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サッカーあれこれ(58)

◎90歳迎えたクラマーさん
 デットマール・クラマーさんが、この4月4日に90歳の誕生日を迎えられました。その近況を伝えるコラムが、季刊誌DFB(ドイツ・サッカー連盟)ジャーナルに載っています。
 この季刊誌は明石真和さんから届けられたものです。明石さんは私がクラマーさんの伝記を書いた折りに通訳をしてくださり、また「栄光のドイツサッカー物語」という著書もある有数のドイツ通の方でもあります。
 コラムは「90歳、90カ国」という題名です。サッカー伝道師として90カ国を回った、クラマーさんらしいウイットに富んだすばらしい内容です。ここに全文を紹介します。

◎「90歳、90カ国」
 世界中で仕事をし、FCバイエルンでは2度ヨーロッパカップを獲った。ゼップ・ヘルベルガーとは厚い友情で結ばれていた。90歳になった今もなお、デットマール・クラマーはサッカーと結びついている。
 その人生で、多くのみごとな箴言を語ってきた。たとえば、「私は何百万も稼いだ・・・ただし、ユーロ(の額)ではなく、飛び回ったフライトのキロ数だが・・・」。あるいは、「獲得したタイトルより、結んだ友情のほうが、私にはずっと大切である」。
 指導者人生で、クラマーは約90カ国で仕事をして、サッカー外交官となった。
 4月4日、クラマーは90歳になった。DFB事務局長ヘルムート・ザントロックの一行が彼を訪れ、誕生日の祝福を贈った。

 1940年代の後半、クラマーは主任トレーナーとしてデュイスブルクの西部サッカー協会で活動を始めた。この役割では、当時の代表監督ゼップ・ヘルベルガーと密接な関係を保って一緒に仕事をすることが多かった。それは単なる業務上の人間関係を超えていた。
 1977年にヘルベルガーが亡くなった時、クラマーは葬儀に行かなかった。「出掛けていたら一緒に墓の中に入ってしまっていただろう。それほどまでに深い友情だった。葬儀に立ち会うことは無理だった。私には耐えられなかった」と後に語っている。 
 1966年、イングランドのW杯でクラマーはヘルムート・シェーンのアシスタントとして準優勝と有名な“ウエンブリー・ゴール”を経験した。
 その2年後、彼はシェフとして最初の大きな成功を祝うことになった。日本代表チームとともに、オリンピックの銅メダルを得たのである。その後の何年かの間、クラマーは世界中を飛び回った。アメリカ合衆国とサウジアラビアでは代表監督を務め、中国、韓国、アフリカ、カリブ海、それにギリシャでもコーチをした。
 もちろんドイツ国内でもFCバイエルンでヨーロッパチャンピオンズカップを2回、世界クラブカップを1回獲得し、さらにはアイントラハト・フランクフルトやレバークーゼンでも指揮をとった。
 クラマーは真の意味でサッカーの教師である。好んで語り、堅実に情熱的にサッカーの話をする彼に、「サッカーの教授」という称号まで与えられた。ほほえましいエピソードだが、本当に彼に2度、名誉教授の称号が与えられたことを知る人はあまりいないであろう。台湾のフォルモザ大学と東京のスポーツ大学である。
 天皇ヒロヒトは、クラマーに国の最高の文化勲章を授与した。さらに、クラマーはモヒカン族と、スー族の名誉酋長でもある。
 2011年、長年の功績に対し、DFBは「指導者賞」を贈った。そのスピーチで、彼は自身の指導者人生の始まやヘルベルガーとともに働いた時代について思い出を語り、こう締めくくった。「私はサッカーに感謝しています」。
 サッカー界も、彼に、感謝だ。
(以下次号)




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