醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1048号   白井一道

2019-04-06 11:38:57 | 随筆・小説



 青くても有べきものを唐辛子    芭蕉



句郎 この句には「深川夜遊」と前詞がある。
華女 何を詠んでいるのか、ピンとこない句ね。
句郎 この句は元禄5年、「深川芭蕉庵に膳所の酒堂(しやどう)を迎えて嵐蘭(らんらん)・岱水(たいすい)と巻いた4吟歌仙の発句。庭前の真紅の唐辛子に好感をこめて見つめた作。俳諧修行のためはるばる訪れた若い酒堂の焦りを諷喩しつつも、熱意を喜ぶ心が動く」と今栄蔵は『芭蕉句集』に注釈している。
華女 真っ赤な実をつけた唐辛子を芭蕉は見つめて詠んだ句なのでしょ。それなのに「青くても」を詠んでいるのよ。どういうことなのかしら。
句郎 「青くても有(ある)べきものを」の「を」が分かりづらいということじゃないかな。
華女 「有べきものを」ではなく、「有べきものが」としたならば幾分か、分かりやすくなるのじゃないのかしら。
句郎 芽を出し、茎が出て青い葉と青い実を唐辛子は付けるが秋になると唐辛子の実は赤くなる。唐辛子であるのなら秋になると間違いなく実は赤くなるということを芭蕉は詠んでいるのじゃないかと思う。
華女 少し分かってきたわ。青くても有べきものをもっているのなら赤い実をつける唐辛子になるということなのね。
句郎 芭蕉は酒堂の才能を認めていた。酒堂さん、あなたは間違いなく立派な俳諧師になりますよと、芭蕉は酒堂にエールを送った句なのではないかと思う。
華女 だから、「有べきものを」ではなく、「有べきものが」と詠んだ方が伝わるのではないかと言ったのよ。
句郎 俳句は季語と切れ、どちらの方が重要かというと季語より切れの方が大事なのではないかと考えている。そうじゃないかな。
華女 上五の前で切れ、下五の後で切れていることが独立した世界が生れるということなのよね。
句郎 長谷川櫂氏が主張していることかな。
華女 俳句は五七五で一つの世界、宇宙を創造することなのよね。
句郎 季語の無い無季の句が成立するのは一つの世界が創造できるからだと思う。「咳をしても一人」。尾崎放哉の有名な句があるでしょ。わずか九音の短律の中に、言いようのない孤独の世界が表現されている。俳句が俳句として成立する根拠は切れがあるからだと思う。
華女 「青くても」の句は、「有べきものを」の「を」で切れているということなのね。
句郎 「きれ字に用時は四十八字皆切レ字也」と『去来抄』の中で芭蕉は述べたと書かれているからね。この句の場合は、「を」が切れ字になっている。「有べきものを」で切れている。ここに半拍の間ができている。この間が「有るべきものを持っているなら」と言う言葉を読者に想像させる。青くてもあるべきものを持っているなら、唐辛子は赤い実をつける。
華女 有るべきものがあるなら、唐辛子は唐辛子になるでは説明ね。「有べきものが」では説明していることになってしまうわね。説明してしまうと散文みたいになってしまうということなのね。
句郎 「青くても有べきものを」と「を」の助詞を用いることによって、この句は俳句になったということだと思う。「が」では散文化するということかな。
華女 俳諧師としてやっていけるのかどうか酒堂さんは心配していたのね。芭蕉は酒堂の才能を認めていたので、心配しなくとも今のまま精進していけば、俳諧師としてやっていけますよと芭蕉は酒堂を励ました句なのね。
句郎 元禄時代、俳諧師として生きていくということは厳しかったということなのかな。いやいつの時代も俳句などというものはまっとうな人間がするものではなかった。現在にあっても俳句を詠んで生活が成り立つなとどいうことはないと思う。TBSテレビ、プレバトに出ている夏井いつきさんも俳人として生きようとして凄い貧乏をしたとyou tubeで言っているのを見た。
華女 俳句で収入を得ることなんてほとんど無理よね。小説家なら、もしかしたら生活ができるようになるかもしれないけれど、俳人じゃ、無理よね。
句郎 酒堂さんが行く末に不安を持つのは当然かもね。