者にとって本書の結論はそう説得的ではない。

蓋し、国家なるものや民族なるものは幻想にすぎない。それは正しいだろう。しかし、サッカーを楽しむ際にユニホームやチーム名があれば便利なように、それらが幻想だからと言って<国家>や<国民の歴史>がその有用性を失うわけではない。ならば、それらを文化と法の制度インフラとして使いながら、同時に確立した国際法と国際慣習に則って自国の国際関係のあり方を決定することも「第三の道」たる資格を持つのではないか。私にはそう思われる。


尚、本稿、および、本書に関しては下記拙稿も併せてご一読いただければ嬉しいです。


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226757.html


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

 

 

 


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