英語と書評 de 海馬之玄関

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【再掲】書評:日本人の知らない日本語(海野凪子・蛇蔵)

2023年03月04日 13時49分29秒 | 書評のコーナー

 

2017-12-10 15:04:59

本書「日本人の知らない日本語」(メディアファクトリー)は、
全4冊のシリーズもの。また、原作とは<ほぼ別物>ではありますが、
本書を「原作」にしたTVドラマも仲里依紗さんの主演で放送されました。

『日本人の知らない日本語』とは、原案・海野凪子、漫画及び構成・蛇蔵による、日本のメディアファクトリーから発刊されているコミックエッセイ、及びそれを原作とした連続テレビドラマ。yorimo(読売新聞が運営する会員制ポータルサイト)にて四コマ漫画版やクイズの連載もされている。単行本は2013年(平成25年)8月現在、メディアファクトリーより4巻まで発行されている。(wikipedia)

蓋し、異文化コミュニケーションのスキル開発という地味なジャンルを扱った
コンテンツの中ではかなり有名な作品だと思います。

http://www.nippon.com/ja/people/e00099/

 

【再掲】書評☆古木宜志子「津田梅子」

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/57f88b55c7dab223544dc0cc46146838

高橋裕子:「津田梅子」(岩波ジュニア新書)

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a9dc47c477901942b600176b5098786d

 

有名になったにはそれなりのわけがある。

あるある、きっとある。

畢竟、(1)日本語に、しかも、話題が「外国語としての日本語:Japanese as a foreign language」に特化されていること。(2)エリートビジネスパーソンさんや著名アスリート、女優さんなり歌手・モデルといったセレブ筋、あるいは、母国でも将来を嘱望されている理系の天才少年少女とかではない、さまざまな普通の、そう、アラブの大金持ちの息子さんやお国のフランスでは本当にシャトーにお住まいのレディから、街のコンビニやレストランの厨房でアルバイトしているキャラクターまで、謂わば「日本にいまいる普通の日本語学校研修生」がバランスよく登場していること。

(3)外国語としての日本語に日本語の非母語話者が感じる戸惑いと、日本の社会の不思議さを――日本の国語学の水準から見ても、日本人読者にも勉強になるレベルで――紹介する海野凪子さんの実力と誠実さ。更に、実は、――台湾出身者を除き、南朝鮮はもちろん支那からの研修生の方々を含めて!――多くの日本語学習者にとっての難関である日本式の漢字とカタカナ、そして、句読点のパンクチュエーションルールを巡るエピソードは、日本語の母語話者が日本語を再発見できる内容満載でしょう。

換言すれば、その内容は、例えば、北原保雄編「問題な日本語」4冊シリーズ(大修館書店・2004年12月~2011年12月)で俎上にのせられているような、「コーヒーのほうをお持ちしました」「お連れ様がお待ちになっておられます」「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」「千円からお預かりします」・・・といった日本語の母語話者の多くが違和感を覚え疑問に思う日本語の「ローカルエラー」に関する内容などとは違っている。あるいは、橋本陽介「日本語の謎を解く 最新言語学Q&A」(新潮選書・2016年4月)の如き、日本語に関するメタ言語学的な楽しい蘊蓄本とも全然スタンスを異にしている。

尚、言語の運用に関する「ローカルエラー」とはおおよその意思疏通に問題は生じない言語使用の間違いという意味ですが、――敬語ルール等に関しては重なる部分もあるにはあるのだけれども――(a)意思疏通が困難になるような日本語でのコミュニケーションにおける「グローバルエラー」が、かつ、(b)異文化の障壁によって生起する事例を海野凪子さんは本書で主に収録されたのだと思います。よって、本書は、日本語の母語話者を主な読者に想定した日本語関連の類書とは違って、日本人の読者は、あたかも、外国人の目で日本語に対面する感覚も得られるという趣向になっているの鴨。

 

 

そして次に、これは、

エディターの蛇蔵さんの技量なのでしょうか、

(4)やはり、日本語の最難関論点の「敬語」と「方言」については最初の3巻でいろいろな切り口から取り上げられているほか、その3冊すべてに標準装備されている「日本語クイズ」や「日本語こぼれ話」のコーナでかなり系統立てて紹介されています。

(5)最後に、しかし、最小ではない本書の特徴。それは、なによりも読んでいて楽しいこと。例えば、「学生が母国に持って帰りたいもの」(1巻)、「外国人の日本化エピソード:畳化したと思うとき」(2巻)、「日本で初めて見たもの」(3巻)および「日本人の知らないフランス/ベルギー/ドイツ/イギリス/オーストリア/チェコ/スイスそして日本」(4巻)のコラムには思わず喝采を叫びました。

蓋し、本書4冊は海野凪子さの知識と経験と誠実さが蛇蔵さんのセンスと技量に包まれた素敵なシリーズであると言っても満更それは仲人口ではありますまい。個人的には「第4巻:海外の日本語教育現場訪問編」は欧州諸国だけではなく、アメリカ、および、シンガポール・ヴェトナム・台湾・タイ等のアジアの国々も取り上げて欲しかったとは思います。けれども、それは予算・制作スケジュールをにらんだ場合、過大なクレーム(≒無理難題)というべきものでしょう。

刊行履歴
1.2009年2月
2.2010年2月
3.2012年3月
4.2013年8月

TV 放送履歴
読売テレビ制作・日本テレビ系列(NNS)
2010年7月15日 - 9月30日(12回)―(毎週木曜23:58 - 24:38)
キャッチコピーは「正しい日本語はこの私に習いなさい」。

 

完版:保守派のための海馬之玄関ブログ<自家製・近代史年表>みたいなもの

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a3221c77ea0add17edf737d21088cf96

 

かなり有名な作品。そうはいっても、しかし、英語を介した「日本人と欧米人の異文化相互理解」の面白さや奥の深さを描いた作品と比較した場合。本書「日本人の知らない日本語」の一般的な知名度は落ちる。その差はやはり歴然、鴨。例えば、小栗左多里さんの「ダーリンは外国人 」(メディアファクトリー)シリーズや、デイビッド・セインさんの「日本人のヘンな英語/あなたの英語は英語のネーティブスピーカーにはこう聞こえています」等々の作品に比べれば、日本語学校関係者以外の向きには――残念ながら、日本語学研究者の先生方はもちろん、「国語」教育関係者も含めて――本書「日本人の知らない日本語」が話題になることもそう多くはなかったようにも記憶しています。

やはり、世界と言わず日本国内でも、英語と日本語の実社会での影響力の差、マーケットの大きさと厚みの違いは大きいということでしょうか。何せ、一応、渋谷や池袋にたむろする女子校生でもひらがな/カタカナは読めて話せる、多分。ならば、日本国内での外国語としての日本語(JFL)の研修ニーズはそもそも――2017年末現在における中長期在留者の200万人をある意味上限とする――外国人の非日本語母語話者マーケットに限定されているとも言えますからね。

 

では、第4巻の刊行からでも4年経っているというのに、なぜ、この「書評記事」を書こうと思ったのか。大小幾つかの理由があります。けれども、一番大きいのは「日本語学校」の可能性と必要性がいよいよ高まってきたとわたしが感じていることです。もちろんその可能性も必要性も薔薇色なんかであるはずはない。それどころか、日本語学校の経営管理者や講師・スタッフの方々の多くはわたしのこの認識についてはかなり複雑な感想をお持ちになるかもしれません。

実際、文化庁の独自調査でも、文部科学省の肝いりで日本語教育振興協会さんが実施されている調査――要は、有効回答する日本語学校は、有象無象すべての日本語学校(のようなものを含む研修機関)の中でも上出来な、そんなおお甘な調査の――数値を見ても、日本語学校の将来が近々劇的に好転するなんてとても思えない。

自分の前言を否定するようですが、例えば、①平成元年(1989)からでも、大きくは3回生じた(バブル崩壊・イラク戦争およびテロの横行・東北大震災 による)就学生と日本語学校の減少、②日本語講師の例えばTOEICコースやビジネス英文ライティングのインストラクターと比べた待遇の悪さ、③「就学生≒不法就労者や犯罪者予備軍」という現状も一部にはまだまだ残っているやに聞かないではない。

加之、④個人的には一番もったいないと――腐っても鯛の留学生受入大国・アメリカと比べた場合に――感じることですけれども、日本語学校でちゃんと勉強して、「就学生➡日本の大学生・大学院生」になったのに、日本国内や帰国後のポジションを見るとその大学なりで専攻した専門性とあまり関係のない職種につかれている方々も希ではない状況。ちなみに、AKB48グループと同様にアメリカではバイト禁止。「就学生」のESLの生徒はもちろん、「大学生」たる学部留学生は――成績優秀者がキャンパス内で例外的に割り当てられることもある以外――原則、バイトもパートタイムも一切禁止なのにこの差は往復ビンタものの日米間落差だと思います。 

そりゃー。逆の立場になってみれば、わたしがヴェトナムの人でも支那の人でも、行けるものなら日本じゃなくアメリカなり西欧に留学したいと考えるのが普通というもの。と、ここで本稿の理路の本線へ復帰。

けれども、薔薇色ではないけれど20年前まえ10年前と比べた場合どうでしょうか。日本語学校を取り巻く世間の目も内外の顧客ニーズも確実に厳しくなっていると感じるけれど、他方、マーケットの有効需要の規模は漸次安定して拡大の気配もある。素人目にはそう感じるのです。

要は、20年くらい前は、――faculty and equipment ともども――経営体力的にも研修スキル的にも、あるいは、――入国審査からバイト就労支援、就職支援から帰国の際のケアまで覆う――コンプライアンスの姿勢と能力的にも、「おたくなんかが、ひとさま、まして、外国のひとさまのお子さんをおあずかりして、お代をいただく学校なんかやったら駄目でしょうが❗」というスクールがなくはなかった。その水ぶくれというか上げ底の「学校」も含んだ学校数と現在の学校数が紆余曲折を経て、結局、そうは変わらないらしい。ということは、ならば、日本語学校を取り巻く環境は、厳しくもなっただろうけれど追い風も吹いているということではないでしょうか。

実は、20年余り前、当時勤めていた大学院留学予備校がある日本語学校のチェーンを買収したため、就学生募集・ビザの手配、就学生のアルバイト先の確保や面接手配、講師採用からスクール運営のコスト管理、不埒な就学生や講師の処分という実務の統括も足掛け5年ほど経験した身にとってはそう感じる。業界自体がほとんど手探り状態で右往左往していた。それどころか――脱税やら私文書偽造、不法就労からシンプルな自然犯罪まで――経営陣も就学生も「犯罪者かその予備軍」で、まともなのは経済的にも余裕のある志の高い転職組や子育てが一段落ついて応募された専業主婦の講師の方達だけという学校もなくはなかった時代に比べて、現在の日本語学校が帯びるビジネス的な可能性と日本にとっての必要性は段違いではないでしょうか。何より世間もそのことに――日本語学校の可能性と必要性に――気づいてきた節もなきにしもあらず、鴨。

蓋し、最近、ある場面では英語も適宜使いながら、日本語を教えつつ――食文化や園芸等々――日本の文化を外国人の方に紹介する活動をやっておられる。そんな幾人かのブロガーの方とお近づきになったのですが、東京のみならず、多くの地域でのそのような活動の盛り上がりは、日本語学校に対する日本の社会のニーズの変化の兆候ではありますまいか。そう、わたしは感じています。

・グランドスタッフから日本語教師&外国人向け料理教室準認定講師ちゃみ
 https://ameblo.jp/chami0126/

・@さいたま☆家族に優しい給食ごはん~
 ☆外国人さん向け料理教室
 https://ameblo.jp/ayaka10cook/

・外国人向け料理教室 〜ふたりで作るはじめてのおもてなしパーティ

 〜 Japanese Cooking Class for your first home party.

 https://ameblo.jp/troppobella

 

 

二番目の理由。これは、日本語学校の可能性と必要性ということの裏面でしょうが、いよいよ、日本の国際化も次の別のステージに入ったの、鴨という認識です。

要は、「欧米のハイカラなもの」「アジアやアフリカ、中南米や中央アジアのエキゾチックなもの」を――東大の偉いらしい先生や大手銀行や名門商社の欧米留学経験のある――輸入総代理店的な専門家が日本に持ってくりゃそれで充分という状況ではなくなったということ。換言すれば、社会的に選抜された極一握りの要員しか、実際のところ「国際化対応能力」など必要ではない。その能力も白黒はっきり言えば「欧米の基準をデファクトスタンダードにする相手と英語で競争したり協力できる専門知識の保有」でしかなかった状況から、日本国民の多くが、日々の生活の中で国際化に対処しなければならなくなってきたということ。

昔、社会学研究者の橋爪大三郎さんから、「欧米のものを日本に持ってくる、欧米の物指しで日本社会を批判して終わりにするのではなくて、日本の事柄に関する情報を世界に持っていく、日本で構築した<認識枠組み>を世界に適用するようにならなければ、日本の社会科学はいつまでたっても、欧米のリベラル派が牛耳る学界や言論界の、その<輸入総代理店>のような人物が牢名主を務める途上国のままですよ」というお話を聞いたように思います。蓋し、そのような「途上国」の微睡みを貪ることは――リベラル派の学者先生やジャーナリストさんにはまだ許されるかもしれない、けれども、――普通の市民やビジネスパーソンにはいよいよ許されなくなってきたということ、鴨。日本のものを世界に紹介する、日本の言い分を世界に訴えることが普通の保守系の市民や中小零細企業の経営者の方々にも不可避になってきたということですけれども

▼日本の国際化対応スタイルのイメージ(明治以降編) by KABU
1)1867~1895:お雇い外国人によるダイレクトメソッドを通した国際化研修
2)1895~1985:原書講読≒和訳、および、選抜者の留学を通した国際化研修
3)1985~2008:オーラルメソッドの主流化、および、留学の一般化による国際化研修
4)2008~2018:国際化対応能力の重要性の確定、および、留学経験者の希少性の消滅

・草稿・科挙としての留学の意義と無意味
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3d2bc3378bcef0da078a1b30c9681d79

・英会話学校の破綻と米国留学の減少は日本の成熟か衰退か
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3c36e88f9315ee1f41f4dc711ebd411d

ならば、日本は、(甲)英語力開発と並行して、(乙)日本語のできる外国人を戦略的に育成しなければならなくなってきたということ。こんなこと、20~30年前の群馬県大泉町や静岡県西部、愛知県南部とかの極限られた地域に、例えば、日系ブラジル人の皆さんを受け入れていた――今から見れば牧歌的な――国際化の状況と、現在の、東京といわずどの地方でもコンビニと建設作業補助のスタッフさんはヴェトナムやタイからの、もちろん、支那やフイリピンからの就学生頼みの現況を想起すれば誰しもわかることでしょう。違いますか?

▼日本の国際化対応能力向上のための二刀流――納期(dead line)10年以内!
(甲)英語運用スキルの向上・・・日本人有権者全体のTOEIC平均点(中央値)730点を達成!
(乙)日本語習得者の増大・・・全世界で1000万人、国内の日本語学校生徒数50万人必達!

畢竟、日本の国際化なるものは、日本人の全員が丸ごと英語ができるようになることなど到底不可能であるがゆえに、英語運用能力開発だけでは達成できず、現在、公称400万人とも言われている世界中の日本語学習者を拡大して、彼等を<give and take>関係の日本の与力にしなければ難しいだろう

なぜならば、今年、平成29年に80億の大台を超えたらしい全人類の中で、母語話者+公用語話者数(ENL+ESL)がすでに15億人、使用可能話者数(EFL)を加えれば20億人に迫るとも囁かれている英語と、母語話者+公用語話者+使用可能話者数(JNL+JSL+JFL)が1.3億人程度の日本語との彼我の差を鑑みるに、日本が取るべき「国際化対応能力向上増進」の戦略は明らかに米英とは非対称になるのは当然ということ。まして、――些か、本稿の結論の先取りになりますけれども、――日本語はリベラル派以外の普通の日本人と日本市民にとってその自己のアイデンティティーの苗床であり、日本の文化と伝統の結晶であり媒体なのですから。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3

 

 

本稿を書いている第三の理由。そして、最大の理由は上に最後に述べたこと。すなわち、(X)「日本人にとっての日本語のかけがえのない価値の再確認――世界における日本語の存在感を日本は戦略的に死守しなければならない」という認識と、加之、(Y)日本語に結晶しているあれそれは――確かに、英語と競争するのなら別のジャンルや別の種目を選択するのが最適解でしょうが、というか、そうしようとしない人々や国々のことを世間と世界では「夜郎自大」とか「ウリナラっぽい」とか呼ぶのでしょうけれども――英語以外の言語と比べた場合、そう捨てたものでもない、鴨という認識です。

繰り返しになりますけれども、逆に言えば、土台、日本の全有権者なり日本の労働力人口全体が英語力を「非友好的な英語のネーティブスピーカー(NS)との数段階の交渉がタスクの成否を分けるビジネス活動を英語で遂行できる程度」まで向上することを想定・前提にして日本の国際化対応能力開発政策を議論するなどは、一種のファンタジー、夢物語の類いなのです。そして、「英語ができます」というのは、平成の実質ラストイヤーまであと3週間となった現在では、残念ながら、上で書いたようなことが英語でできるということだと――例えば、Common European Framework of Reference for Languages(CEFR)の言語運用レベルでC1以上くらいのものだと――わたしは思います。

尚、わたしは「CEFR」の採用する言語能力観(複言語能力観:plurilingual competence)を、言語運用能力の領域を超えて、言語観・認知言語観それ自体や社会観にも拡張しようとするリベラル派の粗雑な議論は容認できません。けれども、そういうコンセプチュアルな部分は敬して遠ざけるとすれば、そのテクニカルな提言は参考になると考えています。

実際、「TOEIC975あるのに商談のアポイント1つとれないICU卒のイケメン君」と「TOEIC685しかないのに、いつも、当社に有利な契約を勝ち取ってくる関西大学卒の福知山のお地蔵さん君」の併存に頭を抱えてきた――これは本当のところは、その英語力判定テスト自体だけの問題とも言えないのですけれどもね――人事研修セクターにとって、「CEFR」のパラダイムはコロンブスの玉子焼きくらいにはありがたかったと思いますから。閑話休題。

(X)日本人は日本語の価値を戦略的に守らなければならないしょ?
➡日本語を失うことは、日本が<日本>でなくなることと同値!
(Y)日本語は――英語には勝てないかもだけれど――それなりしょ?
➡土台、日本人有権者全体がTOEIC換算で960点以上のスコア、
 CEFRレベルでC1以上の英語運用能力を獲得するなど実現不可能。

・防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」
 --英語好きにはお薦めだったりする⬅(転)(結)に関連する記述がある、鴨
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2377f54478cd51ab00abbce530bf67f6

・防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」
 --番外編「ちーぱか・すっぴんインタビュー」
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1f6af769ca26a4d8f8a754f661e5ff09

・鳥飼玖美子『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4cb2bf2c2ab2f76d99b6471ea4890ac0

・改訂版・英語ディバイドという現象
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/621f80f88ad4d1324393bb56ee5dc0d0

 

 

ということで、世界の言語の勢力関係の復習。簡単な話です。20世紀初頭、世界にはおおよそ、10000~15000の自然言語が存在したと推定されているらしい。ちなみに、スペイン語とポルトガル語、北京語と広東語、オランダ語とベルギーのフラマン語、更には、米語(AE)と英語(BE)なり、津軽弁と鹿児島弁――AKB48の横山結衣ちゃんとHKT48の宮脇咲良ちゃんの言葉――、大阪弁と京都弁を別個の言語としてカウントするかどうかは、研究者の好みの問題とさえいえる。よって、ここでは下限をとって、1901年には地球上には10000の言語があったことにしましょう。切りも良いですですしね。さて、それから幾星霜。地球上の言葉の数は・・・。

はい、「Ethnologue」(2015)では、7099!。而して、更には、世界の言語社会学者界隈の推定では、21世紀中に生き残る言語は1500~1000程度らしい。だって、馬鹿みたいに13億人の母語話者がいると虚勢をはる「中国語:マンダリン」もあるかと思えば、母語話者が数ダースから半ダース以下という言葉も「母語話者数ランキングリスト」の下位にはひしめいているもの。少し古いですけれど、そのランキング(Ethnologue(2007),The most spoken languages world wide)。

▼母語話者数番付(2005年現在の集計)
1 中国語―13億7000万人
2 英語―5億3000万人
3 ヒンディー語― 4億9000万人
4 スペイン語―4億2000万人
5 アラビア語―2億3000万人
6 ベンガル語―2億2000万人
7 ポルトガル語―2億1500万人
8 ロシア語―1億8000万人
9 日本語―1億3400万人
10 ドイツ語―1億3000万人

重要なことは、①言語の世界でも熾烈な生存競争が繰り広げられているということ。どう、小規模話者数言語に判官贔屓して集計・推計したとしても、②上位の20言語で(現在存在する世界の言語の0.3%で!)世界人口の50%は余裕でカバーされる。加之、③その各々の言語の「power」は母語話者数やその公用言語話者数の広がりだけではなく経済的や政治的な要因が反映するということです。

要は、世界で重要と人々が考える情報のどれくらいがその言語で語られ記述されているのか。逆に言えば、世界の重要な情報にどれだけその言語だけでアクセスできるのかがある言語の「power」を決定するということ、鴨。

而して、非母語話者であれ、よりpowerful な言語を我先に学び習得したい/わが子に習得させたいという流れは、文字通り、需要と供給の関係であり必然的。なにより、あの英語嫌いのフランスでも、親権者の多くは、「わが子にはできるだけ早く手厚く英語を学ばせて欲しい」と教育機関に個人的に訴えているらしいし(⬅実話です)、他方、ブリティッシュカウンシルを尖兵にして、英国は多種多様な英語教材を世界中で売りまくって儲けている。では、日本語は如何。

蓋し、日本語は日本人にとっての<宝物庫=treasury>であるだけでなく、相対的にもそう捨てたものじゃありません。確かに、母語話者数で日本語は、大体、9位から13位にランクづけされる言葉。それは、言語大相撲の番付では「小結―前頭3枚目」格のものにすぎない。しかし、この地味な長所の他にも日本語には次のような長所がある。あるある、きっとある。

not only 日本語は宝物 but also 日本語の相対的実力
・母語話者数―10位クラス+公称400万人規模のJFL保有
・世界第3位の経済力と治安の良さが引きつけるJFL予備軍の安定
・日本文化への高い関心が惹きつけるJFLの現在進行形的の拡大
・世界最高水準の知識を全分野それだけで享受可能な稀有な言語

本書「日本人の知らない日本語」にも登場する様々な「日本文化マニア」のキャラクター。

例えば、黒澤映画を見て時代劇ファンになり来日したスウェーデン女性。フランスから来た、任侠映画マニアでDVDを教科書がわりに日本語を学んだ上流階級のレディ。オタクで漫画目当てに来日したフランスの大学生。ゲーム好きな支那人の男性。あるいは、あるベトナム人女性は100円ショップが大のお気に入り。「ルパン三世」が好きで、ルパンと同じ赤のジャケットに黄色のネクタイをいつも着ているアメリカ人。沖田総司に憧れている支那の「歴女」・・・。

このような日本文化マニアの存在は――AKB48グループ総選挙の海外票数の偏差・推移を10年近くhave been watching hard してきた――わたしには、NMB48の贔屓の安田桃寧ちゃんじゃなかった、寧ろ、良い意味での「氷山の一角」にしか感じられません。まして況んや、日本の大学の学位と将来の事業資金調達を目標に――日本側の奨学金もあてにして――日本を目指す外国人の若者の層の厚さは、この20年間の紆余曲折を経て鉄板になったということもまた。

他方、医学・工学・その他自然科学、社会科学・人文科学・宗教と芸術といった、およそ、知の全領域で、一応、大学院修士程度の内容を自国語だけで学ぼうと思えば学べる――あのー、憲法学専攻志望の方は、学部時代のできるだけ早めに、英語の原典にタックルし始めませようね!――言語は限られています。あるロシアと英国のシンクタンクと合同調査した経験から、「全分野」と「修士課程程度」の定義をおお甘に見ても、桃寧ちゃんのももねじゃなかった、もちろん、それはKABUの独断と偏見、依怙贔屓と判官贔屓的の主張ですけれども、平成の実質ラストイヤーの来年末でも、それは、

>英語・ロシア語・日本語・ドイツ語の4言語のみ❗

要は、強い分野が斑模様や片寄った、西欧の幾つかの偉そうな言語は失格。もっとも、ビジネスでの利点を加味すれば、スペイン語が次点というところでしょう。ことほど左様に、日本語は捨てたものではないのです。きっぱり。

 

 

結論いきます。

畢竟、日本語は――その政治的意味からして、アジア諸国や南米なりでこれから「公用語」に採用していただこうなどという無駄でコストパフォーマンスの悪い方向は、事情変更の原則(Clausula rebus sic stantibus:The Principle of Fundamental Change in Circumstances)が適用されない限り一切行わないとしても、要は、「JSL」の拡大は見込まないとしても――、世界全体で十分に1000万人規模の「JFL」を確保できるポテンシャルを秘めた魅力ある<商材>だろうと、わたしは楽観しているということです。

他方、これからの日本の国際化は外国人が短期も中長期の滞在や永住のケースも、間違いなく、現状よりも一桁増える――3000万の大台に達しても不思議ではない❗――ことを覚悟しなければならない、そんな、今までとは別次元の国際化かもしれないという、悲観というか危機感もまたわたしは払拭できないのです。

言うまでもないことでしょうが、ここは保守系ブログ。よって、まさかこのKABUが、①難民の受け入れを増やすべきだとか、②所謂「単純労働」の労働力市場も解放せよとか、③外国人にも、原則、社会福祉の給付を認めるべきだとか、まして、④外国人にも地方参政権を認めましょう、あるいは、⑤英語、および、朝鮮語と北京語を公用語に指定するのも面白い、鴨・・・。

とかとか言うはずはありません。寧ろ、外国人の公務員就任は否定されるべきであり、生活保護の支給など論外。あるいは、所謂「特別永住権制度」は可及的速やかに廃止すべきであり、大体、街中のハングルや北京語の表示は不要で目障りではなかろうか等々、そう、わたしは常々主張していますから。

しかし、役に立つ外国人は欲しいし、――ていうか、正直なところ、「役に立つ外国人」の取り合いで、日本はアメリカはもとより支那にも大きく負け越しているのが現状ではないでしょうか!――なにより、正規の入国者は正当に扱われるべきことは、これまた言うまでもありますまい。

そして、そんな、率直に言って、(渡)日本に役に立つ、(辺)正規の方だけでも、(麻)今までとは別次元の規模と様相で、(友)日本語が非母語の外国人がこの国に来ることになるのは不可避だと思うのです。では、外国人の便宜のために、――シンガポールに倣って――日本人が日本の社会の中で日本語の使用をやめるなり控えて、全国民がネーティブタングを英語にしますか? アホな、です。

・イデオロギーとしての英語とイデオロギーを解体するものとしての英語
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11157781746.html

・国際化の時代だからこそ英語教育への過大な期待はやめませよう
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11158801577.html

 

 

ならば道は、日本に、来て住んで働いて、産んで育てて遊んで、怒って泣いて笑って、日本人とこの日本の風景の中で時空を共有されるだろう外国人の方の日本語運用能力の向上と、そんな彼等の予備軍である海外の日本ファンやマニアの戦略的な拡大しかないのではないか。身の丈にあった戦略的な「JFL」の裾野の拡大と、必要な方に必要な運用能力の向上を提供する道ですけれども。再々になりますが、別に英語と競争するわけじゃないのですからね。

例えば、リテールビジネスの業界。そこでは一般的に、コンビニで2000万円、スーパーマーケットが2億円、そして、デパートは20億円というのが、大体、1店舗あたりの、翌年度の戦略選択の自由度も確保できる採算ラインの月次の売り上げ金額だと思います。而して、目標売り上げ数値も違う上に、まして、スーパーマーケットやコンビニとデパートが同じ戦略で鎬を削っていはずはないのです。ならば、せいぜいが中規模の地域密着型のスーパーマーケットでしかない日本語は、the most prestigious な超一流デパートの英語と同じ土俵で競争する必要は全くない。英語のマーケティングを猿真似する必然性も全くないのではありますまいか、ありますまいか。

敷衍します。外国語としての日本語(Japanese as a foreign language, and Japanese as a second language only occasionally)の研修を通して、そう、例えば、全世界で今の400万人を600万人とか800万人とか、日本国内では現状の5万人を10万人とか20万人とかの身の丈にあった規模で、しかし、納期を決めて戦略的に拡大育成し始めること。そうして、漸次、日本ファンや日本マニア、親日派や知日派を育成していけばよろしいのではありますまいか、ありますまいか。

少子化が定着した現在、日本の1学齢あたりの子供達のボリュームは80~100万人ですから、20万人を達成できただけでも1学齢の22%前後の増員になる規模。また、800万人といえば、それは、オーストリア、ベルギー、ブルガリア、スウェーデン、イスラエル1国に匹敵する人口規模なのですから、中間地点の成果としては十分でしょう。違いますか?

英語が自らを「English as an International Language:lingua franca」(国際語)と自称するなら、日本語は、この言語を通して、アニメも漫画も楽しめますよ、AKB48グループの楽曲も楽しみ放題。なにより、世界の羨望の的たる和食もキャラ弁当も、文字通り芸術品の園芸や工芸にもより深く触れられる。また、その運用能力がCEFRレベルB2にでも達すれば、治安良好で国民が皇室を心底から敬っている麗しいその日本での就職にも御利益絶大になる。そのような、

>日本語=Japanese as an Admirable and Advantageous Language 

と、自己規定させてもらえばよいのです。而して、問題意識を共有する市民が連携して、日本語検定システムの本格的な改革を行政サイドにも働きかけることは重要。他方、日本語学校の関係者の皆様には、更なるスキルとシステムの錬磨をおねだりしたいと思います。

そして、なにより、日本の地域地域で、この別次元の国際化の混沌と愉悦に遭遇しておられるだろう――わたしのような日本語教育の素人の――リベラル派ではない普通の市民の皆様には、一緒に、日本語学校や日本語を通した異文化交流プログラムを、自分ができる範囲で、サポートしたり参加したりされること。このことを呼び掛けさせていただきたいと思います。

書評とはとても呼べなくなった本稿。けれども、本書「日本人の知らない日本語」は、そんな草の根の異文化交流のサポートと参加をエンカレッジする、少なくとも、その契機になる良書であると確信しています。よって、関心のある保守派のすべての方に本書をお薦めさせていただきます。

 

 



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