よもやまカンボジア

カンボジアの日本語学校で起こった不思議な出来事を…。

われらは農耕民族か?狩猟民族か?

2006-11-09 19:54:54 | Weblog
話の発端は漫画。静と動、対照的な二人の男が出てくる話で、主人公の女の子は「動」の子と恋愛を楽しんで、ラストで「静」なる子とゴールイン。「動」なる男は仕事で成功。まあ、典型的といえば、典型的なるストーリー。誰もが若かりしころは「動」なるかっこい人にあこがれるわけで、しかし、まわりを見渡せば意外や意外、確実で、安全パイの「静」なる君といっしょになっている場合が多い。男のほうはもっと顕著で、さんざんきれいだ、なんだと騒いでおきながら、最後は料理が上手で、家事が上手で、まあまあきれいな奥さんとおさまっていることが多い。

恋愛と結婚は別!という言葉に代表されるように、一般的に将来の生活を考えたとき、私たちは波風のたたない、静かな暮らしをのぞむ。弥生時代に農作が始まり、定住生活の農耕民族となった日本人にとって、やはりこれは自然的で、一般的な流れなのであろう。なんだかんだいっても、郊外に家を建て、家族いっしょに静かに暮らす。これこそマイホームの夢決定版であろう。漫画の感想を同僚たちと言い合うなか、二人の先生は農耕の民なる「静」の君で意見が一致していた。そして、農耕タイプと結婚したほうが幸せになると思っていても、「動」の人にひかれるとも・・・。

弥生時代以来、農耕の民なるわれらは、農耕生活が基本のはず。女は農耕民族タイプの男の人と一緒になったほうが絶対に、いわゆるステレオタイプの幸せをつかめるはずである。若いときは血を追い求める狩猟タイプにあこがれた人々もやがて、現実をみつめ、農耕タイプへとくらがえする。ちょうど若いときはステーキやハンバーガーをもりもり食べていた人が、年をとるにつれ、煮物や焼き魚が好きになるのに似ている。私が今いるこのカンボジアもその土壌ゆえ、100%農耕タイプであろう。

しかし、一方でおそらく死ぬまでそれができない人もいる。どんなに好きで、どんなに幸せな家庭があっても、また次の獲物を追っていってしまう男(女)もいるのだと、最近実感する。それは狩猟民族のごとく、次なる獲物を、または家畜のえさを求めて、歩き続けてしまう。今の生活に満足していても、現状に幸せを感じつつも、次なるところへ行ってしまう。これはもうある種、生まれながらのさだめのようなものかもしれない。某ビッグネーム俳優カップルの離婚騒動を見て、ああやはりと思う。離婚の原因は数あれど、某氏などその典型的な例であろう。結婚するときはたしかに「一生この人と幸せに」と誓ったはずだ。それはうそではなかったはず。浮気やうんぬんという話も星の数ほどあれど、しかし、もっともっと体の奥底にうごめく狩猟の民のアイデンティティがそれを許さないに違いない。


日本ではやはりこの狩猟タイプは少数派であろう。しかし、稲作がはじまる以前の日本はいったいどうであったのだろうか?縄文人の生活、体格を見るにつけ、日本にもわずかながら残る狩猟タイプの人々を思う。パーセンテージにすれば、わずかであろうが、こうした狩猟の民も確実に存在するのが、人生の面白さかもしれない。狩猟の民は世間がなんといおうとも、おそらく死ぬまで獲物を追い続けるのだろう。なぜなら狩猟の民にとって獲物を追わなくなったとき、それは「死」を意味するのだから。彼らはどんなに定住しようとがんばっても、おそらく体の奥深くにうずくパワーに勝てないに違いない。人間の奥底に秘める力を無視して生きることはできるまい。しかし、そんな狩猟の民といっしょになった農耕の民はやはりちょっと不幸かもしれない。