60年目を迎えた元朝日新聞運動部記者・中条一雄のコラム。
中条一雄の炉辺閑話~いろりばたのひまつぶし~
オリンピックあれこれ(30)
◎エリートアカデミー
5年前、日本オリンピック委員会(JOC)が将来の金メダリストを育てるため「エリートアカデミー」を発足させた時、私はいよいよ日本も社会主義的な選手つくりを始めたな、なんと知恵のないことよ、と思いました。
有望な少年少女を東京のナショナルトレーニングセンターに集めて、生活をともにしながら近隣の中学や高校に通わせて、専任コーチのもと一年中練習をやらせ、国を代表する強い選手に育てるというものです。
生活費と学費は、国が全額負担するというのですから、昔の東ドイツやソ連、そしていまの中国なみの力の入れようです。
財政的にあまり豊かでない卓球、レスリング、フェンシングに始まり、来年からは飛び込み、新体操、ライフル射撃を加えるといいますが、率直のところ、金メダリストを育てると言っても、ちょっと行き過ぎではないか。同じスポーツを朝から晩までやっていて飽きやしないか。親元を離れた選手に生活上の精神的な葛藤がないのか、子どもがかわいそう、などと考え込んでしまいます。
◎反スポーツ的な強化方法
アカデミーは学会、学士院といった意味がありますが、例えばミリタリー・アカデミーといえば、米国では陸軍士官学校です。立派な士官つまり戦士を育てるのが目的で、自由はもちろん脱落することもままならない。
スポーツの本来の目的は「楽しく汗を流すこと」ですが、このアカデミーの少年少女は「勝つことだけ」が目的のようです。一般の中学生に負けたりした時にスランプになったり、共同生活が息苦しくなったりはしないでしょうか。私は気が弱いから、こんな生活は耐え切れません。
馬や犬なら調教できるでしょうが、心を持った人間には、必ず心理的な浮き沈みがあります。これらも、最近流行のスポーツ心理学的な処方とやらで切り抜けることができるのでしょうか。スポーツ栄養士といわれる人たちが、栄養たっぷりの食事を与えていたら強くなれるのでしょうか。
かつてソ連の選手は、合宿所のことを「ラーゲリー」と言っていました。ソ連軍に捕まった捕虜は「ラーゲリー(収容所)」にぶちこまれていました。スポーツの合宿所が収容所になってしまうのでは、もうこれはスポーツの領域を超えたものでしょう。
◎脱落者をどうする
スポーツアカデミーや早期教育に対し、以上のような疑問を呈するとき必ず出てくる反論は「なぜスポーツを目の仇にするのか。例えばピアノの優秀な子の素質を伸ばすためピアノ教室に通わせたり、時には海外に留学させたりする。スポーツも芸術も同じではないか」というものです。
たしかに、子どもの素質を伸ばしてやりたいという親心は分かります。だが半面、まだ世間の何たるかをしらない幼少のころ、その子どもの人生を左右するような決定を親が強いるのも無理があるのではないか。スポーツでもピアノでも、勝利者は限られています。問題は無理な早期教育をした時の脱落者の存在です。
最近JOCの選手強化本部会は「2020年東京五輪を成功に導くにはいい成績を上げねばならない。金メダル獲得数を世界3位(金メダル20~33個)を目標とする。そのため政府に必要な強化費を要求していく」ことを決めました。スポーツは完全に国家的な事業になりました。アカデミーは金メダルの多寡で、政府からも国民からも評価され、戦士となった子どもたちはその犠牲者となる虞れが多分にあります。
たとえ勝てなかったとしても、その脱落者は、将来子どもたちを教える指導者になれるかも知れません。だが、かつて東京スイミングクラブを主宰していた田畑政治さんは「スポーツを指導する仕事が男子一生の仕事になればいいのだが」と、よく言っていました。スイミングクラブは、子どもに水泳を教える指導者が、毎年何人も就職できる職場ではありません。つまり、田畑さんは「選手生活を終わった後に指導者になるというが、数は限られているし、期間も短期的で、生活は容易でない」ことを言っていたのです。
ピアノで成功できなかった人は、ピアノを趣味として生きていけます。スポーツもまた引退後も趣味として生きていけばいい。だが、日本でのスポーツはすぐに勝敗がついて回ります。もっと深いところでスポーツを気楽に楽しむ習慣が日本にはないと私は感じています。
金メダルをとった名選手が40歳になっても引退できない、引退したら食っていけない。かなり年とった金メダリストが「2020年までがんばる」などというのを聞くと、スポーツって残酷だなあ、と思わずにはおれません。これは1964年東京五輪前のロートル化したソ連選手と同じ傾向です。国家選手の悲劇です。
◎金メダルを外国に分配せよ
スポーツの目的の一つは「勝つこと」でしょう。だが、勝つことを望めば望むほど、スポーツでやってはいけないこと、例えば薬物を利用した無理な体作りやシゴキ、ときには体罰などが出てくるとは、まったく皮肉な現象です。
だが、人はどんな手段を用いても勝ちたいものです。たとえジャンケン一つでも負けたくない。この楽しむこととの矛盾。
1964年東京五輪の大会が終わるころ、選手村のフランス選手団の部屋を訪ねたことがあります。掲示板に「忘れ物! 金メダル」と落書きがありました。フランス選手団はこの大会で負け続けでイライラしていたようです。が、私はフランス人らしいエスプリに大笑いしました(フランスは最終日の大賞典馬術で優勝し金メダル1個をとりましたが)。
金メダルなんてものは、とった当座は大騒ぎしますが、長い目で見て国民の生活にほとんど関係ありません。
この際、金メダル主義をやめること。それが、日本のスポーツを円満に発展させていく近道だと思います。1976年モントリオール五輪の開催国カナダは、地元開催に拘わらず金メダルを1個も取りませんでした。来る2020五輪では、外国勢に金メダルを分配すること。それで参加国が喜ぶのなら、これこそ最大の「お・も・て・な・し」でしょう。
(以下次号)
5年前、日本オリンピック委員会(JOC)が将来の金メダリストを育てるため「エリートアカデミー」を発足させた時、私はいよいよ日本も社会主義的な選手つくりを始めたな、なんと知恵のないことよ、と思いました。
有望な少年少女を東京のナショナルトレーニングセンターに集めて、生活をともにしながら近隣の中学や高校に通わせて、専任コーチのもと一年中練習をやらせ、国を代表する強い選手に育てるというものです。
生活費と学費は、国が全額負担するというのですから、昔の東ドイツやソ連、そしていまの中国なみの力の入れようです。
財政的にあまり豊かでない卓球、レスリング、フェンシングに始まり、来年からは飛び込み、新体操、ライフル射撃を加えるといいますが、率直のところ、金メダリストを育てると言っても、ちょっと行き過ぎではないか。同じスポーツを朝から晩までやっていて飽きやしないか。親元を離れた選手に生活上の精神的な葛藤がないのか、子どもがかわいそう、などと考え込んでしまいます。
◎反スポーツ的な強化方法
アカデミーは学会、学士院といった意味がありますが、例えばミリタリー・アカデミーといえば、米国では陸軍士官学校です。立派な士官つまり戦士を育てるのが目的で、自由はもちろん脱落することもままならない。
スポーツの本来の目的は「楽しく汗を流すこと」ですが、このアカデミーの少年少女は「勝つことだけ」が目的のようです。一般の中学生に負けたりした時にスランプになったり、共同生活が息苦しくなったりはしないでしょうか。私は気が弱いから、こんな生活は耐え切れません。
馬や犬なら調教できるでしょうが、心を持った人間には、必ず心理的な浮き沈みがあります。これらも、最近流行のスポーツ心理学的な処方とやらで切り抜けることができるのでしょうか。スポーツ栄養士といわれる人たちが、栄養たっぷりの食事を与えていたら強くなれるのでしょうか。
かつてソ連の選手は、合宿所のことを「ラーゲリー」と言っていました。ソ連軍に捕まった捕虜は「ラーゲリー(収容所)」にぶちこまれていました。スポーツの合宿所が収容所になってしまうのでは、もうこれはスポーツの領域を超えたものでしょう。
◎脱落者をどうする
スポーツアカデミーや早期教育に対し、以上のような疑問を呈するとき必ず出てくる反論は「なぜスポーツを目の仇にするのか。例えばピアノの優秀な子の素質を伸ばすためピアノ教室に通わせたり、時には海外に留学させたりする。スポーツも芸術も同じではないか」というものです。
たしかに、子どもの素質を伸ばしてやりたいという親心は分かります。だが半面、まだ世間の何たるかをしらない幼少のころ、その子どもの人生を左右するような決定を親が強いるのも無理があるのではないか。スポーツでもピアノでも、勝利者は限られています。問題は無理な早期教育をした時の脱落者の存在です。
最近JOCの選手強化本部会は「2020年東京五輪を成功に導くにはいい成績を上げねばならない。金メダル獲得数を世界3位(金メダル20~33個)を目標とする。そのため政府に必要な強化費を要求していく」ことを決めました。スポーツは完全に国家的な事業になりました。アカデミーは金メダルの多寡で、政府からも国民からも評価され、戦士となった子どもたちはその犠牲者となる虞れが多分にあります。
たとえ勝てなかったとしても、その脱落者は、将来子どもたちを教える指導者になれるかも知れません。だが、かつて東京スイミングクラブを主宰していた田畑政治さんは「スポーツを指導する仕事が男子一生の仕事になればいいのだが」と、よく言っていました。スイミングクラブは、子どもに水泳を教える指導者が、毎年何人も就職できる職場ではありません。つまり、田畑さんは「選手生活を終わった後に指導者になるというが、数は限られているし、期間も短期的で、生活は容易でない」ことを言っていたのです。
ピアノで成功できなかった人は、ピアノを趣味として生きていけます。スポーツもまた引退後も趣味として生きていけばいい。だが、日本でのスポーツはすぐに勝敗がついて回ります。もっと深いところでスポーツを気楽に楽しむ習慣が日本にはないと私は感じています。
金メダルをとった名選手が40歳になっても引退できない、引退したら食っていけない。かなり年とった金メダリストが「2020年までがんばる」などというのを聞くと、スポーツって残酷だなあ、と思わずにはおれません。これは1964年東京五輪前のロートル化したソ連選手と同じ傾向です。国家選手の悲劇です。
◎金メダルを外国に分配せよ
スポーツの目的の一つは「勝つこと」でしょう。だが、勝つことを望めば望むほど、スポーツでやってはいけないこと、例えば薬物を利用した無理な体作りやシゴキ、ときには体罰などが出てくるとは、まったく皮肉な現象です。
だが、人はどんな手段を用いても勝ちたいものです。たとえジャンケン一つでも負けたくない。この楽しむこととの矛盾。
1964年東京五輪の大会が終わるころ、選手村のフランス選手団の部屋を訪ねたことがあります。掲示板に「忘れ物! 金メダル」と落書きがありました。フランス選手団はこの大会で負け続けでイライラしていたようです。が、私はフランス人らしいエスプリに大笑いしました(フランスは最終日の大賞典馬術で優勝し金メダル1個をとりましたが)。
金メダルなんてものは、とった当座は大騒ぎしますが、長い目で見て国民の生活にほとんど関係ありません。
この際、金メダル主義をやめること。それが、日本のスポーツを円満に発展させていく近道だと思います。1976年モントリオール五輪の開催国カナダは、地元開催に拘わらず金メダルを1個も取りませんでした。来る2020五輪では、外国勢に金メダルを分配すること。それで参加国が喜ぶのなら、これこそ最大の「お・も・て・な・し」でしょう。
(以下次号)
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