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5.日本人にサッカーは向いているか(つづき)

◎めでたい?スポーツ基本法
 文科省は、この8月「スポーツ基本法」なるものを発表しました。1961年の「スポーツ振興法」を50年ぶりに全面改定したもので、スポーツ界で大きな話題になっています。
 前文の書き出しはこうです。「スポーツは世界共通の人類の文化である」。さらに「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことはすべての人々の権利である」とあります。
 また「国際大会での選手の活躍は、国民に誇りと喜び、夢と感動を与え」、「スポーツは我が国の国際的地位の向上に極めて重要な役割を果たし」、「国民経済の発展に広く寄与する」、「健康で活力に満ちた長寿社会の実現に不可欠である」などなどとスポーツの効能を羅列し、日本政府は「国家戦略」としてスポーツ立国をめざすのだそうです。
 本文は5章35条あります。よくぞこれだけ並べたものだと感心するほど、「いいこと」づくめです。付則では、作れもしない「スポーツ庁」の設置までほのめかしてくれています。
 「そうか。政府はスポーツを盛んにするため、やっと重い腰をあげてくれたのか。これで安心して選手強化やクラブ作りがやれる」と国庫補助で暮らしている日本体育協会やJOCは大歓迎の様子です。JOC専務理事は「これでスポーツの社会的な地位が上がる」(朝日)と手放しの喜びようで、東京五輪再招致に熱心な連中も「赤字が出ても国が補償してくれそうだ」とニコニコ顔です。

◎総花的でうさんくさい
 だが、(ひねくれ者の)私は、そんなに喜んでいいのかな、と思います。いまさら文化だ、権利だ、と大上段に振りかぶってくださっても戸惑います。スポーツは昔から文化と決まっています。多くのスポーツ関係者が、ことさら「ブンカ、ブンカ」と強調するのは、スポーツ人の劣等感の裏返しだと思っています。
 「スポーツは権利」というけれど、いまや200万人を超えた生活保護者、さらに乏しい年金で暮らしているお年寄り、さらにパートや失業者にスポーツを楽しむ余裕があるのか。どこで、どんなスポーツをやれというのか。何が権利だ、といいたくなります。
 法律に無知だと笑われそうですが、例えば「児童は幸福になる権利がある」といっても、世界中に飢えた子どもが何100万といる。それでも「児童憲章」のようなものが必要なのか、必要なんだろうな、などと考え込んでしまいます。
 話を「スポーツ憲章」に戻し、本文をみますと、「…するよう推進されなければならない」「…について適正な解決に努めるものとする」「…の意見を聞かねばならない」「…の計画を定めるものとする」「…について必要な措置を講ずるものとする」「…審議会を置くことができる」「…予算の範囲内において、その一部を補助することができる」などなどが、各条文の語尾についています。
 法律というものは、こういうものだと言ってしまえばお終いですが、なぜきっぱりと「推進する」「努める」「講ずる」「補助する」とできないのでしょうか。最初から及び腰で、逃げ道を作って、実現できないときの言い訳をしているような気さえします。諸問題を、総花的にただ平板に並べただけです。
 世の中には「どうでもいいこと」と「どうでもよくないこと」があります。政府にもどうしてもやってほしいこと。やってもらいたくないことがあります。政府がやるべきことは、まずスポーツをやれる環境作り、つまり施設の建設、ハード面でしょう。ソフト面の指導者の育成や競技会、ドーピングなどの問題は競技団体が独自にやるべきものです。
 国民に誇りと喜び、夢と感動を与える、などと政府にわざわざ言って戴かなくてもいいと思います。かつての社会主義国や新興国と違い、日本はれっきとした先進国です。感動するか、しないかは国民それぞれ自由でしょう。

◎百年構想を嗤う
 ひるがえってJリーグの百年構想も、いかにも日本的でよくわかりません。「スポーツでもっと幸せな国へ」のスローガンを掲げ、地域に根ざしたスポーツクラブを核としたスポーツ文化の振興活動に取り組む。そのため「あなたの町に緑の芝生におおわれた広場やスポーツ施設をつくること」「あなたがやりたい競技が楽しめるクラブをつくること」とあります。
 これも、いいことずくめです。だが、これができる環境は、いまの日本にはない。Jリーグの貧弱な財政状態をみてもやれない。せいぜい芝生を作る程度です。できそうにないから、誰も生きていない100年先にできたらいいな、ということになったのでしょう。
 安倍元総理が「美しい国つくり」を公約に掲げたことがあります。美しい国っていったい何でしょう。具体的なことが、さっぱり分からない。それでも日本人は何となく納得してしまう。だが、無責任といったら、まったく無責任。これこそ騙し(宣伝)の手口です。
 百年構想もいつ実現するやらわからない。これも甘い騙しの手口です。本来なら、言い出して約20年経ったのですから、「八十年構想」に衣替えして、これまでどのくらい理想が実現したのかチェックすべきでしょう。これでは「100年経っても、まだ百年構想」になりかねません。

◎ドイツとの違い
 日本サッカー協会のやっていることは、ドイツの真似が多いようです。百年構想もドイツのゴールデンプラン(GP)が下敷きにあると思われます。
 GPは1960年に、連邦政府と地域自治体が協力して発足した、施設作りの雄大なプランです。5年ごとに進捗状況をチェックしながら、さらに1975年に第二次GPを始め、今日スポーツ大国といわれるドイツのすばらしいスポーツ環境をつくりあげました。
 日本人はドイツ人に似たところがたくさんあります。規律正しく、責任感が強く、論理的で、勤勉で、清潔で、そしてともに理想を語るのが好きです。だが、同じ理想を語るにしても、ドイツ人は「どうしたら理想が実現できるか」を考えながら語ります。
 日本人は、美しい国などと夢を議論するだけ。それで終わりです。私はこれを「夢幻的理想論」と呼んでいます。ドイツは「現実的理想論」です。
 ドイツ・サッカー界は、夢に向けて現実的な計画を着々とすすめる力があります。日本は、代表チームがちょっと強くなっただけで、本当は何もかもこれからです。基礎になる力が備わっていません。
 新聞によれば、日本代表の主将だった宮本恒靖が引退し、外国(たぶんドイツ)で指導者の資格をとるとか。日本のS級ライセンスに見向きもしないところが実にいい。岡田武史も中国で指導する。その意気やよし。日本のチマチマした枠にとらわれない人物が、日本のサッカーを変えていくと私は信じています。
(この項つづく)


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中条さんの批判こそ「総花的」ではないのか? (野津謙)
2011-12-29 23:44:35
あいにくですが、サッカーファンの間で「スポーツ基本法」はほとんど話題になっていません。法律が公布、施行されても特別に悪くなるわけでもなければ、良くならないという、ある種の判定があるのでしょう。

サッカーファンは、自分たちの利害に直接関係あることでないと話題にしません。スポーツ基本法などほとんどのサッカーファンにとって「どうでもいいこと」です。

一方、先日発表された日本代表ユニフォームの次期デザインについては、反響が凄い。非難轟轟です(私も酷いデザインだと思います)。日本サッカーのシンボルに関わることであり、一言言わずにはいられません。

例えば、Jリーグのクラブのお陰で、全国にスタジアムの建設・再建、あるいはサッカー用のピッチを造成・増設しようという計画が持ち上がるようになってはいます。

すると、えてして野球勢力や特に陸上競技連盟(陸連)の横槍が入り、サッカーファンが理想とするスタジアムの建設、思うようなピッチの増設は、なかなか実現しません。

こうした問題は、サッカーファンにとってはプライオリティの高い問題です。こうした問題で何か話題が出ると、サッカーファンはインターネットを舞台に活発に議論します。

これなどサッカー界だけの問題ではないと、サッカーファンは睨んでいます。Jリーグの「『百年構想』を嗤う」というのであれば、中条さんはこうした固有の問題をもっと取り上げるべきでしょう。

例えば、競技場建設に関して何で陸連があれだけ政治力が強いのか? 中条さんは長年の取材経験でかなりの程度ご存知のはずです。まだ体力気力があるなら、新たに取材してその事情をサッカーファンに報告してほしいものです。

要するに、中条さんの批判こそ「総花的」であり、「ためにする批判に」過ぎません。こうした姿勢はサッカーファンの真の尊敬を受けられません。

今になってブログをはじめた中条さんですが、インターネットの普及によって、末端のサッカーファン、読者はそれ以前よりも少しは賢くなっています。「朝日新聞」やサッカー記者クラブの威光は通用しません。

ゆめゆめ心するべきです。

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